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日本一の白樺群生地、八千穂高原と清泉寮の風景写真

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そこには50万本の白樺が群生しているのです。日本一と言われています。
場所は北八ヶ岳の東麓に広がる八千穂高原です。先週、軽井沢に泊まった次の日、八ヶ岳を抜けて韮崎市に出る長い高原道路のドライブを楽しみました。その途中にある八千穂高原の白樺の群生地を見るためにに北八ヶ岳の高原に登ったのです。
約200haの高原に50万本の白樺林が生えているのです。その風景に圧倒されました。白い幹が輝いている風景は優美なものです。
夏蝉が澄んだ声で鳴いています。涼しい風が高原を吹き抜けています。
白樺だけが生えている地域の外側には、ヤマツツジ、レンゲツツジ、の群生地もあります。注意いて見るとクリンソウなどの山野草が咲いています。ミズナラやカラマツなども美しい新緑を見せています。
八千穂高原の頂上には、白樺群生地に隣接して八千穂レイクが静かな湖面に樹々の緑を映しています。
八千穂高原。そこには、いつも白樺の白い森があるのです。
丁度、3年前の同じ時期にやはり軽井沢からの帰りにこの白樺林を見に来たことを思い出しました。
白樺林のたたずまいは3年前と同じです。人間はどんどん老いて行きますが、自然の風景は変わらないのです。
八千穂高原自然園は、長野県南佐久郡佐久穂町大字八郡2049-183にあります。

八千穂高原に寄った後は、再び国道141号線に戻り八ヶ岳高原を南下します。そして山梨県の清里で又141号線から分れ八ヶ岳の方向に登ると清泉寮があります。
清泉寮は清里開拓の歴史と共に歩んできたのです。
ここで、ちょっと清泉寮物語をご紹介しましょう。
清泉寮は1938年(昭和13年)、後にキープ協会を創設するポール・ラッシュ博士によって日本聖徒アンデレ同胞会の青少年指導訓練所として建設されました。
1955年(昭和30年)に火事で焼失しましたが、1957年(昭和32年)に再建します。以来、本館の赤い三角屋根は、清里の変わらぬ風景です。
本館玄関に掲げられているXマークは、聖アンデレというキリスト教の守護聖人にちなんだ十字架(聖アンデレクロス)で、赤い三角屋根とならんで清泉寮のシンボルです。
2009年(平成21年)には新館が完成し、今では誰でも利用できるホテルになっています。
3年前に軽井沢の帰りに私共も一泊したホテルです。

それはさておき、本館前には1980年(昭和55年)に建立されたポール・ラッシュ博士の銅像があります。
銅像は、ラッシュ博士大好きだった富士山の方向を向いて立っています。
清泉寮といえばジャージー種の牛乳を使ったソフトクリームが非常に有名です。赤い三角屋根の背後に聳える八ヶ岳の景観を楽しみながら、牧場のベンチに座ってソフトクリームを食べている人々の姿が絶えません。

戦前の昭和12年頃、ポール・ラッシュ博士は日本聖徒アンデレ同胞会の青少年指導訓練所を建設しようと、その候補地を探していました。
ラッシュ博士は、日本の象徴である富士山が見える場所でなければならないと考えました。。それにぴたりと合った理想の場所が清里だったのです。
その場所を紹介したのが、甲府の談露館の主人である中沢氏でした。
建設予定地は恩賜林と言って山梨県有地となっていましたが、当時の県知事は八ヶ岳山麓の開発に先鞭をつけてもらえると喜び、青少年指導訓練所建設のために県有地貸与の許可を出したのです。博士は、当時教鞭をとっていた立教大学を中心とした若い学生たちと道なき道を切り開き、材木を運び、念願の建物を完成させたのです。

1938年(昭和13年)に完成した青少年指導訓練所の名前は、いろいろな提案がありましたが、その命名は立教大学のチャペル付きだった高松司祭に依頼されました。 司祭はキャンプ場のある敷地が当時の清里村と大泉村にまたがっていることから、両方の地名から一文字ずつとって「清泉寮」としてはどうかと提案しました。ラッシュ博士は、両方の頭文字をとっただけの名前に当初は不満げだったそうですが、その英語訳が「ピュア=スプリング」(清らかな泉がわき出でる場所)であることを聞くと、大いに喜んでその命名に賛成したそうです。
以上の清泉寮物語の出典は、http://www.keep.or.jp/place_event/seisenryo/ です。
「清泉寮」は現在、ポール・ラッシュ記念会の公益財団法人キープ協会によって運営されています。

写真に八千穂高原の湖と白樺の群生林の風景と、清泉寮とその前の牧場の風景を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)













軽井沢の古いホテルと新しいホテルの比較

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軽井沢には明治27年創業の万平ホテルがあります。そして明治39年創業の三笠ホテルも現在は廃業していますが、その建物は国の重要文化財として保存、展示されています。
その一方、軽井沢には戦後に創業した新しいホテルも沢山あります。
軽井沢だけでなく日本全国を見回すと、戦前から営業している所謂、クラシックホテルと戦後の新しいホテル、最近のホテルが数多くあります。
今日は軽井沢の場合を例にして、クラシックホテルと新しいホテルの長所と短所を冷静に比較したいと思います。
例として万平ホテルと今回泊まった新しい「ゆとりろ軽井沢ホテル」を取り上げます。
クラシックホテルと新しいホテルの大きな違いは、それぞれの文化の違いです。
詳しい比較検討の前に、万平ホテルと三笠ホテルの写真を示します。続いて今回泊まった「ゆとりろ軽井沢ホテル」の写真を示します。

1番目の写真は明治27年創業の万平ホテルです。写真の本館は昭和11年頃に作られたままの姿です。

2番目の写真は万平ホテルのテラスレストランです。この軽食用のレストランの内側には広いメインダイニングルームがあります。古い内装で、窓からは昔風の庭が見えます。

3番目の写真は現在は廃業している三笠ホテルです。国の重要文化財として公開、展示されています。中に入ると明治時代の古風な客室が並んでいます。

4番目の写真は新しいホテルの「ゆとりろ軽井沢ホテル」の玄関です。

5番目の写真は「ゆとりろ軽井沢ホテル」の結婚式用のチャペルです。

6番目の写真は「ゆとりろ軽井沢ホテル」のメインダイニングから庭を見た風景です。

7番目の写真は「ゆとりろ軽井沢ホテル」のオードブルの写真です。季節の食材や地元の野菜を使った細やかな一皿です。簡素なフレンチコースで、この他にスープ、オーブンで焼いたチキン、パンとバター、それにデザートとコ-ヒーがついていました。ワインなどは別料金です。


さて、「クラシックホテルと新しいホテルの大きな違いは、それぞれの文化の違いです」などと気取ったことを言わないでもっと分かり易い具体的な比較と検討をします。
(1)宿泊料金の比較
大雑把に言って、クラシックホテルの宿泊料は新しいホテルより2割から5割高いのです。
私共は高齢者なのでシーズンオフの平日に泊まります。以前、万平ホテルに泊まったときは、朝夕2食付きで1人当たり20000円位でした。
一方、今回とまった「ゆとりろ軽井沢ホテル」は朝夕2食付きで1人当たり12000円位でした。
クラシックホテルの宿泊料はシーズンオフの平日をインターネットで探し、申し込むと意外に安いのです。上高地の帝国ホテルに格安で泊まったこともあります。

(2)ホテルの施設、設備の比較
クラシックホテルの全ての施設と重厚ですが古色蒼然としています。一方、新しいホテルは軽やかで楽しい内装になっています。
ですから重厚で昔の雰囲気が好きな人にとってクラシックホテルはたまらない魅力なのです。
しかし子供連れの家族にとっては新しいホテルの方が楽しめるのです。
結論を言えばクラシックホテルの雰囲気は老人に向いています。新しいホテルの雰囲気は若い家族連れに向いています。
雰囲気の違いは文化の違いの一例です。

(3)バリアフリーと障害者への配慮の比較
私は歩くのが困難な後期高齢者です。軽度の障害者です。従ってホテルの施設が障害者に配慮して作ってあるかを敏感に感じます。
室内に段差あるのは駄目です。トイレは車椅子がそのまま入れるように広く作ってあると幸せな気分になります。
その点、万平ホテルは問題です。努力して改造していますがまだまだです。
一方、「ゆとりろ軽井沢ホテル」には感心しました。まず身障者用の駐車場が玄関のすぐ脇に作ってあるのです。そして簡単な歩行器を押しながら庭から結婚式用のチャペルまで歩いていくと段差が完全に無いように小道が出来ているのです。障害者への暖かい気持ちが感じられるのです。
一方、古い有名は旅館やホテルには障害者への暖かい気持ちがあまりありません。一応、段差を無くす努力はしていますが、肝心な所に段差があるのです。気持ちがこもっていないのです。これは日本の新しい文化と古い文化の差のようです。

(4)接客態度やサービスの比較
よくクラシックホテルはサービスが洗練されていて非常に良いと言われています。サービスが良いから料金が高いのですと言われています。同感です。
特に宮ノ下、富士屋ホテルのダイニングのウエイターの中野さんのサービス態度に感動して次の記事を掲載しました。
「クラシックホテルの欠点と限りない魅力を正直に書く」(2016年04月22日掲載記事)
それでは新しいホテルの接客態度やサービスはどうでしょうか?
これこそ玉石混淆なのです。悪い所もあれば非常に良いホテルもあります。
「ゆとりろ軽井沢ホテル」は満点でした。フロントもダイニングでも良かったです、庭を夫婦で散歩していたらダイニングからウエイターの辺見さんが飛び出して来て、夫婦一緒の写真を撮ってくれたのです。夕食・朝食のサーヴスも行き届いていました。

このようにクラシックホテルと新しいホテルの比較をしているともっと書きたいことがありますが、あまり長くなるのでこの辺で止めます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===追加==============================
「クラシックホテルの欠点と限りない魅力を正直に書く」(2016年04月22日掲載記事)からの抜粋です。

・・・欠点のあるクラシックホテルに何故多くの人が泊まりに行くのでしょうか?その限りない魅力とは何でしょうか?
不思議です。人の懐旧の情をそそるからでしょうか。食事の美味しさでしょうか。
しかしクラシックホテルの最大の魅力は従業員のサービスの質の高さにあるのです。この魅力は書いて説明するのが難しいものです。
そこで実例として冨士屋ホテルの夕食の時のウェイターのサービスぶりをご説明いたします。まず彼の立ち居振り舞いが静かで過不足が無いのです。運んで来た料理の説明が押し付けがましくないのです。綺麗なやさしい言葉なので、こちらがくつろいで聞けるのです。食べ終わった皿を持って行くタイミングが絶妙です。夫婦の会話が少し途切れた時、次の料理を音も無く差し出すのです。下にそんなサービスをしてくれた中野さんの写真を示します。

この写真は彼が笑いながらスープを私の皿に注いでいる場面です。彼の笑い顔が私のくつろぎを鏡のように映し出しています。
クラシックホテルの夕食のサービスには何時も感心しますが今回は特に感動したので彼にそう言い、少し会話もしました。12年間しているベテランでした。
このサービスの良さは朝食のウェイトレスも同様です。そして全てのスタッフ、掃除人も丁寧な挨拶をしてくれるのです。人みな優しい気持ちになれるのがクラシックホテルの魅力なのでしょう。・・・

北朝鮮が平壌を訪れるポンペオ国務長官へのお土産は何か?

