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理稀ちゃんを救出した尾畠 春夫さんのことをもう一度考えよう

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猛暑の今年、8月の中旬に山口県で2歳の藤本理稀(よしき)ちゃんが行方不明になりました。その3日後に大分県から駆け付けたボランティアの78歳の尾畠 春夫さんが山の中で元気にしているを発見し、抱いて連れ帰り、母親へ手渡したのです。
それ以来、私は尾畠 春夫さんとはどういう人間なのか考えています。
そこでまず彼のボランティアに対する想いを皆様と一緒に読んでみたいと思います。
文章の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/尾畠春夫 です。

・・・軽ワゴン車に食料や水、寝袋などの生活用具を積み込み、助ける相手側に迷惑をかけないのが信条。「自己完結するのが真のボランティアだ」と言う。
「対価、物品、飲食、これは絶対、頂かない。敷居をまたいで家の中に入ることもボランティアとして失格だと思っている。私はそれで良いと思うんですよ。人がどうしようと関係ない。尾畠春夫は自分なりのやり方がある。」
私は被災地に行ったら「暑い」とは絶対に言わない。もし自分が被災者であったならば、どう思うのか。ボランティアさせていただいているという立場を忘れてはいけません。当然ですが、言動すべてに気をつける必要があります。赤い服を着ているのもこだわりです。背中には名前が大きく書いてあります。これには理由があり、被災している方は身元がわかるほうが安心するんです。さらによく話すこと。黙っていると怖いでしょう。赤い服もそうですが、すべては安心感をもってもらうためです。」

私の生き方について、
ボランティアを本格的に始めたのは、大分県別府市にあった店を閉めた65歳のころ。「学歴も何もない自分がここまでやってこられた。社会に恩返しがしたい」と思ったから」と、全国各地で車中泊しながら、ボランティア活動を行ってきた。
「人に、世の中に、恩返ししたい」が口癖。
「『かけた情けは水に流せ、受けた恩は石に刻め』。人の命は地球より重い」

活動費は自分の年金から捻出。
「東日本大震災のボランティア活動で、酒をやめました。それまで自分は浴びるほど飲むタイプでした。南三陸の避難所のベイサイドアリーナには1800人もの避難者がいた。ぎゅうぎゅう詰めで身動きできない。にもかかわらず、誰も文句を言わない。同じ日本人でありながらこんな思いをしている人がいるんだと思った。酒なんか食らっている場合ではないと思ったんです。それから7年5ヵ月一滴も飲んでいません。ただ、酒を断ったわけではありません。中断しているだけです。解禁するときは東北3県の仮設住宅がすべて取り除かれたときと決めています。」

「孫が突然うちに来た。当時、孫は高校生でしたが、真剣な顔で『話があるんだ。じいちゃん、タバコをやめろ』と言うんです。65歳を過ぎると体力が急激に落ちるから絶対にやめろって。自分はヘビースモーカーで、ピースを2箱吸っていました。これはうれしかった。孫の言うことは天の声だと思い、その場ですべて燃やしました。ちなみに、この孫は登山をしています。私の影響だそうです。これ以上うれしいことはないですよ。」
78歳時点での将来の夢は「夜間の高校に行って勉強したい」。

2018年8月の理稀ちゃんの捜索について、
「人の命より重いものはない。尊い命が助かってよかった」と涙を浮かべた。
行方不明になった子供を探していた家族に対し「私が抱きしめて直にお渡しします」と約束していた。無事に発見された後の取材では「口約束も契約。警察が『渡してください』と来たけど、『イヤです』と言った。言うたことは守る。」と話した。
その後のマスコミの取材にこう答えた。「私は子どもを産んだ覚えはないけど、女の人じゃないけど。だけど、十月十日おなかに入れて命がけで産んでおっぱい飲ませた子どもを、3日、4日って行方不明になっていたら、お母さんは正常ではないと思うんです。だから私はお母さんに『必ず見つけたら、必ず手渡しで渡す』って約束したからね。だから警察官が、法律みたいなのがあって『決まりだから渡してください』って言ったけど、だめですと言った。約束は守らないけんと思ったから、それを守らせてもらったんです。」・・・・

私の感想です。
尾畠 春夫さんは宗教の話を一切しません。しかし法華経の利他行を実践する菩薩です。
尾畠 春夫さんはキリスト教の話を一切しません。隣人愛の話もしません。
宗教など一切関係ないようです。人間が生まれながらに持っているボランティア精神を実行したのです。宗教の無力さを考えざるを得ません。そんな感じを受けています。
皆様のご感想をコメントとして頂けたら嬉しく思います。

写真に尾畠 春夫さんと藤本理稀ちゃんを示します。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





====参考資料===========================
尾畠 春夫(おばた はるお、1939年 - )は、大分県速見郡日出町在住のボランティア活動家。元鮮魚商。2012年、大分県「ごみゼロおおいた作戦功労賞」、2014年、環境省「平成26年度地域環境美化功績者表彰」受賞。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/尾畠春夫 より)
大分県の貧しい家庭に生まれ、小学生の時から近所の農家に奉公に出た。28歳のとき、別府市内に鮮魚店「魚春」を開業。40歳から趣味で登山をはじめ、45歳の時に北アルプス55山を単独縦走。2003年、60歳頃からは、ホームグラウンドとしていた由布岳登山道の整備などのボランティアを開始。65歳からは本業だった鮮魚店をやめ、余生をボランティアに捧げる。新潟県中越地震、東日本大震災、熊本地震、西日本豪雨などの多くの被災地で活動を継続。2011年3月、東日本大震災被災地の宮城県南三陸町では、がれきの中に埋もれた思い出の写真などを拾い集める「思い出探し隊」の隊長として活動。若いボランティアから「師匠」と慕われていた。2012年、大分県から「ごみゼロおおいた作戦功労賞」、2014年には、環境省「平成26年度地域環境美化功績者表彰」を受賞している。2018年8月15日に山口県周防大島町で行方不明の2才児を救出。2018年8月20日には、大分県知事・広瀬勝貞が尾畠の長年の功績を讃え、大分県功労者表彰を授与する意向を示しており、22日には在住する日出町も「日出町功労者表彰」を贈る方針を明らかにしている。

日本軍のスパイだった江沢民の父、それへの近習平の対応

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江沢民は中国共産党の歴史的な汚点でした。実父の江世俊が日本軍の支援で出来た汪兆銘、南京政府のスパイ部門の高官だったのです。つまり漢奸の息子だったのです。共産党に入党する資格など無かったのです。
それが鄧小平の後の共産党総書記になり、常軌を逸した数々の反日政策を実施したのです。
この反日政策については2018年08月22日に掲載した『今年は日中平和条約40周年(3)江沢民の反日政策と中国の高度成長』に詳しく書いてあります。

今日は江沢民の実父の江世俊が日本軍側に協力した事実とそれを明るみし、投獄された呂加平を近習平が2016年に釈放した事実を説明いたします。
この事は習近平の中国と日本との関係の将来を考える上で一つの重要な足掛かりになるのです。
話は1940前後の上海から最近の習近平まで関係する複雑な話なので、分かり易く個条書きにします。

(1)日本軍は上海にスパイ・謀略組織を作った。
この組織は上海のジェスフィールド路76号という地名にあったことから、ジェスフィールド機関と呼ばれていました。
土肥原機関や梅機関に属していた特務機関で、親日派中国人により構成されていました。江沢民の実父の江世俊もこの機関に関係していたと考えられます。

(2)1940年に日本軍の支援で出来た汪兆銘、南京政府はこのジェスフィールド機関をそのまま引き受け、南京政府の務特機関とします。江沢民の実父の江世俊はこの特務機関の高官でした。

1番目の写真は南京政府主席の汪兆銘が自分の軍隊を閲兵している場面です。
この南京政府は1945年の日本の敗戦とともに消滅し、政府の要人や高官は漢奸として処刑されます。汪兆銘は日本に逃れ名古屋ですぐに病死しました。
南京政府は日本側へ協力し、日本軍の武力を背景にして重慶の蒋介石政権に対抗したのです。

(3)江沢民の実父が日本軍側に協力した事実を公表した者は中国政府によって皆投獄された。
江沢民が上海閥として頭角を表すようになると彼の実父のことを公表する者も出て来たのです。
しかし江沢民の実力を買っていた鄧小平はその情報を無視します。そして江沢民の秘密を暴露した者はみな官憲によって逮捕、監禁されたのです。

(4)江沢民に引き上げらた胡錦濤も江沢民の実父のことは「臭いものに蓋をする」をしたのです。恩義のある江沢民の弱点を暴くことが出来なかったのです。

(5)現在の国家主席の近習平は江沢民には何の恩義もありません。その上、江沢民の残存勢力を現在の政権中枢から排除したいのです。
ですから近習平は投獄されていた呂加平を2016年に釈放したのです。
軍隊を完全に掌握した近習平は政権運営に自信が出来たのです。

