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写真で見る韓国の知られざる秘密

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知られざる韓国の秘密とは日本で報道されない韓国の珍しい光景や習俗のことです。
日本のマスコミは何かというと慰安婦像の立っている風景写真だけを掲載して他の韓国の写真をほとんど掲載しません。
それからテレビでは韓国の昔の宮廷の愛憎劇だけを放映しています。
したがって多くの日本人は韓国に関して大変バランスの悪い歪んだイメージを抱いています。
特に悪いのは高齢者です。仲良くすべき隣国に対して偏見を持っているのですから実に困ったものです。しかし若い日本人は韓国が好きなのです。
前置きは止めて早速写真で説明します。

1番目の写真は2014年8月14日から18日まで韓国を訪問したフランシスコ教皇の写真です。
韓国は人口が5000万人でその2割がプロテスタン信者で、カトリック信者は約1割の544万人です。日本は約3%がキリスト教信者で、0.3%がカトリックの信者です。
こんな大きな相違があるのに日本のマスコミはこの事実を報道しません。

2番目の写真はフランシスコ法王を歓迎するため集まった韓国の大群衆です。
こんな写真は日本の新聞に出なかったので多くの日本人は知りませんでした。

3番目の写真はフランシスコ法王をが中心に立って韓国人の神父さんとミサの司式をしている光景です。
フランシスコ法王はその年に起きた大型客船沈没の遺族に会い慰めました。そのときある遺族が遺品を法王に手渡したそうです。すると彼はそれを随員に渡さないでポケットにしまい大切に持ち帰ったそうです。その人間味溢れる態度に人々が感動したそうです。
そしてソウルでは 124人の殉教者の列福式をしたのです。その時は100万人が集まったそうです。

さて韓国はキリスト教が隆盛ですが仏教や伝統的な民族宗教も大切にされています。
人々は日本と同じように祭が好きです。韓国の祭りの様子は政府の文化体育観光部が公表している「韓国のお祭り2014」に数多く紹介してあります。
その資料から韓国の祭の写真をお送りしましょう。

4番目の写真は菊の花が主役の祭りのカゴパ菊花祭りの写真です。
馬山は韓国で初めて菊の栽培を始め、日本に輸出もしました。2000年から開催されたカゴパ菊花祭りのイベント会場では、フラワーゲートや5千輪の菊で作った菊の丘、菊のキャラクターのある花の塔など美しい菊が満喫できます。 会場は慶尚南道 昌原市 馬山第1埠頭の一帯です。

5番目の写真は漢城百済時代の文化が感じられる祭りの漢城百済文化祭の光景です。
ソウル特別市松坡区一帯は2000年前、約500年間漢城百済として都があった場所です。ソウルの歴史が始まったといえるこの地には、風納土城や夢村土城など遺跡があります。燦爛たる花の漢城百済時代の歴史や文化を感じられるお祭りです。

6番目の写真は旌善アリラン祭の光景です。旌善アリランの哀歓をこめたアラリいかだの再現、旌善アリランや拍子を覚えるアリラン体験などが出来ます。会場は江原道 旌善郡です。

7番目の写真は薬草と韓方薬の祭りである智異山(山清)薬草祭りの光景です。
この祭りでは自宅でハーブのように育てて食べられる薬草の鉢植えや薬草を材料にした韓方料理などを展示しています。観光客にわかりやすく薬草を伝えています。
会場は慶尚南道 山清郡 山清インター入口の祭り広場および東医宝鑑村の一帯だそうです。
この他に ソバの花が主役の祭りもあるから驚きです。それは平昌孝石文化祭りです。
この祭りは白い蕎麦の花が蓬坪一帯を覆う最も美しい時期に開催されます。場所は江原道 平昌郡 蓬坪面の一帯(文化村一帯)だそうです。

このように韓国では日本と同じように何十、何百という数多くの祭があるのです。
韓国人は祭りやイベントを開催して楽しく暮らしているのです。日本人の祭り好きとよく似ています。
日本のマスコミはもっと、もっと広い視野で韓国人の喜びや悲しみを文化ニュースとして報じるべきではないでしょうか。
今日は韓国の日常の一端を示す写真をお送りしました。蛇足ながら私は右翼がかった純粋の日本人です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

黒毛和牛と輸入牛、どちらが美味しいか?

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今日は黒毛和牛と輸入牛、どちらが美味しいか?という話です。お気軽にお読み下さい。
平成28年度の牛肉の推定出回り量は、86万1098トンでした。このうち、国産品は32万2533トンです。一方、輸入品は53万8565トンでした。
この結果、全体に占める国産品のシェアは37.5%で、輸入品のシェアは62.5%となります。(https://lin.alic.go.jp/alic/month/domefore/2017/jun/beef-jp.htm )

 アメリカからの輸入牛肉は、すべてアメリカ国内での流通カットとなっていて、特にわが国向けの特殊なカットはあまり行われていません。しかし、日本向けに特別な濃厚肥育をしたものは、現地の処理工場で日本式にカットされ、直接日本のユーザーに輸出されています。
私たちが食べている牛肉のうち、約60%はオーストラリアやアメリカから輸入されています。残り約40%が国内生産で、そのうち、黒毛和種などの肉専用種が約45%、乳用種に由来するものが約55%を占めていいるそうです。
さて美味しい牛肉と言えば黒毛和牛です。白い脂肪がサシに入っている柔らかで、牛独特の風味があります。欠点は脂肪分が多すぎて、非常に高価なことです。しかし一般的に体に悪いものほど美味しいのです。困ったものです。
面倒な話は止めて、さっそく写真に従って御説明しましょう。

1番目の写真は西洋種の牛の血が混じっていない日本古来の和牛の見島牛です。萩市の沖合の離れ島の見島に生存している天然記念物の古来の和牛です。見島では7戸の「見島牛保存会」の農家が純粋種を守り続けています。食肉用として市場へ出荷されるのは年間12頭から13頭と言います。これこそが現在賞味されている全ての「霜降り肉」の元祖なのです。
この和牛は中国から朝鮮へ伝わり、そして見島へ伝わったそうです。やがて見島から日本全国へ伝わったと説明されています。

2番目の写真は黒毛和牛の肉の写真です。

3番目の写真も黒毛和牛の肉の写真です。尚、純粋な古来の和牛はもう一あり、それは鹿児島県の離れ島に居る口之島牛です。

4番目の写真は昭和4年の見島牛のセリ売りの様子です。
(写真の出典は、http://www.mishimaushi.com/mishimaushi.html です)戦前の見島牛は飼料も貧しくてあまり美味しくなかったようです。
黒毛和牛が現在のように一般的に有名になったのは経済の高度成長の頃の1980年代からです。

5番目の写真はアメリカの肉牛のヘレフォード種の牛です。黒毛和牛にくらべて体が大きいですね。

6番目の写真はアメリカの肉牛のアバディーンアンガス種の牛です。日本のスーパーでアメリカ産の牛肉として沢山並んでいる肉はこのような巨大な牛の肉なのです。

7番目の写真はアメリカの肉牛のブラーマン種の牛です。

さて黒毛和種、褐毛和種及び日本短角種の和牛やアンガス種やヘレフォード種などの外国種の国産牛は、どんな一生を送るのか見ていきましょう。
生まれた子牛は5~7ヶ月間、母牛に育てられますが、後半の2~3ヶ月間は草や配合飼料、すなわちアメリカなどから比較的安価に輸入できるトウモロコシ、こうりゃん、大豆粕などを原料に配合した飼料を与えます。
大きくなった子牛は、5~7ヶ月齢時に離乳し、肥育に仕向けます。
子牛は沖縄などで育てられた後に、松坂や神戸や近江など日本各地に送られ飼育されます。そうして松坂牛や神戸牛や近江牛などとして出荷されるのです。もともとは同じ牛なのです。
 肥育仕向けとなった牛は生後10ヶ月齢・体重290kgですが、約20ヶ月かけて肥育され、約690kgに仕上げられます。この間、配合飼料や大麦、草、稲ワラなどが与えます。

和牛の品種は4種類あります。(http://黒毛和牛.com/basic/type/ )
その4種類とは、黒毛和種、褐毛和種(あかげわしゅ)、無角和種、そして日本短角種のことを指します。
一般的には、和牛と言えば黒毛和種を意味することが殆どです。市場で出回っている和牛のうちの、なんと90%以上が黒毛和種です。
ブランド牛といえば黒毛和種と言っても大きな間違いはありません。
黒毛和種(JAPANESE BLACK)は、日本の至るところで飼育されていて、飼育数では約160万頭です。
肉牛としては最高の遺伝的資質を持ち、筋肉の間に脂肪のサシが入っています。
黒毛和種は美味しさ、柔らかさ、サシの入り具合など、牛肉のおいしさの全てを持っています。さらにキメが細かくまろやかで、その生肉の見た目は霜降りと呼ばれるピンクと白の絶妙に美しい見かけになっています。

このように素晴らしい牛肉なので、黒毛和牛はオーストラリア、カナダ、アメリカやヨーロッパでも飼育されるようになりました。
始めは日本の大商社が日本へ輸入するために和牛の飼育をオーストラリアの牧場へ奨励したのがキッカケで、その後、現地の人々が好んで食べるようになったのです。そして現在はフランスでも好んで食べられています。

最後に三大和牛の松坂牛や神戸牛や近江牛について書き足しておきます。
この三種は明治維新以来何度も体の大きい西洋牛と交配しています。要するに血統が正しくないのです。古来の和牛と西洋牛の雑種なのです。
本当に純粋な現在の和牛は上で紹介した天然記念物の見島牛と口之島牛だけなのです。

それにしても今日は終戦記念日です。贅沢な牛肉の話はまったくそぐわない話題でした。
今日の昼食は当時の食糧難を忘れないように家内がスイトンを作ります。
戦線にある日本兵はこのスイトンさえ食べられないで餓死したのです。


今日もは戦争中に亡くなった人々のご冥福をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

野火止の平林寺の回りをドライブして来ました

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今日は終戦記念日で悲しい気分です。高く碧空が晴れ上がっています。悲しい気分を晴らそうとして、午後から埼玉県の新座市にある平林寺の回りをドライブして来ました。
野火止用水のある平林寺界隈には昔ながらの武蔵野の森があちこちにあります。その緑で心が洗われて帰ってきました。

1番目の写真は平林寺の付近にある武蔵野の森です。農地が広がり、その向こうに森があるのです。

2番目の写真は平林寺の表門です。道の左右には巨大なケヤキが繁っています。

3番目の写真は平林寺の東側にある南北の道路です。道の両側が森になっています。

4番目の写真葉は平林寺の仏堂です。今日はあまりにも暑かったので車を停めて境内には入りませんでした。写真は以前に撮ったものです。

5番目の写真も以前に撮った平林寺の物置の写真です。季節が秋だったので屋根の苔が紅葉しています。
平林寺は埼玉県、新座市の市役所の向かい側にあります。
南北朝の時代の1375年に大田備中守によって同じ埼玉県の岩槻に創建され,1663年に松平伊豆守信綱の遺児、輝綱によって現在地へ移築されたお寺です。
この平林寺は禅の修業で有名なのです。その境内の雑木林が広大で散策に良いお寺です。
正門前の有料駐車場は駐車料500円です。総門左の受付けで入場料300円を払います。山門、仏殿、本堂を色々な角度から見て楽しことが出来ます。
読経の声が何処からともなく流れて来て良いものです。今日はそんなことを思い出しながら車を走らせました。
静かな73回目の終戦記念日が流て行きます。

それにしてもこの残暑は何時まで続くのでしょうか。

何故、ノモンハン事件と太平洋戦争で日本は惨敗したか?

