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ポインセチア、シクラメン、シンビューム、パンジーの花々の写真

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今日は午後からは東京都の立川市と国分寺市の境にある園芸農園の「栄樹園」に遊び行きました。住所は 東京都 国分寺市 西町 4-19-5です。
数多くの温室があって果物も作っています。柿、ビワ、ヤマモモ、イチヂク、ミカンを主に栽培していますが、花々も栽培しています。
柿と鬼柚子を買ってから温室の中のポインセチア、シクラメン、シンビューム、パンジーの花々の写真を撮ってきました。詳細は、http://eijyuen.com/index.html をご覧下さい。
花々の写真をお楽しみ下さい。









なんでも鑑定団と川瀬巴水の品の良い詩的な版画

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我ながら自分は軽薄な男だと恥じ入っています。昨夜テレビの「開運なんでも鑑定団」という番組で見た川瀬巴水の版画をご紹介しようとしているからです。これは安易過ぎる構想です。
「開運なんでも鑑定団」の前の方は美術に関しては素人の人が古美術商や友人に騙されて大切に持っている書画骨董が真っ赤な偽物だと暴く場面になっています。この前の方は私の趣味ではありませんので見ません。他の晩組を見ています。
しかし後ろの方では素晴らしい本物が出てきて、その作者の詳しい解説があります。この部分は私が好きな部分ですので見ています。この番組は前半が俗っぽく面白い部分です。それが最後の場面で急に真面目な教養番組になる不思議な番組なのです。

昨日テレビで見た川瀬巴水の版画には感動しました。品が良く詩的な美くしさに魅了されたのです。
葛飾北斎や歌川広重のように力強くありませんが胸を打つ静かな美しさがあるのです。
今朝あらためてインターネットをいろいろ検索して川瀬巴水の版画を数多く見ました。
その中から私の好きな7点の版画をお送り致します。

1番目の写真は明治期の東京湾の風景です。まだ機帆船が運搬船として使われいました。

2番目の写真は芝の増上寺の前の雪の風景です。和服姿の女性が傘を斜めにして歩いている様子に詩情が感じられます。

3番目の写真は雪晴れの富士山の静かな風景です。忍野八海付近から見た風景でしょうか。

4番目の写真は雪晴れの農村風景です。除雪した道を一人の人間が歩いています。それだけの絵ですが郷愁を感じます。

5番目の写真は深川付近の木場の夕暮れ風景です。水に浸けた材木が波の無い水面に横たわっています。

6番目の写真は下町で働いている馬車の風景です。馬方も馬車の上で休んでます。

7番目の写真は別府の温泉宿の風景です。豊富な温泉の湯気が立ち上って、いかにも別府らしいです。

さて川瀬巴水の版画は品が良く詩的な美くしさがると書きました。
その版画の特徴は次のようなものでしょう。
1、詩的な美を感じさせる版画です。
2、情景の一部だけの版画ですが、周囲の風景が見える版画です。
3、版画を見る人の心をある高いところへ連れていってくれる版画です。

このような版画なのでアメリカの鑑定家ロバート・ミューラーの紹介によって欧米で広く知られているそうです。
一説によると国内よりもむしろ海外での評価が高く、浮世絵師の葛飾北斎・歌川広重等と並び称される程の人気があると言われいます。

皆様はどのように思われるでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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川瀬 巴水、https://ja.wikipedia.org/wiki/川瀬巴水
(川瀬 巴水かわせ はすい、1883年(明治16年)5月18日 - 1957年(昭和32年)11月7日)は、日本の大正・昭和期の浮世絵師、版画家。本名は川瀬 文治郎(かわせ ぶんじろう)。
衰退した日本の浮世絵版画を復興すべく吉田博らとともに新しい浮世絵版画である新版画を確立した人物として知られる。近代風景版画の第一人者であり、日本各地を旅行し旅先で写生した絵を原画とした版画作品を数多く発表、日本的な美しい風景を叙情豊かに表現し「旅情詩人」「旅の版画家」「昭和の広重」などと呼ばれる。 以下省略します。

良質なホテルとは?・・・諏訪湖への旅の思い出

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高齢になり足腰が弱くなってきたので良いホテルや宿を予約して気楽に車で行く旅を楽しんでいます。
例えば昨年は箱根仙石原、八ヶ岳大泉、木曽馬の里、諏訪湖ホテルなどに泊まり。そして今年は西伊豆の戸田に泊まり、軽井沢に泊まりました。そして富士五湖や鎌倉へ甲斐駒岳の麓の山林の中の小屋への日帰りの旅もしました。
泊まった宿はどこもそれぞれ満足でした。日本のホテルや旅館は清潔で食べ物も美味しく問題ありませんでした。
しかし昨年の12月に行った諏訪湖への旅は印象が深いものでした。
泊まった「かたくら諏訪湖ホテル」が感動的だったのです
今日はその諏訪湖ホテルの思い出を書きたいと思います。良質なホテルとはこんなホテルではないでしょうか?
このホテルは特にサービスが良いうえ、部屋からの諏訪湖の眺望が楽しめ、夕食の和食も板前さんの優しい心くばりが感じられて全てがバランス良く、実に良い宿でした。ホテルと旅館の長所を併せていました。

1番目の写真は諏訪湖ホテルの全景です。右端の三角屋根の建物はホテルとは関係の無いカトリック諏訪教会です。
まず感心したのは車を玄関前に着けた時の素早い動きのボーイさんの笑顔でした。荷物をフロントまで運んでくれ、チェックイン後も部屋まで案内してくれました。その挙動が過不足なく実にスマートなのです。若いのにプロの仕草と丁寧な言葉使いです。
これは良いホテルを予約したと嬉しくなりました。あとで名刺を貰ったら宮下和也さんというお名前でした。

2番目の写真は案内された5階の部屋から見た諏訪湖の風景です。ホテルの前の道路の向こうは芝生の公園になっていて、その先が諏訪湖なのです。
諏訪湖岸で一番良い場所を占めています。流石に片倉財閥の経営するホテルです。ホテルの全室は諏訪湖の眺望が楽しめるように湖側に面しています。

3番目の写真は諏訪湖の夕焼けです。窓際に座って夕食前の日本酒を傾けながら空の色の移り変わりを楽しみました。その後でいささか贅沢な貸し切り風呂に入りました。楽天の会員になって楽天を通して予約するとこの家族風呂が無料になるのです。
その後の夕食は普通の和食のコースでしたが、一品、一品、使っている材料が吟味してあり、料理も美しく盛ってあります。運んでくれる男女の動きは素早くそして静かでした。
お酒は諏訪の地酒の横笛という名の日本酒の熱燗でした。

4番目の写真は朝食会場での女将の写真です。ホテルに着いた時も出迎えてくれましたが、夕・朝食会場にも立っていて、いろいろ気配りをしています。昨日のボ-イさんのサービスと夕食の板前さんの腕に感銘を受けたので少し話をしました。
おっとりした良い雰囲気もありましたので、片倉兼太郎創業者の血筋の方ですかと聞いてみました。優しく笑いながら血縁関係は一切ありませんと言います。
しかしこの女将の存在が重要なようです。朝食を運んでいる従業員がそれとなく女将を見ているのです。目と目で会話しているようです。