(6)江沢民の実父が日本軍側に協力した事実は中国共産党の正史には書かれないでしょう。それは単なる噂として次第に忘れられる運命にあります。

以上の経緯から近習平は世界の大国になった中国の運営に自信を持ち、今後は「一帯一路」のようなグローバルな政策に力を入れると考えられます。
日本をアメリカからなるべく引き離し、中国のグローバルな政策へ協力させるのが中国にとって得策なのです。
最近、ゆっくりながら確実に進行している日中友好の動きは今後10年位は続くでしょう。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料========================
「一帯一路提唱5周年 習近平氏が新国際秩序作りを強調」2018.8.27
https://www.sankei.com/world/news/180827/wor1808270020-n1.html

【北京=藤本欣也】中国の習近平国家主席が現代版シルクロード経済圏構想として「一帯一路」を提唱してから5年になるのを記念し、北京の人民大会堂で27日、「一帯一路推進5周年座談会」が催された。
 習氏は重要講話を発表し、一帯一路について「世界の統治システムを改革するために新たな構想とプランを提供したものだ」と意義を強調、中国主導による新たな国際秩序作りに改めて意欲を示した。
 一帯一路をめぐっては、習氏が2013年9月7日、カザフスタンで「シルクロード経済ベルト(一帯)」の共同建設構想を発表。10月には、インドネシアで「21世紀の海上シルクロード(一路)」の共同建設を提唱した。以後、統合されて一帯一路と呼ばれるが、最近は“脱シルクロード化”が進み、中国はオセアニアや中南米地域などからも参加国を募り、巨大経済圏の構築を目指している。

東日本大震災を支援した台湾、韓国、中国、アメリカ、その他の国々を忘れない!

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なかなか実行出来ないことですが、懸情流水 受恩刻石という教えがあります。
「 情を懸けしは、水に流し、恩を受けしは、石に刻むべし」と読むそうです。短縮して刻石流水の四文字熟語もよく使われているようです。
そこで今日は「恩を受けしは、石に刻むべし」の教えに従って東日本大震災を支援した国々の恩を石に刻むような思いでもう一度お送りいたします。
あれからもう7年の月日が流れたのです。まず写真をご覧下さい。

1番目の写真は来日した台湾南部の泰武村の子どもたちが伝統舞踊を披露し、津波被害の大きかった岩手県山田町の子供達を励ました時の写真です。2012年2月28日、岩手県山田町で撮影した写真です。
台湾の支援は迅速で支援内容も実に充実していました。支援金額も最高レベルで日本人に感銘を与えたものです。

2番目の写真は台湾政府からの緊急援助物資の写真です。
馬英九総統は3月11日当日に「日本側の要請を受けたら、すぐに救援隊を出動したい」と語り、緊急救援隊を翌日3月12日に世界のどこよりも早く派遣してくれたのです。
物資支援として、3月14日~6月6日の間に発電機801台、毛布8735箱、寝袋3487箱、スリーピングマット236箱、衣類(防寒具、レインコート、手袋、マフラーを含む)6866箱、食品(クッキー、ポップコーン、米、缶詰等を含む)16.5㌧+18941箱などなどを送ってくれたのです。
日本側では北海道、青森県、岩手県、宮城県、福島県、茨城県、千葉県、東京都、新潟県、埼玉県、山梨県の災害対策本部、被災地、避難所等に至急送ったのです。

3番目の写真は港に散乱する漁網を日本人とともに片づけている米軍兵士です。
2011年3月12日以後の新聞にはアメリカ軍の大規模で、多岐にわたる救援活動が毎日のように報道されていました。この作業をアメリカ軍は「ともだち作戦」という名前をつけて大規模に展開したのです。

4番目の写真は倒れて通行の邪魔になっている立ち木を切り、取り除いている兵士の写真です。
これらアメリカの兵士は全て「ともだち作戦」に参加した兵士です。
アメリカ軍の支援は沖に停泊した航空母艦からの多量の救援物資のヘリによるピストン輸送でした。
単に物量を誇るだけではなく被災者の心に寄り添うものでした。
3番目と4番目の写真に示すように兵士は被災地の後片付けのために泥にまみれたのです。
そして港が津波で破壊された離島には上陸用舟艇で緊急上陸して食料を運び、後片付けに汗を流したのです。あるアメリカ海軍の小型艦艇は壊れていない港に接岸して船内のシャワーと風呂を泥まみれの被災者へ提供したのです。これは津波で家が流された被災者に非常に感謝されました。

この他に2011年4月1日の読売新聞一面には、「日米、不明者を一斉捜索」と題した記事が出ています。米海軍と海上自衛隊と海上保安庁の艦艇が一斉に三陸沖、仙台湾、福島沖に展開し海上に流れ出た生存者や遺体の発見に努力したのです。
特に三陸沖にある空母・ロナルド・レーガンからはヘリ20機を飛ばして海上の捜索に当たるのです。艦艇は15隻ていどが展開し、捜索にあたったのです。

5番目の写真は韓国の街に大震災直後にかかげられた横断幕の写真です。
「日本の痛みを一緒にわかち合いましょう」と書いてあります。韓国語でも大きく書いてあり、道行く韓国人は日本人のために祈ってくれたのです。
尚この写真は数日前にも掲載しましたが、日本の新聞には出なかったので何度でもこの欄に掲載します。私が認知症になって最近同じ写真を掲載したことを忘れた訳ではありません。石に刻むためです。

6番目の写真はキリスト教の信者達が日本への義援金や支援物資を荷作りしている光景です。皆が黒服を犠牲者のために祈りながら作業をしているのかも知れません。
この写真も数日前に掲載しましたが、日本の新聞には出なかったので何度でもこの欄に掲載します。

7番目の写真は中国の温家宝首相が大震災後に原発の爆発のあった福島県を訪問した時の写真です。農協の野菜の販売所で放射能の恐怖をものともせずサクランボ、ミニトマトを食べるパフォーマンスをした時の写真です。
この写真も日本の新聞には出なかったので中国の新聞から転載しました。何度でもこの欄に掲載します。石に刻むためです。
一方、中国の胡錦濤国家主席は「犠牲者の方々に深い哀悼の意を表し、一日も早い復興をお祈り致します」との電報を今上天皇に宛てに送りました。
中国地震局は大震災の翌日、3月12日夜、日本の被災者に、人道援助を提供するため国際救援隊15人を13日朝に派遣すると発表し、国営新華社通信は「四川大地震で日本から支援を受けた恩に報いたい」という論評記事を配信します。
中国赤十字会は同日、日本赤十字社に100万元(約1260万円)を緊急援助し、必要に応じた人道援助をすることを決定したのです。

日本の新聞は台湾から援助については詳しく何度も報道しました。
それから日米安保条約のあるアメリカ軍の「ともだち作戦」については連日詳しく報道したのです。
しかし隣の韓国や中国からの支援の詳細はほとんど報道されなかったのです。

日本のマスコミは公平さが非常に欠落しているのです。
台湾、アメリカ、西ヨーロッパの国々のニュースは重要視し大きく報道しますが韓国と中国に関しては日本に対して悪いニュースだけを報道し、良いニュースは全く報道しない傾向があるのです。
何故でしょうか?その理由の考察は別稿でします。
今日はこれで止めて下の参考資料に東日本大震災の復旧を支援した世界の191ケ国、34地域のことを書いておきます。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料==================
「東日本大震災の復旧を支援した世界の191ケ国、34地域を忘れない!」