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よくノモンハン事件は太平洋戦争の惨敗のキッカケになったと言われています。
ソ連圏モンゴルと満州の国境を関東軍はハルハ河と主張し、ソ連側はハルハ河の東側20Kmまでと主張し、国境をめぐる戦争になったのです。1939年の夏でした。ソ連軍は数百台の戦車で日本軍を一挙に粉砕し、ハルハ河を渡って、その東側の約20Kmで停止しました。日本軍の死傷者が20000人、ソ連側は25000人と言われています。日本軍の敗戦の責任を取って現地の守備隊の隊長が自殺を強要され死にます。
この惨敗と同じようなことが太平洋戦争でも起きました。太平洋戦争のことは皆様ご存知の通りです。
この惨敗の原因は日本軍が常に敵側の軍事力を全く考えなかったことです。そしてもう一つの原因は補給のための戦略が全く皆無だったからです。戦死した日本兵の60%以上は餓死だったのです。
明治維新以来、日本は日清戦争、日露戦争、満州事変、上海事変、日中戦争と軍備が貧弱な国と戦って勝って来ました。戦争の場所も食糧の現地調達が可能な中国大陸でした。
この経験から特に日本の陸軍の参謀達は敵側の軍備を一切考えず、また補給の戦略も考えなかったのです。
一切考えないで戦争をしたのです。戦争を指導した参謀達はみな優秀な陸軍士官学校の卒業生でした。
そこで私は陸軍士官学校の教育内容に欠陥があったのではないかと考えたのです。

最近、私は陸軍士官学校の第57期生の元中尉、田中和彦さんと第59期生の元少尉、立石 恒さんと親しくなり、その人柄に感動しました。そこで昔の陸軍士官学校の教育内容を詳しくお聞きしました。カリキュラムの一覧表などの資料も頂きました。
そこで判明したことは陸軍士官学校の教育では敵の軍備を研究する教科が全く無かったことです。そして陸軍士官学校の正規の教科には補給戦略が全く欠けていたのです。もっとも日本軍には輜重隊といって弾薬を前線に送る部署もありましが、陸軍士官学校では一切それに関しては教えていなかったのです。
その上、陸軍士官学校と、海軍の士官学校の海軍兵学校とは教育内容が全く違うのですが、陸軍士官学校では海軍との協力に関しては全然教わらなかったそうです。つまり陸軍と海軍の共同作戦や協力は始めから想定外だったのです。

それでは陸軍士官学校の教育をご紹介しましょう。
(1)陸軍士官学校の教育方針
教育方針は1932年(昭和7年)に改正され、『陸軍士官学校教育綱領』の冒頭に次のように書いてあります。
陸軍士官学校教育ノ目的ハ、帝国陸軍ノ将校ト為ルベキ者ヲ養成スルニアリ
抑々将校ハ、軍隊ノ楨榦、軍人精神及軍紀ノ本源ニシテ、マタ一国元気ノ枢軸タリ
故ニ、本校ニ於テハ、特ニ左ノ件ニ留意シテ教育スルヲ要ス
一 尊皇愛国ノ心情ヲ養成スルコト
ニ 軍人タルノ思想ト元気トヲ養成スルコト
三 健全ナル身体ヲ養成スルコト
四 文化ニ資スルノ知識ヲ養成スルコト
以上示ス所ハ、実ニ本校教育ノ要綱ナリ。以下省略。

驚くべきことは一番目に「尊皇愛国ノ心情ヲ養成スルコト」があることです。天皇を現人神として戴く皇国を愛し、守る精神を教育するのが一番重要だと言うのです。
日本軍の保有する戦車や戦闘機や各種の大砲などの性能と使い方の技術教育もしますがそれは「尊皇愛国ノ心情ヲ養成スルコト」のあとまわしに過ぎなかったのです。
そして外国の軍隊の保有する戦車や戦闘機や各種の大砲などの性能については全く教えもせず、考えもしない教育だったのです。外国の高性能の戦車のことを教えると弱気になって戦争をしなくなると考えたのです。
(2)陸士の位置づけ
陸士の学生の位置付けは旧制高校、大学予科、旧制専門学校などに相当しています。
しかしその入試倍率はほぼ20倍もあり、東京帝国大学や京都帝国大学への入学よりも格段に難しかったのです。その事情は海軍の士官学校の海軍兵学校も同様でした。
他の教育機関と異なり、卒業後わずか20歳そこそこで高等官(卒業後は極短期間の見習士官を経て陸軍少尉に任官)になれる陸士は魅力的で、全国の旧制中学校の秀才を集めた超エリート学校でした。卒業式には大元帥たる天皇が親臨し、観兵式場にて整列、行進したのです。それは華やかな光景でした。
(3)陸軍士官学校の教科内容
予科の教育内容:
予科(予士)では旧制高等学校に準ずる「普通学」をメインに受ける。
修身、国語および漢文(国語・漢文・作文)、外国語(英語・フランス語・ドイツ語・ロシア語・中国語から一つを選択)、歴史(日本史・西洋史)、数学(三角法・幾何・幾何および微積分・代数および微積分)、物理、化学、地理および地質、心理および論理、法制および経済、図画。

本科の教育内容:
軍事学をメインとする本科の教育課程は以下となっている。
戦術学、戦史、軍制学、兵器学、射撃学、航空学、築城学、交通学、測図学、馬学、衛生学、教育学(軍隊教育・一般教育)、外国語、校内教練、校外教練、陣中勤務、射撃、剣術・体操・馬術、典令範・服務提要となっている。
これらのほか、現地戦術、測図演習、野営演習、各見学も実施されました。

以上から明らかになったことは、本科の教科内容に戦場への食糧の補給問題の教科が欠落してることです。
その上、敵の捕虜の取り扱いに関する国際規定の教育も皆無です。
外国の戦車や機関銃の性能の教育も全くありません。
これでは日本の陸軍の参謀達が敵側の軍備を一切考えず、また補給の戦略も考えなかったのは当然です。

私は印刷された資料だけでは不十分と思いました。
私は次のような質問を印刷して、陸軍士官学校の第57期生の中尉だった田中和彦さんと第59期生の少尉だった立石 恒さんへお渡ししたのです。そして暫くたってから両方のご自宅を訪問していろいろ教えて頂きました。
(1)教室での講義では仮想敵国の兵器、戦車、戦闘機、爆撃機の性能を教える講義が充分ありましたか?
(2)野外における指揮や兵器の取り扱いの教育は毎週、何日ありましたか?
教室での戦術や兵器に関する講義は毎週、何日ありましたか?
(3)仮想敵国との戦争にあたっての戦場における指揮方法や戦術の講義が充分ありましたか?
中国軍の兵器の数量や性能に関する講義はありましたか?
特にアメリカの航空母艦や艦載機の性能に関する講義はありましたか?
(4)敵の軍隊の配置と日本軍の戦略に関する講義はありましたか?
(5)海外に展開した日本軍の弾薬と食料の補給方法についての講義はありましたか?
(6)敵兵の捕虜の取り扱いに関する講義はありましたか?

確認した結果を書きます。
(1)皆無でした。
(2)日本軍の保有する兵器の取り扱い方や性能は充分教わりました。
(3)中国軍の兵器の数量や性能に関する講義は皆無でした。
(4)図上作戦の練習は充分ありました。
(5)皆無でした。
(6)皆無でした。

以上で皆様は何故、ノモンハン事件と太平洋戦争で日本は惨敗したかお分かりになったと思います。
そもそも陸軍士官学校が敵側の軍事力を考える重要性を教え、補給のための戦略を教えていたら真珠湾攻撃をしなかった筈です。
全ての惨敗の原因には日本の軍人教育が深くかかわっていたのです。恐ろしいのは教育なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


1番目の写真は戦争中の写真です。白馬に乗った昭和天皇の姿です。昭和天皇は大元帥として全軍の最高指揮官でした。それと同時に現人神(あらひとがみ)という神様だったのです。

2番目の写真は937年6月に建設された市ヶ谷台の陸軍士官学校本部です。
現在は防衛省市ヶ谷地区の市ヶ谷記念館として、部分的に保存されています。

3番目の写真は朝霞の振武台の予科の校舎です。現在は記念館として保存されています。

4番目の写真は3番目の写真は1874年の開校当時の陸軍士官学校です。

5番目の写真は敗戦後、荒廃した全国を巡り、打ちひしがれた国民を激励している場面です。敗戦で急に現人神から人間になった昭和天皇を、まだ神として見ている人々の表情をご覧下さい。

仏教とキリスト教の皮相的な違い、お気軽にご覧下さい

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宗教というものはやっかいなものです。ある宗教の一つの宗派に属して、ある程度の修行をしないとその宗派の教えが理解出来ないのです。
従って仏教を信じている人はキリスト教が理解出来ません。その逆も真なのです。
私はカトリックを少し信じています。その立場で仏教とキリスト教の違いを書けば、必然的に皮相的になります。
ですからこれから書くことは、お気軽に読み流してください。
さて仏教とキリスト教を比較すると、次のような違いが気になります。

『仏教は分かり難いがキリスト教は理解しやすいこと」
その原因を日本の大乗仏教について少し説明します。

1番目の写真はお釈迦さまの教えが上座部仏教と大乗仏教に別れ、北方の中国、朝鮮、日本と南方のミャンマー、タイ、ベトナムと伝承された様子を示した図面です。
日本の仏教はお釈迦さまの死後400年位の間にインド人の宗教指導者がいろいろ改革して出来たものです。
ですから当然、日本の仏教はお釈迦さまの教えと変わっています。その相違を示すと次のようになります。

1)釈迦は自分が死んだら墓を作らず、遺骨は野に捨てよと言って入滅しました。
しかし日本の仏教では先祖の墓を大切にし、お寺はお墓の管理で収入を得ています。

(2)釈迦は全ての像を拝んではいけない。仏像など作ってはいけないと教えました。
しかし日本には観音さまや薬師さまや大日如来さまの像が沢山あり、崇拝されています。

(3)釈迦は全ての殺生を禁じました。
しかし現在の日本の仏教徒はこの戒律を破っています。しかし江戸時代までの日本人も四つ足の動物は殺して食べることはあまりありませんでした。

(4)釈迦は妻や家族から離れて出家しました。
しかし日本の僧侶は妻帯し子供を大切にしています。お寺は世襲制で子供がまた住職になるのです。お寺の住職の世襲制は釈迦の教えとは違います。

(5)釈迦は教えの中心の「色即是空、空即是色」と「受想行識亦復如是」を本当に深く理解し信じるためには家族から離れて出家しなければいけないと教えました。
しかし日本では出家しなくても釈迦の教えが理解でき悟りの境地に入れると信じられています。

以上のような違いは私にとっては非常に気になります。

一方、キリスト教の方はイエスの死後80年位たってから教えを忠実に記録しました。それが新約聖書です。
新約聖書は分かり易い日本語に翻訳されていて、誰でも簡単に読めます。意味が簡単、明快に理解出来るのです。それはイエスさまのオリジナルな言葉そのままなのです。
私は教祖の教えそのままの書物を信じたいのです。
私がキリスト教を信じようとしている理由の一つは教祖のイエス様の言葉が明快に聞けるからです。