5番目の写真はメイン・ロビーの写真です。片倉財閥の経営なので家具調度も立派です。

6番目の写真はメイン・ロビーの前の内庭と二代目の片倉兼太郎氏の諏訪の別邸の写真です。この昭和初期に建てられた別邸は、よく手入れされていて一般の泊り客も泊まることが出来るそうです。

7番目の写真はこの諏訪湖ホテルの隣にある巨大な風呂のある片倉館の写真です。何十年も以前に家内とその千人風呂に入ったことがあります。
この片倉館は二代片倉兼太郎が地元の人たちも温泉を楽しみ、娯楽も出来るように1928年に作りました。今でも多くの人々に利用されています。

さて、このように書くと諏訪湖ホテルは素晴らしいホテルということになります。
しかし旅館やホテルの好みは人それぞれです。ですから諏訪湖ホテルは私共の好みには合致していますが、他の方々の好みに合うとは限りません。
あまり豪華すぎず、大き過ぎないこじんまりしたホテルと、さりげない良質のサービスと、板前さんの腕の良いホテルが好みの方はご満足頂けると思います。部屋からの諏訪湖の眺望も良いのです。
そして最後になりましたが一泊2食付きで1人10000円位でした。楽天の会員として予約すると2000円の貸し切り風呂が無料になります。脚の不自由な私にとって、大浴場は心もとないのでこのサービスは有難いのです。
蛇足ながら世界遺産、富岡製糸場は片倉財閥が維持、保存したおかげで世界遺産になったのです。以下の参考資料をご覧下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料====================
(1)世界遺産、富岡製糸場は片倉財閥が維持、保存したおかげで世界遺産になったのです。
富岡製糸場は1893 年に三井家に払い下げられ、その後、1902 年に原合名会社に譲渡、1939 年に片倉工業株式会社に合併されました。
第二次世界大戦後は全面的に自動繰糸機を導入し、生産効率を大きく向上させ、高品質な生糸を大量に生産。1987 年まで操業を続けました。
その後も片倉の「売らない、貸さない、壊さない」の3 原則のもと管理維持され、2005 年富岡市に建物等を寄贈、2014 年(平成26)には田島弥平旧宅、高山社跡、荒船風穴とともに「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産に登録されました。

(2)3代の片倉 兼太郎 が片倉財閥を大きくしました。
片倉 兼太郎 (1850年- 1917年)は、日本の実業家、資本家です。片倉組(現在の片倉工業)を設立、片倉財閥の基礎を築く。
兼太郎の名は3代目まで引き継がれましたが、この3代が片倉家の事業を拡大したのです。
この伝統が今回、泊まった「かたくら諏訪湖ホテル」に流れているのです。
初代の片倉 兼太郎は1850年、信濃国諏訪郡三沢村(現在の長野県岡谷市川岸)に生まれる。
片倉家は豪農であり、兼太郎は、1873年(明治6年)には10人繰りの座繰製糸を開始していたが、満26歳を迎える1876年(明治9年)、父市助(いちすけ)から家督を受け継ぐ。
1878年(明治11年)、天竜川沿いに32人繰り器械製糸所である垣外製糸所を開設、さらに同年、輸出業の深沢社を設立する。
二代目は 片倉 佐一(1862年 - 1934年)で、初代の末弟(四男)です。のちの養嗣子、片倉製糸紡績(現在の片倉工業)の創設、片倉館の開設、日東紡績社長、など務めました。
三代目 - 片倉 脩一(1884年 - 1947年)、佐一の嗣子(長男)です。八十二銀行頭取、全国製糸業組合連合会会長、美篶商会初代社長、貴族院議員などを務めました。

大切な人間の絆と大切でない人間の絆

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老境になると友人や恩人への感謝の気持ちが強くなってきます。それと同時に人々との絆を大切に思うようになります。
そこで人間の絆というものをもう一度考えて見ましょう。
周りの家族との温かい絆もあります。友人たちとの楽しい関係も人間の絆です。
職場の上司や同僚たちとの絆もあります。退職後も心温まる交流が続く絆も楽しいものです。住んでいる所の地域社会の中で豊かな人間関係を持っていればそれも絆です。
これらが「人間の絆」というものです。しかし私にはこの「人間の絆」があまり強くないような気がします。
私は生まれつき人見知りをする性格です。知らない人へ気軽に声をかけられません。社交的でないのです。ですから他人との絆が上手く作れません。82歳の老境にある現在も困っています。
そこで何時も人間の絆を客観的に見ています。
客観的に考えるために、日本と欧米の人間の絆のあり方の違いを考えてみることにしました。
日本と欧米の一番大きな絆の違いの例を一つだけ示したいとおもいます。
それは学校の同窓会や同級会に見られる人間の絆です。
分かり易く結論を先に書けば、欧米では同窓会や同級会による人間の絆は非常に弱いのです。ほとんど存在しません。日本のように強い人間の絆が無いのです。
一方、日本ではある学校を卒業すると全員が自動的にその学校の同窓会に入ります。そしてその後の社会生活でも「同窓生のよしみで」いろいろなことが期待されます。同窓生は卒業した学校の部活への寄付を一生期待されます。同窓生同士も同じ学校を出たという絆を尊重します。
勿論このような絆に反発する人も少なくありません。
しかし何故、同窓会のことを書くかというと、欧米では日本ほど強固な同窓会の組織も無く、確かに寄付の案内も来ますが無視しても良いような文面なのです。
同窓会に関連して同級会もあります。これは同じクラスとして何年間か同じ勉強をした仲間なので絆が強いものです。
同級会には小学校、新制中学校、高校、大学とあります。私はそれぞれの同級会を大切にしています。
同級会は出席すると楽しいのです。
生まれつき社交的でない性格の私にとっては同級会の仲間だけは気軽に楽しく話しあえるのです。現在でも大学の同級会には毎回出席しています。
このような学校という組織で出来た人間の絆が強いのは日本や韓国や中国などの社会特有の文化のようです。
例えば新聞やマスコミで有名人を紹介するとき卒業した大学も紹介します。学者を紹介する時は東大教授、早稲田大教授と表記するのです。そしてその専門分野を書かないこともあります。
これでは高校や中学までしか行っていない人はどうするのでしょうか?私は いきどうりを感じていす。
欧米では人間の絆は組織を離れ、個人個人が作るもののようです。当然、日本のような同級会はありません。
しかし若い頃通っていた学校を懐かしいと思う卒業生もいます。そこでアメリカでは毎年、ホーム・カムイング・ディーと称する日に希望する同窓生が学校に帰って来て、いろいろなイベントに参加します。しかし日本のような半分、強制的な雰囲気ではありません。
日本文化で「人間の絆」で重要な概念は「運命共同体」というものです。同じ学校を卒業したのも前世からの縁です。運命です。
ですからそこには強い人間の絆がある筈です。雑に言えばこのようないきさつで同窓会や同級会は日本や韓国や中国では重要な意味を持っているのではないでしょうか?そこで出来た人間の絆は強いのではないでしょうか?
こういうことを書くとまた叱られますが、戦死した人は皆靖国神社に祀られるのは日本人として生まれた運命共同体だからなのでしょう。このような日本独特な人間の絆は私はあまり好きではありません。
一方、家族との絆や友人との絆は重要です。世界中共通に重要なのです。
組織の利害から離れた家族との絆や友人との絆こそ一番重要です。
これこそ大切な人間の絆です。組織の利害から生まれた人間の絆は大切ではありません。
そして時代は変わりました。ンターネットで出来た人間の絆はますます重要になって来ると信じています。