人間は他人への恨みは忘れいが、他人から受けた恩は忘れると言います。

今年で東日本大震災が起きてから丁度7年になります。
あの時、世界中の国々や地域から日本は大きな支援を受けました。直接、被害を受けなかった日本人もあまりの悲惨な津波の被害と福島原発の爆発に呆然とし、悲しみに打ちひしがれていました。そんな時に世界中から暖かい激励と救助の支援を受けたのです。
私自身も勇気づけられました。希望の光が見えて来ました。
被災地に来て復旧作業をするボランティアたちに頭が下がりました。この恩は絶対に忘れないと決心もしました。
もう7年にもなるのですね。
そこでインターネットを検索して東日本大震災で打ちひしがれた日本を支援してくれた世界の191ケ国、34地域のことを調べました。
あまりにも膨大な資料がありました。そこでそのほんの一部の抜粋を以下に示します。
(1)「東日本大震災に対する日本国外の対応」
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD%E3%81%AB%E5%AF%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%AF%BE%E5%BF%9C )
ここでは、東日本大震災に対する日本国外の対応について記述してあります。
日本に対し、2011年5月2日の時点で、国連に加盟する191ヶ国の国、および幾つかの国や地域、約43の国際機関等からの支援の申し入れや見舞いの言葉があったのです。
そこで参議院では、4月15日に「東日本大震災に対する国際的支援に感謝する決議」が全会一致で可決しました。
例えば、中華人民共和国の温家宝首相は「中国政府を代表して日本政府と日本国民に対しお見舞いを申し上げる」という電報を菅直人総理に送るとともに、必要な援助を提供する意思があることを表明しました。
また、胡錦濤国家主席は「犠牲者の方々に深い哀悼の意を表し、一日も早い復興をお祈り致します」との電報を今上天皇に宛てに送ったのです。
中国地震局は3月12日夜、日本の被災者に、人道援助を提供するため国際救援隊15人を同月13日朝に派遣すると発表しました。
国営新華社通信は「四川大地震で日本から支援を受けた恩に報いたい」という論評記事を配信しました。
中国赤十字会は同日、日本赤十字社に100万元(約1260万円)を緊急援助し、必要に応じた人道援助をすることを決定しました。
一般市民の間でも支援の声は高まり、北京の大学生や会社員ら、有志の若者が仲間に義援金を呼び掛け、既に約5000元が集まったのです。同日午後、中国国際援助隊は生存者の捜索に必要な設備や救急医療物資など4トンの物資を携行し、羽田空港に到着します。
中国政府商務部は14日、毛布2000枚、テント900張、手提げ式応急灯200個などといった3000万元(約3億7500万円)相当の援助物資追加支援を決定し、初回分は14日、上海から空輸され、宮城県登米市に提供されたのです。第二陣は28日にミネラルウォーター6万本やゴム手袋325万組がそれぞれ茨城県、日本赤十字社に提供され、第三陣は31日にゴム手袋1万組、仮設トイレ60個、スニーカー2万5000足が提供されたのです。
さらに別枠で、3月16日、中国政府は日本政府の要請に応じてガソリンと軽油各1万トンを日本政府に対して提供することを決定、それぞれ4月2日、3日に日本に到着、被災地に送られました。
また新聞は「過去の遺恨による民族主義は天災や人道とは関係ない」とし、四川大地震の際に日本が援助したことを受け「民族の感情を超越した人道主義」と評し「必要なのは学ぶことと助け合うこと」と伝えたのです。
3月19日、東京電力は中国外務省を通じて中国の三一重工業集団有限公司に高さ62メートルから放水できるポンプ車の購入を打診すると、三一重工が無償での提供を申し出ます。
この巨大なポンプ車は1台約8500万円で、運搬にかかる費用を含めた約1億円を同社が提供し、24日に日本到着後、陸路で福島に向かい、31日より福島第一原子力発電所の原子炉冷却作業を開始します。
4月1日、中国政府はガソリン1万トン及びディーゼル油1万トンを緊急支援物資として被災地に提供しました。
そしてその後、温家宝首相は東北の被災地をつぶさに訪問し、直接、被災者を励ましたのです。
上記で中国の支援をご紹介したのは以前に韓国と台湾の支援を詳しくご紹介したので、その続きです。
ついでにタイの支援をご紹介いたします。
タイのプミポン国王夫妻は3月12日に、「地震と津波で甚大な被害が出たことを深く悲しんでいる。両陛下と全ての日本国民に心からの弔意を表す」と弔意を表する書簡を送って来ました。
アピシット・ウェーチャチーワ首相は、国民向けテレビ番組で「日本は長年にわたる開発のパートナーであり、重要な友好国」と述べ、支援する姿勢を明確にしたのです。
また、毛布や食料など救援物資のために2億バーツ相当の予算を組む予定だと明かします。
同月13日にはレスキュー隊員と捜索救助犬の派遣を決め、日本の大学を卒業した医師35人の派遣も検討します。
タイ政府は義援金の送付をすでに決め、国民からの援助物資の受付や義捐金を受け付ける銀行口座を設置します。
3月25日までに政府より500万バーツ、国王夫妻より500万バーツが日本赤十字社に寄付された他、支援物資としてワチラーロンコーン皇太子より毛布2万枚、パチャラキティヤパー王女より救助袋15,550セット、寝袋1000式、缶詰9000缶、タイ政府・国民から即席麺2万4000個、缶詰1万9200個、飲料水1万5000本、懐中電灯400個を贈って来ました。
タイ政府は5月9日にも日本語が話せる医療支援チームの派遣を予定しており、被災者、特に小児に対する感染症防御のための支援活動を予定していると発表したのです。
以上はアジアの2ケ国の中国とタイの例ですが、その他の世界各国の支援の状況は以下のように掲載されています。
(1)「東日本大震災に対するアジア諸国の対応 - Wikipedia」
https://ja.wikipedia.org/wiki/東日本大震災に対するアジア諸国の対応
... 東日本大震災に対する日本国外の対応 > 東日本大震災に対するアジア諸国の対応. 東日本大震災に対するアジア諸国の対応(ひがしにほんだいしんさいにたいするアジアしょこくのたいおう)では、東日本大震災に対するアジア諸国の対応について記述する。
‎東アジア - ‎東南アジア - ‎中央アジア - ‎西アジア
(2)「東日本大震災に対するヨーロッパ諸国の対応 - Wikipedia」
https://ja.wikipedia.org/wiki/東日本大震災に対するヨーロッパ諸国の対応
東日本大震災に対するヨーロッパ諸国の対応(ひがしにほんだいしんさいにたいするヨーロッパしょこくのたいおう)では、東日本大震災に対するヨーロッパ諸国の対応について記述する。 ..... トルコ:東日本大震災に対するアジア諸国の対応#西アジアを参照。
(3)「東日本大震災に対する北アメリカの対応 - Wikipedia」
https://ja.wikipedia.org/wiki/東日本大震災に対する北アメリカの対応
メジャーリーグベースボール (MLB) およびメジャーリーグベースボール選手会 (MLBPA) が併せて50万ドルを、日本の地震と津波の被害に対する義捐金として国際連合児童基金 (UNICEF) に寄付すると発表した。また、MLBの「Japan Relief」特設ページで寄付 ...
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これらの資料を見て、私は胸が熱くなります。
こんなに世界中の国々が日本を助けようと支援したのです。
日本は間違いなく国際社会の一員なのです。そして日本は世界中の国から大切に思われ愛されているのです。
有り難くて、有り難くて頭が自然に下がります。

日本のおもな洋画家80人の大作の合同美術展

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嗚呼、見ると大変疲れる展覧会です。
日本の有名な洋画家の、それぞれ作風がまったく違う力作が40点並んでいます。40点ずつを展示時期を2回に分けて合計80点展示しています。北海道から沖縄までの国立公園の風景が描かれています。
絵画に詳しくない私でも何人もの画家の名前は憶えています。その展示作品を見ると同じ画家の他の油彩画を思い出そうとします。そうしないと隣にある違う画家の絵画の前に移動できないのです。
私はまだ認知症になっていませんが老人性の度忘れが付きまといます。かたわらの家人が他の絵を思い出して教えてくれます。
昨日はこんな展覧会の後期の展示の40作を見て来ました。

『絵画で国立公園めぐり―巨匠が描いた日本の自然―』という展覧会です。
会場は小金井市立はけの森美術館です。
今回の企画展の会期は、
前期:8月4日(土曜)から8月26日(日曜)までと後期:8月28日(火曜)から9月17日(月曜・祝日)までです。
作品は大体同じ大きさで、縦横、65cmX 80cmの大作が2回に分けて40枚ずつ展示します。
それぞれの画家が本気て取り組んだ芸術性豊かな油彩画なのです。
すべて文部省関係者が選んだ昭和の有名な洋画家です。文部省の予算で実施したようです。
絵画一枚、一枚が当然ながら画風がまったく違うことです。
それではこの企画展の様子を写真で示します。

1番目の写真は会場の小金井市立はけの森美術館です。

2番目の写真は1934年、中村研一作の「大雪山」です。

3番目の写真は1956年、 中村琢二作、「妙高山」です。中村琢二は中村研一の弟です。

4番目の写真は1953年、鈴木信太郎作、「厳島」です。

5番目の写真は1953年、坂本繁二郎作、「黎明の根子岳」です。

6番目の写真は今回展示された80枚の油彩画の全てを所有、常設展示している「小杉放菴記念日光美術館」の内部の光景です。

7番目の写真は小杉放菴記念日光美術館の外部の光景です。

この小杉放菴記念日光美術館をここでご紹介する理由は、その展示品の数が多く内容が充実しているためです。日光市立の美術館で、日光出身の小杉放菴の日本画が多数あります。
この秋に日光に一泊して見に行くつもりです。
そして放菴の日本画の他に今回小金井市立はけの森美術館で展示された洋画も収蔵、展示されています。その主な絵画を以下に示します。

北海道から沖縄までの国立公園の絵画;
0102-NPAoJ01
中根寛
サロベツ原野より利尻礼文を望む
1977(昭和52)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm

0102-NPAoJ05
辻永
双湖台より見たるペンケ・パンケ
1932(昭和7)年
油彩・カンヴァス
60.6×80.3cm
阿寒国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ08
中村研一
大雪山
1934(昭和9)年頃
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
大雪山国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ13
林武
十和田湖
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
十和田八幡平国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ14
北川民次
八幡平
1957(昭和32)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
十和田八幡平国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ15
向井潤吉
浄土ガ浜
1957(昭和32)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
三陸復興国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ20
猪熊弦一郎
塩原の渓流
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
日光国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ23
中村善策
尾瀬沼
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
尾瀬国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ25
児島善三郎
発哺よりの展望
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
上信越高原国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ26
小山敬三
浅間山
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
上信越高原国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ27
中村琢二
妙高山
1956(昭和31)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
上信越高原国立公園
平成24年度/寄贈


0102-NPAoJ30
中川紀元
梓山
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
秩父多摩甲斐国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ31
三栖右嗣
小笠原父島から南島・母島を望む
1977(昭和52)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
小笠原国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ34
和田英作
三保富士
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
富士箱根伊豆国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ37
山下新太郎
黒部峡谷鐘釣附近
1932(昭和7)年
油彩・カンヴァス
80.3×65.2cm
中部山岳国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ38
中澤弘光
上高地大正池
1932(昭和7)年
油彩・カンヴァス
60.6×80.3cm
中部山岳国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ39
和田三造
中部山岳
1932(昭和7)年頃
油彩・カンヴァス
60.6×72.7cm
中部山岳国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ43
小磯良平
伊勢神宮
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
80.3×65.2cm
伊勢志摩国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ48
刑部人
鳥取砂丘
1970(昭和45)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
山陰海岸国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ50
牛島憲之
日御碕
1964(昭和39)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
大山隠岐国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ53
鍋井克之
新和歌ノ浦
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ54
野間仁根
摩耶山からの展望
1956(昭和31)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ55
田村孝之介
淡路島
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ56
小絲源太郎
鳴門
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈


0102-NPAoJ58
藤島武二
屋島よりの展望
1932(昭和7)年頃
油彩・カンヴァス
53.0×72.7cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ60
高畠達四郎
琴平宮
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ61
梅原龍三郎
朝の仙酔島
1932(昭和7)年頃
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ62
鈴木信太郎
厳島
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ63
須田国太郎
春の来島海峡
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ64
海老原喜之助
大華山
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ65
宮本三郎
姫島
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ68
小林和作
由布岳
1956(昭和31)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
阿蘇くじゅう国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ69
田崎廣助
久住山
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
阿蘇くじゅう国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ71
坂本繁二郎
暁明の根子岳
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
60.6×72.7cm
阿蘇くじゅう国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ72
石井柏亭
雲仙・春
1934(昭和9)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
雲仙天草国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ73
野口彌太郎
雲仙・夏
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
雲仙天草国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ74
三岸節子
天草
1956(昭和31)年
油彩・カンヴァス
80.3×65.2cm
雲仙天草国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ76
有島生馬
霧島連山遠望
1931(昭和6)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
霧島錦江湾国立公園
平成24年度/寄贈

少し長くなりましたが結論を書きます。
この『絵画で国立公園めぐり―巨匠が描いた日本の自然―』という展覧会は日本の洋画の愛好家にとっては是非見るべき展覧会と信じています。巡回とあるので全国各地に行くようです。
見逃したら日光の小杉放菴記念日光美術館で展示を確認した上でご覧になると良いと思います。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

自由に花摘みの出来る花畑のある公園

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花の植えかえる時期に花々を自由に切って良い公園があります。
三鷹市「花と緑の広場」という,
住宅地の中の小さな公園です。
自由に切って良い期間は年に3、4回あります。
管理事務所に確認した上で申込書に記入するとハサミを貸してくれます。
何処の区画が切り取り自由か確かめて、その花畑に入って好きな花を切って下さい。
昨日はジニアとキバナコスモスでした。家内が花摘みしている時の写真と花々の写真をお送り致します。












デパートの婦人服はもう秋の色

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まだまだ猛暑が続いています。しかし空を見上げると気温の低い高空には秋の雲が流れてます。
地上にも秋が来てる場所があるはずです。朝からいろいろ考えました。
そうです。デパートの婦人服売り場にはもう秋が来ている筈です。
午後から立川市の高島屋に行きました。
予想通り秋の色彩の綺麗な服が並んでいます。落ち着いた静かな色合いです。眺めていると心が静謐になり幸福感につつまれます。黒っぽい服が多く、もう晩秋を感じさせます。
家内は秋の花畑に飛び込むようにして消えてしまいました。
私はひかえ目にそっと幾枚かの写真を撮りました。
そんな写真をお送りいたします。








多数の側近が離反するトランプ大統領とアメリカ社会の混乱

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私は戦後に出来たばかりの新制中学校の二期目の入学者でした。そこではアメリカ社会の自由と平等を教わりました。個人の尊厳と人権の重要性を教わりました。
民主政治とはどのようなものかも教わりました。三権分立や政教分離も教わりました。
新制中学校には昭和23年から昭和26年までの3年間在学していました。たった3年間でしたが私の「ものの考え方」を決定してしまったのです。その理想の国に憧れて、大学を卒業してからアメリカに留学しました。費用は一切フルブライト制度などによってアメリカ側が出してくれたのです。
オハイオに住んでみると人々はみな親切で礼儀正しく、アメリカは想像通りの理想社会でした。
この若い時の経験から私はアメリカこそ世界一の国だと信じて来ました。
しかしトランプ大統領になってから私のアメリカ像が破壊されたような気分なのです。
第一に彼はアメリカ社会の良識を踏みにじり、社会を分断し、国際関係では平和的な協調主義を止めました。
アメリカ一国だけが良ければよいのです。自国の金銭的利益だけを優先した露骨な外交政策なのです。
その上、彼には人徳が無いのです。
側近や政府の高官が次々離反して去っていくのです。
少し古い情報ですが昨年の8月までトランプ大統領のもとを去って行った人々を下記に示します。

アメリカの 辞任・解任の一覧
https://blog.goo.ne.jp/hatokaku/e/3b8890e978ba6d9e3365588c8bc97844
米トランプ大統領周辺の辞任・解任〔×:解任、▲:辞任、○:任命〕
2016/11/18 辞任▲ クラッパー米国家情報長官が辞表(辞任は2017/01)
2017/01/20 解任× イエイツ司法長官代行を解任(僅か10日間の運命)
2015/02/10 辞任▲ タルーロFRB理事(64)が4月初めに辞任
2017/02/13 辞任▲ フリン大統領補佐官(国家安全保障)が辞任
2017/02/17 辞退△ ワーウォード退役中将にフリンの後任を断わられる
2017/03/08 辞任▲ ダニエル・ラッセル国務次官補(3年半東アジア担当)
2017/03/11 解任× バララNY連邦検事が解任される
2017/03/31 辞任▲ ケイティ・ウォルシュ次席補佐官が辞任
2017/04/06 解任× バノン首席戦略官をNSC常任委員から外した
2017/05/13 解任× コミーFBI長官を解任
2017/05/17 任命○ ミュラーを米司法省が特別検察官に任命
2017/05/18 辞任▲ マイク・ダブキ(47)米WH広報部長が辞表
2017/06/01 辞任▲ マスクが大統領助言委員会の委員を辞任
2017/07/19 辞任▲ ショーブ倫理局長辞任(2017/07/06発表)
2017/07/22 辞任▲ スパイサー報道官8月一杯で辞任

昨年8月から今年の8月までの辞任も上のリストの同じような人数です。大物では前のティラーソン国務長官が今年の4月に辞め、ポンテオ氏が後任になりました。
そして今年の秋にはホワイトハウス法律顧問、ドン・マギャン法律顧問が辞任するのです。
https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/bbcworldnewsjapan/world/bbcworldnewsjapan-45351736

これだけ側近や政府の高官が辞める原因は一言で言えばトランプ大統領に人徳が無いからです。
そしてこの事はアメリカ中の350社の新聞社を敵にしてしまったのです。
その詳細は次のこの欄の記事にあります。
『米国350以上の新聞社、社説で一斉にトランプ氏非難』(2018年08月21日、掲載記事)
この記事の冒頭部分だけを再び掲載します。
・・・トランプ大統領になってからアメリカの社会は揺れ動いています。社会の分断が起きているといいます。トランプ大統領一派のアメリカの利益だけを考える人々と国際社会の協調と平和的話合いを重視する人々に分断してしまったのです。
トランプ大統領は躊躇することなく地球環境の悪化を防ぐパリ協定から脱退しました。貿易のTPP協定から脱退しました。NATO加盟国のドイツ、フランス、ドイツなどへ軍事費の増加を要求しました。アメリカさえ良ければ国際社会が混乱してもよいという考えなのです。メキシコからの不法移民を防止するため高い壁を作ると主張します。移民の人権を無視して、不法移民の家族を引き離し送還しようとしました。
これらの政策は従来の良識的なアメリカの伝統を無残にも打ち砕いてしまったのです。
このトランプ大統領の独裁的な権力行使にアメリカの350以上の新聞社が社説でトランプ大統領を民主主義を踏みにじっていると非難したのです。
トランプ大統領は全米の350社の新聞社を敵に回したのです。
その上、Face Bookなどの大手の社会ネットワークサービス(SNS)などもニセ情報を流していると攻撃したのです。
このようにアメリカの大統領が全米の350以上の新聞社を攻撃し敵対することは歴史上初めてのことです。それは民主主義の根幹である言論の自由への攻撃なのです。
アメリカ社会は揺れ動いています。以下省略します。・・・