さて仏教とキリスト教の違いは他にもいろいろありますが、今日は上に書いた一つだけにしています。
そしてよく質問される幾つかの疑問について説明します。
(A)マリア信仰について、
「マリア信仰」というものが独立して行われているわけではありません。
マリア信仰はおもに女性の信者や女性の修道院のシスターたちが大切にしています。
カトリックは神とイエスと聖霊の三位一体だけを信じています。
聖母マリアまで信仰の対象のするのは大乗仏教の多神教的な風習で、それもカトリックの伝統なのです。
私は現世ご利益的な祈りはマリア様にします。現世ご利益的な祈りはイエスさまにしません。

(B)キリスト教徒は自分がいつ天国に行けるか考えていますでしょうか?
多くの信者は自分が天国に行く資格を疑っています。自分のこの世での悪を考えると地獄行きではないかと恐れています。ローマ法王でも例外ではありません。しかしカトリックには、天国と地獄の中間に煉獄というものがあります。
多くの人はそこに落とされ、悔い改めると天国へ行ける可能性が出てくるのです。私はせめて煉獄に行きたいと思って祈っています。

(C)天地創造説と現代の科学の関係について
旧約聖書の始めの方にある天地創造の物語は壮大で美しい詩のようです。私はその物語を信じています。
ついでに言えば新約聖書に書かれている全ての奇跡を私は信じています。
それらは現在の科学とは完全に矛盾しています。しかしその矛盾は全く気にならないのです。
アメリカのある狂信的な信者が、学校でダーウインの進化論を教えることを禁止しているそうですが、それは全く間違ったことです。

(D)カトリック教徒にとっての聖書の重要性について
勿論、聖書は重要です。
しかし聖書の一言半句まで教条主義的に狂信することは致しません。それはイエスを殺したパリサイ派と同じ考え方です。
カトリックではローマ法王が毎週、朗読する聖書の個所を全世界共通にして指定します。現在の民主主義や人権の尊重という考え方にふさわしい聖書の個所を選んで指定して来るのです。それを信じ異議を唱えない人をカトリック信者と言うのです。

以上はあくまでも信仰の弱い私の個人的な感想ですから、間違っているかも知れません。
ですからこそ表題に、仏教とキリスト教の皮相的な違いです、お気軽にご覧下さいと書いたのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日の挿し絵代わりの写真は、「KITAHOのデジカメ散歩」、http://kitaho321.blog25.fc2.com/ からお借りした花の写真です。このブログには他にも美しい花々の写真掲載されています。是非ご覧下さい。








宮ケ瀬湖、津久井湖、相模湖の3湖を巡る小さな旅

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神奈川県の西には丹沢山系があります。その山ふところに美しい宮ケ瀬湖があります。
その北東を流れる相模川には津久井湖と相模湖があります。
いずれもダム湖ですが周囲が綺麗に整備してあって湖を囲む県立公園になっています。
昨日は晴天でしたので午後にこの3湖を巡るドライブに行って来ました。
写真は全て家内が撮りました。
1番目の写真から4番目までは宮ケ瀬湖の風景です。
5番目と6番目の写真は津久井湖です。
最後の7番目の写真は相模湖です。
宮ケ瀬湖と相模湖には遊覧船がありますので、秋になって涼しくなりましたら是非、家族連れでお出掛けになってみて下さい。













インターネットは高齢者向けの巨大な図書館

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昔は何か調べものをする時は遠方の図書館まで行ったものです。
しかし高齢者になって足が弱くなると図書館に行けなくなります。しかしインターネットにはあらゆる種類の世界中の情報が掲載されています。専門的な学術書も掲載されています。
私が11年間毎日書いて来たブログの記事も全て掲載されています。
この巨大な図書館を利用するためには賢い検索の方法を身につける必要があります。
そこで今日は私がよく使っている検索方法をご紹介したいと思います。

まず自分のブログの中に掲載してある「懐かしい車の写真」を探す方法です。
一番はじめにGoogleやYahooのページを開きます。
その検索覧に「後藤和弘のブログ、懐かしき車の写真」と書き込みます。そして検索すると、「懐かしきイギリスのスポーツカーの写真をお送りします」2014年09月14日 が出て来ます。検索には「後藤和弘のブログ、@@@@」と必ず「後藤和弘のブログ、@@@@と打ち込めば@@@@の部分は必ずしも正確に書く必要はありません。うろ覚えのそれらしい言葉を並べれば良いのです。

1番目の写真は1960年にオハイオで買った1953年型のダッジ・コルネットの写真です。

2番目の写真は1962年に帰国後、東京で買ったマツダ・クーペ360の写真です。

このように自分が書いた個人的な記事でも全てインターネットに掲載されていて検索すると出て来るのです。これは驚異的なことです。インターネットは世界一巨大な図書館なのです。
インターネットは現在の生活のあらゆる分野で大いに利用されていて現代社会の必需品になっています。
しかし1990年頃より以前はインターネットは殆ど利用されていなかったのです。ですから1990年以前の手紙は手書きが主で、公式の文書は活字印刷が普通でした。
そしてインターネットの普及によって本の出版部数も減少しました。


3番目の写真は国内における本の年間の推定販売数と年間売上高の推移を示す図面です。
左の縦軸の本の販売数を見ると1990年までは増加していますが、それ以後は減少に転じています。これこそインターネットの普及によってもたらされた現象です。
世界の各地にインターネットがどの程度普及しているか調べてみました。
そうしたら世界地図の上に各国の普及率を示した図面がありました。

4番目の写真は各国の普及率を示した図面です。
http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/internet/inet_dif.html が図面の出典です。
この図面によると日本、韓国をはじめ欧米先進国は70%以上の普及率です。
これらの先進国では高齢者が痛む足腰で遠方の図書館まで歩いて行く必要がありません。自宅のパソコンで新しい情報など総てのことの調べが出来るのです。
しかしこの大きな図書館を使うには一つのコツがあります。それはどのような検索の言葉を使用するか自分で考え出さないといけない事です。
検索に用いる言葉が適切でないと欲しい情報が出て来ないのです。ですから私は検索に用いる言葉を試行錯誤で苦心して工夫します。
その上、検索の言葉を英語にすると世界中の情報を調べることが出来るのです。
高齢者にとっては英語は忘れてしまったり、今更、和英辞典の細かな字を見るのも億劫です。
そこで検索の言葉は、まず日本語で検索してみます。すると、その検索の言葉が英語で示してあることが多いのです。その英語をコピーして新たに検索すると世界中の情報が手元に出てきます。その上、Googleや Yahooには日本語を英語、ドイツ語、フランス語などの外国語に翻訳する機能があるのです。

下に幾つかの実例で示します。
まず世界各地の花々の写真を入手したい場合にはどうすれば良いのでしょうか?
これは簡単です。Flowers in world という言葉で検索します。この検索用語をもう少し詳しくして、Pictures of flowewrs in the world として検索すればいきなり花々の写真集が出て来ます。下の2枚の写真は、そのようにして入手した写真です。

5番目の写真は、http://flowersplanets.blogspot.com/2011/09/beautiful-flowers-photos_04.htmlよりお借りしました。

6番目の写真は、 http://afkra.blogspot.jp/2013/05/the-10-most-beautiful-flowers-in-world.html よりです。

ところで話は変わりますが、高齢者は多くの思い出を持っているものです。
例えば私事で恐縮ですが、私共家族は昔、ドイツのシュツットガルトに住んでいたことがあります。その楽しかった思い出のある都市の風景写真を時々見たくなります。
そこで, Landscape of Stuttgart という言葉で検索します。すると懐かしい風景写真が沢山出て来ます。

7番目の写真は一例として、Stuttgart市の郊外に広がるブドウ畑の写真です。
上の写真の出典は、http://www.marriott.com/hotels/photo-tours.mi?marshaCode=zpzde&pageID=HWARI&imageID=4 です。

さてここまでは何とか怪しげな英語の検索用語でうまく行きましたが、当時よく散歩した「七つの水車小屋の谷」の道の風景を見たくなりました。
そこで今度はドイツ語で、Siebenmuhlental と、うろ覚えのドイツ語で検索しました。そうしたら風景写真が数枚出て来ました。

8番目の写真はStuttgart市の郊外にある「七つの水車小屋の谷」の道の風景です。
写真の出典は、http://www.siebenmuehlental.de/# です。
ついでに帰国途中のイギリスのポーツマスで見たネルソン提督が乗って、スペンイン艦隊を破ったヴィクトリー号の写真を下に示します。
これには少し苦労しました。ネルソン提督を英語でどのように書くか分かりません。そこで日本語でネルソン提督を検索して、その英語表示を見つけました。それをコピーしてあらためて検索すると膨大な情報が出て来ました。

9番目の写真はヴィクトリー号の写真です。
この写真の出典は、http://www.bestwestern.co.uk/destinations/portsmouth-hotels/portsmouth-attractions/default.aspx です。

上はほんの少しの実例ですが、インターネットには研究論文をはじめあらゆる種類の学術文献の紹介もあります。
それらを活用するには検索の言葉を自分で考え出して、検索することが肝要なのです。
一つの検索の言葉で希望の情報が出て来なかったら、同じような意味の別の言葉を幾つか用意して検索すると必ず希望する情報が出てくるのです。

この巨大な図書館を高齢者の方々が活用し、老境を幸せに過ごしますようにとお祈りします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

今日は大西洋のロブスターの写真を撮って来ました

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最近は残暑がありますが秋らしい乾いた風が吹き抜けています。毎日、午後は花の写真や農村の写真を撮りに行きます。今日は趣向を変えて大西洋の海ザリガニのロブスターの写真を撮りに行きました。
大西洋のロブスターを店先の水槽に沢山飼っている所に行って昼食を摂りました。

1番目の写真から4番目の写真までは先程撮ってきた生きた大西洋のアメリカ・ロブスターです。

このレッドロブスターというアメリカのチェイン店は全国にありますから、皆さまのお住まいの所にもあると思います。



5番目の写真から7番目の写真は三鷹市にあるレッドロブスター店の内外の写真です。





さてロブスターは漁獲時期が決まっており、何時でも取れるものではありません。
レッドロブスター店で扱っている“ロブスター”は6月(春漁)と12月(冬漁)の1年のうち2回が漁期となっているそうです。ロブスターの生息するカナダ沖の大西洋は厳格なライセンス基準によって資源が守られています。
陸あげ、貯蔵、輸送の間を通うして生きたままにしています。
一方、日本のイセエビはロブスターとは全く別種のもので、房総半島以南から台湾までの西太平洋沿岸と九州、朝鮮半島南部の沿岸域に棲んでいます。
かつてはインド洋や西太平洋に広く分布するとされましたが、研究が進んだ結果、他地域のものは別種であることが判明したそうです。

それにしてもロブスターはザリガニの一種だとは驚きました。そう言えば秋になるとスウェーデンでは体長10cm位の小型のロブスターが沢山取れます。茹でると真っ赤になりますが姿はザリガニと同じでした。美味しいの沢山食べたことを思いだしました。茫々46年前の1972年の秋のストックホルムの思い出でした。(終り)