今日の挿し絵代わりの写真は花屋さんで撮った冬の花の写真です。東久留米市の石塚園芸店で撮らせて貰いました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)




蓼科山で偶然、日本カモシカの親子に会って来ました

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昨日の午後1時頃に蓼科山の下のスズラン峠で偶然、日本カモシカの親子に会って来ました。
写真では子供は親の陰になって写っていません。写真を撮ってるうちに蓼科山の方へ逃げて行きました。
日本鹿はよく見かけますが日本カモシカは珍しいので写真をお送りします。




信州、白樺湖と蓼科山の冬景色

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信州の白樺湖を、私は何時も憧れています。心に住み着いた美しい風景として永遠なものを感じています。
若い頃から白樺林が好きだったせいでしょうか。新田次郎の『霧の子孫たち』(文芸春秋 1970 刊)が白樺湖、蓼科山、霧ヶ峰周辺のビーナスラインという観光道路を詳しく書いているからででしょうか。そして新婚のころ白樺湖を訪れたからでしょうか。
とにかく信州に行く度に良く白樺湖に寄ります。
今回も諏訪湖の畔に泊まって一昨日行ってきました。
今日は冬の白樺湖と蓼科山の風景写真をお送りしたいと思います。

1番目の写真は白樺湖の東岸の北端から北にある車山を背景にした風景です。車山の斜面に白く写っている場所は車山スキー場です。

2番目の写真は白樺湖の東岸の北端から湖面を撮った風景です。手前の岸に近い水面が凍っています。やがて全面が凍結します。子供が小さい頃スケートをしたことを思い出しました。家内の上手なスケートに驚いたものでした。近くの蓼科湖で高校時代合宿していたそうです。

3番目の写真は湖の西岸から東にある蓼科山の風景です。蓼科山は姫神山ともよばれていたので観光道路は「ビーナスライン」と命名されました。この山は雪の無い季節なら1時間くらいで簡単に登れます。昔、家内と登りました。頂上に近づくと立ち枯れの林が縞状にありました。

4番目の写真は湖の西岸から白樺湖スキー場方面を撮った風景です。

5番目の写真は車山へ登る途中から見下ろした白樺湖と蓼科山です。

6番目の写真は車山へ登る途中から撮った白樺湖スキー馬の風景です。まだ雪は少ないのに数人の客がスキーを楽しんでいました。このスキー場も家族連れで何度も行った所です。

7番目の写真は白樺湖へ登るビーナスラインの下の方から東に横たわる八ヶ岳の風景です。
この連山の横岳へはロープウエイがあります。若い頃、家族で登ったこともあります。
今回は蓼科湖には行きませんでしたが、そこでもスケートをしました。
このように何度も行った理由は自分の小さな山小屋がら1時間半くらいで行ける場所だからです。本当の冬になると一面雪に覆われる場所です。車にスノータイヤをつけてよく行ったのです。
はるか昔の思い出を書いていしまいました。白樺湖や蓼科山はそんな楽しい場所だったのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

信州の諏訪湖のほとりで遊ぶ冬鳥の姿

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先週の木曜日の午後に諏訪湖のほとりでカモやカイツブリの冬鳥を飽かずに眺めていました。
突然、頭の上を数十羽のカモの一群がザワザワと飛び越えて、水音高く一斉に着水しました。
暫く水の中に潜ったりして三々五々遊んでいましたが、そのうち陸の芝生の上を一列になって何処かへ急いで歩いていくのです。
カモの列を追って行ったら何か美味しそうな草や実を盛んについばんでいました。家内はこんな光景は始めて見たので、興奮してシャッターを切っていました。
シベリアから飛んで来たのに美味しい草の有る場所を知っているのです。感心です。
そんな一連の写真をお送りします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)








カトリック小金井教会の待降節第三主日のミサの風景

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今日は全国が寒いという天気予報です。
皆様、風邪などお引きないならないように暖かくしていて下さい。
今日の待降節第三の主日のミサの風景写真をお送りします。
どうぞ楽しいクリスマスをお迎えください。










米国の安全保障を脅かす華為技術有限公司と女社長の逮捕劇

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最近のマスコミで話題になっている海外ニュースにカナダでの中国人女性の逮捕劇があります。アメリカがカナダへお願いして逮捕して貰ったです。
日本では対岸の火事のように気楽に眺めいますが、この事件は日本の安全保障と経済活動に大きな影響を及ぼす根の深い重大な事件なのです。
今日は何故この事件が非常に大きな問題かを簡単に説明したいと思います。
日産のゴーン会長の逮捕よりもはるかに重大な事件なのです。
さてカナダで逮捕された中国人は孟 晩舟(もう ばんしゅう、46歳 )です。彼女は華為技術有限公司(通称、ファーウェイ)という中国の大会社の副会長で最高財務責任者を務めています。彼女の実父の 任正非が作った会社ですので、孟 晩舟は副会長と言ってもアメリカの華為技術社のトップなのです。
逮捕の理由は孟 晩舟が不正な方法でイランと取引したという容疑です。
しかしそれは口実に過ぎないようです。
アメリカの本当の目的はアメリカから、そしてアメリカ陣営(日本も含む)から華為技術社製のノートパソコンやスマートホンやタブレットを完全に排除することにあるのです。
特にアメリカ政府は FBIやCIA、そして陸軍、海軍、空軍、海兵隊が華為技術社製のノートパソコンやスマートフォンやタブレットを使用すること厳禁したのです。
その理由は簡単です。華為技術社がノートパソコンやスマートフォンを製造する過程で部品などへ不正なプログラムやチップを秘かに組み込むことが出来るのです。すると中国軍は容易にアメリカの軍事情報にアクセス出来るのです。
不正なアクセスの方法は素人の私のは分かりません。しかし明快に分かっていることがあります。
私が今使っているパソコンは富士通が製造したものです。不思議なことに毎週一回くらいの頻度で富士通のパソコン関連の製品の宣伝情報が自動的に送られてくるのです。
そのような仕掛が製造中に組み込まれているのです。これは日本の法律では禁止されていないようです。こういう仕掛になっていることは、私が打ち込む情報は容易に富士通の技術者が見ることが出来ることを示しています。
もう一つあります。パソコンの安全の為に私はロシア製のカスペルスキー社のセキュアリティ・システムを使っています。ですからロシアは容易に私の情報を見ることが出来ます。
カスペルスキー社のセキュアリティ・システムは安価で性能が良いので世界中に普及しているようです。
そこで最近、アメリカ政府は、FBIやCIA、そして陸軍、海軍、空軍、海兵隊がカスペルスキー社のものを使用することを禁止しました。

今回、アメリカは排除の対象にしているのは華為技術社製のものだけでなく、中国の国営企業の中興通訊会社(ZTE)の製品も対象にしています。中興通訊も大企業でスマートフォンやタブレットがアメリカや日本でよく売れています。
日本でも多くの人が使っているのでこの2社の製品を日本から排除しようとしたら大混乱が起きるのが必定です。
しかし日米安保がある以上日本はアメリカに追随しなければいけません。
早速昨日、菅官房長官は日本政府調達においては、この2社の製品は購入しないと発表したのです。

カナダでの中国人女性の逮捕劇は日本の安全保障と経済活動に大きな影響を及ぼすのです。
この事件に比べれば、ゴーン会長の逮捕と解任は小さな事件なのです。
この華為技術社の問題はブッシュ大統領やオバマ大統領が対策を講じてきました。
さてトランプ大統領が今後この問題をどのように取り扱うでしょうか?
日本にも重大な問題ですので注意深く見守りたいと思います。