このように問題の多い大統領ですが2期8年の任期を全うする勢いです。
アメリカの大統領には大きな権力が制度上与えてあるからです。
大統領の選出には国民による直接選挙と、その結果に従って、各州に割り当てた人数の代表者による間接選挙が2年間にわたって慎重に実施されます。この2年間の丁寧な選挙で選ばれた大統領なので外交や軍事における独裁的な権限が与えられているのです。ですからトランプ大統領はこの権限を行使しているだけなのです。
アメリカは法治国家なのです。
安保体制の費用分担や日米貿易にも大きな問題が起きつつあります。それにしても困ったものです。

今日の挿し絵の写真は順々にフランスの自由の女神像、ニューヨークの自由の女神像、東京の自由の女神像、 青森県にある自由の女神像です。
自由の女神像は世界各国にあありますが、日本では東京、青森県おいらせ町、函館市、石巻市、郡山市、横浜市、武蔵野市などにあります。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)








全国に数多くの美術館がある日本の幸福度は高い

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こんな質問には戸惑いませんか?「日本は幸福な国ですか?」
世界中の国々の幸福度のランキングではブータン王国が1位だそうです。面白いですね。
それはさておき、日本も幸福度ランキングでは上位のほうにあるのではないでしょうか?まず平和であること、経済が安定していることをはじめいろいろな根拠がありますが、私は日本にある数多くの美術館とその展示作品の充実ぶりも非常に重要に考えています。
ここ数週間、全国に散在している美術館の名前と数を調べてきましたが、あまりにも数が多く全貌がつかめません。
上野の国立西洋美術館、都立美術館、芸大付属美術館、六本木の新しい国立美術館・国立近代美術館からはじまって近所の府中市立美術館、世田谷区立美術館、小金井市立はけの森美術館などなど無数にあります。
全国の市町村が作った美術館や有名画家の記念美術館、そして個人の力で作った美術館も多数あるのです。

美術館の全国的な組織として全国美術館会議会という組織があります。その会員になっている美術館の一覧表を丁寧に見て行くと日本の美術館の一部しか会員になっていないことが判りました。
私さへ知っている美術館が会員になっていないのです。
しかし全国美術館会議会の情報は貴重です。
例えば北海道の会員美術館を調べると次のように出てきます。

全国美術館会議会員館一覧、https://www.zenbi.jp/link.php
一例として北海道地区のみを示します。
有島記念館
〒048-1531
北海道虻田郡ニセコ町字有島57

神田日勝記念美術館
〒081-0292
北海道河東郡鹿追町東町3-2

木田金次郎美術館
〒045-0003
北海道岩内郡岩内町万代51-3

釧路市立美術館
〒085-0836
北海道釧路市幣舞町4-28 釧路市生涯学習センター内

札幌芸術の森美術館
〒005-0864
北海道札幌市南区芸術の森2-75

市立小樽美術館
〒047-0031
北海道小樽市色内1-9-5

苫小牧市美術博物館
〒053-0011
北海道苫小牧市末広町3-9-7

中札内美術村
〒089-1366
北海道河西郡中札内村栄東5線

中原悌二郎記念 旭川市彫刻美術館
〒070-0875
北海道旭川市春光5条7丁目

北海道立旭川美術館
〒070-0044
北海道旭川市常磐公園内

北海道立帯広美術館
〒080-0846
北海道帯広市緑ケ丘2

北海道立近代美術館 / 北海道立三岸好太郎美術館
〒060-0001
北海道札幌市中央区北1条西17丁目

北海道立釧路芸術館
〒085-0017
北海道釧路市幸町4-1-5

北海道立函館美術館
〒040-0001
北海道函館市五稜郭町37-6

本郷新記念札幌彫刻美術館
〒064-0954
北海道札幌市中央区宮の森4条12丁目

日本には少なくても数百もの美術館があるのでしょう。
その良い点はそれぞれの学芸員の質が高く、上質の企画展を開催していることです。
美術館同士が収蔵絵画をお互いに貸し借りして感動的な企画展を開催しているのです。
例えば小金井市に居ながら府中市で北海道の木田金次郎美術館の数十枚の油彩画を見ることが出来たのです。
詳しくは2018年08月25日掲載の。「北海道の孤高の画家、木田金次郎展、その透明で美しい青色」をご覧下さい。
これから少しずつ、質は高いが小さな日本の美術館を紹介する記事を書いて行きたいと思っています。
今日は倉敷市にある個人が作った大原美術館の絵画を7点ご紹介したいと思いまし。
ここは3度ほど訪問しました。

1番目の写真はエル・グレコ(またはその工房) 『受胎告知』17世紀初頃です。

2番目の写真はセガンティーニ『アルプスの真昼』(1892年)です。

3番目の写真はル・シダネル『夕暮れの小卓』1900 - 18年頃 です。

4番目の写真はルノワール 『泉による女』1914年です。

5番目の写真はモロー『雅歌』1893年 です。

6番目の写真は関根正二『信仰の悲しみ』1918年 です。

7番目の写真はゴーギャン 『かぐわしき大地』1892年 です。
大原美術館は、倉敷の実業家大原孫三郎(1880年–1943年)が、自身がパトロンとして援助していた洋画家児島虎次郎(1881年–1929年)に託して収集した西洋美術、エジプト・中近東美術、中国美術などを展示するため、1930年に開館した日本最初に個人が作った美術館なのです。感動的な美術館です。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=========================
大原美術館の主な収蔵品
https://ja.wikipedia.org/wiki/大原美術館
ゴーギャン 『かぐわしき大地』1892年
エル・グレコまたはその工房『受胎告知』(1599年–1603年頃)
シャヴァンヌ『幻想』(1866年)
カミーユ・ピサロ『りんご採り』(1886年)
モロー『雅歌』(1893年)
ドガ『赤い衣裳をつけた三人の踊り子』(1896年)
モネ『睡蓮』(1906年頃)
ルノワール『泉による女』(1914年)
ゴーギャン『かぐわしき大地(テ・ナヴェ・ナヴェ・フェヌア)』(1892年)
セガンティーニ『アルプスの真昼』(1892年)
トゥールーズ=ロートレック『マルトX夫人の像』(1900年)
ボナール『欄干の猫』(1909年)
マティス『画家の娘』(1918年)
ルオー『道化師』(1926–1929年)
ユトリロ『パリ郊外』(1910年)
モディリアーニ『ジャンヌ・エビュテルヌの肖像』(1918年)
デ・キリコ『ヘクトールとアンドロマケーの別れ』(1918年)
ピカソ『頭蓋骨のある静物』(1942年)
ポロック『カットアウト』(1949年)
ジャスパー・ジョーンズ『灰色の国旗』(1957年)
ロダン『歩く人』(1877年)
関根正二『信仰の悲しみ』(1918年)(重文)
小出楢重『Nの家族』(1919年)(重文)
中村彝『頭蓋骨を持てる自画像』(1923年)
前田寛治『二人の労働者』(1923年)
佐伯祐三『広告 “ヴェルダン”』(1927年)
熊谷守一『陽の死んだ日』(1928年)
藤島武二『耕到天(たがやしててんにいたる)』(1938年)
梅原龍三郎『紫禁城』(1940年)
安井曾太郎『画室にて』(1951年)
棟方志功『華狩頌版画柵』(1954年)
菅井汲『ナショナル・ルート』(1965年)
横尾忠則『ロンドンの4日間』(1982年)
「木彫彩色女神坐像」(エジプト・プトレマイオス朝)
「一光三尊仏像」(中国・北魏)(重文)
第二次大戦後、日本にも西洋近代美術を主体とした美術館が数多く誕生したが、日本に美術館というもの自体が数えるほどしか存在しなかった昭和初期、一地方都市にすぎなかった倉敷にこのような美術館が開館したのは画期的なことであった。

「 秋の七草の花々の写真を撮りに行き優雅な気分になる」

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昨日は9月1日で、いよいよ秋の季節がはじまったようです。天気も台風が来て秋らしい空の色になりました。
そこで昨日は都立薬草植物園へ「秋の七草」の花の写真を撮りに行きました。
「秋の七草」は万葉集の中で山上憶良により次のように詠れています。