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6月12日の歴史的な米朝会談の後、何も起きませんでした。トランプ大統領は200柱の米兵の遺骨が返還されたと言ってますが、確証がありません。
この1ケ月の間、非核化の具体的な進展が皆無だったので、多くの人々は朝鮮半島の非核化は不可能だろうと考えるようになりました。
例えば今日の読売新聞によると日本人の83%が近い将来の非核化は無いと考えています。一方、韓国人の66%も北朝鮮の非核化は出来ないと考えています。これは読売新聞と韓国の日報社の共同世論調査の結果です。
要するに日本人と韓国人の大部分は北朝鮮の非核化は無理だろうと考えているのです。
しかるにトランプ大統領だけが検証可能な不可逆的な完全非核化を叫んでいるのです。それは空しい叫びです。安倍総理もトランプ大統領の走狗となって空しい叫びを上げています。
このような状況で今日から3日間、アメリカのポンペオ国務長官は平壌を訪問します。招待している以上、手ぶらで帰すわけにはいきません。何かトランプ大統領の喜びそうな「おみやげ」を渡さなければなりません。
そのお土産は以下のものの一つか、全部でしょう。
(1)朝鮮戦争のアメリカ兵の全ての遺骨の調査と遺骨の返還のための交渉会議の設置
(2)朝鮮戦争の終結と平和条約作成のための協議の開始
(3)核関連施設の一部の申告と廃棄作業の開始

さて朝鮮半島は完全に非核化しなくても良いものでしょうか?
現実的に考えれば核兵器が残っても北朝鮮が使えない国際関係を作れば良いのです。
状況はその方向に向かっていることは明らかです。
それにしても6月12日の米朝会談の本当の勝者は中国だったという説があります。韓国も北朝鮮と交流が始まり経済的にも潤います。得るところ大だったのです。
一方、日本は北朝鮮の原油の瀬取りの写真を何度も発表し、嫌がらせをしました。アメリカの厳しい検証を叫び北朝鮮の嫌がらせをしたのです。ですから日本は今後苦境に立たされるでしょう。そんな状況の中で拉致問題の解決をしなければならないのです。中国と韓国が浮かび上がり、日本が苦境の海に沈んだのです。
このことは書かない方が良いかも知れません。しかしこれも冷厳な国際関係の客観的な理解の一つだと考えられます。

今日の挿し絵代わりの写真は蓮の花です。
日本の沼地にはよく蓮根栽培の畑があります。この夏の季節になると一面に白い大きな花が咲き、風に揺れています。それは心が洗われるような見事な光景です。そんな光景を思い出させるのがお寺に鉢植えされた観賞用の蓮の花です。
近所の真蔵院にも毎年咲きます。すると何度も見に行きます。昨日も写真を撮って来ました。そんな蓮の花をお楽しみ下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









外国の学校を卒業すると人生観が変わる

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人がどのような学校を卒業するかは運命のようなものです。
それを人生の終わり頃に振り返ってみると、私の人生観に対して意外に大きな影響を与えていることに気が付きます。人生観や、ものの考え方へ大きな影響を与えているのです。国際観にも大きな影響を受けました。
例えば私は中国や台湾や韓国や北朝鮮へ対して親近感を持っています。これらの国のことを好意的に書きます。
すると多くの読者から厳しい非難のコメントを頂きます。
そこで何故、私の国際感覚は多くの日本人と違うのか考え込んでしまいます。

最近気が付いたことですが、私の国際感覚はアメリカの大学を卒業したことで決定されたのだと思います。私の中国や台湾や韓国や北朝鮮へ対しての親近感はアメリカの大学を卒業した時に出来たのです。
卒業、卒業と繰り返し強調するのは理由があるのです。アメリカの大学は入学は易しいのですが、卒業するためには何度も厳しい筆記試験や口頭試験を通らなければなりません。日本の大学と全く違う世界なのです。
それでは私の人生観がどのように変わったか例をあげて書いてみます。

(1)見かけによらず優しい先生に世話になる。
その先生はギャングのアルカポネそっくりでした。ところが講義が分かり易く、試験も簡単な問題ばかりです。人柄が優しくて私の友人を日本から招んでくれました。奨学金も出してくれました。私は絶対に「人は見かけによらない」という人生観を持ったのです。

(2)終生付き合った友人が2人出来ました。
一人はB29で日本空襲に何度も来た空軍大佐でした。もう一人は真面目一方の男でした。釣りが趣味で終いにはアラスカに住みついて大物の鮭を釣って喜んでいました。
空軍大佐は英語の出来ない私にノートを貸してくれたり、宿題を助けてくれたりしたのです。
この2人の友人のお陰で、私は「友情は国籍に関係ない」という人生観を持ったのです。

(3)私の入っていたクラスは18人位でしたが私以外は皆ヨーロッパ系の人でした。
そうしたらある時、韓国人が入ってきました。すると周りの友人達が私に韓国人へ親切にしろと言うのです。隣の国同士だから仲良くしろと言うのです。
戦後直ぐの頃、私は朝鮮人の友人の家によく遊びに行ったことを思い出しました。その朝鮮人の家族から大切にされたことを思い出しました。そんな経験もあったお陰で、私は「漢字文化圏の人は私の親類だ」という人生観を持つようになったのです。

(4)私の指導教官は個人的なことまで全ての面倒をみてくれました。
婚約者を日本から呼びよせてアメリカで結婚式と披露宴をしました。その折、指導教官夫妻が全ての準備をしてくれたのです。
結婚式と披露宴には同級生が夫妻で出席してくれました。
家内の出産の際にもいろいろお世話になりました。我々をアジア人として差別しなかったのです。
この経験から私は、「人種差別は絶対にすべきでない」という人生観を持つようになりました。
さて一方、多くの日本人は韓国人や中国人を蔑視しています。彼等を信用しないのです。そのような態度を見ると悲しくなります。
他国を蔑視することで自分の人格を傷つけていることに気がついていなのです。人種差別は自分の人格を破壊していることに気が付いていないのです。残念です。

運命のいたずらか、私はアメリカの大学を卒業しました。正確に言えばオハイオ州立大学の大学院を卒業しました。
そのせいで私の人生観は大きく変わったのです。仕方の無いことです。
この欄でしばしば国際関係に関する記事を書くと自分の国際観が多くの日本人と違うことに気が付きます。どちらが正しく、どちらが間違っているかは判然としません。どちらも間違っているのかも知れません。それも人生なのでしょう。

今日の挿し絵代わりの写真は先週、八ヶ岳山麓で撮った梅雨明けの空のたたずまいと八千穂高原の白樺林の風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)




多種多様な仏像のある日本の仏教の多神教性

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一般に仏教を眺めると非常に複雑な発展の歴史があって、簡単には理解できません。
そこで大雑把にその発展の歴史を書いてみます。
佛教は紀元前6世紀の中葉にお釈迦様によって作られた世界宗教です。
それが2つに分かれ、上座部仏教(南伝仏教やテラワーダ仏教とも呼ばれます)と大乗仏教(北伝仏教)の二大宗派になりました。
上座部仏教は紀元前4世紀頃に初期仏教から生まれ、それがスリランカに渡り、現在のようにミャンマー、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナムなどに普及しています。
一方、大乗仏教はインドで紀元前1世紀頃に作られ、1世紀以後に中央アジアから中国、朝鮮、台湾、日本へと伝承されました。従って日本に伝承された仏教はインド出来た大乗仏教だったのです。
尚詳しくは、「日本の仏教と釈迦の教えの違い(3)般若心経は大乗仏教のお経」(2018年05月17日掲載記事)をご覧下さい。

インドから大乗仏教の教典を中国の長安に運んで漢訳した人の代表は西暦400年前後に漢訳した鳩摩羅什と600年代に漢訳した玄奘三蔵法師です。ですから鳩摩羅什と玄奘を二大訳聖と呼びます。

鳩摩羅什(344年 - 413年)はインド系の西域僧で、後秦の時代に長安に来て約300巻の仏典を漢訳します。彼が漢訳したお経は次のように日本でも広く親しまれています。
『仏説阿弥陀経』1巻
『摩訶般若波羅蜜経』27巻(30巻)
『妙法蓮華経』8巻、その他、多数。
一方、玄奘三蔵法師の漢訳した「般若心経」などは有名なので省略します。

さて、日本に来た仏教は中国でも道教などと混淆し、一層、多彩なっています。
そこで今日は日本で崇拝され信仰の対象になっている多種多様な仏像の一覧表をまず示します。以下の仏像は、『仏の一覧、https://ja.wikipedia.org/wiki/仏の一覧』からの抜粋です。

本来、佛像とは、仏教における最高の存在であり、悟りを開いた者である釈迦如来の像だけとするべきでしょう。
しかし後の大乗仏教運動によって、悟りを開こうと修行している菩薩、密教特有の明王、天部の護法善神などを含めた全ての像を仏像と言うようになりました。
また顕教と密教の相違、あるいは宗派の違いにより仏像は異なります。
このように大乗仏教では多くの如来や菩薩などが後に生み出されたために多種多様の仏像があるのです。
なお上座部仏教では、仏像は釈迦牟尼仏のみの像であり、釈迦の像以外は信仰の対象とはしていません。
それでは日本の多種多様の仏像の一部を以下に示します。
以下は次の7種の順に従って示してあります。
1、如来部、2、菩薩部、3、観音部、4、明王部、5、天部、6、開祖・高僧、7、垂迹神