今日の挿し絵代わりの写真は先週行った山小屋の薪ストーブの写真と近辺の甲斐駒岳や雑木林の風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









===参考資料======================
(1)孟 晩舟の父親の任正非は、華為技術有限公司の最高経営責任者を務める。
https://ja.wikipedia.org/wiki/孟晩舟
逮捕の理由、
2018年12月1日、バンクーバー国際空港で メキシコから香港に向かう途中で、孟は、米国の引き渡し要請でカナダの当局によって逮捕された。
12月7日 逮捕状は2018年8月22日にニューヨーク州東部地区連邦地方裁判所によって発行されたことが判明した。
カナダの裁判所の検察官によると、孟は「複数の国際機関を欺くための陰謀罪で告訴された」と発言。令状
同日孟はバンクーバーでの保釈に出席した。
2018年12月11日、バンクーバーの裁判所は、‪パスポートの提出とGPS機器により24時間体制で監視下に置くことを条件‬に、保釈金1000万・カナダドル(約8億5000万円)で孟晩舟が求めた保釈申請を認めた。‬

(2)華為技術有限公司、
https://ja.wikipedia.org/wiki/ファーウェ
ファーウェイは、1987年に携帯電話のインフラ整備に必要な通信機器を開発するベンダーとして中国・深圳に設立された、世界有数のICTソリューション・プロバイダー。最近は、SIMフリースマートフォンなど、端末を手がけるまでに急成長を遂げた。
1987年 - 任正非をはじめとする元人民解放軍所属の軍事技術関係者が集い創業[19]、携帯電話のインフラ整備に必要な通信機器を開発するベンダーとして中国・深圳市に設立。
2010年2月 - 米国の主要ビジネス誌「ファストカンパニー誌(英語版)」にて、Most Innovative Company Ranking(世界で最も革新的な企業ランキング)にて、Facebook、Amazon、アップル、Googleに続き第5位、2016年には13位に選出された。
2016年3月 - 世界知的所有権機関(WIPO)が発表した、2015年度の特許の国際出願件数によると、同社の出願数が2年連続で首位となった。特に、第3.9世代移動通信システムにあたるLTEや第4世代移動通信システムにあたるLTE-Advancedの標準必須特許に関しては、長年モバイル業界を主導してきたエリクソンやノキアを抑え、クアルコムに次ぐ2位の特許保有企業となっている。
2015年 - スマートフォンの出荷台数が1億台を突破し、サムスン、アップルに次いで世界第3位[
2016年7月 - 日本のSIMフリースマートフォンの分野において、ファーウェイの『HUAWEI P9 lite』が販売台数で第1位となる。(※この記録は、後継機の『HUAWEI P10 lite』が発売されるまでの11ヵ月間、一度も破られなかった)。また、メーカー別の販売台数でもファーウェイがシェア32.4%を記録し、第1位となる.
(3)アメリカとの対立
2000年代から米国のジョージ・W・ブッシュ政権やアメリカ合衆国議会などからファーウェイが国際連合から経済制裁を受けているイラクのサダム・フセイン政権やアフガニスタンのタリバーン政権に通信機器を支援しているとして安全保障上の懸念が出されており、イランでは反体制派の監視や政府の検閲にも利用されるなど同国市場で独占的な地位を築いていた。2016年にはイラン、シリア、北朝鮮などへの輸出規制に違反したとして米国政府から召喚が行われた。
2012年10月、米連邦議会下院の諜報委員会(The House Intelligence Committee)は、ファーウェイと同業のZTEの製品について、中国人民解放軍や中国共産党公安部門と癒着し、スパイ行為やサイバー攻撃のためのインフラの構築を行っている疑いが強いとする調査結果を発表し、両社の製品を合衆国政府の調達品から排除し、民間企業でも取引の自粛を求める勧告を出した。また、2018年1月8日にラスベガスで開催されるCESで正式に発表されるはずだった米キャリアのAT&Tとのパートナ契約が白紙撤回された。白紙撤回の理由は公表されていないが、安全保障上のリスクを懸念する米国政府からの圧力という説が有力。2018年4月、米国防総省はZTEとファーウェイが製造した携帯電話やモデム[71]などの製品について、軍の人員、情報、任務に対して許容不可能なセキュリティー上の危険をもたらすとして、米軍基地での販売を禁じ軍人には基地の外でも中国製品の使用に注意するよう求めた。
5Gにおける技術競争
これらのアメリカ側の動きには、国家安全保障上の理由だけでなく、中国大手二社を市場から締め出し、通信分野の次世代技術5Gの実用化でライバルとなる中国を封じ込めようとする思惑が指摘されている。中国とアメリカ(および北欧)の通信大手は5Gを巡って激しい開発競争を繰り広げており、ファーウェイとZTEは北欧のエリクソンやノキアと並び先行している。2010年代で主流の4Gではアメリカ企業の技術が席巻しているが、5Gではファーウェイなどの中国企業が主導権を握るとの見方もある。

悪趣味?しかし優れたエミール・ガレの作品

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日本的な美意識で見るといささか病的で悪趣味に感じるガラス器を作った人がいます。エミール・ガレです。
しかしその作品には素晴らしい芸術性も感じられるのです。
エミール・ガレ(1846-1904)やドーム兄弟の独創的なガラス器の作品を700点も収蔵、展示してあるのが諏訪湖のほとりにある北澤美術館です。
その展示品はフランスのアール・ヌーヴォー期のガラス工芸品です。芸術的な工芸品です。
バルブ製造会社で財をなした北澤利男氏が設立し、1983年に開館したのです。
隣にはやはり北澤利男氏が設立したサンリツ服部美術館があります。
こちらには昔の茶道具や古書、そして日本画が展示してあります。
北澤利男氏は日本と西洋の芸術を広く愛していたのです。

一般的に優れた工芸品は職人的な技術の確かさと芸術性が微妙に合体したものです。
エミール・ガレやドーム兄弟はガラス工芸の新しい技法を次々と創作していったことが素晴らしいと思うのです。
工芸品を見た時、人は各人各様の感じ方をします。人それぞれ感じ方が違うのが自然です。
私はエミール・ガレやドーム兄弟のガラス器を見ると病的な印象を受けます。悪趣味だとも思います。しかしその悪い印象を綺麗に打ち消すような美しさがあるのです。深い芸術性を感じるのです。
ドーム兄弟の作品はガレの作品より病的ではありません。そのせいで私はドーム兄弟の作品が好きです。一方、家内は美術としては絶対ガレが優れていると好んでいます。

今日は北澤美術館に展示してあるエミール・ガレやドーム兄弟の作品をご紹介いたします。そしてその後で多彩なガラス製品を売っている「ガラスの里」へもご案内いたします。

1番目の写真は一夜茸というキノコを模した作品です。高さ83cmの大きなものです。北澤美術館で非常に大切にしていて、貸し出し厳禁の展示品です。北澤利男氏が一夜茸のガレの作品が飾ってあうるパリのエッフェル塔にあるレストランに5年間通い、店主を口説き、やっと入手したガレの晩年の傑作です。一夜茸とは一晩だけ10cmくらいに成長して翌朝には朽ちて土に帰るキノコです。