秋の野に 咲きたる花を 指折りて かき数ふれば 七種の花
(山上憶良 万葉集 巻八 一五三七)七種は「ななくさと」読みます。

萩の花 尾花 葛花(をばな くずばな) なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝顔の花
(山上憶良 万葉集 巻八 一五三八)

この7種の花は1200年後の現在でも人々に愛され大切にされています。しかし上の和歌の最後にある朝顔は現在はキキョウと呼ばれている花のことです。

昨日は裏の森で鳴いている蝉の声を聞きながらゆっくり写真を撮りました。
そんなことをしていると1200年前の歌人になったような錯覚におそわれます。
そしてとても優雅な時間が静かに流れていきます。
老境の幸せなひと時です。

そしてついでながら言えば、秋の七草は薬用や染料に用いられてきたのです。ですから薬用植物園に大切に植えられています。例えば、ハギの根は煎じて飲むとめまいに効果があるといわれていました。キキョウはのどの薬として漢方に使われ、クズは解熱作用がある漢方の葛根として現代でも飲まれています。

それでは撮って来た写真をお送りします。

1番目の写真は萩の花です。

2番目の写真は尾花です。

3番目の写真は葛花(くずばな)です。

4番目の写真はなでしこの花です。

5番目の写真はをみなへしです。

6番目の写真は藤袴(ふじばかま)です。

7番目の写真は朝顔の花(現在のキキョウ)です。

末尾の参考資料に、ご存知のこととは思いましたが、万葉集を簡略に説明しておきました。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料============================
『万葉集』とは、https://ja.wikipedia.org/wiki/万葉集
『万葉集』(まんようしゅう、萬葉集)は、7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集である。天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759年(天平宝字3年)以後とみられる。

『万葉集』の成立に関しては詳しくわかっておらず、勅撰説、橘諸兄編纂説、大伴家持編纂説など古来種々の説があるが、現在では家持編纂説が最有力である。ただ、『万葉集』は一人の編者によってまとめられたのではなく、巻によって編者が異なるが、家持の手によって二十巻に最終的にまとめられたとするのが妥当とされている。
『万葉集』二十巻としてまとめられた年代や巻ごとの成立年代について明記されたものは一切ないが、内部徴証から、おおむね以下の順に増補されたと推定されている。
巻1の前半部分(1 -53番)…
原・万葉集…各天皇を「天皇」と表記。万葉集の原型ともいうべき存在。持統天皇や柿本人麻呂が関与したことが推測されている。
巻1の後半部分+巻2増補…2巻本万葉集
持統天皇を「太上天皇」、文武天皇を「大行天皇」と表記。元明天皇の在位期を現在としている。元明天皇や太安万侶が関与したことが推測されている。
巻3 - 巻15+巻16の一部増補…15巻本万葉集
契沖が万葉集は巻1 - 16で一度完成し、その後巻17 - 20が増補されたという万葉集二度撰説を唱えて以来、この問題に関しては数多くの議論がなされてきたが、巻15までしか目録が存在しない古写本(「元暦校本」「尼崎本」等)の存在や先行資料の引用の仕方、部立による分類の有無など、万葉集が巻16を境に分かれるという考え方を裏付ける史料も多い。元正天皇、市原王、大伴家持、大伴坂上郎女らが関与したことが推測されている。

万葉歌人、https://www.weblio.jp/ontology/万葉歌人_1
倭姫王
高市黒人
笠郎女
天智天皇
草壁皇子

田辺福麻呂
車持千年
紀皇女
橘諸兄
水主皇女

持統天皇
藤原麻呂
雄略天皇
久米広縄
山上憶良

弓削皇子
巨勢奈弖麻呂
石川内命婦
大神女郎
山部赤人

高橋虫麻呂
宇遅部黒女
占部小龍
厚見王
八代女王

舎人親王
粟田女王
藤原真楯
藤原鎌足
志貴皇子

背奈行文
賀茂女王
但馬皇女
県犬養三千代
長皇子

丸子大歳
土師道良
有間皇子
御名部皇女
山前王

大伴家持
円方女王
玉作部広目
丈部真麻呂
安宿王

田口益人
藤原訓儒麻呂
大津皇子
額田王
高宮王

坂門人足
大伴坂上郎女
石上乙麻呂
藤原房前
石川年足

三原王
舎人吉年
笠金村
商長麻呂
大伴旅人

津守小黒栖
大伴宿奈麻呂
小鯛王
鏡王女
柿本人麻呂

馬国人
丈部黒当
大原大刀自
天武天皇
舎人娘子

大来皇女
穂積親王
舒明天皇

今日はパンをはじめて頂く初聖体のミサでした

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カトリック教会で洗礼を受けるとその後、はじめてイエス様の体という意味のパン片をも貰うことを初聖体と言います。
初聖体は普通には、日曜日のミサに組み込まれて行われます。
今日は小金井教会で最近洗礼を受けた7人の子供達がはじめて神父様からパンを貰う初聖体のミサでした。
白い服を着た可愛い7人の子供達が緊張してパン片を貰っていました。
彼等7人は今日から小金井教会の正会員になるのです。高齢者の信者たちが自分の孫が初聖体を受けたように喜んでいました。
そんな光景の写真をお送りします。








スーパーボランティア尾畠春夫さんのその後、西日本豪雨災害地

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私は毎日ブログに記事を書いています。
書く話題と内容は数日前から考えて必要な調査をしておきます。原稿は前の日に構成を考えあらすじを書いて置きます。添付する写真も準備しておきます。
しかし朝起きた時に準備した話題が嫌になって急に別のことを書くことがあります。
今日はそんな気分になったので尾畠春夫さんのその後の話とアメリカの共和党の重鎮だったマケイン議員のお葬式について書きたいと思います。
立場が違いますがどちらも同じくらい偉い人です。心から尊敬せざるを得ません。

まず尾畠春夫さんが何故偉いかを書きます。
8月15日に3日間行方不明だった2歳の理稀ちゃんを発見して一躍全国に有名になりました。日本全国の人々を幸せな気分にしてくれたのです。
そして彼に関する次の報道に人々は心を揺さぶられたのです。
・・・軽ワゴン車に食料や水、寝袋などの生活用具を積み込み、助ける相手側に迷惑をかけないのが信条です。「自己完結するのが真のボランティアだ」と言うのです。
「対価、物品、飲食、これは絶対、頂かない。敷居をまたいで家の中に入ることもボランティアとして失格だと思っている。私はそれで良いと思うんですよ。人がどうしようと関係ない。尾畠春夫は自分なりのやり方がある。」
私は被災地に行ったら「暑い」とは絶対に言わない。もし自分が被災者であったならば、どう思うのか。ボランティアさせていただいているという立場を忘れてはいけません。・・・

この言葉を残して直後の8月18日には西日本豪雨の被災地の広島・呉市に出発してしまったのです。
西日本豪雨の被災地では、18日も復旧に向けて、多くのボランティアが作業を続けていたのです。尾畠さんがそこで活動するのは、2回目だそうです。
その後尾畠さんに関するニュースは途絶えていました。
それが今朝のテレビニュースで相変わらず西日本豪雨の被災地で泥にまみれて家の下の多量の土砂を取り除く姿が放映されたのです。
その姿とインタビューの言葉は8月15日に理稀ちゃんを発見した当時と全く変わっていないのです。
普通の人なら猛暑の間だけは休むのでしょうが彼は猛暑だろうが何だろうが洪水の泥の撤去作業を一人で黙々と続けているのです。家の下や周囲を綺麗にして貰った老夫婦が心の底から感謝している様子がテレビの画面に写っています。
私は確信しました。尾畠春夫さんは1年後も5年後もこのようなボランティア活動を続ける人だと確信しました。