(1)如来部
釈迦如来 (釈迦牟尼仏)
阿弥陀如来(阿弥陀仏、無量寿仏、無量光仏)
薬師如来(薬師瑠璃光如来、薬師仏)
大日如来(遍照如来、毘盧遮那仏)
阿閦如来(あしゅくにょらい)
無量寿如来
天鼓雷音如来
普賢王如来
多宝如来
毘盧遮那仏(盧遮那仏、遍照遮那仏)
弥勒如来

(2)菩薩部
文殊菩薩
普賢菩薩
普賢延命菩薩
薬王菩薩
地蔵菩薩
六地蔵
虚空蔵菩薩
虚空蔵菩薩
弥勒菩薩
観音菩薩(観世音菩薩または観自在菩薩の略)
聖観音
千手観音
馬頭観音(馬頭明王)
勢至菩薩
日光菩薩
月光菩薩

(3)観音部
観音菩薩(観世音菩薩または観自在菩薩の略)
阿弥陀如来(阿弥陀仏、無量寿仏、無量光仏、観自在王如来)
千手観音
十一面観音
如意輪観音
馬頭観音(馬頭明王)
大黒天(摩訶迦羅、瑪哈嘎拉、チベット仏教の忿怒相の大黒天、観音の化身)

(4)明王部
不動明王
金剛夜叉明王
愛染明王
孔雀明王
青面金剛

(5)天部
梵天 - ヒンドゥー教の神ブラフマーに由来
帝釈天 - ヒンドゥー教の神インドラに由来
四天王
兜跋毘沙門天
大自在天 - ヒンドゥー教の神シヴァに由来
弁才天 - ヒンドゥー教の神サラスヴァティーに由来 - 七福神の一柱。
大黒天 - ヒンドゥー教の神マハーカーラ(シヴァの別名)が日本の大国主命と習合 - 七福神の一柱。
吉祥天(功徳天) - ヒンドゥー教の神ラクシュミーに由来
韋駄天(陰天) - ヒンドゥー教の神スカンダに由来
鳩摩羅天 - ヒンドゥー教の神クマーラに由来
摩利支天 - ヒンドゥー教の神ウシャスに由来
歓喜天(聖天)- ヒンドゥー教の神ガネーシャに由来
鬼子母神 - ヒンドゥー教の神ハリティーに由来
焔摩天(閻魔) - ヒンドゥー教の神ヤマに由来
深沙大将(じんじゃだいしょう)
寿老人
福禄寿
布袋
恵比寿
関帝菩薩

(6)開祖・高僧
羅漢
祖師像
聖徳太子
達磨大師
天台大師(智顗)
善導大師
伝教大師(最澄)
弘法大師(空海)
慈恵大師(良源、元三大師、角大師とも)
円光大師(法然)
見真大師(親鸞)
立正大師(日蓮、日蓮正宗では仏宝として崇められている)
神変大菩薩役行者(えんのぎょうしゃ)
行基菩薩

(7)垂迹神
八幡大菩薩 (はちまん)- 日本の神道の神である八幡神の別称。
秋葉権現(あきば)
愛宕権現(あたご)
飯縄権現(いづな)
越知大権現(おち) - 白山修験
金毘羅権現(こんぴら)
熊野権現(くまの)
三宝荒神(さんぽうこうじん)
牛頭天王(ごずてんのう)
蔵王権現(ざおう)

以上のような数多くの仏像を見ていると日本の仏教は多神教的な宗教と言えます。
お釈迦様は神の存在を認めず、人間が出家して戒律を守れば悟りの境地に入れると教えました。ですから仏教を多神教と断定するのは間違いです。
しかしこの記事では「多神教的」とか「多神教性」という言葉を使っています。その理由を次に示します。
釈迦の教えをよく勉強している僧侶たちの全ての仏像に対する祈りの例です。
「どうか私を悟りの境地にお導き下さい。私の全てをお釈迦さまへ捧げます。お釈迦さまに帰依します」
という内容ではないでしょうか。
一方、仏教を深く勉強していない大衆の人々の祈りの例を示します。
「どうか家内安全を守って下さい。商売も繁盛するようにして下さい」
この祈りは神道の神社での祈りと同じです。
すなわち多種多様な仏像を神道の神々と同じように信仰しているのです。そこには神々が存在する宗教なのです。ですから私は「多神教的」とか「多神教性」という言葉を使うのです。

一方私は一神教のカトリックの信者のはしくれにいます。ですから仏教の多神教的な性質が明快に分かる気がするのでしょう。
誤解を避けるために強調します。どんな宗教にも絶対に優劣はありません。一神教だろうが多神教だろうが絶対に優劣などありません。

今日の挿し絵代わりの写真は奈良と京都にある仏像の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は京都の広隆寺の木造弥勒菩薩半跏思惟像です。国宝です。

2番目の写真は奈良の大仏です。お釈迦さまではありません。盧舎那仏です。

3番目の写真は奈良・東大寺戒壇院の四天王立像です。奈良時代の塑像の最高傑作といわれる。

4番目の写真は京都の教王護国寺の帝釈天の像です。もとはヒンズー教の神でした。

5番目の写真は京都の三十三間堂の千手観音です。元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂で、正式名称を蓮華王院本堂と言います。

科学と宗教の違いを簡単に言えば、

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宗教を信じればすべてのことが理解出来ますと私は時々書きます。この表現は単なるレトリックで、正確に書けば、「宗教を信じれば科学では理解出来ない世界があることが理解できます」と書くべきです。
今日は日曜日なので少しだけ宗教のことを書きたいと思います。「科学と宗教の違いを簡単に言えば、」という題目なので、短く、簡単に書きます。

そこで早速ですが、禅宗とは何かという事から説明します。
簡単です。お釈迦様が悟りを開いたのは菩提樹の下で座禅をしていた時ということになっています。ですから座禅をすればお釈迦さまの教えが理解出来る。こういう考え方が中心になっているのが禅宗です。座禅という修行だけでなく全ての作務の労働が修行になります。
禅宗は判りやすいので中国や朝鮮半島や日本に広がり数多くの禅宗系の宗派のお寺があります。
その禅宗の言葉に「不立文字」という言葉があります。

文字とは経典の言葉のことです。「不立文字」とは経典だけをいくら読んでも経典の意味が実感できないという意味です。読んだだけでは信じる事ができないというのです。すなわち宗教は言葉では説明がつかないのです。いくら精密な理論を用いても宗教の本質は掴めないのです。これは禅宗に限らずいろいろな宗教に言えることです。

座禅の体験を繰り返しているとある時、目からうろこが落ちるように経典の内容が理解出来るのです。そして、諸行無常、諸法無我、一切皆苦、涅槃寂静などという言葉の意味が氷が解けるように簡単に理解出来るのです。

以前、この「不立文字」という言葉を知ったとき、私は思わず、「そうだ!」と叫びました。キリスト教において聖書を何度も、何度も精読しても信者にはなれません。
例えば、カトリックの信仰においては、教会でのミサが一番大切にされています。それは宗教的訓練を重要視しているからです。
そのミサの中でイエス様が最後の晩餐でパンを裂き、弟子たちに与えた行為を再現するのです。そして信者の一人一人が神父さまから小さなパンを貰うのです。
これを毎週繰り返していると聖書の文章が活き活きと理解出来るのです。これは禅宗でいうところの修行に相当します。
勿論、これを洗脳という人がいるかもしれません。しかし一旦信じてしまうと他人の非難があまり重要でなくなります。神の考えの方を重視するようになるのです。

宗教を信じるためにはいくら本を読んでも駄目です。座禅とかミサに参加するとか巡礼をするとか体を動かさないと駄目なのです。それを宗教的訓練と言います。それは仏教の座禅や滝行や回峰行などいろいろな修行に相当します。

宗教は理屈でなく直観で判る分野なのです。
科学では、仮説の理論を組み立て、実験で証明出来る自然現象が研究の対象です。宗教は実験で再現不可能な人間の心の問題を対象にしています。
今日の結論です。科学と宗教の違いを簡単に言えば、理論で説明が出来るのが科学であり、説明出来ないのが宗教なのです。

この世には宗教を信じている人と信じていない人が厳然として存在しています。
此の世で一番重要なことは、宗教を信じている人と信じていない人がお互いに尊敬しあうことです。
無宗教の人は信者をさげすんだり、バカよばわりはしていけません。と同時に信者は無宗教の人を差別したり、お付き合いを拒んだりしていまいけません。これこそが真の平和を実現する鉄則なのです。
両者ともこの小さな青い水の惑星の住人なのですから。

今日の挿絵代わりの写真は先週、北八ヶ岳の八千穂高原で撮った日本一の白樺群生地の風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)









夏の青田、2000年前から日本の原風景

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今日は晴れ上がった日曜日です。午前中はミサに行き、午後は緑の樹木に囲まれた多摩尾根幹線道路をドライブしました。
目的地は町田市の小山田緑地の近辺の水田地帯です。そこには2000年前の弥生時代から日本の原風景だった夏の青田が広がっているのです。
稲田の見えない街中に住んでいると、時々、水田風景が無性に懐かしくなります。そんな時は必ず眺めに来る田園地帯です。
思い返すと、夏になると緑の稲田の広がる仙台平野を横切って塩釜港から桂島や宮戸島の海水浴場に通ったものです。
仙台から塩釜へ行く電車の窓から稲の匂い一杯の暑い風が吹き込みます。当時の電車には冷房装置なぞありません。窓を開けて風を入れるのです。ですから夏というと稲の匂いを思い出すのです。同じような思い出を家内もよく話しています。夏休みに鎌倉から祖父母の家に泊まりに行く時レールの左右に広がる田圃を見ると、何故か懐かしい気持ちになったそうです。
私達は夏になれば青田の広がる風景を心に思い浮かべます。そして稲の匂いがする風を思い出すのです。
先程、撮って来た写真をお送りします。昔の夏の青田の風景と共に稲の匂いを思い出して頂けたら嬉しく思います。








タイ洞窟の少年4人救出を見て感動す

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6月23日に、タイ北部チェンライ郊外で、サッカーチームの少年ら12人と男性コーチ(25)が国立公園内のタムルアン洞窟探検に行って、洞窟内に閉じ込められました。
昨夜、この13人のうち4人が16日ぶりに救出されたのです。私は深く感動しました。

1番目の写真は昨夜、救出した小年を病院へ運ぶ救急車の写真です。
これで全員を救出す可能性が確かになったのです。
しかしこの救出にはいろいろな事があったのです。
日本の新聞では個人名は無視する傾向にありますが、外国のマスコミは個人を尊重しその名前を明記します。
そこで今日は外国での報道ぶりをご紹介します。
7月6日には、救出に参加していた元、タイ海軍の特殊部隊の隊員だった潜水専門家が亡くなりました。亡くなったのはボランティアのサマン・クナン氏(38)です。洞窟内の子どもたちに酸素のタンクを運ぶ仕事をして戻る途中、帰らぬ人となったのです。
ご冥福をお祈りします。