2番目は何やらバラの蕾のようなものが貼り付けてあります。さかさまになっているのが異様に感じました。

3番目は花瓶に貼り付けてあるカトレアの立体的な飾りが何故か私にはその美しさが不気味に感じるられるのです。

4番目は電気スタンドの傘の上に蝶々のような模様が貼り付けてあります。
色彩も構図も普通でありません。しかし優れた芸術性が感じられます。この電気スタンドを真似したお土産品が北澤美術館内の売店で沢山売っていますが、残念ながら芸術性皆無なものばかりです。

5番目の写真はドーム兄弟の1900年頃の作品です。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%A0%E5%85%84%E5%BC%9F )

6番目の写真は北澤美術館を作った北澤利男氏です。
さてこれらの作品はアール・ヌーヴォー期のものと言われています。そこでアール・ヌーヴォーについて少しだけ説明します。
幕末の開国と共に海を渡った浮世絵や焼きものなど精緻をつくした日本の工芸は、ヨーロッパに強い衝撃を与えました。各地で日本ブームがおこりました。
あでやかな色使いや大胆な構図は、印象派や世紀末の工芸改革運動「アール・ヌーヴォー」に深い影響を与えました。
「アール・ヌーヴォー」とはこの新しい芸術改革運動のことなのです。ニューアートのことです。
そして「ジャポニスム」という言葉も生まれました。
こうした現象は、「アール・ヌーヴォー」の旗手、フランス北東部の都市ナンシーに生まれたガラス工芸家エミール・ガレ(1846-1904)の作品にも表れています。
色とりどりの草花が咲き乱れ、バッタやトンボの飛び交う独特の作品世界、そして自然を手本に、四季折々の風景を刻み込んだガラス作品は「ガレ様式」と呼ばれています。日本の美に注がれたガレの熱いまなざしが感じられるのです。

末尾の参考資料にドーム兄弟のことと北澤利男氏の短い紹介がありますのでご覧頂けたら嬉しく思います。
さてガラス製品と言えば諏訪湖畔には「SUWAガラスの里」という大型商店があります。
美しいガラスの食器、電気スタンド、シャンデリア、ガラス製のネックレス、ブローチなどなんでも売っている大きい店です。芸術とは無関係ですがきらびやかで楽しい店です。

7番目の写真は「SUWAガラスの里」の建物です。前に広大な無料駐車場があります。

8番目の写真は店内の展示品の写真です。

9番目の写真は現代のガラス作家の展示コーナーです。

10番目の写真は店内にあるガラス細工の体験教室です。自分好みのコップや花瓶が連れます。

さて美しいガラス作品の展示場としては箱根にルネ・ラリック展示館とガラスの森の2つがあります。
ルネ・ラリックは実用性を重視し販売目的でオリエント急行の車内の装飾や美しいガラスの器やガラス壁から香水瓶、婦人用装飾品を多種多様作りました。すべて実用品ですが芸術性が感じられるのです。
ガラスの森の方はベネチア・ガラスを主にシャンデリアや花瓶や大きなガラスの器が展示してあります。古い時代のヨーロッパの絢爛豪華な品が展示してあります。
これらの展示場を見て回ると芸術には創造力と卓越した職人技が欠かせないことがしみじみと理解出来るのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料===============
(1)ドーム兄弟、
ドーム兄弟(Daum Frères)は、19世紀後半から20世紀前半にかけて活躍したフランスのガラス工芸家。兄オーギュスト(Auguste Daum, 1853年 - 1909)年と弟アントナン(Antonin Daum, 1864年 - 1930年)の2人。ガラス工芸メーカーのオーナー一族として「ドーム兄弟」の呼称が定着している。
初期の作品にはエナメル彩色による絵付けが多く、1910年前後から色ガラスの粉をまぶしつける技法「ヴィトリフィカシオン」を多用して、色彩が複雑に混ざり合う重厚な色調の作品を製造した。また工芸デザイナーのルイ・マジョレル(1859-1926)にデザインを依頼した金具を装着したガラス作品もある。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%A0%E5%85%84%E5%BC%9F )
(2)北澤美術館の沿革と北澤利男の紹介、
1983年5月、信州諏訪湖のほとりに諏訪北澤美術館が開館。つづいて1989年4月、山梨県清里高原に清里北澤美術館が開館。北澤美術館は北澤利男が長年にわたって収集した美術コレクションを一般に公開し、地域文化の向上に寄与する為に設立した財団法人によって運営されております。コレクションはエミール・ガレに代表されるフランス・アール・ヌーヴォー期のガラス工芸700点と、現代日本画200点から成っています。
創設者の北澤利男は、1951年(株)キッツ(旧北沢バルブ)を創業し、経営が軌道に乗った40年ほど前から新作日本画の収集を開始。東山魁夷・杉山寧らの作品を集める一方、近年はアール・ヌーヴォーのガラス工芸収集に力を入れ、現在この分野では世界有数のガラスコレクションを作り上げました。
(3)サンリツ服部美術館、
http://www.sunritz-hattori-museum.or.jp/about.html
『服部一郎氏を偲ぶ』より
力いっぱい仕事をする傍ら、美術に心を寄せ、諏訪への出張の折々に車窓から眺める八ヶ岳の山々に、いつも活力を見出していた亡夫、服部一郎。彼の夢は美しい諏訪湖に望む地に、沢山の人々が訪れてくれる美術館をつくり、自身の人間性を表現することでした。その故人の遺志を継ぎ、何よりも永年私共がお世話になりました諏訪の方々への感謝の気持ちから、この地の文化発展のお役に立ちたいと思い、私財を投じて設立致しましたのが、財団法人サンリツ服部美術館でございます。

鮮魚を買って、パン屋でコーヒーを飲む老境の午後

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今日は美味しい魚を食べようと、角上魚類という店に行き大ぶりの寒タラを切ってもらいました。大きなタラが一匹500円でした。寒い海での漁師さんの苦労に感謝です。家内は昆布・若布・鮭を買ったようです。
その後よくパンを買う店に行き4種のパンを買い、喫茶コーナーで悠々とコーヒーを飲んで来ました。
こうして今日も老境の日が流れ行きます。日々是好日です。








東京から最も近い天守閣のある本格的な3つの城の写真

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先週、諏訪湖の畔に泊まり、諏訪氏の居城だった高島城の写真を撮って来ました。
考えて見ると箱根の関所から東には天守閣のある本格的なお城は3つしかありません。高島城と行田城と小田原城です。これらのお城は小さいながら美しいので何度も遊びに行きました。なお松本城は遠方過ぎるので含めませんでした。
今日は東京から近いこの3つのお城の写真をお送りします。お城のある風景を見ながら戦国時代の歴史を想って頂けたら嬉しく思います。
1番目から3番目の3枚の写真は諏訪湖の畔にある高島城です。撮影日時:2017年12月。





4番目から6番目の3枚の写真は関東平野の北部にある行田城です。行田へは東北高速道路の久喜インターを出て、一面に広がる水田の中を根気良く車を走らせると行田に行けます。撮影日時:2008年6月7日午後。





7番目から10番目の4枚の写真は東海道にある小田原城です。
城内には子供を喜ばせるために象を飼っていました。2011年02月27日 撮影。最後の2枚の写真だけはお借りしました。