8月15日はマリア様の被昇天の祝日です

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 8月15日は聖母マリアの被昇天祭の祝日です。日本ではお盆や終戦の日と重なっていますが、これは偶然の一致です。
どうして“被”と付くかというと、マリアはキリストの力によって天へ行けたからです。受けた側、という意味で“被”が用いられています。
 この8月15日が聖母マリアの祝日であることは、歴史的に5世紀のエルサレムでこの日に祝われていた神の母マリアの記念に由来しています。そして6世紀には、8月15日がマリアの死去の日としてギリシャ正教やロシア正教などの東方教会で祝われるようになりました。それが後にカトリック教会へ移入されたのです。
このマリア信仰はもともとギリシャ正教やロシア正教などの東方教会とカトリック教会で古くからあったものです。
つまり8月15日に聖母マリアの昇天を祝う習慣は5,6世紀頃からあったのですが、それを教皇ピオ十二世が1950年11月1日に世界中のカトリック教会の正式な被昇天の祝日として公布したのです。
キリスト教は一神教ですが、聖母マリアは人々に深く愛された信仰の対象だったのです。

今年の8月15日は聖母マリアの被昇天の祝日は水曜日でしたので今日のミサでマリア様への祈りを捧げてきます。

日本のカトリック中央協議会はこの聖母マリアの被昇天の祝日の歴史を次のように説明しています。
(https://www.cbcj.catholic.jp/faq/maria_815/ )
マリアが霊魂も肉体もともに天に上げられたという教義で、1950年11月1日が、教皇ピオ十二世(在位1939~1958)が全世界に向かって、処女聖マリアの被昇天の教義を荘厳に公布しました。
  この教義が制定される以前に、すでに教皇レオ十三世(在位1878~1903)の命令によって、検邪聖省(現在は教理省)の記録庫に多くの請願が特別に集積され、後には神学者たちの希望も追加されました。また、第一バチカン公会議(1869~1870)において、204名の教父が聖母の被昇天を決定するように提案したことや、1921~1937年に「被昇天の定義促進運動」が盛んになったことの背景もあります。

ピオ十二世は次のように宣言します、「われわれの主イエズス・キリストの権威と、使徒聖ペトロと聖パウロの権威、および私の権威により、無原罪の神の母、終生処女であるマリアがその地上の生活を終わった後、肉身と霊魂とともに天の栄光にあげられたことは、神によって啓示された真理であると宣言し、布告し、定義する」(『カトリック教会文書資料集』3903)。これは「おめでとう、恵まれたかた」(ルカ1・28)と神の使いからのあいさつを受け、神がともにおられるという恵みに満ちたものであるが故に、その生涯においてキリストと最も深く結ばれ、死後においてもキリストの復活と栄光にあずかっていることを意味します。つまりマリアは復活の恵みを受け、キリストを通しての神における人間の完成に到達したことを確信をもって宣言しているのです。

 聖書の中で、聖母の被昇天については直接記されていませんが、カトリック教会は何世紀にもわたって伝達されてきた伝承(聖伝)を聖書とともに大切にしてきました。この聖母の被昇天の教義も神から啓示された伝承の一部分であることをかつての司教たちが一致して認め、ピオ十二世が公に教会の教義であることを公布することによって、マリアが神の母であることを特に強調したことが考えられます。
 この8月15日が聖母マリアの祝日であることについて、歴史的に次のように言われています。5世紀のエルサレムでこの日に祝われていた神の母マリアの記念は、6世紀には、マリアの死去の日として東方教会で祝われるようになりました。この死去は、マリアが天に召された(帰天)ことと永遠のいのちのうちに誕生したこととして記念されていたようです。やがて7世紀半ばに西方教会にも受け継がれ、教皇セルジオ一世(在位687~701)は、徹夜祭やハドリアヌス教会からサンタ・マリア・マジョーレ教会までの行列などで盛大に祝っています。マリアの被昇天の名で知られるようになったのは、8世紀末になってからです。こうして1950年のピオ十二世の教義宣言に至るまでマリア信心の深まりと同時に、次第にこの日を特別な日として祝うようになりました。

 聖母の被昇天への信仰は、マリアだけが特別な存在だと言い表すのではありません。キリストによる救いにあずかる人たちの象徴として、信じるすべての人たちの救いへの希望を表現するものです。ミサの集会祈願はこのことを教えます、「全能永遠の神よ、あなたは、御ひとり子の母、汚れのないおとめマリアを、からだも魂も、ともに天の栄光に上げられました。信じる民がいつも天の国を求め、聖母とともに永遠の喜びに入ることができますように」。

今日の挿し絵はラファエロの聖母子の絵画と被昇天の古い宗教画2枚です。
マリア様被昇天の絵画の出典は、http://mementmori-art.com/archives/23171141.html です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真はラファエロの傑作として有名な聖母子の絵です。漆黒の背景から浮かび上がる聖母マリアと幼子イエス・キリストを描いたものです。1505年頃の作です。

2番目の写真はGuillaume Courtois 作、17世紀です。飛翔しているかのようなマリアを描いた絵です。

3番目の写真はグイド・レーニ作、1617年です。
レーニが後年に描いた聖母の被昇天は十二使徒とマリアの二段構造になっています。

カトリックはミサごとにイエス様の肉を頂いて食べる

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ミサは1時間位続きます。静かで崇高な時間が流れます。

聖歌が流れ皆が一緒に祈ります。2000年前にイエス様が教えてくれた言葉どうりの祈りです。言葉が寸分違いません。

ミサの終りのほうで神父さんが一人一人へ小さなパンをくれます。それはイエス様の肉なのです。ですから神父さんは「イエスの体」と小声で言って渡します。信者は「アーメン」と言ってパンを受け取り、すかさず口に入れます。

こうしてカトリックの信者はミサごとにイエス様の肉を頂いて食べるのです。

このミサで一番重要な部分は次の福音書によっているのです。今日の福音書の朗読した個所です。

「わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である。」

そこで、ユダヤ人らが互に論じて言った、「この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか。」

イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。」

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。」

「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。」

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人の内にいる。」

「生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。」

「天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたのに死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう。」


これが今日のミサの骨子でした。司式はイエズス会の竹内神父様でした。主任司祭の加藤神父様は司式の補佐を務めました。
写真は今日のカトリック小金井教会ミサの風景です。








今年は日中平和条約40周年(1)田中角栄、周恩来、鄧小平の時代

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長い間冷え切っていた日中関係が最近確実に回復しつつあります。
今年の2018年には日中平和友好条約締結40周年を迎えます。
中国側からも日中関係の改善の勢いがみられます。

中国の王毅外相も全人代開催中の3月8日に北京で行った記者会見で、日中関係の改善基調を評価し次のように語ったのです。
「日本側が前向きな対中政策を取り、得難い改善の勢いが出ている」
4月15日からは王毅氏が来日し、日中両政府の往来は目に見えて活発になっています。
 安倍晋三首相と習近平国家主席による首脳会談についても今秋に決まりました。
日本の外務省も今年は日中間の幅広い交流の年しようと,地方自治体,企業,民間団体等にも積極的に参加して貰うためいろいろな日中友好事業へ援助金を出すと公表しました。
この外務省の友好事業支援の詳細は、https://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/c_m1/cn/page23_001871.html に出ています。
 
そこで今日から日中平和友好条約締結の後の40年間の歴史を連載記事にして振り返って見ようと思います。
連載の第一回目は、「田中角栄、周恩来、鄧小平の時代」です。
1990年以後、日本と中国の関係は非常に悪い状態が続きました。しかし1972年から1989年までの17年間は文字通り熱烈な友好関係があったのです。
1972年は田中総理と大平外務大臣が訪中し、周恩来首相と交渉を重ね、「日中共同声明」を発表し、ついに国交回復をした年です。

1番目の写真は田中角栄首相が交渉した周恩来総理の写真です。

2番目の写真は田中総理の写真です。

3番目の写真は田中総理と周恩来総理の合意を承認した毛沢東主席の写真です。
毛沢東主席も周恩来総理もこの後の1976年にあいついで亡くなります。
その後の実権を握ったのは鄧小平でした。

4番目の写真は鄧小平とカーター大統領の写真です。1979年に鄧小平が訪米し、ジミー・カーター大統領と会ったときの写真です。

鄧小平は終始一貫、日本と友好政策をつらぬき、40年前の1978年には「日中平和条約」の批准書を交換するために日本を訪問しました。そして昭和天皇を訪問し、新日鉄、君津製鉄所を見学し、新幹線に乗ってトヨタ自動車を見学、その後京都や奈良の観光もしたのです。

5番目の写真は1978年に鄧小平が昭和天皇を表敬訪問した時の写真です。
中国の権力トップの人物が日本を訪問するのは日中の歴史で初めてのことでした。
これに答えて、新日鉄は上海に宝山製鉄所を建設し、トヨタは中国に自動車の生産工場を作りました。
日本政府は多額のODAを提供し、外務省のJICAは多数の技術者や専門家を中国へ派遣したのです。
そして日本の企業は中国の工業特別地区に工場をつくり生産技術を伝えたのです。
この1972年から1989年の間は中国は日本の歴史認識や靖国神社問題で日本側を一切非難しなかったのです。
しかし1989年の天安門事件の後に権力の座に登った江沢民はまったく鄧小平の親日政策を逆転し、激しい日本非難を繰り返すようになったのです。 
南京虐殺を30万人と固定化したのも江沢民です。さらに彼は日中戦争の中国側の死者が3000万人だったと主張したのです。さすがにこれは誰も認めず、国際的には中国側の死者は2000万人だったと言われています。
このように江沢民は劇的に対日政策を転換したのです。
したがって1989年から現在にいたるまで日中関係は冷え切った時代が続いたのです。
尚、1972年から1989年に至る中国の政治の動向に関する参考資料を末尾に付けましたので、ご参照ください。

今日は1972年から1989年までの17年間の熱烈な日中友好関係の時代を簡単にご紹介しました。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料============================
(1)田中角栄総理の訪中と日中共同声明:
出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%A7%92%E6%A0%84 です。

1972年7月7日に内閣総理大臣に就任した田中角栄は、同年9月に自ら中華人民共和国を訪問した。
そして9月29日、日本国外務大臣:大平正芳と中華人民共和国外交部部長:姫鵬飛が「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)に署名。国交正常化が成立した。このとき日本はニクソン訪中宣言の後に対中アクションを起こしたにもかかわらず、アメリカよりも先に中国を承認するという、信じがたいフットワークのよさでことを進めた。政策判断の当否はともかく、アメリカの鼻先でアメリカの外交戦略の先手を取ったというのは日本の戦後政治史において例外的なことである。

(2)鄧小平の権力掌握:
出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A6%E5%B0%8F%E5%B9%B3 です。
1977年7月の第10期3中全会において、国務院常務副総理、党副主席、中央軍事委員会副主席兼人民解放軍総参謀長に正式に復帰。翌8月に開催された第11回党大会において、文化大革命の終了が宣言される。鄧小平は文革で混乱した人民解放軍の整理に着手するとともに、科学技術と教育の再建に取り組み、同年、大学統一入学試験を復活させる。
1978年10月、日中平和友好条約の批准書交換のため、中国首脳として初めて訪日し、昭和天皇や日本政府首脳と会談したほか、千葉県君津市の新日鉄君津製鉄所、東海道新幹線やトヨタ自動車などの先進技術、施設の視察に精力的に行い、京都や奈良にも訪れた。この訪日で鄧小平が目の当たりにした日本の躍進振りは、後の改革開放政策の動機になったとされる。また、新日鉄との提携で、上海に宝山製鉄所を建設することが決定された。
同年11月10日から12月15日にかけて開かれた党中央工作会議と、その直後の12月18日から22日にかけて開催された第11期3中全会において文化大革命が否定されるとともに、「社会主義近代化建設への移行」すなわち改革開放路線が決定され、歴史的な政策転換が図られた。また、1976年の第一次天安門事件の再評価が行われ、周恩来の追悼デモは四人組に反対する「偉大な革命的大衆運動」とされた。鄧小平はこの会議で中心的なリーダーシップを発揮し[3]、事実上中国共産党の実権を掌握したとされる。この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。