それ以前の7月2日に、洞窟の入り口から約5キロの岩場に少年らがいるのを英国人ダイバーらが発見したのです。13人全員の無事が確認されたニュースには感動し嬉しくなりました。そこでそれに関する記事をお送りします。

『タイ不明少年ら、発見者は英ダイバー 世界の洞窟で救助経験』
【7月4日 AFP】、ttp://www.afpbb.com/articles/-/3181098
タイ北部チェンライ(Chiang Rai)県で、大雨により洞窟に閉じ込められていた少年サッカーチームの捜索活動では、世界中の困難な救助活動に挑んできた2人の英国人ボランティアダイバーが、少年らの発見に貢献した。
 英国から捜索活動に参加したのは、普段は消防士として働くリチャード・スタントン(Richard Stanton)さんと、ITエンジニアのジョン・ボランセン(John Volanthen)さん。2人は、行方不明になってから9日が経過していた少年12人とコーチ1人を見つけるため、水位が上がった洞窟の長く曲がりくねった通路を進み続けた。

 捜索隊にはさらに、もう1人の英国人、ロバート・ハーパー(Robert Harper)さんに加え、タイなど世界各国の専門家らが参加していた。英国のボランティア救助団体「英洞窟レスキュー協会(BCRC)」のビル・ホワイトハウス(Bill Whitehouse)さんによると、その中でもスタントンさんとボランセンさんは捜索隊の「最前線」に立っていたという。
 救助隊と短い会話を交わしたというホワイトハウスさんは英BBC放送に対し、2人が「最後の区間を潜り、行方不明の一行が高台にいた空間にたどり着いた」と説明。「上流に向け潜っていたため、水流に逆らって泳いだり、壁に沿って自分の体を引っ張ったりする必要があった」と述べた。実際の潜水区間は約1.5キロだが、うち半分ほどが完全に水に浸かっており、総潜水時間は約3時間だったという。

「やらなければならない仕事がある」
 イングランド南西部ブリストル(Bristol)在住でITエンジニアのボランセンさんと、同中部コベントリー(Coventry)在住の消防隊員であるスタントンさんは、過去にも難易度の高い潜水活動に参加してきた。
 50代半ばのスタントンさんは2012年、エリザベス女王(Queen Elizabeth II)から大英帝国勲章第5位のメンバー章(MBE)を受け取った際、地元紙に対し、自身の最大の功績はメキシコの洞窟に閉じ込められた英兵6人の救出活動に協力したことだと回想。洞窟潜水を始めたのは18歳の時、テレビのドキュメンタリー番組を見たのがきっかけで、当初はただの「趣味」だったという。
 一方、40代とされているボランセンさんは2013年、サンデー・タイムズ(Sunday Times)に対し、洞窟潜水に必要なのは冷静さであり、「パニックとアドレナリンは特定の状況では有効だが、洞窟潜水ではそうではない」と話していた。
 タイ入りした2人はメディア取材を避けており、ボランセンさんは現場に到着した際に記者団に対し、「やらなければならない仕事がある」とだけ語った。(c)AFP

さてタイ王国は日本と非常に違う文化を持っています。そこで簡単に日本と違う点を3つだけご紹介します。
(1)現在は軍事政権独裁ですが、その上にラーマ10世という王様が君臨しています。
現在は軍事政権独裁ですが、現在でもチャクリー王朝の王様のいる王国です。国王の権限が大きく、不敬罪のある社会なのです。
この王朝は1782年(タイ仏暦2325年)に成立したのです。現在の王様は初代から数えて10代目のラーマ10世です。

(2)西暦でなく佛暦を用いている上座部仏教国です。
上座部仏教はまたの名前をテラワーダ仏教とも言います。英語で書くと Theravada Buddhism となります。南伝仏教徒やパーリ仏教とも言います。

2番目の写真はTheravada仏教の僧侶達の写真です。上座部仏教では仏像はお釈迦さまの像です。日本のように観音像や薬師像や大日如来像なのようにいろいろありません。
この王国は 仏教を大切にしている文字通りの仏教国なので、お釈迦様が入滅した翌年の西暦の紀元前543年を仏滅紀元元年としている仏歴を日常生活に使っています。
ちなみに私は1936年生まれですから、これに543年を加えた仏歴の2479年に生まれたことになります。
現在のタイの人々はこの仏歴が身についていて西洋の西暦へ換算するのが難しい人々が多いそうです。

(3)タイでは全員がある期間、出家します。
出家するためには普通20歳以上でそれまで悪いことをしていないことが大切なのです。
出家の目的はお釈迦さまの教えを修行を通してより深く理解するためです。
出家の期間はいろいろですが、大体3ケ月くらいと言われています。それを済ませると一人前の大人と見なされます。
ですからタイの社会では出家は成人への通過儀礼として行われるとも考えられます。
しかしその一方で、自分の精神力を強めたり、社会性をつけたいなどの目的もあります。
基本的には出家で功徳を積み親や先祖の恩に報いるということが基本になっています。

写真で出家した少年達や若者の托鉢の風景をご紹介したいと思います。

3番目の写真は少年僧の托鉢です。道端に座って食べ物を寄進している女の敬虔な表情にご注目下さい。

4番目の写真は青年僧の托鉢です。左に普通の中年夫婦が籠いっぱいに食べ物を入れて僧侶一人一人へ寄進しています。右側には屋台を出して何か食べ物を売っている人も写っています。托鉢僧は商売ものには近づきません。タイの街角の日常の風景です。

5番目の写真は托鉢を終えた青年僧が列を作って帰る姿です。その表情に深い宗教的な静かさが宿っていることにご注目下さい。托鉢は釈迦に帰依する心を強める祈りなのです。写真に写っている僧達は皆普通の人なのです。ある期間だけ出家しているのです。

さて人間の思わぬ悲劇は、その国の文化や政治に関係無く起きます。今回の洞窟で起きた悲劇はタイが仏教国だということとは全く関係がありません。
しかしこの際にタイ王国の文化を少しばかりご紹介いたしました。

今日は、全員が無事救出されるようにお祈りします。救出隊にも怪我や犠牲が起きないようにお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

美しい色彩を楽しむための写真を撮って来ました

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今日は高島屋に行きました。デパートで感心するところは四季折々の婦人服売り場です。季節の色が多彩に取り合わせて飾ってあるのです。
デパートに行くと、そんな色彩の取り合わせを眺めて楽しんでいます。
今日、撮って来た写真をお送りします。お楽しみ頂けたら嬉しく存じます。








国宝の仏像は日本が世界に誇れる宗教芸術

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日本には世界に誇れる文化がいろいろあります。
そこで今日から、その具体的な例を上げて説明して行きたいと思います。
まず始めは国宝の仏像を取り上げたいと思います。
国宝の仏像は沢山ありますが、ここでは私の好きな7つの仏像の写真を示します。

1番目の写真は法隆寺の夢違(ゆめたがい)観音像です。像高87.9cmで、法隆寺の東院絵殿の本尊です。
悪い夢を良い夢に変えてくれる伝説からこの名前がつけられたそうです。
柔和な微笑み、衣紋が美しい薄い衣、丸みのある体、指先まで気を配ったしなやかさが相まって、「夢違」の名に相応しい美しさを持つ仏像です。
頭部の飾りをのぞいて、全身を1度に鋳出し鍍金をした蜜蝋鋳型による造形です。中国の初唐の影響が色濃く残る奈良前期の特色がある仏像です。説明は、https://art.iroiro.co/article/art/buddha/horyuji-yumetagaekannon/ から抜粋しました。

2番目の写真は奈良の新薬師寺の薬師如来と十二神将です。奈良時代建立の本堂の中に並び、薬師様を護る十二神将たちです。圧巻です。約1300年ものあいだ睨み付けている十二神将たちは天平塑像の傑作です。
なお新薬師寺の「新」は“あたらしい”ではなく“あらたかな”という意味の「新」です。
説明文は、http://blog.livedoor.jp/takenoji/archives/71037568.html から抜粋しました。

3番目の写真は鎌倉時代に活躍した仏師、運慶が彫った「木造不動明王立像」です。
 運慶の不動明王像など5体は1186年の作品で、卓抜した技量と写実的で力強い作風が評価されています。
詳しくは、https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK2702K_X20C13A2000000/ をご覧下さい。

4番目の写真は快慶の文殊菩薩です。奈良の桜井市の安倍文殊院にあります。
獅子に乗り4人の脇侍を伴う渡海文殊で5像全てが国宝です。鎌倉時代・建仁3年(1203年)に快慶によって造立されました。
このお寺は大化の改新(645年)に創建された日本最古に属する寺院です。華厳宗東大寺の別格本山です。
運慶と快慶は、東大寺南大門の国宝「金剛力士像」の共作者として知られる。快慶の文殊菩薩像など4体は、東大寺大仏の再興事業に関連して1203~20年に制作されました。

5番目の写真は奈良の室生寺の国宝の金堂にある仏像達です。金堂須弥壇 左から十一面観音、文殊菩薩、釈迦如来、薬師如来、地蔵菩薩(この写真では見えない)の各像です。手前に立つのは十二神将像です。
詳しくは、https://gurutabi.gnavi.co.jp/p/p_3734/ をご覧下さい。

6番目の写真は奈良の興福寺の阿修羅像です。国宝で天平時代の作です。
「天平の美少年」と言われています。表情にあどけなさの残る阿修羅像は有名な国宝ですが、八部衆の一人です。詳しくは、https://allabout.co.jp/matome/cl000000004569/ をご覧下さい。

7番目の写真は大阪の天野山金剛寺の木造大日如来坐像・木造不動明王坐像・木造降三世明王坐像です。
下記の説明は、文化庁の解説、
http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/2017031002_besshi02.pdf … です。
「木造大日如来坐像 一軀 と木造不動降三世明王坐像 二軀 について」
【所有者】宗教法人天野山金剛寺(大阪府河内長野市天野町996) 【大きさ】像高 大日313.5㎝/不動201.7㎝/降三世230.1㎝。
3メートルを越える巨大な大日如来像を中尊とする三尊像である。中尊は金剛寺の草創 期である1180年前後の作で、この時代の大日如来像 を代表する作例と言える
光背・台座に弘法大師空海に由来する図像的な特色を示 す点でも注目されます。
不動・降三世明王は最近の保存修理で銘文が確認され,仏 師快慶の弟子,行快が天福2年(1234)に造ったことが判明しました。三尊としての構成は智証大師円珍が中国よりもたらしたとされる尊勝曼荼羅に依拠してり,この図像になる唯一の遺品としても貴重である。 保存修理に伴い,この度,初めて本格的な調査が実施された結果,この三尊像 がおよそ半世紀をかけて造られ,以後おおむねその状態をとどめて今日まで伝え られてきたこが分かりました。