歴史が好きな方々のためにこれら3つの城の歴史を書いておきます。

(1)日根野氏が1598年に築城した高島城
 諏訪支配を復活させた諏訪頼忠は最終的に徳川家康に帰順し、諏訪領有を安堵されました。しかし家康の関東国替えに伴って上野国惣社(現群馬県)に移されました。
 かわって諏訪の領主となったのが、豊臣秀吉の家臣・日根野高吉です。
高吉は諏訪湖畔の高島を城地と定めて天正20年(文禄元年)頃から築城にとりかかり、1598年の慶長3年にはおおよそ完成したものと考えられています。
日根野高吉(?〜1600)は美濃国の生まれ。はじめ美濃斎藤家に仕えましたが、豊臣秀吉の部将となりました。小田原攻めの戦功により諏訪を与えられ、高島城を築城しました。関ヶ原の合戦の直前に死去し、慈雲寺(下諏訪町)に葬られました。

 日根野高吉は高島城を築城し、領内統治の仕組みを作るなど領主としての足固めを進めましたが、慶長5年関ヶ原の合戦直前に死去します。跡を継いだのは子の吉明ですが、翌年に下野国壬生に移されました。そのあと諏訪を与えられたのが諏訪頼忠の子でそのとき惣社の領主となっていた諏訪頼水です。頼水は高吉の築城した高島城に入り、ここに諏訪氏による諏訪統治が約60年ぶりに復活しました。以来10代忠礼のときに明治維新を迎えるまで変わることなく諏訪氏が諏訪の領主として続きました。

(2)1479年に成田顕泰の作った行田城(忍城)
埼玉県、行田市は利根川と荒川の間にある低地です。周りは水を満々と湛えた水田が果てしなく広がっています。江戸時代にはこの水田はほとんど沼や湖でした。そんな湖沼を外堀代わりに忍城を作ったのが、熊谷を本拠にしていた戦国武将の成田顕泰(あきやす)です。1479年に完成しています。外堀のような湖沼が周りに広がり、敵が近づけない難攻不落の名城でした。その後111年間、1590年の秀吉による関東平定まで成田氏の城として存続しました。
1590年の秀吉の小田原城攻略の時には、城主の成田氏長が北条氏に味方します。
石田三成の率いる軍勢が忍城を取り囲みました。三成は湖沼の地形を巧みに利用して水攻めに出ました。利根川と荒川へ延長14kmもの堤を築き、多量の水を流し込んだそうです。今でも堤の一部が三成堤という名で残っています。
深い水で完全に囲まれましたが、なかなか落城しません。それを見た人々は、「城が浮いているから落城しない。浮き城だ!」と言い合ったそうです。
しかし、小田原城が落ちた後では、忍城も開城せざるを得ません。
江戸時代には徳川の城として、親藩、譜代16人の城主が在城する。
上の写真にある白い天守閣は三階櫓と称する建物で1702年に完成しました。1639年に忍城に城番になった阿部忠秋が城の大改修をした時に作りました。
幸い、阿部氏はその後184年間城主を務めます。明治維新後、城は取り壊され民間へ払い下げになりました。現在の三階櫓は1988年に行田市によって再現された建物です。

(3)北条早雲家が作った建築者不明の小田原城
北条氏は、居館を今の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山(現在の小田原高校がある場所)を詰の城としていていました。だが、建築者は、不明です。 居館部については北条氏以前の大森氏以来のものとするのが通説です。
北条早雲から3代目の当主北条氏康の時代には難攻不落、無敵の城といわれていました。
そして上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えたのです。
江戸時代に居館部が近世城郭へと改修され、現在の小田原城址の主郭部分となります。
この城の最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために作られた広大な外郭です。
八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んだのです。
慶長19年(1614年)、徳川家康は自ら数万の軍勢を率いてこの総構えを撤去させます。
田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる重要な立場だったのです。

高島城と行田城と小田原はあまり有名ではありません。しかしその歴史を調べると戦国時代から徳川の江戸幕府が出来るまでの動乱の時代の地方、地方の実態が浮き彫りになってくるのです。それぞれの地方には激しい時代の変化と武将の興亡があったのです。その動乱に巻き込まれた農民や町人を想うと粛然としたき気持ちになります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

師走に咲く伊豆爪木崎と越前海岸の水仙群生地の写真

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もう師走も下旬になりました。年をとると月日の流れが速くなります。
毎年、12月になると伊豆の爪木崎から買って来た日本スイセンが庭に咲き出します。
すると伊豆半島の日本スイセンの群生地の風景が目の前に毎日のように浮かんで来ます。十数年前から何度も通った群生地なので、その美しい風景が私の網膜に焼き付いているのです。
伊豆半島の先端の爪木崎(ツメキサキ)の海岸には昔から冬でも自然のスイセンが花を咲かせていたそうです。
日本スイセンの花弁は一重で中の盃が黄色です。都会の花屋さんでは球根を売っていないスイセンです。それが海岸の丘にえんえんと咲いているのです。
2009年の12月15日にその原種の球根を10個買って来ました。売り場の回りを見まわすと隣の畑に菜の花も満開でした。
それ以来9年間、毎年12月になると花を咲かせています。
そこで今日は爪木崎の海岸で撮って来た日本スイセンの写真を6枚と、傍に咲いていた菜の花の写真をお送りします。













さて日本には三大水仙郷というものがあるそうです。淡路島の灘黒岩水仙郷、伊豆半島突端の爪木崎水仙郷、福井県の越前海岸水仙郷と言われています。
そこで今日は淡路島の灘黒岩水仙郷の写真を和田義男フォトギャラリーよりご紹介いたします。
出典は、http://wadaphoto.jp/sakura/suisen3.htmです。






師走に咲く水仙の群生地の風景をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

スーパーで食料品を買い流れゆく老境の午後

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今日の午後はよく行くスーパーに食料品を買いに行きました。普通のスーパーですが通路が広く商品がゆったり並べてあるのです。気に入って足繁く行きます。ヤオコーという名前のスーパーです。撮ってきた写真をお送りします。









私どもの若い頃は日本にスーパーマーケットというものが無かった貧しい時代でした。
写真を撮りながら日本の生活も良くなったものだと感動します。
ところでこのスーパーは埼玉県の川越にある八百屋さんが経営しています。
その八百屋の女主人、川野トモさんは絵画が好きでした。それでヤオコー川越美術館を作ってしまったのです。
見に行きましたら三栖右嗣画伯の絵画を多数収集、展示してある本格的な美術館なのです。
美術館を実際に作ったのは川野トモさんと息子の幸男さんで、2012年に開館しました。

この6番目の写真は「信州うみのくち」という題で三栖右嗣画伯の1997年の油彩画です。60号の非常に大きな油絵です。
風景は雪の降る木崎湖です。湖面には沿岸の雪が写し出され何故かシーンとした気分になります。私の好きな情感豊かな絵です。

7番目の写真は「春園」という題の大作です。三栖さんの晩年の傑作です。三栖さんは、2010(平成22年)4月に亡くなりました。享年82歳。

スーパーのヤオコーに買い物に行く度にこの2枚の油彩画の風景を想い浮かべます。
そして楽しい気分で買い物が出来るのです。

流れゆく老境の午後のひと時でした。

アメリカと中国の対立、抗争と日本の立場(1)