(3)鄧小平の訪米:
1979年1月1日に米中国交が正式に樹立されると、鄧小平は同28日から2月5日にかけて訪米。首都ワシントンDCで大統領ジミー・カーターとの会談に臨んだ後、ヒューストン、シアトル、アトランタなどの工業地帯を訪れ、ロケットや航空機、自動車、通信技術産業を視察。前年の日本訪問とこの訪米で立ち遅れた中国という現実を直視した鄧は改革解放の強力な推進を決意、同年7月、党中央は深圳市など4つの経済特別区の設置を決定する。
鄧小平が推進する経済改革は、民主化を求める風潮をも醸成した。この風潮を利用して、鄧小平は華国鋒の追い落としを目論む。華国鋒は「二つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線を掲げていたが、これを批判する論文が、鄧小平の最も信頼する部下である胡耀邦らにより人民日報、解放軍報、新華社通信に掲載されたのを機に、国家的な論争に発展。北京には「民主の壁」とよばれる掲示板が現れ、人民による自由な発言が書き込まれた。その多くは華国鋒体制を批判し、鄧小平を支持するものであった。華国鋒は追いつめられ、前述の1978年12月の党中央工作会議において毛沢東路線を自己批判せざるを得なくなり、党内における指導力を失っていった。最終的に華国鋒は1981年6月の第11期6中全会において党中央委員会主席兼中央軍事委員会主席を解任され、胡耀邦が党主席(1982年9月以降、党中央委員会総書記)に就任し、鄧小平が党中央軍事委員会主席に就任した。前年の1980年には鄧小平の信頼厚い趙紫陽が国務院総理(首相)に就任しており、ここに鄧小平体制が確立した。

(4)鄧小平の弾圧政策への変化:
鄧小平は当初民主化を擁護していたが、1980年にポーランドで独立自主管理労働組合「連帯」が結成されると、自己の政策に反する活動家を投獄するなど一転して反動化した。1986年には、反右派闘争などで冤罪となった人々の名誉回復に取り組む総書記の胡耀邦、国務院総理の趙紫陽(いずれも当時)らに対する談話で「自由化して党の指導が否定されたら建設などできない」「少なくともあと20年は反自由化をやらねばならない」と釘を刺している。翌1987年、政治体制改革をめぐって改革推進派の胡耀邦と対立し、胡を失脚させる。しかし、鄧は政治改革に全く反対だというわけではなかった。第一次国共内戦期から党に在籍し、「革命第一世代」と呼ばれた老幹部たちを、自身も含めて党中央顧問委員会へ移して政策決定の第一線から離すなどの措置をとった。ただし、鄧自身は党内序列1位には決してならなかったものの、党中央軍事委員会主席として軍部を掌握、1987年に党中央委員を退いて表向きは一般党員となっても、2年後の1989年までこの地位を保持し続けた。
後に趙紫陽がゴルバチョフとの会談で明らかにしたところでは、1987年の第13期1中全会で「以後も重要な問題には鄧小平同志の指示を仰ぐ」との秘密決議がなされた。1989年の第二次天安門事件後には一切の役職を退くが、以後もカリスマ的な影響力を持った。

(5)天安門事件の武力弾圧:
生涯に三度の失脚(奇しくもうち二回は学生が起こした暴動が一因)を味わったためか、鄧小平は中国共産党の指導性をゆるがす動きには厳しい態度で臨み、1989年6月には第二次天安門事件で学生運動の武力弾圧に踏み切った。この事件については初め趙紫陽総書記などが学生運動に理解を示したのに対して、軍部を掌握していた鄧小平が陳雲、李先念ら長老や李鵬らの強硬路線を支持し、最終的に中国人民解放軍による武力弾圧を決断したといわれる。
鄧小平は、武力弾圧に反対した趙紫陽の解任を決定。武力弾圧に理解を示し、上海における学生デモの処理を評価された江沢民(当時上海市党委書記)を党総書記へ抜擢し、同年11月には党中央軍事委員会主席の職も江に譲った。

(6)江沢民への権力委譲:
出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%B2%A2%E6%B0%91 です。
1989年4月、胡耀邦(1987年、保守派により党総書記を解任)が死去したことを契機に民主化運動が高まっていった。しかし、最高指導者の鄧小平は民主化運動を「動乱」と規定、共産党の機関紙である『人民日報』は4月26日付社説「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」を発表した。当時の江沢民は、趙紫陽総書記ら民主派と、李鵬国務院総理(首相)ら保守派との中間的存在であったが、江はこの社説にいち早く対応し、胡耀邦追悼の座談会を報じた『世界経済導報』を停刊処分とした。この江の行動が陳雲や李先念といった保守派長老の目に留まり、民主化運動に理解を示していた趙紫陽の後任候補として江を推す声が高まっていった。6月4日、第二次天安門事件が発生。その直後の6月23日から24日にかけて開催された第13期4中全会において、全職務を解任されて失脚した趙紫陽に代わり、江沢民は鄧小平によって党総書記・中央政治局常務委員に抜擢された。

米国 350以上の新聞社、社説で一斉にトランプ氏非難

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トランプ大統領になってからアメリカの社会は揺れ動いています。社会の分断が起きているといいます。トランプ大統領一派のアメリカの利益だけを考える人々と国際社会の協調と平和的話合いを重視する人々に分断してしまったのです。
トランプ大統領は躊躇することなく地球環境の悪化を防ぐパリ協定から脱退しました。貿易のTPP協定から脱退しました。NATO加盟国のドイツ、フランス、ドイツなどへ軍事費の増加を要求しました。アメリカさえ良ければ国際社会が混乱してもよいという考えなのです。メキシコからの不法移民を防止するため高い壁を作ると主張します。移民の人権を無視して、不法移民の家族を引き離し送還しようとしました。
これらの政策は従来の良識的なアメリカの伝統を無残にも打ち砕いてしまったのです。
このトランプ大統領の独裁的な権力行使にアメリカの350以上の新聞社が社説でトランプ大統領を民主主義を踏みにじっていると非難したのです。
トランプ大統領は全米の350社の新聞社を敵に回したのです。
その上、Face Bookなどの大手の社会ネットワークサービス(SNS)などもニセ情報を流していると攻撃したのです。
このようにアメリカの大統領が全米の350以上の新聞社を攻撃し敵対することは歴史上初めてのことです。それは民主主義の根幹である言論の自由への攻撃なのです。
アメリカ社会は揺れ動いています。
これに関する記事を以下に転載します。

「米国350紙以上の新聞社、社説で一斉にトランプ氏非難」
毎日新聞2018年8月16日 23時49分(最終更新 8月17日 09時11分)
https://mainichi.jp/articles/20180817/k00/00m/030/169000c

この運動を企画したのはボストン・グローブ紙です。
全米の350紙以上の新聞社が16日付社説で一斉に、自身に批判的なメディアをフェイクニュースと中傷するトランプ大統領を非難した。
 企画を主導したのは、就任前からトランプ氏を厳しく批判してきた東部マサチューセッツ州の有力紙ボストン・グローブ紙。同紙は、トランプ氏が政権の政策を支持しないメディアを「国民の敵」と呼ぶことは「反米国的」とし、トランプ氏による「多くのウソの一つ」と酷評。全米各地の新聞に、報道の自由を守る戦いに加わるよう呼びかけていた。
 ニューヨーク・タイムズ紙(電子版)は「自由な報道はあなた方(国民)が必要」と題した論説を掲載。「新聞のない政府か、政府のない新聞か、どちらかを選べといわれたら、迷わず後者をとる」と訴えたジェファーソン第3代大統領の発言を紹介し、「ジャーナリストを国民の敵と呼ぶのは危険だ」と論じた。
 トランプ氏は16日、「フェイクニュースを流すメディアは野党だ。偉大な国にとってとても悪いことだ。だが、我々は勝利する」とツイートした。
 調査会社IPSOSが今月3~6日に実施した世論調査によれば、「大統領は主要メディアを閉鎖すべきだ」と考える米国民は全体で13%、共和党支持者では23%に達している。(終り)

さらにトランプ大統領は大手SNSを攻撃したというニュースです。

トランプ大統領、大手SNSを「差別的だ」と非難 「あまりに多くの声が破壊されている」として、CNNやNBCを名指しで批判。持論を展開した。2018年08月19日
(https://www.huffingtonpost.jp/2018/08/19/trump-sm-sns_a_23504877/ )

「トランプ氏、ソーシャルメディアを非難「検閲は危険」」
 トランプ米大統領は18日、自身のツイッターで、フェイスブックなどの大手ソーシャルメディアが、問題があるとみなした。
大手ソーシャルメディアが投稿を規制していることについて、「差別的だ」「検閲だ」などと非難した。
トランプ氏の熱狂的な支持者が「陰謀論」を拡散してサイトを閉鎖されたことに反発したようだ。
 トランプ氏は18日朝、「ソーシャルメディアは、共和党や保守的な声に対して、完全に差別的だ。そんなことはさせない。彼らは『右』の多くの人々の声を閉鎖しているが、他の人には何もしていない」とツイートした。
続けて「検閲は非常に危険だ。フェイク(偽)ニュースを取り除いているのなら、CNNやNBCのようなフェイクメディアは存在しないはずだ。しかし、私はそうしたメディアの病的な振る舞いを削除しろとは頼んだことがない」と報道機関への批判を交えて持論を展開した。
その上で「あまりに多くの声が破壊されている。誰が決めているんだ。私はすでに多くの間違いが起きていると言うことが出来るぞ。誰もが参加して、何が良くて悪いのか、みんなではっきりとさせる必要がある」と訴えた。(朝日新聞デジタル 2018年08月19日 16時00分)

以上で紹介した2つの報道はトランプ大統領と新聞社やソーシャルメディア陣の泥仕合の様相を呈しています。日本人は対岸の火事として遠方を眺めるような姿勢です。
しかしこのアメリカ社会の混乱は日本にも波及する可能性があるのです。
日本の新聞社やテレビ局が、森学園や加計学園の不祥事を非難しても安倍総理は意に介せず政権の座についているのはトランプ大統領の姿勢の影響もあると見えます。
とにかく今後、日本社会でも新聞社やテレビ局の政治分野の信用度は下落する運命にあるのです。それが日本の民主主義を危なくするのです。
対岸の火事と眺めていると、いつの間にか火の粉が降りかかって来るのです。
困った問題です。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日の挿し絵代わりの写真は山に咲くオニユリの花です。「鬼百合の写真」を検索して写真をお借りしました。




今年は日中平和条約40周年(2)天皇の中国訪問、1992年

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平成4年の10月に天皇陛下と皇后陛下は中国を訪問なさいました。
まず写真をご覧下さい。