さて話は飛びますが、1870年の頃、イギリス人のレイトナーという学者がインド西部のガンダーラで数多くの仏像を発掘してイギリスに持ち帰りました。それらの仏像の詳しい研究の結果、ガンダーラの仏像はギリシャの彫刻の影響を強く受けていることを証明したのです。
仏像はインドで生まれ、ガンダーラでギリシャ彫刻の影響を受け、それが中国へ伝ったのです。その中国から日本へと伝承されたのです。
そして日本独自の仏像も沢山作られたのです。特に国宝の仏像は日本独自のもので世界に誇れる宗教芸術と私は信じています。
仏像のそんな悠久の歴史を想うと気持ちが広くなります。

尚つぎの記事にも国宝の5つの美しい仏像の写真が出ています。
「多種多様な仏像のある日本の仏教の多神教性」(2018年07月06日の掲載記事)
1番目の写真は京都の広隆寺の木造弥勒菩薩半跏思惟像です。国宝です。
2番目の写真は奈良の大仏です。お釈迦さまではありません。盧舎那仏です。
3番目の写真は奈良・東大寺戒壇院の四天王立像です。奈良時代の塑像の最高傑作といわれる。
4番目の写真は京都の教王護国寺の帝釈天の像です。もとはヒンズー教の神でした。
5番目の写真は京都の三十三間堂の千手観音です。元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂で、正式名称を蓮華王院本堂と言います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


西日本豪雨の被害状況の総括と被害者のために祈り

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今回の西日本豪雨の被害は広範囲にわたっており、その被害状況の正確な調査はまだ終わっていないようです。
しかし今朝の読売新聞によると死者158人、不明者56人となっています。死者158人と不明者56人の合計は214名となっています。
そして各県別の死者と不明者の合計の数は次のように報じられています。
岐阜1、滋賀1、京都5、兵庫2、奈良1、鳥取0、岡山59、広島103、山口3、愛媛28、高知3、福岡4、佐賀2、長崎0、鹿児島2、総合計214名。
犠牲者の多かった場所は岡山県の59名と広島県の103でした。

1番目の写真は各県別の被害状況を示した地図です。この図は7月7日午後11時の時点における被害状況です。この数字を上記の7月11日の読売新聞の数字と置き換えると正確な被害状況を示す図になります。
この図の出典は、https://www.yomiuri.co.jp/matome/20180706-OYT8T50006.html です。
この報道にもとずいて西日本豪雨の被害状況の写真を示します。

2番目の写真は濁流に流された山口県周南市樋口の民家跡です。

3番目の写真は土砂や流木が流れ込んだ住宅地です。(7日午後1時23分、広島県坂町で、読売新聞社ヘリから=菊政哲也撮影)

4番目の写真は広範囲で水につかった家屋です。(7日午前8時49分、倉敷市真備町川辺で)

5土番目の写真は堤防が決壊し、浸水した住宅の屋上で救助を待つ住民ら(7日午後0時31分、岡山県倉敷市で、読売ヘリから=菊政哲也撮影)

この様な西日本豪雨の被害に関して今朝の朝日新聞の電子版は次のように報じています。
『西日本豪雨死者158人、不明72人 避難者は約1万人』
https://www.asahi.com/articles/ASL7B5T2DL7BPTIL03N.html
 西日本を襲った豪雨の被害は10日、さらに拡大した。13府県で死者が158人、心肺停止が1人、行方不明や連絡を取れない人が72人に上っている。梅雨明けした被災地では、多くの地点で今年最高の暑さを記録。広島県と岡山県を中心に計約1万人が避難生活を送る中、災害関連死など被害の広がりを防ぐ対策が急務になっている。
列島各地の大雨被害の状況
 川が氾濫し大規模な浸水被害を受けた岡山県倉敷市真備町では、水が引き始めた9日以降、捜索活動が本格化。遺体が相次いで見つかり、県内では10日、新たに18人の死亡が確認された。広島県や高知県、愛媛県でも死者が増えた。
 朝日新聞がまとめた10日午後9時時点の府県別の死者は広島58人、岡山54人、愛媛26人など。行方不明者は広島45人、岡山21人など少なくとも計72人いる。
 気象庁は9日の東海、北陸、近畿、中国、九州北部に続き、10日に四国での梅雨明けを発表。高気圧に覆われて晴れた被災地は、各地で今年最高の暑さを観測した。愛媛県大洲市で34・8度、広島市中区では33・5度まで上昇した。
 総務省消防庁の10日午後1時45分時点のまとめでは、避難者は15府県におり、広島県で約4300人、岡山県で約4100人、愛媛県で約1千人に上っている。
 広島県東広島市では8日夜、避難所に避難していた80代の女性が息をしていない状態で見つかって死亡が確認された。
 暑さやトイレ不足による避難所の衛生状態の悪化が懸念される中、国は支援を本格化した。経済産業省は10日までに、岡山県や広島県の避難所にクーラー、愛媛県には仮設トイレを送った。
 厚生労働省によると、10日正午時点で、8県で「災害派遣医療チーム(DMAT)」計88隊が活動。さらに、岡山県には12日、避難所で被災者の状況を把握し、被災自治体を支援する「災害時健康危機管理支援チーム(DHEAT)」を派遣することを決めた。8終り)

以上の様に朝日新聞では死者と不明者の合計の犠牲者総数を230名としています。一方、今朝の読売新聞は214名としています。
この違いはまだ被害状況が正確には分かっていないことを示しています。今後の調査の進行が待たれます。

ここで、私はこの230名の犠牲者のご冥福を慎んでお祈りいたします。

犠牲者のご家族のためにお祈りいたします。
そして1万人以上の避難者の生活が少しでも早く良くなるようにお祈りいたします。
家を流された人々が再び安定した生活に早く戻れるようにお祈りいたします。

国宝の五重塔は日本が世界に誇れる独特な建築遺産

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五重塔とか三重塔は日本にしか無い木造の仏塔です。お釈迦さまの遺骨が中心柱の下に埋めてあります。
ミャンマー、タイ、ベトナムなどの上座部仏教圏では石やレンガで作られれた円錐形の塔で、日本の五重塔とは全く違う形です。
中国でも長安の大雅塔などの様にレンガを円筒形や六角柱の形に高く積み上げた仏塔です。
従って木造の五重塔は日本にしか見られない美しい建造物なのです。
その美しさの故に多くの人々が国宝の五重塔を眺めに行きます。そしてお釈迦さまの遺骨(舎利)へ祈ります。
構造は中央に心柱とそのまわりの12本の柱で支えられ、中は部屋もなく空洞です。五重の屋根とてっぺんに相輪がついています。
国宝の五重塔は次のように9つあります。
東寺五重塔(54.8m)、興福寺五重塔(50.8m)、醍醐寺五重塔(38.2m)、法隆寺五重塔(31.5m)、瑠璃光寺五重塔(31.2m)、羽黒山五重塔(29.4m)、明王院五重塔(29.1m)、海住山寺五重塔(17.7m)、そして室生寺五重塔(16.1m)です。
それではこの中から5つを選んで写真で示します。

1番目の写真は羽黒山 五重塔 (国宝)です。
羽黒山参道の上り口の杉並木の中に静かに立っています。東北地方では最古の塔といわれ、平将門の創建と伝えられています。
現在の塔は、約600年前に再建されたものと考えられています。高さが29.0mの三間五層柿葺素木造で、昭和41年には国宝に指定されました。近くには樹齢1000年、樹の周囲10mの巨杉“爺杉”があります。(http://kirakirauetsutabi.net/data/sight/000318.html )

2番目の写真は山口県山口市香山町にある瑠璃光寺五重塔です。高さは31.2メートルで1442年に建てられました。
現在の五重塔のある瑠璃光寺は、もともとは香積寺というお寺で、大内義弘が菩提寺として建てたお寺でした。大内義弘の死後、弟の盛見が、兄の菩提を弔うために、香積寺の境内に五重塔を建立に着手し、塔が完成したのは1442年で着工から30年後でした。
その後、寺の移転と同時に五重塔も解体され移築されるはずが、地元の人の嘆願書で塔が残ることが認められたのです。当時の地元の人の五重塔に対する愛情と気持ちが偲ばれます。
結果的に、五重塔だけが残ったのですが、1690年に山口市仁保というところから、現在の瑠璃光寺が移転され、瑠璃光寺の所有となったのです。瑠璃光寺の歴史も古く、曹洞宗の中国3寺のひとつで末寺も多くあったお寺でした。
(http://50no10.lpsec.net/modules/contents/index.php?content_id=7 )

3番目の写真は、国宝の法隆寺五重塔です。日本三名塔のひとつで、日本最古の五重塔です。
建築年代は飛鳥時代(680年頃)で高さは32.5メートルあります。
この五重塔の仏舎利(釈迦の遺骨)は、瑠璃の小壺に納められ、それを純金の器に入れ、さらに銀器に入れて、銅碗の中におき、瑠璃小玉葡萄鏡とともに孔中に安置し、銅版のフタがしてあります。この安置法は、インド伝来の風習で、それが奈良に残っているのは奇跡と言われています。
法隆寺金堂と共に世界最古の木造建築物です。
法隆寺五重塔は、外観的にも安定した整った美しさがある。
形式は、飛鳥時代のもので、(エンタシス)柱に膨らみがあったり、軒下に木組みに雲型のときようが使われています。 五重塔には、その四面に土で須弥山を構え、諸種の泥象が置いてあります。
(http://50no10.lpsec.net/modules/contents/index.php?content_id=7 )

4番目の写真は京都市にある醍醐寺 五重塔です。
高さは37.4メートルで、建築年は平安中期の952年です。
屋根の大きさの逓減率など非常によくバランスがとれて、相輪もどっしりしていて立派です。
醍醐天皇のご冥福を祈るために朱雀天皇が起工し、村上天皇の951年に完成しました。応仁の乱の時、醍醐寺の山全部が焼失しましたが、五重塔のみ奇跡的に残ったのです。京都府下最古の建造物です。
内部の壁画は日本密教絵画の源流をなすものといわれています。界曼荼羅と真言八祖を表した壁画は、平安絵画の遺品として重要であり、五重塔本体とは別に「絵画」として国宝に指定されています。
( http://50no10.lpsec.net/modules/contents/index.php?content_id=9 )