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日本を取り巻く国際環境はトランプ大統領の出現以来、激しく変わってきました。
トランプ大統領のアメリカ第一主義で日本は自国の経済や安全について従来のアメリカ依存政策を考えなおす必要が生じてきたのです。それに拍車をかけたのは中国のGDPが世界2位に急上昇した事実です。
このトランプ大統領のアメリカ第一主義と中国のGDPが急上昇は日本にとって厳しい国際環境を作りつつあるのです。
勿論、日本の国際環境の大きな変化は1990年前後のソ連の崩壊の際にも起きました。しかしその当時はまだ中国の高度成長が無かったので日本への影響は限定的だったのです。
しかし最近は中国のGDPがアメリカに迫り、2025年には追い抜くとも言われています。
中国は南沙諸島に軍事基地を作り、航空母艦を太平洋に巡航させてアメリカ海軍に対抗しています。
そしてスマホやパソコンの世界的トップメ-カーである中国の華為技術社がアメリカの安全保障をおびやかしているのです。
アメリカ政府は、FBIやCIA、そしてアメリカ軍が華為技術社製のノートパソコンやスマートフォンやタブレットを使用すること厳禁したのです。
一方トランプ大統領は中国との貿易交渉でも中国の不当な関税を激しく非難し貿易戦争を続けています。

比較的穏健なオバマ大統領の時代は米中の対立と抗争はあまり顕在化していませんでした。
それがトランプ大統領になってからアメリカと中国の対立と抗争が急に激しくなったのです。
日本は日米安保条約という軍事同盟条約があるので勝手なことは出来ませんが、自衛隊の軍備増強をせざるを得ない状況になりました。アメリカの軍需企業が軍備を日本へ売り込みます。非常に高価で、垂直離着陸可能な F35B戦闘機を購入しヘリ空母を改造して戦闘機を搭載しようとしています。
このように日本は国際的な政策を独自に考えなければいけない時代になってきたのです。
アメリカと中国の対立、抗争が激しくなるこの情勢で日本の立場は厳しいものになります。
そこでこの連載では以下の5つの問題で日本はどのようになって行くかを順々と考えて行きたいと思います。
(1)中国の一帯一路政策への日本の参加と中国との貿易活動
(2)日本の自衛隊の軍備拡大に影響を与えるトランプ大統領と中国軍の太平洋進出
(3)中国と北朝鮮の団結が日本の外交政策に及ぼす影響
(4)ヨーロッパ諸国とアメリカと中国の対立、抗争の関係
(5)アジア諸国とヨーロッパ諸国とのロシアの脅威
以上の諸問題について常日頃考えている私の愚見を順々に書いて行きたいと思います。
今日は問題的だけで終わりとします。

今日の挿し絵代わりの写真は日本三大水仙郷の一つの福井県の越前水仙郷の写真をお送りします。写真の出典は、福井県越前海岸「水仙まつり」、http://viajar.sblo.jp/article/84830737.html です

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





昔の純喫茶店へ・・・流れ行く老境の午後

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今日の午後は40年前の純喫茶店にてブラジルコーヒーをゆっくり飲んできました。
近所から喫茶店が次ぎ次ぎと消えて行き、この「くすの樹」だけが残りました。
この喫茶店には樹齢300年のくすの樹の大木があるのです。店のオーナーの先祖が木曽の御嶽神社から拝受して持ち帰り植えたのです。
5枚目の最後の写真がそのクスノキです。下に駐車してある私の車と比較するとその大きさが分かります。樹高22m、幹の周囲7mだそうです。この樹木を眺めるのもこの喫茶店に行く楽しみの一つなのです。
悠々たる人生とはこういう日常なのでしょうか。

流れ行く老境の午後の1シーンでした。
この純喫茶店の写真をお送りいたします。店の場所は、http://cafe-kusunoki.com/shopinfo/ にあります。








ゴーンさんの再逮捕で留飲を下げる日本人、怒るフランス人、しかし

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今日も下らない駄文を書くつもりです。
駄文など読みたくない方々のために美しい花の写真をまずお送りいたします。
伊豆の大島の椿祭りの写真です。
椿は冬に咲く花です。東京では12月に咲き始め1月になると満開になります。
特に椿油の産地の大島では数千本の椿が満開になるのです。そこで例年1月に椿祭りが開催されます。

1番目の写真の出典は、http://tom-w.hatenablog.com/entry/2016/10/27/024210 です。

2番目の写真の出典は、nishi-omiya-chiro.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-da24.html です。

3番目の写真の出典は、http://www.rurubu.com/news/detail.aspx?ArticleID=17021 です。
です。
4番目の写真の出典は、https://plaza.rakuten.co.jp/tmblog/diary/201702060000/ です。

5番目の写真の出典は、http://ritokei.com/article/news/393 です。
さて表題の「ゴーンさんの再逮捕で留飲を下げる日本人、怒るフランス人、しかし」について書きます。
昨日、保釈寸前だったゴーン氏は急転直下、特別背任の容疑で逮捕されたのです。
彼の年収が20億円とは日本の常識では桁はずれに多すぎるのです。トヨタの社長は年収2億円と言われています。日本の大会社の社長でも多くても3億円以下のようです。
一般のサラリーマンの年収は600万円位なので、ゴーン氏の年収に対する怨嗟の感情が日本社会に渦巻いていたのです。
彼の犯罪の内容は一般的に理解しにくいものです。有価証券記載違反とか特別背任とかは素人には分かり難い容疑です。
しかし日本人は感情的にゴーンさんの再逮捕で留飲を下げたのです。これは島国根性の日本人の感情なのです。
それに対照的にフランスのマスコミは昨日の再逮捕を激しく非難しているようです。
これも感情論です。
しかし私はフランス人の感情論に少し同情します。
理由は日本の検察陣の3度の逮捕が如何にも技巧的過ぎるのです。はっきり言えば正々堂々としていないのです。
3回逮捕するなら初めに容疑の内容を全て発表すべきです。それなのに犯罪の容疑を小出しにして逮捕を繰り返すのは検察の権力の乱用です。
日本の検察陣は立証も出来ない容疑でゴーン氏の逮捕をしているとフランス人が感情的になるのは自然です。
その上、1ケ月以上も3畳の独房に拘置することは事実において刑務所で懲役刑にしたことに近い状態です。
日本の検察陣の「悪者は懲らしめてやる」という感情があるのでしょうか。
ゴーン氏の逮捕にまつわる日本人とフランス人の感情論の違いこそ2つの国の文化の相違なのです。

それにしても年収20億円は欧米の会社では珍しくありません。
ですからゴーンさんも倒産しそうだった日産を立て直して、すぐにフランスに帰れば英雄になれたのです。日本に銅像が立っていたと思います。それなのに19年間も居たのです。人間は引き際が大切だという日本文化を知らなかったのでしょう。

昔から比較人類文化学を趣味にしている私にとっては実に興味深い事件なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)



クリスマスが近づいて来たので聖歌のYouTubeをお送りします

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カトリックの教会で毎週、日曜日に歌っている聖歌のYouTubeをお送りします。
季節の歌ですね。

URLをクリックしてお楽しみ下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=5Zw33qcJ12Y&list=PLKFzvc3KMkE03vHmFzeDTR22dCevw9yaV

https://www.youtube.com/watch?v=wzCCUZRoo2Y&list=PLKFzvc3KMkE03vHmFzeDTR22dCevw9yaV&index=2

https://www.youtube.com/watch?v=9MDGOjzjj3k&index=3&list=PLKFzvc3KMkE03vHmFzeDTR22dCevw9yaV

https://www.youtube.com/watch?v=m8JP7fSwljo

https://www.youtube.com/watch?v=7IYCfI6FRmU
写真は長崎と五島列島の教会です。
出典は、https://www.sankei.com/photo/photojournal/news/161222/jnl1612220001-n1.html です。