1番目の写真は10月24日、北京の近くの万里長城での天皇陛下と皇后陛下の写真です。

2番目の写真は万里長城で中国側の歓迎陣に囲まれている天皇陛下と皇后陛下の写真です。

3番目の写真は楊尚昆国家主席と握手する明仁天皇です。

4番目の写真は江沢民総書記と並んだ明仁天皇です。

5番目の写真も当時の江沢民総書記(左端)と並んだ写真です。

さて写真で示した1992年の天皇陛下と皇后陛下の中国訪問は日中間の関係史において重大な訪問でした。
それは1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)まで続いた日中戦争の終焉を意味する一つとも考えられるからです。
この天皇の中国訪問は反日政策を進めた江沢民による強い要請によるものでした。
江沢民は天安門事件の武力弾圧で欧米諸国から孤立した中国の苦境を打開するために日本を取り込もうとしたのです。
ですから1992年の天皇陛下と皇后陛下の中国訪問は1989年の天安門事件の延長だったとも解釈出来ます。
なお江沢民の反日政策については次回の連載記事で少し詳しく示します。

さて1992年の天皇の中国訪問の日程を見てみましょう。
10月23日(金)
東京 御発、北京 御着
歓迎式典(人民大会堂東門外広場)
国家主席とのご会見(人民大会堂河北庁)
国家主席主催歓迎晩餐会(人民大会堂河西大庁)[天皇陛下のおことば]

10月24日(土)
八達嶺長城ご視察
<天皇陛下>
自然科学者とのご歓談(中国科学院)
総書記主催晩餐会(釣魚台国賓館17号芳菲苑)

10月25日(日)
故宮博物院ご視察
大使主催レセプション(日中関係者及び在留邦人)(中国大飯店)
国家主席にお別れのご挨拶(釣魚台国賓館18号楼)

10月26日(月)
西安、大雁塔ご視察
西安在留邦人拝謁
西大門城壁ご視察
陝西省長主催歓迎晩餐会

10月27日(火)
実験室ご視察及び学者・学生とご歓談(上海交通大学)
上海市長主催歓迎晩餐会(新錦江飯店)
上海市内(外灘・南京路)ご視察

10月28日(水)
南浦大橋ご視察
農村ご視察(周浦郷)
在留邦人拝謁(ガーデン・ホテル)
夜に帰国。

以上の日程の中で平成4年10月23日(金)の国家主席主催歓迎晩餐会で天皇陛下は日中戦争の歴史を振り返り、『我が国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります。』と述べられたのです。
以下は天皇陛下のおことばです。日中間の交流の歴史を描いた格調の高い演説なので全文を示します。

楊尚昆国家主席閣下,並びに御列席の皆様
今夕は,私どものために,このような宴を催していただき,また,ただ今は楊尚昆国家主席閣下から,心温まるお言葉をいただき,厚く御礼申し上げます。
貴国と我が国の交流の歴史は古く,特に,7世紀から9世紀にかけて行われた遣隋使,遣唐使の派遣を通じ,我が国の留学生は長年中国に滞在し,熱心に中国の文化を学びました。両国の交流は,そのような古い時代から長い間平和裡に続き,我が国民は,長年にわたり貴国の文化に対し深い敬意と親近感を抱いてきました。私自身も年少の頃より中国についての話を聞き,また,本で読むなどして,自然のうちに貴国の文化に対する関心をもってきました。子供向きに書かれた三国志に興味を持ち,その中に出てくる白帝城についての「朝辞白帝彩雲間(あしたにじすはくていさいうんのかん)」に始まる李白の詩を知ったのも,少年時代のことでありました。
また,今世紀に入ってからは,貴国の有為の青年が数多く我が国を訪れるようになり,人的交流を含む相互の交流は一層活発なものとなりました。私は,このような両国民間の交流の伝統をかけがえのない,貴いものと考えます。
このような深い関係にある貴国を,この度,主席閣下のお招きにより訪れることができましたことは,私どもの深く喜びとするところであります。
しかし,この両国の関係の永きにわたる歴史において,我が国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります。戦争が終わった時,我が国民は,このような戦争を再び繰り返してはならないとの深い反省にたち,平和国家としての道を歩むことを固く決意して,国の再建に取り組みました。爾来,我が国民は,世界の諸国との新たな友好関係を築くことに努力してまいりましたが,貴国との間においては,両国の先人たちを始めとする多くの人々の情熱と努力によって,将来にわたる末長い平和友好を誓い合う関係が生まれ,広範な分野での交流が深まりつつあります。私はこのような両国民間の関係の進展を心から喜ばしく思うとともに,この良き関係がさらに不動のものとなることを望んでやみません。
今日,国際社会は,人類の平和と繁栄の達成という崇高な理想に向けて共同の努力を行っておりますが,この中にあって,日中両国民の友好親善関係の進展は,大きな意義を持つものと信じます。
本年は,日中国交正常化20周年という両国間の関係における大きな節目の年にあたっており,両国民の間で,相互理解と友好親善を目指して様々な行事が行われております。貴国からは,江沢民総書記閣下並びに万里委員長閣下が我が国を御訪問になり,両国間の絆をより太くより強いものとすることに貢献されました。この度の私どもの貴国訪問が,このような絆に結ばれた両国民にとり,お互いに良き隣人として将来に向かって歩む契機となれば誠に喜ばしく思います。
私どもは北京のほか西安と上海を訪れることになっております。西安では,かつて我が国から航海の危険を冒しつつ唐に渡り,長安で中国の文化を学んだ遣唐使や留学生の労苦をしのびつつ,貴国の歴史に触れたいと思います。また,上海では,貴国の新たな発展の息吹に触れることができるでありましょう。私どもは,この度の訪問において,できるだけ多くの若い人々にも接する機会を得たいと考えております。両国の若い世代は必ずやこれまでの伝統的な交流の歴史を継承し,これをさらに豊かな心の交流として発展させていくにちがいありません。
北京の秋の美しさは多くの人によって語られてまいりました。この美しい季節にこの地を訪れる機会を得ましたことを私どもは心よりうれしく思っております。
楊尚昆国家主席閣下,並びに御列席の皆様
ここに日中両国民間の友好親善の発展を念じますとともに,楊尚昆主席閣下の御健勝と貴国の繁栄,そして貴国民の幸せを祈って杯を挙げたいと思います。(乾杯)

日中間の関係は時代によって変化しますが、この天皇陛下のお話のように悠久の歴史の視点から考えるべきと思います。とても良いお話と思いました。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

夏の終わり、公園の風景と花々

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このところ猛暑が戻って来たようです。
しかし公園に行ってみると何となく秋の気配が漂っています。夏の終りが近づいているのです。今日はもう8月の下旬、22日なのです。
小金井公園で撮って来た写真をお送りおたします。









今年は日中平和条約40周年(3)江沢民の反日政策と中国の高度成長

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日本と中国の関係は日中平和条約締結後の40年間にも紆余曲折がありました。
田中総理と周恩来総理との日中平和宣言、続いて鄧小平との日中平和条約締結の1972年から1989年迄の17年間は日中熱烈友好の時代でした。
しかし1989年に江沢民が中国共産党第3代総書記に就任してからは日中関係が暗転し険悪な関係になったのです。
2002年に共産党第4代総書記に就任した胡錦濤と温家宝首相が軌道修正に努力しますが保守派の抵抗が強く日中関係は悪い状態が続きます。そして近習平総書記の時代まで尾を引いているのです。
江沢民は常軌を逸した数々の反日政策をとりますが、一方で中国経済の高度成長を導き、中国のGDPを世界2位まで押し上げる原動力になったのです。江沢民のおかげで中国は世界の大国になったのです。
その故に欧米では江沢民を高く評価しています。

しかし今日は江沢民の幾つかの反日政策を示して見ようと思います。
江沢民は1992年に日本を訪問し、その年の秋に天皇を中国に招待しました。
そして1998年には再び日本を訪問し宮中晩餐会で日本の中国侵略を批判する演説をしたのです。このような経緯を考えると彼の反日政策の根の深さを感じざるを得ません。
さてここで関連の写真を見てみましょう。

1番目の写真は江沢民です。

2番目の写真は1992年に訪日した江沢民を宮沢首相らが歓迎晩餐会をした時の写真です。

3番目の写真は小渕首相へ朱鷺の写真を手渡している江沢民の写真です。

4番目の写真は1998年の宮中晩餐会で日本の侵略を取り上げた演説をしている江沢民の写真です。彼は人民服で出席し日本側の顰蹙を買いました。
それでは江沢民の反日政策を分かり易く個条書きで示してみましょう。
(1)中国国内の学校における反日教育を徹底した。
江沢民政権は1994年に「愛国主義教育実施要綱」を制定し、「抗日戦争勝利50周年」にあたる1995年から、徹底した反日教育を推進していったのです。
(2)日中戦争の死傷者を3500万人と主張した。
1994年9月3日に北京で開催された「首都各界による抗日戦争記念ならびに世界反ファシスト戦争勝利50周年大会」で江は演説し、日中戦争の被害者数をそれまでの軍民死亡2100万(抗日勝利40周年の1985年に中国共産党が発表した数値)から死傷者数を含めた上で3500万と主張しました。
(3)中国への侵略を永遠に非難すべきと言った。
1998年8月には、「日本に対しては、台湾問題をとことん言い続けるとともに、歴史問題を終始強調し、しかも永遠に言い続けなくてはならない」と外国に駐在する特命全権大使など外交当局者を集めた会議で指示を出した。
(4)日本の歴史教育は間違っていると非難した。
1998年11月、江沢民は中国の国家元首として初めて日本を訪れます。この訪日で江は「日本政府による歴史教育が不十分だから、(国民の)不幸な歴史に対する知識が極めて乏しい」と発言したのです。
日本に来て歴史教育を激しく非難した中国の国家主席はそれまでいませんでした。当時の日本の小渕恵三首相に「痛切な反省と心からのお詫び」の記述を日中共同宣言に明記するよう要求し、その執拗さから日本国民の反発を買ったのです。
(5)南京虐殺数を30万人と度々主張し。その数字が中国国内で固定化されたのです。

このような江沢民の対日政策によって中国では反日感情が高まり、同時に日本でも嫌中意識が強まっていったのは当然です。
この対日政策の一方で江沢民はアメリカとの友好関係を築いたのです。その詳細は省略しますが、写真を1枚だけ示します。

5番目の写真は江沢民夫妻とジョージ・W・ブッシュ夫妻の写真です。

さて江沢民は何故日本を蛇蝎のように嫌ったのでしょうか?
いろいろな原因があるでしょうが彼の育った環境も原因になっていると思われます。
江沢民は上海に近い江蘇省揚州市に生まれます。実父の江世俊は、日本軍占領下の江蘇省で日本の特務機関の工作員でした。日本軍のスパイだったのです。しかし一方、叔父の江世侯は中国共産党の幹部で日中戦争で戦死します。そこで江沢民は、公式にはこの江世侯の養子ということにしたのです。
日本軍のスパイの息子では共産党内での出世は不可能ですから中国共産党の幹部の江世侯の養子になりすましたのです。
1943年に楊州中学卒業後、汪兆銘政権下の南京中央大学に入学し、日本語を専攻したのです。
この経歴は共産党内での出世にはまずいので、南京中央大学に在籍していたことについて触れられることは無いといいます。
江沢民は日本軍のスパイの息子だったということは公然の秘密です。出生を重要視する共産党の内部では彼の権力を脅かす大きな弱点だったのです。
その弱点を打ち消すためにも政権の座についた江沢民は厳しい反日政策を取らざるを得なかったのでしょう。
同情の余地はありますが、彼の反日政策は日中両国にあまりにも大きな禍根を残したのです。
このお陰で日本は多くの国際関係の交渉で苦境に立ったと考えられます。
それは日韓関係に悪い影響を及ぼしたのです。