5番目の写真は広島県福山市草戸町にある明王院五重塔 です。
明王院は、807年空海により創設されたお寺です。南北朝時代を代表する和様の建築物です
高さは29.1メートルで南北朝時代の1348年に建てられました。
初層中央の仏壇には大日如来、不動明王、愛染明王が安置され周囲の壁面には金剛界37尊が極彩色で描かれています。内部の公開は33年に一度の機会しかなく、次は2024年の予定です。
明王院五重塔の建築は、純粋な和様建築の雄大な建築といわれています。
五重塔の前に流れている芦田川には古い町が埋もれてしまった「草戸千軒町遺跡」があります。
(http://50no10.lpsec.net/modules/contents/index.php?content_id=12 )

さて私は次のように国宝の仏像の写真を沢山ご紹介して来ました。
「 国宝の仏像は日本が世界に誇れる宗教芸術」(2018年07月09日掲載)
そして今日は国宝の五重塔の写真をご紹介しました。
そのような記事を書くのが非常に楽しかったのです。歴史のある美しいものを一つ一つ選んで鮮明な写真を探す作業が楽しいのです。
そして何よりも心が躍るのです。昔の日本人の仏教に対する篤い信仰に感動するのです。そうしてそんな日本人は現在の日本人よりも幸福だったのではないかという感想が頭をよぎるのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

農村に咲く夏の花々の写真をお楽しみ下さい

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農村とは大げさですが、東京都に隣接する埼玉県の所沢市のはずれの畑作地です。
車で1時間くらいドライブした所にあります。
花の好きな人の畑です。四季折々、何時行っても畑の隅に花々が咲いています。
今日も久しぶりに夏の花を撮りに行きました。
紅蜀葵、鹿の子百合、カンナ、緋扇などの花々の写真をお楽しみ下さい。








まぼろしのように忽然と消えてしまった2つの町

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夏の夜には怪談がつきものです。そこで今日は怪談のような話をご紹介します。
しかし怪談のような嘘ではなく、本当に存在していた2つの町の話です。まぼろしのように忽然と消えてしまった2つの町の話です。
なにやら薄気味悪い雰囲気がまつわる2つの町です。

さて一つは北海道の東部の野付半島の突端に存在していた「キラク」と言う町のことです。
北海道の東部根室市の北に、多量のサケの遡上で有名な標津川(シベツガワ)があります。標津町の南に別海町があります。
その別海町に幅が数十メートルから数百メートルしか無い砂洲で出来た野付半島が、湾曲しながら26kmも伸び、野付湾を囲んでいます。砂洲の上には舗装道路が延々と続き、野付灯台まで車で入れます。

1番目の写真は野付半島の航空写真です。キラクという町はこの写真の左端に写っている野付半島の突端にありました。
当時は陸路ではなく船で出入りしていたので突端の方が便利だったのです。しかし現在は陸路を車で行けます。

2番目の写真は陸路の途中にあるナラワラの風景写真です。潮のために立ち枯れしたナラの木が並んでいます。写真は2012年に私が撮りました。

3番目の写真は野付半島の中間点付近にある立ち枯れたトド松は立っているトドワラの風景です。2012年に家内が撮りました。
一般の観光客は行けるのは此処まです。キラクはこの先のはるか半島の突端にあったのです。
この町は長い間、伝説としか記憶されていなかったので、「幻の街キララ」と呼ばれていました。
「歓楽街があった」「夜じゅう、灯りが消えることがなかった」「遊女がいた」などと謎に包まれた、ロマンある話として伝わっていたのです。
それが最近の発掘調査で江戸時代に厳然と存在していたことが証明されたのです。
江戸時代の古文書には「キラク」という記述はありませんが、寛政11年(1799年)に江戸幕府が国後島への交通の要所として野付通行屋を設置したという史実が明らかになっています。
対岸にはニシン漁のための番屋が60軒ほど立ち並んでおり、通行屋では、畑を作り、様々な野菜を育てようとした記録も残っていたのです。
野付通行屋跡遺跡は発掘調査が行われ、沢山の江戸時代の生活用具が出土したのです。また墓石も出て来ました。
それらの江戸時代の生活用具は別海町郷土資料館で展示公開されています。
そして毎年4月中旬に、別海町郷土資料館と野付半島ネイチャークラブの共催で、この通行屋遺跡を訪ねる観察会が開催されているのです。
潮が引いているときは、砂の上に当時使われていた陶器の破片が無数に散らばっているそうです。
キララについて、詳しい情報は別海町郷土資料館(TEL 0153- 75-0802)へ問い合せると教えてくれるそうです。

まぼろしの町、キララは人々の想像をかきたてるのでしょう。「まぼろしのキラク」という歌のCDが新沼謙治さんが発売しています。
この歌は「第48回日本作詩大賞」(2015年11月)にノミネートされ、有名になりました。お聞きになりたい方は次のYouTubeをどうぞお聞き下さい。
◆まぼろしのキラク、https://www.youtube.com/watch?v=tyb0yZI6tD8
作詞 幸斉たけし/作曲 新沼謙治
歌唱 新沼謙治/レコード会社 日本コロムビア(株)(2015年2月発売)
以上のキララに関する説明はの出典は、http://betsukai-kanko.jp/taikenkanko/bunka/kiraku-2/ です。

さて話は変わって、広島県の福山に江戸時代初期まであった草戸千軒町の話にうつります。この町も完全に消えてしまったのですが、最近の発掘調査で存在が証明されたのです。
草戸千軒町は、山陽新幹線の広島県、福山駅の近辺にあったのです。鎌倉時代から室町時代にかけておよそ300年間存在した町でした。
瀬戸内海の芦田川河口の港町として栄えていました。それが消えてしまっていたのです。
しかし最近の遺跡の発掘調査から、時期によって町の規模は変遷しているが草戸千軒町は物流の交流拠点として繁栄しており、数多くの商工業者がいたと証明されたのです。そうして遠くは朝鮮半島や中国大陸とも交易していたとみられています。
近くには現在も存在する草戸稲荷神社と明王院があり、その門前町としても繁栄していたものとも考えられます。

ところが江戸時代初期の備後福山藩 水野家による芦田川の流路改修がキッカケになり、洪水で草戸千軒町が消え去ったと考えられているのです。
昭和時代後期(20世紀末)まで草戸千軒町の遺跡は芦田川と旧鷹取川が分かれる中州付近に存在していました。
遺跡からの出土遺物は広島県立歴史博物館で保存・展示されていて国の重要文化財に指定されています。
この博物館には往時の草戸千軒町の町並が実物大のジオラマで一部再現されている。

4番目の写真は草戸千軒町の再現された展示です。

5番目の写真も草戸千軒町の再現された展示です。当時、草戸千軒町は直接に瀬戸内海に面した港町だったのです。
また、遺跡からは多くの栽培植物も出土している他、4千点にものぼる大量の「中世木簡」(室町期)が出土しており、1982年には正式報告書『草戸千軒 木簡一』として紹介されているそうです。
「草戸千軒」の名は、江戸時代の中頃(元文から安永年間)に備後福山藩士・宮原直倁によって書かれた地誌『備陽六郡志』の中に、「草戸千軒という町があったが、寛文13年(1673年)の洪水で滅びた」という伝承が記載されていたことから付けられたもので、町についての様子は書かれていなかったため、想像上の幻の町といわれていたのです。
昭和時代に入った1930年前後の河川工事によって遺物が出土しようやく存在が確認され、戦後になって1961年から約30年間にわたり断続的に行われた大規模な発掘調査で全容が判明し、草戸千軒町の存在が証明されたのです。。
以上の草戸千軒町に関する説明の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/草戸千軒町、です。

以上、今日は、まぼろしのように忽然と消えてしまった2つの町をご紹介しました。北海道のキラクと広島県の草戸千軒町です。
考えてみると、このように消えてしまった村や町は全国に沢山あるに違いありません。
人の世の儚さ虚しさがしみじみと感じます。
皆様のお住まいの近辺にもこのように消えてしまった村や町がありますでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

山梨県、上野原市までドライブして夏の花の写真を撮って来ました

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今日も朝からギラギラと太陽が照り付けています。暑さに負けてなるものかと長躯、山梨県の上野原市にある相模湖の上流の端までドライブして来ました。山里には夏の花々が咲いていました。遠方の山でカッコーが鳴いていました。昔は東京の郊外にある私の家の近所でも鳴いていたものです。
カッコーの声は懐かしいものです。幼少の頃を思い出します。
夏の花々の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









国宝の五つの城は日本が世界に誇れる独特な建築遺産

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日本の城は世界に例が無い優美な姿をしています。幾重にも堀に囲まれ、高い石垣の上に美しい天守閣が聳えているのです。
皆様、ご存知のように現在日本には数多くの天守閣を持ったお城があります。その多くは近年再建されたお城で、江戸時代以前のものは数が少ないのです。
従って国宝に指定されているお城はたった5つしかありません。
その5城とは、現存する松本城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城です。
それでは早速写真を示します。

1番目の写真は国宝、姫路城(兵庫県姫路市)です。
日本一の名城とも言われる姫路城です。その美しさと偉大さを今に伝えることができたのは、400年の歴史の中で一度も戦にあうことも、戦災に脅かされることもなかったからです。建築当初の状態で残された部分も多く、貴重な文化遺産となっています。
(国宝5城の説明文は、https://allabout.co.jp/matome/cl000000016988/ から抜粋しました)
建造年、1346年で築城者:赤松貞範 別名:白鷺城
主な城主:池田輝政、小寺氏、黒田氏、本多氏、酒井忠邦
日本国内最大の現存天守、ユネスコの世界遺産

2番目の写真は、国宝、松本城(長野県松本市)です。
大きなお濠に囲まれた美しい天守閣は、日本国内では数少なくなった江戸時代以前のものです。松本藩の城として江戸時代には城下町が形成され、多くの人が行き来することで町は賑わいました。広い堀も魅力です。屋根瓦以外の部分が白く見えるのですが、松本城は全体に黒っぽく見えるため、他の城とは異なる印象を受けます。その外観から「烏城(からすじょう)」という別名も持ちます。
建造年、1504年、築城者:石川数正、石川康長  
主な城主:木曾義昌、上杉景勝、石川数正、小笠原秀政、松平康長