話は変わります。
一昨日、首都ワシントンでマケイン上院議員のお葬式がありました。
それに関するBBCの報道を以下に示します。

「オバマ氏とブッシュ氏、故マケイン上院議員を称え ワシントンで葬儀」
BBC,9月2日、
8月25日に脳腫瘍のため81歳で亡くなったジョン・マケイン米上院議員の告別式が1日、ワシントンの国立大聖堂で行われた。米政界の主だった顔ぶれが集まるなか、バラク・オバマ前大統領とジョージ・W・ブッシュ元大統領が弔辞を読み上げ、マケイン氏の人間性や政治家としての献身を高く称賛した。
告別式には、オバマ、ブッシュ両夫妻のほか、ビル・クリントン元大統領とヒラリー・クリントン元国務長官、アル・ゴア元副大統領、ディック・チェイニー元副大統領、ジョー・バイデン前副大統領など、歴代の政権幹部が参列した。
ドナルド・トランプ大統領は欠席したが、長女イバンカ・トランプさんとその夫のジャレッド・クシュナー大統領顧問、ジョン・ケリー大統領首席補佐官、ジョン・ボルトン大統領補佐官(国家安全保障問題担当)など、現政権の関係者も出席した。
同じ共和党に属しながら、マケイン氏とトランプ氏は繰り返し表立って対立し、互いを批判してきた。マケイン氏の遺族は、トランプ氏に参列を控えるよう伝えていたとされる。
地元アリゾナ州での追悼式を経て、マケイン氏の遺体はワシントンの連邦議会議事堂に安置された後、国立大聖堂での告別式に運ばれた。35年を過ごした議事堂から大聖堂に移動する途中で葬列は、ベトナム戦争従軍兵記念碑に立ち寄り、シンディ夫人が花輪を捧げた。
告別式の最初に家族代表で父親を紹介した娘のメガン・マケインさんは、ベトナム戦争で撃墜され、5年半の捕虜生活を送ったマケイン議員の思い出を、泣きながら激しい口調で語った。・・・
そして次のブッシュ元大統領の弔辞の一部をお読みください。
・・・「アメリカはもっとまとも」
2000年大統領選の共和党予備選でマケイン氏に勝ったブッシュ元大統領は、マケイン氏の勇気や誠実さ、名誉を称えた。
「ジョンは長い議員生活の中で、自分の国にふさわしくない政策や慣行と何度か対決した。ジョン・マケインはその時々の権力者に面と向かって、『自分たちはもっと、まともなはずだ。アメリカはもっとまともなはずだ』と力説した」
「ジョンは真っ先に、自分は完璧な人間じゃないと認めるはずだ。けれども、人間がこれまで作り上げた中で最も完璧な国の理想のために、人生を捧げてきた」
「そしてジョンは何より、権力の乱用を唾棄(だき)した。偏見と差別にまみれた人間や、えばり散らす暴君は、まったく受け入れなかった」・・・

この葬儀の間、トランプ大統領はゴルフに興じていたのです。皆様はどのようにお感じになりますか。

今日の挿し絵代わりの写真は自宅のノウゼンカズラとムクゲと、よく来るアゲハ蝶の写真です。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)








晴れたので多摩湖と狭山湖周辺の森の中をドライブして来ました

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数日続いた雨が止み午後から急に晴れ上がって青空が見えてきました。
青空に誘われ多摩湖と狭山湖の緑深い森の中をドライブして来ました。

多摩湖は村山貯水池の通称で、狭山湖は山口貯水池の別名です。隣接していますが多摩湖は東京にあり、狭山湖は埼玉県にあります。
この2湖は東京都の水道水に使っているので周囲は立ち入り禁止の森が広大にあります。
その森を風景を楽しむように自転車道路と細い車用の道が曲がりくねってついています。

今日は森の緑に囲まれた道をゆっくり車を走らせてきました。体が樹々の緑に染まったような気分になります。
窓を開けると新鮮な空気が流れ込み蝉の声が森に響いています。

自宅から1時間くらいの所ですが久しぶりに行きました。
晩秋には紅葉が綺麗になる所なので秋には何度も行きます。
先程、撮って来た写真をお送りします。森の新鮮な空気をご想像して頂けたら嬉しく思います。








FaceBookは面白い!その楽しみ方いろいろ

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私は「後藤和弘のブログ」の他にFaceBookという国際的な SNSと日本の趣味人倶楽部にも加入していて、ブログと同じ内容の記事と写真を掲載しています。
するとこのブログとFaceBookの読者層が非常に違うので記事に対する反応が非常に異なっていて面白いのです。
ブログの方は毎日平均約1200人ほどの方が読んで下さっています。
遠方に住んでいる兄弟や昔からの知人や友人には毎日見て下さっている方々もいるのです。感謝の気持ちでいっぱいです。
しかしブログの方の読者は高齢者が多いようです。時々頂くコメントの文章が折り目正しい昔風の日本語のことが多いのです。
一方、FaceBookの読者層は若い人々やフィリピン、タイ、台湾、韓国、中国、そしてアメリカ、イギリス、フアンス、ドイツなどなどのような外国の方々もいるのです。
そのFaceBookには私の友人が2703人もいます。
その方々の一部が毎日短いコメントを下さいます。その上、記事の内容に同感すると、「いいね!」とい簡単な反応を示してくれます。多い日にはこの「いいね!」が100人以上になることも珍しくありません。
FaceBookの私の友人の若いひとは20歳位から30歳代、40歳代、50歳代の現役の男女です。職業も会社勤めの人、自営業の人、看護師、美容師、公務員、教師、主婦などなど実に千差万別なのです。
しかもFaceBook会員はみな社会へ前向きで、常に建設的な意見を持っているのです。そのせいで明るい幸せな気分になれるのです。
ところで私の書く記事は国際情勢や国内政治の問題から観光旅行や趣味の話など話題はなるべく広くしようと努力しています。そして記事を書くときは常に歴史的な記述をまじえて書きます。若い人々に日本の変化をお伝えしようと思っているからです。
もう一つのFacebookの良い点は外国人が自動翻訳機能を使って読んでくれることです。フィリピン、タイ、台湾、韓国、中国、そしてアメリカ、ギリス、フアンス、ドイツなどなどのような外国の方です。
その故に記事を書く時はどこの国の人も傷つけないように公平に書くようにします。このことは私にとっては非常に重要なことです。書く内容が偏狭にないらないで普遍的な内容になるのです。普遍的な価値のある文章を書くというのが私の願望なのです。大げさに言えば私の人生修行なのです。
FaceBookの楽しさは外国の美しい風景の写真や動画を毎日楽しめることです。
自分の趣味だったヨットのセイリングの動画が楽しめることです。とくに繁田 慎吾さんは霞ヶ浦での自分の大型ヨットの動画をよく掲載なさいます。
そして中村文政さんも霞ヶ浦のヨットに泊まったときの記事を掲載してくれます。
私も昔25年間、霞ヶ浦にヨットを係留していたので懐かしいのです。
趣味と言えば、あるポーランドの友人は頻繁に美しい油彩画の大きな写真を掲載します。
楽しい紙面です。
タイ王国のSunitra Satornさんは毎回美しいタイの花々を毎日掲載しています。そして私の記事を翻訳して詳しく読んで下さっています。彼女の知性には感服しています。

FaceBookの楽しさはこれだけではありません。たまには深刻な議論になることもあります。
一例として第二次世界大戦に関する議論を短く簡略にして以下に示します。

今年の8月9日 に私は、「今日は長崎原爆慰霊祭・民家、教会、無差別攻撃の無惨さ」という記事を掲載しました。
その冒頭部分です。
・・・今日は73年前に長崎へ原爆が落とされた日です。長崎で安倍総理も出席する慰霊祭がおごそかに開催されます。
広島への原爆投下は8月6日でした。その日、満州へソ連軍が突如攻め込んで、満州は阿鼻叫喚の地になったのです。そんな中、8月9日、長崎の市民を対象にした原爆攻撃がなされたのです。
長崎市への原子爆弾投下では、当時の長崎市の人口24万人のうち約7万4千人が死亡し、建物の約36%が全焼または全半壊したのです。
原爆投下後の長崎市の写真を示します。・・・

以上の記事に対して以下のコメントを頂きました。
(1)Ken Hoさん(日本在住の中国系のイギリス人)、
毎年日本人は原子爆弾の恐ろしさを皆に思い出させる。そして, それはひどい無差別兵器です.
しかし, 日本は, アジア諸国で何百万人もの死者を出した悲惨な戦争を始めた理由を思い出していない。日本はアジア諸国を植民地にしようとしたのです。
日中戦争での, 中国の民間人の死亡数は広島と長崎よりも多かったのです。中国軍民の死者は2000万人と認識しています。
日本は被害者だけでなく, 戦争での侵略者でもあったことも忘れないようにしましょう。

(2)浦野 明人、
あなたは正しいですが, 私はあなたに完全に同意できません。原子爆弾については, 核兵器がどのように恐ろしいものであるかを世界へ示すことに意味があるのです。あなたは私たちを理解してください。 イギリスとソ連は中国を助け日本を攻撃したのです。
貴方は中国人の死者が2000万人と言っているが、その数はどのように計算するのですか?