私の嫌いなタイプの中国の政治家です。私が好きな中国の政治家は周恩来と胡耀邦、そして胡耀邦の弟子の胡錦濤と温家宝です。
今日の記述は、https://ja.wikipedia.org/wiki/江沢民 を参考にしました。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

東京で唯一の米軍基地、広大な横田航空基地の物語

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東京でただ一つの広大な米空軍基地の横田基地にオスプレイ、5機が10月1日から正式に配備されることになりました。
オスプレイはヘリコプターのように垂直に離着陸できます。その上、ヘリコプターより速度が非常に早く、航続距離が画期的に長いのです。これは驚異的な技術革新です。
この4月から横浜港から運び込まれた機体が横田に置いてあるという報道も見ました。
好奇心の強い私は昨日、車で横田飛行場の周囲を回って写真を撮りに行きました。何時ものように写真を撮るのは家内です。私は飛行場の金網に密着した細い道を探して車を走らせました。
それでは写真で横田基地の風景や航空機の様子をご説明します。

1番目の写真は横田基地の正門の写真です。看板にU.S. Air Force, Yokota Air Baseと書いてあります。この門の内側はアメリカなのです。一戸建て住宅が並び専用のスーパーなどがあり、おまけに小中学校から高校まであります。

2番目の写真は金網越しに見た滑走路のある方向の風景です。遠方に格納庫らしき建物が見えます。
飛行場の回りをくまなく走りましたがオスプレイの姿が見えません。そこで帰宅後にインターネットで検索して欲しい写真を見つけました。

3番目の写真は横田基地の全景です。背後の山並みは奥多摩の山稜です。
米軍の横田基地は輸送機の専用基地で太平洋の西半分とインド洋までを守備範囲としています。
しかし朝鮮戦争やベトナム戦争の時は戦闘機や爆撃機の基地の役目も果たしたのです。

4番目の写真は2015年9月の横田基地日米友好祭に登場したオスプレイの写真です。この写真はオスプレイの前部から後ろを写した写真ですが、周囲の人間と比べると、その大きさが分かります。なお10月1日から常駐するオスプレイは輸送機に使うので荷物の積載量が多くなるように改装したものだそうです。

5番目の写真は例年、9月に開催される横田基地日米友好祭で公開された米軍の大型輸送機です。
横田基地にはこのような大型輸送機が多数駐機していますが、高い塀に隠されて見えないようになっています。
以前は高い塀ではなく金網でしたので見えたのです。
この4月から運び込まれたオスプレオも高い塀に隠されているらしく、昨日は写真は撮れませんでした。

6番目の写真は離陸したばかりの大型輸送機の写真です。横田基地の中枢部分はセパードを連れた兵士によって厳重に警備されてます。

7番目の写真は2017年11月5日に日本訪問のために横田基地に着いたトランプ大統領夫妻の写真です。
従来のアメリカ大統領は民間の羽田空港に専用機を着陸させ、東京に入ったのです。
トランプ大統領だけ米軍基地を誇示するように横田に降り、すぐに基地の米軍将兵を集め、彼等の士気を上げるような演説をしたのです。
余計なことですが、オバマ大統領は羽田空港から入国し、広島の原爆慰霊式典に出席しました。その後、米軍の岩国基地で将兵を鼓舞する演説をしてから岩国基地から帰ったのです。
これは些細なことですが、トランプ大統領とオバマ大統領の人間性の違いを示しているのではないでしょうか。

それはさておき、横田基地の歴史を簡略に書いて今日の記事の終りとします。
この飛行場は日本帝国陸軍の航空部隊の基地として1940年に開設されました。
第二次世界大戦後より、アメリカ第5空軍司令部が置かれて、東アジアにおけるアメリカ軍の主要基地になります。
西太平洋からインド洋をカバーする輸送機の空港と兵站基地としての機能を持っています。
2012年3月からは、航空自衛隊の航空総隊司令部なども常駐するようになり、建前上は日米両国の空軍基地となっていますが実質的には米軍の輸送機のための飛行場です。
広さだけを比較すると、沖縄県以外では日本国内最大のアメリカ空軍基地です。
日米の軍用機の運用のほか、近年では北大西洋条約機構(NATO)加盟国である、フランス空軍輸送機も時々利用しています。
東京都調べによる、2005年(平成17年)5月時点の基地関係者数は、軍人3,600人、軍属700人、家族4,500人、日本人従業員2,200人の、合計約11,000人という資料もあります。

この横田飛行場は本州の中央に位置し軍事的にも重要なので日本への返還は難しいようです。石原慎太郎が東京都の知事だった時、横田を民間も使う案を提案しましたが、アメリカ側から相手にされませんでした。
しかし近くの入間飛行場は航空自衛隊に返還され現在は戦闘機が常駐し、茨城県の百里基地と共に本州の防衛を担っています。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今年は日中平和条約40周年(4)東日本大震災を支援した胡錦濤と温家宝

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江沢民の常軌を逸した反日政策で荒廃した日中関係を友好関係へと軌道修正に努力したのが胡錦濤・温家宝体制でした。その期間は2002年から2012年迄です。
しかしこの間に尖閣諸島問題が起きましたが、それは軍部の意見を背景にした共産党保守派を抑えきれななかった胡錦濤の人間的弱さだったのです。
今日は胡錦濤・温家宝体制が東日本大震災の被害に対して行った暖かい支援をご紹介いたします。
温家宝首相は「中国政府を代表して日本政府と日本国民に対しお見舞いを申し上げる」という電報を菅直人総理に送るとともに、必要な援助を提供すると表明したのです。
また、胡錦濤国家主席は「犠牲者の方々に深い哀悼の意を表し、一日も早い復興をお祈り致します」との電報を今上天皇に宛てに送ります。
中国地震局は大震災の翌日、3月12日夜、日本の被災者に、人道援助を提供するため国際救援隊15人を13日朝に派遣すると発表し、国営新華社通信は「四川大地震で日本から支援を受けた恩に報いたい」という論評記事を配信します。
中国赤十字会は同日、日本赤十字社に100万元(約1260万円)を緊急援助し、必要に応じた人道援助をすることを決定します。
一般市民の間でも支援の声は高まり、北京の大学生や会社員ら、有志の若者が仲間に義援金を呼び掛け、13日に既に約5000元が集まったそうです。同日午後、中国国際援助隊は生存者の捜索に必要な設備や救急医療物資など4トンの物資を持って羽田空港に到着します。
温家宝は2011年4月11日に訪日し天皇とも会見し友好路線をとることを表明します。
胡錦濤も2008年5月に来日し、個人的にも信頼関係にあった当時の福田康夫首相と「戦略的互恵関係の包括的推進に関する日中共同声明」を発表し友好関係へ舵を切ったのです。天皇をも表敬訪問します。
温家宝は2011年5月に再び訪日し、5月21日、東日本大震災の被災地である福島県を訪れたのです。
その時の写真を示します。

1番目の写真は温家宝首相は放射能の恐怖をものともせずに、福島第一原発事故の避難住民が暮らす避難所を訪れた時の光景です。茶髪のお母さんが嬉しそうに笑っています。

2番目の写真は避難所の床に座って子供と遊んでいる温家宝です。

3番目の写真は放射能の恐怖をものともせずに福島県産のサクランボ、キュウリ、ミニトマトを食べるパフォーマンスを行った時の写真です。農協の人々が喜んでいる光景です。

4番目の写真は中国政府が緊急に派遣した救援隊の写真です。

5番目の写真は2011年8月1日、温家宝の招待で東日本大震災被災地の子供たち100人が海南省海南島に到着した時の写真です。チャーター機が仙台空港から海南省海南島に到着したのです。これは2011年の5月に訪日した温家宝首相の招待によるものでした。

この大震災以後、 中国での報道のトーンも、ガラリと一変します。
5月9日の「中国新聞網」は「震災後、中日関係は改善の軌道に入った」と伝えます。
 日中友好議員連盟の訪中には習近平副主席が出迎え、「中日の国民感情を改善し、敏感な問題を穏当に処理し、中日関係をいっそう発展させたい」と応えているのです。また、中国の雑誌「世界知識」は「尖閣問題はアメリカの妨害が根源だ」と攻撃の矛先をアメリカに転じます。
大震災で日中関係改善の流れが決定的になったのです。
胡錦濤の政策は、前任者のイデオロギー、すなわち、江沢民の反日政策、そして、時代の中心であった毛沢東思想とは異なり、社会的・経済的目標を課すことに反対して徳治主義的に道徳規範を成文化したものへ推移していたのです。

ついでに中国側の支援をもう少し詳しく書いておきます。
中国政府商務部は14日、毛布2000枚、テント900張、手提げ式応急灯200個などといった3000万元(約3億7500万円)相当の援助物資追加支援を決定します。
その初回分は5月14日、上海から空輸され、宮城県登米市に提供されました。
第二陣は28日にミネラルウォーター6万本やゴム手袋325万組がそれぞれ茨城県、日本赤十字社に提供され、第三陣は31日にゴム手袋1万組、仮設トイレ60個、スニーカー2万5000足が提供されたのです。
さらに別枠で、2011年の3月16日、中国政府は日本政府の要請に応じてガソリンと軽油各1万トンを日本政府に対して提供することを決定し、それぞれ4月2日、3日に日本に到着し被災地に送られました。
また中国側は「過去の遺恨による民族主義は天災や人道とは関係ない」とし、四川大地震の際に日本が援助したことを受け「民族の感情を超越した人道主義」と評し「必要なのは学ぶことと助け合うこと」と伝えたのです。
3月19日、東京電力は中国外務省を通じて中国の三一重工業集団有限公司に高さ62メートルから放水できるポンプ車の購入を打診、三一重工が無償での提供を申し出たのです。この巨大なポンプ車は1台約8500万円で、運搬にかかる費用を含めた約1億円を同社が提供し、3月24日に日本到着後、陸路で福島に向かい、31日より福島第一原子力発電所の原子炉冷却作業を開始したのです。
4月1日、中国政府はガソリン1万トン及びディーゼル油1万トンを緊急支援物資として被災地に提供もしました。(https://ja.wikipedia.org/wiki/東日本大震災に対するアジア諸国の対応 )

胡錦濤は人間的な胡耀邦を尊敬していました。その詳細は、「胡耀邦との出会い」(https://ja.wikipedia.org/wiki/胡錦濤 )にありますので省略します。温家宝も胡耀邦の引き上げで出世しました。
彼等は周恩来のような人間味豊かな政治家でした。ですから軍部を背景にした共産党保守派を抑えられず尖閣諸島問題では日本に対して厳しかったと考えられます。中国では鄧小平のように軍部を完全に掌握した人のみが強権を振るえるのです。胡錦濤の軍部掌握は弱かったのです。
2012年に胡錦濤・温家宝体制は習近平へ政権を譲ります。続きは次の連載記事で書きます。
なお蛇足ながら東日本大震災で心のこもった大支援をしてくれた台湾と韓国に関しては以前にこの欄で書いたので今日は触れませんでした。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


東日本大震災後の韓国人の支援を我々は絶対に忘れない!