3番目の写真は、国宝、犬山城(愛知県犬山市)です。
現存する日本最古の様式の天守閣です。建造当時の姿を残しており、戦火や自然災害などいくつもの困難を乗り越えてきた風格が感じられます。小さな四階建ての山城には室町時代望楼型様式の特徴が随所に見られます。以前は個人が所有していました。
建造年、1537年、築城者:織田広近 別名:白帝城
主な城主:織田信康、池田恒興、織田勝長、三好吉房

4番目の写真は、国宝、彦根城(滋賀県彦根市綱)です。
天守をはじめ、重要文化財の各櫓、下屋敷の庭園である玄宮園、内堀・中堀などが当時の姿を留めています。全国的に見てもきわめて保存状態のよい城跡です。様々な破風があり細部まで美しく味わいあるお城です。
建造年、1622年、築城者:井伊直継 別名:金亀城、主な城主:井伊氏

5番目の写真は、国宝、松江城(島根県松江市)です。
島根県の県庁がある松江は、宍道湖と中海にはさまれ、川が縦横に走る水の都です。水の都を見守るように立つ松江城は400年の歴史をくぐり抜けてきた天守閣がある美しい城です。五層の天守閣の高さは30メートル。最上階の6階は望楼となっていて、松江市内を360度見渡すことができます。
建造年、1611年、築城者:堀尾忠氏 別名:千鳥城
主な城主:堀尾氏、京極氏、松平氏

さて国宝に指定されているこれら5つのお城は江戸時代以前の室町時代に建造されたものです。
しかし国宝ではないが重要文化財に指定されているものに次の7つの城があります。
重要文化財7城
・弘前城/青森県弘前市   築城者:津軽為信、津軽信枚
・丸岡城/福井県坂井市   築城者:柴田勝豊
・備中松山城/岡山県高梁市 築城者:秋葉重信
・丸亀城/香川県丸亀市   築城者:(奈良元安)生駒親正
・松山城/愛媛県松山市   築城者:秋葉重信
・宇和島城/愛媛県宇和島市 築城者:橘遠保(藤堂高虎が改修)
・高知城/高知県高知市   築城者:山内一豊
国宝と重要文化財の違いは、重要文化財のうち「世界的に見ても価値の高いもので、国民の宝である」と国(文部科学大臣)が認定したものを【国宝】としています。

ここでいきなり私的な話になります。私共は国宝の5つの城は皆行きました。重要文化財7城のうち、弘前城、備中松山城、宇和島城にも行きました。
しかし何度も行った会津の若松城(鶴ヶ城)も諏訪湖の畔の高島城も行田の忍城も小田原城も国宝でも重要文化財でもないのです。
何故か不満です。釈然としません。
そこで若松城(鶴ヶ城)の写真を追加させて下さい。

6番目の写真は、若松城(鶴ヶ城)です。
築城年、1384年、主な改修者は、蒲生氏郷、加藤明成
主な城主は黒川城、蘆名氏、伊達政宗
黒川城に入ったのは蒲生氏郷で、1592年(文禄元年)より大大名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を整備しました。
蒲生氏郷は、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行ったのです。
蒲生氏郷は茶人だったので本丸に茶室を作ったのです。何年か前にその茶室で家内と一緒に抹茶を喫したことが良い思い出になりました。
さて次の写真は行ったことは無いが城の写真集を見て憧れていた丸亀城の写真です。

7番目の写真は四国の丸亀城です。
香川県中西部に位置し、讃岐うどんで有名な丸亀市にある「丸亀城」も立派な現存12天守のうちの一つです。
「石の城」とも称される風格たっぷりのその姿は全国の城めぐりでも人気のスポットです。
“日本一高い石垣”の上にそびえる、“日本一小さな天守”としても有名ですが、約60mもの高さを誇る石垣の上に立つ天守は、小さいながら凛とした風格に満ちています。
また、江戸時代には天守以外に数多くの櫓や門などがあり、亀山下の北西部には藩主が住んだ御殿があったと言われているので、大きなお城であったことがわかります。
築城年は室町時代初期(14世紀頃)
主な改修者、生駒親正、山崎家治
主な城主、生駒氏、山崎氏、京極氏
尚、天守・大手一の門・大手二の門は国の重要文化財です。

それにしても日本の城は世界に例が無い優美な姿をしています。私は国宝の5城もその他の数多くの城も誇りに思っています。
以前にご紹介した国宝の仏像や五重塔も含めて日本には世界に誇れる文化遺産が沢山あるのです。
何とも心豊かになり、幸せな気分になります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

潜伏キリシタン250年は日本が世界に誇れる精神文化

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私は日本を愛しています。日本民族の文化を愛しています。
従って最近、以下のような記事を掲載しました。
 「国宝の仏像は日本が世界に誇れる宗教芸術」(2018年07月09日掲載)
   「国宝の五重塔は日本が世界に誇れる独特な建築遺産」(2018年07月12日掲載)
    「国宝の五つの城は日本が世界に誇れる独特な建築遺産」(2018年07月13日掲載)
これらの素晴らしい目に見える文化を私は世界に自慢したいのです。
そして日本民族には目には見えない素晴らしい精神文化もあるのです。
それは日本人の誠実さや勇気を証明する素晴らしい文化なのです。
具体的な一つの例は、250年の長期にわたって潜伏キリシタンがカトリックの信仰を守った歴史です。江戸幕府の厳しい取り調べや踏み絵にも屈しないで秘かに子々孫々信仰を守ったのです。
そして1865年、大浦天主堂の献堂式から一ヶ月後、歴史的な瞬間が訪れます。杉本ユリをはじめとする浦上の潜伏キリシタン15人が天主堂にやってきたのです。彼らは堂内で祈りを捧げていたプチジャン神父に近づき、こう囁きました「ワタシノムネ、アナタトオナジ」・・・つまりキリスト教を信仰しているということの告白です。厳しい禁教令と宣教師がいないという状況が250年間も続いたにもかかわらず、信仰が受け継がれているということが、このとき初めて外国人に対して明らかになったのです。プチジャン神父は非常に驚き、また大いに喜び、彼らをマリア像の前まで導きました。この「信徒発見のマリア像」は現在も大浦天主堂に安置されています。
このニュースは欧米のキリスト教の国々に即座に伝わり、有名になりました。
まさに奇跡です。日本人の信仰の誠実さや勇気を証明する素晴らしい歴史でした。

そして近年にもローマ法王のフランシスコ教皇はサンピエトロ広場に集まった群衆へつぎのように語ったそうです。
2014年1月15日・・・「日本のキリスト教徒は17世紀初めに厳しい迫害を受けた。司祭は追放されていなかったが、キリスト教徒は潜伏しながら信仰を守り、祈り、子どもが生まれると父母が洗礼した。洗礼のおかげで生き延びた。この出来事から私たちは多くのことを学ぶことができる。」・・・
聖職者不在のなかで約250年間、長崎の潜伏キリシタンたちが自分たちで洗礼を授け、信仰を守り続けてきたことをローマ教皇はたたえたのです。
教皇が讃えた長崎の潜伏キリシタンが大浦天主堂に訪れ、プチジャン神父と出会った「信徒発見」からおよそ150年、今あらためてこの宗教史上の奇跡が見直され、ローマ法王に注目されているのです。

そんな背景があったので、今年、国連のユネスコは「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を世界文化遺産として認定したのです。
この認定を祝しフランシスコ教皇は次のよう談話を発表しました。
・・・「聖霊が宣教師の説教を通じて灯した火は、カトリック共同体の祈りの生活に息づいていたのです。隠れて生き延びた平信徒の中に息づいてきたのです」・・・

さてそれでは「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」とはどのような内容なのでしょうか?
「https://ja.wikipedia.org/wiki/長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 」から抜粋して示します。
構成12資産の一覧:
長崎市
1、大浦天主堂:国宝
2、外海の出津集落:重要文化財出津教会堂と旧出津救助院を含む、重要文化的景観「長崎市外海の石積集落景観」
3、外海の大野集落:重要文化財大野教会堂を含む

1番目の写真は外海の出津集落です。

2番目の写真は出津教会堂です。

南島原市
4、原城跡:国指定史跡

3番目の写真は原城跡(国指定史跡)です。

佐世保市
5、黒島の集落:重要文化財黒島天主堂を含む、重文景「佐世保市黒島の文化的景観」

4番目の写真は黒島天主堂です。

平戸市
6、平戸島の聖地と集落=安満岳と春日集落、重文景「平戸島の文化的景観」

5番目の写真は春日集落です。
7、平戸島の聖地と集落=中江ノ島、重文景「平戸島の文化的景観」

北松浦郡小値賀町
8、野崎島の集落跡:野首集落跡・舟森集落跡および両集落を結ぶ信仰の道、旧野首教会堂を含む、重文景「小値賀諸島の文化的景観」

6番目の写真は野首集落跡と旧野首教会堂です。

南松浦郡新上五島町
9、頭ヶ島の集落:重要文化財頭ヶ島天主堂を含む、重文景「新上五島町崎浦の五島石集落景観」

五島市
10、久賀島の集落:重要文化財旧五輪教会堂を含む、重文景「五島市久賀島の文化的景観」
11、奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺):重要文化財江上天主堂

熊本県
天草市
12、天草の﨑津集落、重文景「天草市﨑津・今富の文化的景観」

7番目の写真は天草の﨑津集落です。

以上のような今回の「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界文化遺産としての認定は世界中に信仰の自由の重要性を訴えたのです。日本人の信仰の強さを証明したのです。まだ世界には特定の宗教を弾圧し、信仰の自由が無い国もあります。共産党独裁の国々もあります。信仰の完全な自由が無い国なのです。
そんな国々に住む人々へ勇気を与えたのです。これこそ日本人が自慢して良い歴史ではないでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