1番目の写真はきらびやかな街明かりに浮かぶ大浦天主堂です。長崎は神戸・函館と並ぶ日本三大夜景のひとつです。

2番目の写真は星空の下の頭ヶ島教会です。月明かりに照らされた石造の頭ヶ島天主堂の明かりがステンドグラスからもれています。

3番目の写真は五島列島の中通島にある桐教会です。カラン、カランと鐘の音が響き、清らかな歌声が聖堂を包み込んでいます。

美しいクリスマスの風景写真をお送りします

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今日は待降節の第四の主日です。明日はクリスマスイブのミサがあります。今日も明日もカトリック小金井教会に行きます。
クリスマスの季節なのでカナダ、アメリカ、フランスの美しいクリスマス風景の写真をお送りします。
写真の出典はすべて、http://www.moshtravel.com/christmas-around-the-world/ です。

1番目の写真はカナダ東部にある都市ケベックでのクリスマス風景です。店の前にクリスマスツリーも並べられ、クリスマスの雰囲気満載です。

2番目の写真はアメリカ、カリフォルニアの町の風景です。
停められたシボレーの車の後ろには、イルミネーションが輝いています。

3番目の写真はニューヨークです。
屋外に設けられたスケート場です。高層ビルに囲まれた中でのスケート場です。

4番目の写真はニューヨークのタイムズスクエアです。かなり雪が降っていますが、世界一華やかな交差点だけあって、独特の雰囲気があります。

5番目の写真はフランスのパリです。
パリの通りでは木に設置された青いイルミネーションがずっと続いています。

日本にも各地に美しいイルミネーションが華やかに輝いています。このクリスマスの季節は心が浮き浮きします。皆様も楽しくこの季節をお過ごし下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

寒い日々が続くので南国、タイ王国の花々の写真を、

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今日は冬の曇り日で暗い雲が低く覆っています。まるで北欧の暗い冬の日のようです。
最近は寒い日々が続くので南国、タイ王国の花々の写真をネットでいろいろ調べ、眺めては楽しんでいます。
その中から5つの花の写真をお送りします。
花の写真の出典は全て、http://chaocnx.seesaa.net/category/22001647-1.html です。

1番目の写真は11月30日に咲き出した桜の花です。チェンマイ県のタイ桜です。
(โครงการอนุรักษ์พันธุ์กล้วยไม้รองเท้านารีอินทนนท์ บ้านขุนกลาง、นางพญาเสือโคร่ง、“ซากุระเมืองไทย”)

2番目の写真は紫陽花です。アジサイは日本固有種ですが、タイのロイヤルプロジェクトで栽培されて温帯の珍しい花として出荷されているようです。日本の梅雨の代表的な花である紫陽花が、冬季直前のこの10月に、チェンマイの高地で咲き誇っているそうです。

3番目の写真はゴールデンシャワーの花です。4月下旬、緑濃い木の枝先にとんがり帽子のような紫の花々を咲かせます。

4番目の写真はドイインタノン国立公園のドイインタノン固有種である赤いシャクナゲ(กุหลาบพันปี)です。2月中旬頃までが見頃だそうです。

5番目の写真は サイアム・チューリップです。チューリップの名前が付いてますが、実際は生姜の仲間です。タイでは“パトムマー(ปทุมมา)”と呼ばれ、雨季の時期にピンクや白系統の花を咲かせます。

タイ王国は仏教国で仏教歴を使用している珍しい国なので、ついでにこの国の紹介を下記にお送りします。
現在のタイ王国はチャクリー王朝で仏陀の入滅をゼロ年とする仏教歴を使用している国なのです。
タイ王国という国名が示すように、この国は現在でもチャクリー王朝の王様の権限が大きく、不敬罪のある社会なのです。
この王朝は1782年(タイ仏暦2325年)に成立したのです。現在の王様は初代から数えて10代目のラーマ10世です。
この王国は 仏教を大切にしている文字通りの仏教国なので、お釈迦様が入滅した翌年の西暦の紀元前543年を仏滅紀元元年としている仏歴を日常生活に使っています。
ちなみに私は1936年生まれですから、これに543年を加えた仏歴の2479年に生まれたことになります。
現在のタイの人々はこの仏歴が身についていて西洋の西暦へ換算するのが難しい人々が多いそうです。
タイにおいては、男子はすべて出家するのが社会的に望ましいと考えられているのです。
出家するためには普通20歳以上でそれまで悪いことをしていないことが大切なのです。
出家の目的はお釈迦さまの教えを修行を通してより深く理解するためです。
出家の期間はいろいろですが、大体3ケ月くらいと言われています。それを済ませると一人前の大人と見なされます。
ですからタイの社会では出家は成人への通過儀礼として行われるとも考えられます。
しかしその一方で、自分の精神力を強めたり、社会性をつけたいなどの目的もあります。
基本的には出家で功徳を積み親や先祖の恩に報いるということが基本になっています。
ですから修業中の人へ食物を献上する行為も自分の親や先祖の恩に報いるということになります。
また貧しい家に生まれたが、学業に優れていたために僧になって仏教大学に入学する若者もいます。

タイの仏教は日本の仏教よりも本物のように思えるのです。お釈迦様の教えどうり忠実にその教えを守っているように思えるのです。
個人的なことで恐縮ですが私の祖父は曹洞宗のお寺の住職でした。それで仏教関係の本を多く読みました。
日本の仏教は中国や朝鮮の百済を通って飛鳥時代に入って来ました、そのせいで中国の道教や儒教や朝鮮の原始宗教と習合し多神教的な宗教になっているようです。お寺のご本尊はお釈迦様ではなく薬師様、観音様、弘法大師様、伝教大師様などいろいろです。
しかしタイのお寺のご本尊様はお釈迦様なのです。お釈迦さまの座った姿の仏像か、寝た姿の涅槃像なのです。
そして出家による修行を大切にしています。私個人は修行無くしては宗教を理解出来ないと信じていますので、タイの仏教こそ本物だと魅力を感じるのです。
スリランカ、タイ、カンボジア、ラオス、ビルマなどの仏教を上座部仏教と言うそうです。そして日本、中国、チベット、朝鮮半島などの仏教は大乗仏教と言うそうです。
最後にバンコックの住宅街での忘れられない体験を書かせて下さい。
それは1993年の頃でした。バンコックに数日滞在した時のことです。朝にホテルの窓から見ていると、幅広い河の向こうから沢山の通勤者が船てやって来るのです。
好奇心にかられて、その日の夕方私は小さな舟に乗り河向うの住宅街に行ったのです。そこは樹木に囲まれた家々が並んでいる住宅街だったのです。決して金持ちではなく、家には塀がありません。道から部屋の中まで見通せるのです。仏壇があって灯明の炎が揺れています。子供が庭で遊んでいて可愛い声が聞こえます。家の裏の方から夕食の準備の包丁の音が聞こえます。何やら金木犀の花のような良い香りが風に乗ってきます。外国人の私がズカズカと歩き回っているのに全く警戒しないのです。全ての人を信頼しているのです。
嗚呼、なんと平和なのだろうと感動しました。仏教国だなあと感動したのです。
もっと書きたいことは沢山ありますが、長くなるのでこれでお終いにします。
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