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ここでご紹介する写真は、東日本大震災が起きた後に韓国で撮られた写真です。
これらの写真は友人の中村 文政 さんから教えて頂いた写真集です。
写真は、http://cadot.jp/impression/1794.html?detail から転載いたしました。
2011年の3月11日の東日本大震災の後で、韓国人は我々を激励するメッセージを韓国の町中に掲示し、多額の義捐金や救援物資を送ってくれたのです。その上多数のボランティアの韓国人が被災地の復興に汗を流してくれたのです。
韓国の人々、本当に有難う御座いました。ご恩は絶対に忘れません!

















北海道の孤高の画家、木田金次郎展、その透明で美しい青色

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展覧会の会場に入ると人々がシーンと静まって、絵を見て立ちつくしています。
何事ならんと絵を見ると何かにガーンと殴られたような感じがします。この感じを受ける絵画展は何度かありますが、その瞬間、「嗚呼、来て良かった」と思うのです。
そして78点の木田金次郎の油彩画を静かに見ました。
暗い、しかし透明で美しい青色を基底にした色彩で北海道の漁港や山を描いた絵画です。
何故か悲しい色彩です。でも悲しみだけではありません。描いている画家の研ぎ澄まされた独創性が絵画に深味を与えています。北海道の淋しさが偲ばれます。岩内という漁港に住みついて貧しさの中で彼の心は絵を描くことだけを考えていたのです。
有島武郎、ただ一人、木田金次郎の絵画を認め、励ましていました。しかし中央の画壇では誰も見向きもしない無名の画家だったのです。そして美しい青色を基底にした色彩の画風は一生変わりませんでした。変節しないのです。
ですからこの展覧会は、あるテーマを持った交響曲を聞いているような感じがします。静かに歩いていくと何度もテーマのメロディが少しづつ形を変えて出て来るのです。
それは北海道の厳しさです。淋しさです。そこに生きる人間の心情です。激しい絵筆の動きが感じられます。
そしてその絵画に隠れている心を想像しました。それは北海道に住んでる人だけが持つ自然の美しさに対する厳しい心情なのです。北海道のローカル文化なのです。
以前に何処かで見た北欧の風景画のようでもありますが、この北海道独特の心情が美しさを一層きわだたせているのかも知れません。
この色彩や絵筆の動きの激しさは写真で表現することは難しそうです。でも写真を示します。

1番目の写真は会場入り口です。受付の人に頼んで入り口だけ撮らせて貰いました。

2番目の写真はこの展覧会で「どうぞ写真を撮って下さい」と書いてあった大きなポスターです。
絵は「秋のモイワ」と題した木田金次郎の1961年の絵です。

3番目の写真は「菜の花畑」です。(油彩、1956(昭和31)年 北海道銀行蔵)

4番目の写真は「東山から見た早春の岩内山」です。(油彩、1960(昭和35)年 木田金次郎美術館蔵)

5番目の写真は「海」油彩画です。(1936(昭和11)年、佐藤正広氏蔵)

結論は心からお薦めの絵画展です。

木田金次郎美術館は北海道の岩内町にあります。詳細は,http://www.kidakinjiro.com/ をご覧下さい。
その他、木田金次郎展の予定を示します。
●東京:府中市美術館 7月21日(土)~ 9月2日(日)
           [ https://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/index.html ]
●札幌:JRタワー・プラニスホール 10月13日(土)~11月4日(日)
●ニセコ:有島記念館 11月23日(金・祝)~12月16日(日)

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料===========================
「木田金次郎展 有島武郎の死、大火乗り越え昇華」
https://www.sankei.com/life/news/180729/lif1807290013-n1.html

 木田金次郎といっても知る人は多くはないかもしれない。小説家と青年画家との交流や創作の苦悩などをつづった有島武郎(たけお)(1878~1923年)の小説『生れ出づる悩み』のモデルとされた画家だ。同書の出版から100年を記念して、東京の府中市美術館で「木田金次郎展」が開催されている。
 展覧会場に「海」という印象的な作品がある。夕焼けの太陽は黄色く輝き、海面にも反射してギラギラとまぶしい。40代前半の作で、創作意欲がみなぎるようだ。
 西洋美術を紹介し、絵画に造詣が深かった有島から才能を見いだされた木田は、ほとんど独学で野性的ともいえる激しい絵を描いた。描いたのは、青年期の一時期を除きほぼ生涯を過ごした北海道西部にある故郷・岩内(いわない)町だ。
 木田は10代半ばで絵を描き始めたが、漁業を営む実家の傾きかけた生活を支えるために漁師に。20代半ばで本格的に油彩画を始め、東京で活動したいという思いを交流のあった有島に手紙で伝えた。しかし有島は、「既に立派な特色を備えた画は余計な感化を受けないで純粋に発達させた方が遥(はる)かに利益だと思います」と、岩内での活動を勧めた。
 大正12年、有島が愛人と心中自殺。木田は画業に専念することを決意し、制作を重ねた。モチーフとなったのは漁村など身近な風景だった。

 昭和29年、木田を不幸が襲う。台風による大火で岩内の市街地の8割が灰燼(かいじん)に帰した。木田の家も全焼し、約1500点の作品を焼失してしまう。61歳のときだった。
 故郷と作品を失ったショックは相当だっただろう。しかし、木田は過酷な現実を直視した。変わり果てた港に足をはこび、破損した漁船を描いた。太陽は緑色で、「海」のようなまぶしさはみじんもない。心の痛みが表出しているようだ。
 その後はいっそう猛烈に制作を開始。31年の「菜の花畑」は、春になり菜の花が咲き誇る大地を明るく活写。生命の息吹と喜びに満ちている。自然を賛美しているかのようだ。バラやボタンも、赤などの鮮やかな色彩で描出した。35年の「夏の岩内港」は、漁船がひしめき合うように停泊するにぎやかな港を題材にした。筆致は素早く激しい。復興を遂げ、活気のある姿を生き生きととらえた。
 「木田にとって、有島の小説のモデルとみられることは喜びでもあり、負担でもあったのではないでしょうか。有島の死や、自身の作品が失われてしまったことで過去の重しがなくなり、むしろ精力的に独特の作風を確立した、という見方もできます」と、同美術館の鎌田享学芸員は話す。
 油彩画を中心に約80点を展示。東京での大規模な展覧会は39年ぶりとなる。有島の木田に宛てた手紙や絵画など関連資料も紹介している。(渋沢和彦)

木田金次郎
 きだ・きんじろう 明治26年、北海道生まれ。41年、東京の開成中学に入学。42年、同中学を中退し、京北中学に編入学。この頃から絵を描き始めた。翌年、同中学を中退。一時、札幌で過ごし、展覧会で有島武郎の絵画作品を見て感銘を受け、有島の自宅を訪問し、交流が始まった。大正8年、東京の有島邸で習作展を開いた。昭和3年、満州・朝鮮に写生旅行し、大連の満鉄倶楽部で個展を開催。29年、北海道文化賞を受賞。37年、69歳で死去した。

絵画で国立公園めぐり―巨匠が描いた日本の自然―

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いや驚きました。国立公園の絵葉書のような絵が並んでいる展覧会と思って行ったらそうではなかったのです。
縦横、65cmX 80cmの大作が40枚も展示してあったのです。それもそれぞれの画家が本気て取り組んだ芸術性豊かな油彩画なのです。文部省の予算で頼まれた絵画です。嗚呼、芸術家は絵葉書のような絵画は死んでも描かないのです。
結論を先に書けば「見るべし!」です。前期、後記の両方の展示合計80点の絵画が見られます。足の悪い人はエレベーターで2階に上がれます。中村研一の風景画が沢山展示してありました。
しかし困ったことは絵画一枚、一枚が当然ながら画風がまったく違うことです。見て行くと疲れるのです。
それでも一枚、一枚がそれぞれ感動的なのです。
以下にこの美術館の紹介と展示絵画や中村研一の絵の説明をお送りします。
私共の住んでいる東京都小金井市には小さな市立美術館があります。「はけの森美術館」と言います。
小金井に住んでいた画家、中村研一のアトリエと住居を2004年に小金井市が寄付されて開設された美術館です。
何時もは中村研一の作品を常設展示していますが、数多くの企画展も開催しています。
今回は以下のような企画展をしていたのです。

「小杉放菴記念日光美術館所蔵 絵画で国立公園めぐり―巨匠が描いた日本の自然―」
この企画の概要は次のようなものです。
アメリカ合衆国で生まれた国立公園の真似をして、日本でも昭和初期に国立公園が出来ました。その公園を絵画で紹介する「国立公園洋画展覧会」が企画されたのです。
当時の有名な洋画家たちに絵画を頼み、26点が完成します。
1932(昭和7)年に東京や大阪などでその展覧会が開催され、大好評を博したそうです。
その後、絵画も随時追加制作され、最終的には80点のコレクションとなります。
 今回の展示は国立公園の絵画コレクションのある小杉放菴記念日光美術館の絵画を展覧するものです。
巡回館のうち関東地域では小金井市立はけの森美術館のみでの開催となり、全80点を前・後期に分けて紹介します。
 また、併せて二階展示室では当館所蔵作品から、小金井での日常の光景を出発して、日本各地を描いた中村研一の旅の様子を展示します。
今回の企画展の会期、
平成30年8月4日(土曜)から9月17日(月曜・祝日)
前期:8月4日(土曜)から8月26日(日曜)。後期:8月28日(火曜)から9月17日(月曜・祝日)※会期中、作品の入れ替えを行います

尚、中村研一は東京美術学校卒の画家で1895年に生まれ 1967年(昭和42年)まで活躍しました。
1920年、東京美術学校を卒業し、同年、『葡萄の葉蔭』が第2回帝国美術院展覧会(帝展)で初入選し、『若き画家』が東京大正博覧会で3等賞を受賞します。1921年、『涼しきひま』が第3回帝展で特選を受賞。1922年、帝展無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となったのです。
1923年、パリに留学します。ここで、モーリス・アスランから大きな影響を受けています。1927年、サロン・ドートンヌ会員となる。
1928年に帰国し、滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞し、1929年、『若き日』が第10回帝展で特選を連続受賞します。そして、1930年、『弟妹集う』が第11回帝展で帝国美術院賞を受賞したのです。
絵の才能に恵まれた一流の洋画家だったのです。

1番目の写真は今回の企画展で前期展示の中村研一《大雪山》1934年です。小杉放菴記念日光美術館 所蔵です。

2番目の写真は今回の企画展で後期展示予定の、石井柏亭《雲仙・春》 1934年です。小杉放菴記念日光美術館所蔵です。

3番目の写真は前期展示の、和田英作《三保富士》1953年です。小杉放菴記念日光美術館所蔵です。

4番目の写真は、中村研一「車を停む」1932年、北九州市立美術館、です。

5番目の写真は、中村研一《弟妹集う》1930年 住友クラブ蔵、です。
 
6番目の写真は我が家にある中村研一須磨の浦の風景画で、40cmX50cmです。裏に日動画廊から購入したことが書いてあります。

7番目の写真も我が家にある中村研一の秋海棠の絵です。20cmX25cmの大きさです。これも日動画廊から購入したものです。
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