よい神父は透明になる、その向こうに神が見える

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カトリックの教会のミサでは時々いろいろな修道会の神父をお招きして司式して貰います。常駐の主任司祭だけでなく修道会の神父に話が聞けるのです。
今日はイエズス会の竹内修一神父が来てくださいました。竹内神父の説教はいつも知的で、しかも分かり易いのです。
昔、広島のイエズス会の修道院にいた頃、あるイタリア人の神父に指導を受けていたそうです。松江や米子などに教会を作った神父だったそうです。
そのイタリア人の神父は年老いるに従って、美しく透明になって行ったそうです。そしてその神父の向こうにイエス様がはっきり見えたそうです。神も見えました。そして100歳で日本の土になりました。
竹内神父も自我を無くし透明になりたいそうです。
私はかねがね、良い神父は信者をイエス様に会わせてくれると思っていました。信者にイエスや神の愛を実感させてくれる神父が良い神父なのです。
その為には神父は我欲を徹底的に捨て去り、透明な水のようにならなければならないのです。信者はその美しい透明性の向こうにイエス様を見るのです。神を見るのです。するとイエス様の愛が実感できるのです。神の愛が実感出来るのです。
そんな説教を聞いて帰って来ました。
さて日本人はお寺の住職さんに会う機会が多いと思います。お葬式に行けば僧侶がお経を唱えます。
私は僧侶の姿を見ると、その向こうにお釈迦さまが見えるか一生懸命探します。残念ながら見えないことの方が多いのです。
淋しいです。
そんなことを考えながら猛暑の日曜日を過ごしています。
皆様、熱中症にならないようになさって下さい。
写真は今日のカトリック小金井教会のミサの風景です。








夏の季節の花10種の写真、花名の由来、花言葉

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毎日、暑い日が続きます。
野山や花園にはいろいろな季節の花々が咲いています。
しかし陽射しが強すぎて花々を見に行くのも大変です。
そこで今日は家の中に座って夏の花の写真を見られるようにしました。
私が何度も写真に撮った馴染み深い花を10種選びました。ついでに花の名前の由来と花言葉をお送りします。
花言葉で自分の気持ちを相手に送ることはロマンチックですが、お互いに意味を知らないと役に立ちません。
しかし花言葉を一つ一つ見て行くと、それを始めて見た人間の感じ方が偲ばれて面白いものです。
一方、花の名前の由来は花の形や色に由来するものと学名に由来するものがあります。花の咲き方や他のことが由来になっているものもあります。丁寧に見て行くとその花と人間のかかわりが分かり、興味が尽きません。
お時間のある方はゆっくりお楽しみ下さい。
写真と花名の由来や花言葉の出典は、http://hananokotoba.com/natsu/ です。

1番の写真はアガパンパスです。
花名の由来、
属名の学名「Agapanthus(アガパンサス)」は、ギリシア語の「agape(愛)」と「anthos(花)」が語源となり、「愛の花」という意味があります。
別名は紫君子蘭(ムラサキクンシラン)、英語ではアフリカンリリー(African lily)とも呼ばれます。
花言葉の由来、
花言葉も「愛の花」という意味をもつアガパンサスの名前にちなんだものとなり、「恋の訪れ」「ラブレター」の花言葉がつけられました。「知的な装い」の花言葉は、淡青紫色の涼しげで繊細な花姿に由来するといわれます。

2番の写真はアサガオです。
花名の由来、
花名のアサガオ(朝顔)は、朝に花を咲かせ、昼にしぼんでしまう様子を「朝の美人の顔」に例えた「朝の容花(あさのかおばな)」の意味であるといわれています。
花言葉の由来、
花言葉の「はかない恋」は、朝咲いて午後にはしぼんでしまう短い命の花であることに由来します。また、「固い絆」の花言葉は支柱にしっかりとツルを絡ませることにちなみます。

3番の写真はアリウムです。
花名の由来、
属名の学名「Allium(アリウム)」は、「におい」という意味の言葉が語源となり、この属の植物の多くが強いにおいを放つことにちなむといわれます。ラテン語で「allium」はニンニクを意味します。
花言葉の由来、
花言葉の「深い悲しみ」は、アリウムの花姿が悲しみたたずむ人間を連想させることに由来するともいわれます。

4番の写真はオジギソウです。花名・花言葉の由来
花名の由来、
オジギソウ属の学名「Mimosa(ミモザ)」は、ギリシア語の「mimos(身振り、まね)」が語源で、この植物がおじぎのまねをすることに由来します。
このようにミモザは本来オジギソウ属を指す植物名ですが、フサアカシア(アカシア属)の葉がオジギソウのものに似ていることから、誤ってフサアカシアをミモザと呼ぶようになりました。
英語では「敏感な草(Sensitive plant)」、漢名では「含羞草(恥ずかしがる草)」と呼ばれます。
花言葉の由来、
花言葉の「繊細な感情」「感受性」「敏感」は、オジギソウの葉に軽く触れるだけで、葉が閉じ垂れ下がってしまうことにちなみます。

5番の写真はカラスウリです。
花名の由来、
属名の学名「Trichosanthes(トリコサンセス)」は、ギリシア語の「thrix(毛)」と「anthos(花)」が語源となり、花びらの縁部が細裂して糸状になることに由来します。
和名の烏瓜(カラスウリ)は、熟した赤い実をカラスが好んで食べることにちなむともいわれます。しかし、特にカラスの好物という観察例はほとんどないようです。
英語では「Japanese snake gourd(日本のヘビウリ)」とも呼ばれます。
花言葉の由来、
花言葉の「よき便り」は、実のなかの黒褐色のタネの形状が結び文に似ていることに由来するといわれます。特異なタネの形状はカマキリの頭部や打ち出の小槌にたとえられることもあります。
「男ぎらい」の花言葉は、この花が日没後にレースのような純白の花を咲かせ、日の出前にはしぼんでしまうことにちなむといわれます。

6番の写真はキョウチクトウです。
花名の由来、
花名の夾竹桃(キョウチクトウ)は、葉がタケに、花がモモに似ていることにちなみます。
属名の学名「Nerium(ネリウム)」は、ギリシア語の「neros(湿った)」を語源とし、この属の植物が湿地によく育つことに由来します。
花言葉の由来、
花言葉の「注意」「危険」「用心」は、キョウチクトウに強い毒性があることに由来します。

7番の写真はサルスベリです。
花名の由来、
花名のサルスベリ(猿滑)は、樹皮がツルツルしていて、猿でも滑りそうなところに由来します。実際には滑ることなく、簡単に登ってしまいます。
また、百日紅(ヒャクジツコウ)とも呼ばれ、サルスベリが夏の盛りに長い間咲き続けることにちなみます。
花言葉の由来、
花言葉の「雄弁」は、枝先に群がり咲くサルスベリの華やかな咲きかたに由来するといわれます。
また、枝をこすると葉や花が揺れ、盛んに話しているようにみえることから「雄弁」の花言葉がついたともいわれます。

8番の写真はヒマワリです。
花名の由来、
和名の「向日葵(ヒマワリ)」は、花が太陽の方向を追うように動くことに由来します。
英語では「太陽の花(Sunflower)」と呼ばれます。
花言葉の由来、
花言葉の「私はあなただけを見つめる」は、ヒマワリが太陽の方向を追うように動く性質にちなみます。
西洋の花言葉の「偽りの富(false riches)」は、インカ帝国(ペルー)を征服したスペイン人が、太陽の神殿に仕えた巫女のヒマワリを形どった純金の装身具などを奪い取ったことに由来するともいわれます。

9番の写真はスイレンです。
花名の由来、
花名のスイレン(睡蓮)は、この花が夕方に閉じる(睡る)ことに由来するといわれます。
日本全国の池や沼に広く分布するスイレン属のヒツジグサ(未草)の名前は、未(ヒツジ)の刻(午後2時)に花を開くことにちなみますが、実際には朝から夕方まで花を咲かせます。
花言葉の由来、
朝に花を開き、夕方に花を閉じるスイレンは、古代エジプトにおける太陽のシンボルとされ、エジプトの装飾や神話にも多く登場します。花言葉の「信仰」もこれにちなむといわれます。
花言葉において、白い花は「純潔」「清浄」をあらわすことが多く、スイレンの花言葉「清純な心」も野生のスイレンの多くが白い花であることに由来します。

10番の写真はジキタリスです。
花名の由来、
属名の学名「Digitalis(ジギタリス)」は、ラテン語の「digitus(指)」を語源とし、花の形が指サックに似ていることに由来します。
別名の「狐の手袋(キツネノテブクロ)」は、英名のフォックス・グローブ(Foxglove)をそのまま訳したもので、この花が手袋の指のように見えることにちなみます。
花言葉の由来、
花言葉の「不誠実」は、ギリシア神話にてサイコロ遊びが好きだったゼウスの妻ヘラに由来するといわれます。

さて以上では10種類の花だけを選びましたが、本当はもう10種位は示したかったのです。夏の花と言えば皆様ももっと違う花を思い浮かべるかもしれません。全国の場所、場所によって代表的な夏の花も変わることでしょう。
そして幼少の頃の夏にみた懐かしい花の思い出を大切にしている方も多いと思います。そんな私の懐かしい花は野原に咲いていた夏の夜の月見草の花でした。最近は野原も少なくなって野の月見草を見ることは稀になりました。淋しいです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

江戸の朝顔市ものがたり

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東京の下町の夏の風物詩、朝顔市は江戸時代に始まりました。
その歴史を調べてみました。
すると、https://japan-web-magazine.com/japanese/matsuri/asagaoichi/index.html
に次のように書かれていました。
朝顔市の歴史は江戸末期の文化・文政の頃(1804年~1829年)に始まりました。
元々、朝顔は、奈良時代末期~平安時代頃に遣唐使によってその種子が薬として持ち込まれたのです。
以後、長い間、朝顔は薬用植物として育てられていましたが、花の可憐さが愛され、いつしか鑑賞植物として栽培されるようになったのです。
特に江戸時代に入ると品種改良が進み、様々な色と形の朝顔が現れます。八重咲きや花弁が細く切れたりしたものなど、通常の朝顔とは異なる珍しい形をしたものは殊に珍重され、江戸や上方を中心に庶民の間で爆発的なブームとなり、木版の図譜類も多数出版されました。
最盛期には実に1000種類に及ぶ朝顔があったと言われています。

天明期(1781年~1789年)を代表する文人・狂歌師、大田 南畝の狂歌「恐れ入りやの鬼子母神」で知られる入谷鬼子母神(法華宗本門流の寺院・真源寺)とその周辺で、毎年七夕の前後3日間(7月6日、7日、8日)に行われるのが、入谷の朝顔市です。
鬼子母神とその門前に120軒の朝顔業者と100軒の露店が並び、色とりどりの朝顔をやり取りする光景が繰り広げられます。
江戸の風情あふれる情緒的な下町の夏の風物詩として知られています。
現在でも毎年、7月6,7,8日に入谷鬼子母神で開催されていま。

江戸時代の伝統的な色合いの朝顔の写真をお送りします。
写真の出典は、https://ameblo.jp/hari9madam/entry-12284758946.html です。
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