(3)Ken Ho、
2000万人とは世界的な認識ではないでしょうか。以下を開いてご覧下さい。
https://www.nationalww2museum.org/.../research-starters...
原爆投下は 最終的には戦争を終わらせるために使用したのです。
もし日本が原爆を持っていたなら, 中国にも使っていたでしょう。

(4)Christian Haenschel (日本在住のドイツ人)
この 原爆は ドイツに 落とす予定でした‼️ ドイツが その前に 連合軍に負けたのに、 日本は それでも 戦争を続けたので 日本に 落とされたのです‼️
ドイツが 負けた時に 日本も 降伏してたら、 広島と 長崎に 落とされなかったでしょう‼️
残念です。‼️

(5)Geneviève Deliryさん(日本語の読めるフランスの女性)
原爆だけは、no more ! です。

(6)後藤 和弘、
Christian Haenschel さん、Ken Hoさん、そして浦野 明人 さん、皆様の意見は大変貴重です。是非、日本人にも読んで頂きたいと思っています。
この3人の意見の交換は日本人の正しい歴史認識に非常に役に立つと信じています。
真剣に討論して下さいました浦野 明人 さん、Ken HoさんとChristian Haenschel さんに深く感謝します。
最後に私の感じ方を言わせて頂ければ、私は、Ken Hoさんの意見に強く同感することを禁じ得ません。
有難う御座いました。
・・・・

今日はFaceBookは面白の楽しみ方のいろいろをご紹介いたしました。
今日の挿し絵代わりの写真は、Sunitra Satornさんへ敬意を表するために「タイの花の写真」を検索して選んだ花々の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘

1番目の写真はタイのスーパの花売り場よく売っているランの花です。

2番目の写真は、日本語名:源平臭木、 タイ語名:プアン・ゲーオ พวงแก้ว (房状になった最高価値の花)の
写真です。

3番目の写真はウドンタニ県クムパワピー郡にある湖、ノーンハーンのハスの花の風景です。

山里の小さな美術館、清春白樺美術館

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今日から小さいけれど本格的な美術館をご紹介して行こうと考えています。
今日は山梨県の北杜市にある清春白樺美術館をご紹介しますが、続いて長野県の安曇野の碌山美術館や茨城県の笠間市にある日動画廊美術館や伊豆の一碧湖の池田20世紀美術館、それから韮崎市の本当に小さな美術館、大村美術館などを紹介したいと考えています。
兎に角、訪れて実に楽しい小さな美術館なのです。
また小さくはありませんが、箱根の彫刻の森美術館やポーラ美術館や長野県の美ケ原高原の彫刻の野外展示美術館などもご紹介したいと思います。

さて清春白樺美術館ですが、それは小さな美術館です。南には白い花崗岩が輝く甲斐駒岳が美しく見え、北には八ヶ岳連峰が見える高台にあります。その高台は少しだけ平地になっていて、一歩足を踏み入れると急にパリの芸術的な香りが漂ってくるのです。
エッフェルが設計した画家たちの集合アトリエのラ・ルーシュがパリの雰囲気をかもしだしているのです。ラ・ルーシュはパリから移築した本物です。
そしてエッフェル塔の階段が庭に展示してあります。
その奥にはジョルジュ・ルオーの油彩画や白樺派の作家達の作品を多数展示してある美術館があるのです。谷口吉生設計の小さいけれども美術館らしい雰囲気の漂う清楚な建物です。
白樺林の中にはルオー礼拝堂もあります。ステンドグラスは彼が作りました。十字架像は17世紀のものをルオーが彩色しました。
敷地の奥にはパリでルノアールに師事していた梅原龍三郎のアトリエが移築され展示されています。

この一画を清春白樺芸術村と言います。銀座の画廊の主の吉井長三が1983年に作りました。
ここは私の山小屋に近いので何十回も訪れた場所です。

1番目の写真は清春白樺美術館の門です。古めかしい鉄門がヨーロッパの雰囲気を出しています。この門を入ると集合アトリエのラ・ルーシュがあります。パリの雰囲気を感じます。

2番目の写真は敷地内にある白樺林の中にある美術館の本館です。ルオーの油彩画多数と、梅原龍三郎、岸田劉生、有島生馬、髙村光太郎、高村智恵子などの白樺派の作品が展示してあります。
そしてこの美術館はよく企画展を開催しています。その予定表は美術館のホームページに出ています。

3番目の写真は清春芸術村にあるレストランです。ここでコーヒーをゆっくり楽しみます。後ろの丸い建物が集合アトリエのラ・ルーシュです。コーヒーを運んできた女性がヨーロッパの人でした。

4番目の写真は白樺林の中にはルオー礼拝堂です。

5番目の写真はルオー礼拝堂の内部です。古いヨーロッパのオルガンがあります。左上のステンドグラスはルオーが作ったものです。

6番目の写真は美術館に展示してあるルオーの風景画です。

7番目の写真は美術館にあるルオーの絵画です。

8番目の写真は十字架にかけられたイエスの絵です。
この美術館はそのものが楽しいだけでなく、近所の雑木林のなかには有名な蕎麦の店「翁」があり楽しい場所なのです。
そこは八ヶ岳高原へ続く高台になっていて畑や林の風景がヨーロッパに似ているのです。
そんな風景と美術がお好きな方々へ心からお薦めしたい場所です。
地図は、http://www.kiyoharu-art.com/ に出ていますので、秋の晴天の日に是非お出掛けになっては如何でしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

マケイン上院議員の葬儀が示すアメリカ社会の健全さ

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私はアメリカが好きです。若い頃に留学し許嫁を日本から招んでアメリカで結婚しました。その時アメリカ人が親身になって私どもを助けてくれたのです。
その後もアメリカ人といろいろな事がありました。
アメリカはベトナム戦争やイラク戦争などなど悪いこともしました。しかし私の感情ではアメリカは理想の国であり続けたのです。
そんな事情もあったので、トランプ大統領の出現以来のアメリカ社会の分裂に心を痛めていました。
多くの日本人はアメリカの混乱を遠方の対岸の火事のように感じ、まあトランプさんもいろいろ面白い事をしてくれると眺めています。
しかし私は理想の国、アメリカが地に堕ちたようで悲しいのです。
トランプさんが大統領になってからもう一年以上になります。
そんな折にマケイン上院議員の葬式がありました。
同じ共和党に属しながら、マケイン氏とトランプ氏は繰り返し表立って対立し、互いを批判してきたのです。マケイン氏の遺族は、トランプ氏に参列を控えるよう伝えていました。
その葬式の時のブッシュ元大統領とオバマ前大統領の弔辞を私は読んで、やっと明るい気分になりました。
アメリカ社会は相変わらず健全なのです。理想の国だと思えるのです。

その弔辞の内容を整理して個条書きにして示します。
出典は、https://www.bbc.com/japanese/45386450 です。

ブッシュ元大統領の弔辞です。
(1)「アメリカはもっとまともだ!」
2000年大統領選の共和党予備選でマケイン氏に勝ったブッシュ元大統領は、マケイン氏の勇気や誠実さ、名誉を称えたのです。そして次のように語ったのです。
「自由の欠落を知る人ならではの情熱で、自由を愛していた」
「ジョン・マケイン氏は長い議員生活の中で、自分の国にふさわしくない政策や慣行と何度か対決した。ジョン・マケインはその時々の権力者に面と向かって、『自分たちはもっと、まともなはずだ。アメリカはもっとまともなはずだ』と力説した」と。
自分たちはもっと、まともなはずだという言い方がブッシュらしくて真情に溢れています。彼は北朝鮮などを「ならずもの国家」と言ったのです。

(2)権力の乱用を唾棄した
「ジョン・マケインは真っ先に、自分は完璧な人間じゃないと認めるはずだ。けれども、人間がこれまで作り上げた中で最も完璧な国の理想のために、人生を捧げてきた」
「そしてジョンは何より、権力の乱用を唾棄(だき)した。偏見と差別にまみれた人間や、えばり散らす暴君は、まったく受け入れなかった」

オバマ前大統領の弔辞です。
(3)マケイン氏を戦士、為政者、愛国者と讃えた
オバマ前大統領は、2008年米大統領選で戦ったマケイン議員を、「戦士、為政者、愛国者」で、アメリカを偉大にしている資質の多くを体現している「傑出した人」と称えた。

(4)一番重要なことは「他人を感動させる力、法の支配や人権といった普遍的な価値観」
オバマ氏は、自分とマケイン氏は生まれ育ちも政治的立場も大きく異なっていたが、「同じチームの所属だというのは、お互い疑っていなかった」と述べ、党派を超えた共通理念で通じ合っていたのだと話した。
「この国の安全や影響力はただ単に軍事力や財力で得るものではないと、相手を意のままにする力で得るものではないと、ジョンは理解していた。そうではなくて、他人を感動させる力、法の支配や人権といった普遍的な価値観を死守する姿勢、そして全ての人間には神から授けられた尊厳があるのだと譲らないこと、そうしたことから、この国の安全や影響力は得られるのだと、ジョンは理解していた」とオバマ氏は述べた。

マケインさんのこと、
(1)海軍提督の祖父と父のもとで育ったマケイン氏は、自分自身も海軍将校となりベトナム戦争に従軍。1967年にハノイ上空で撃墜され、5年半の捕虜生活を送った。撃墜時の負傷の手当てが不十分だったのに加え、たびたび拷問を受けたことから、両腕が上まで上がらないなどの後遺症が終生残った。

(2)選挙資金規正法の改正成立のため民主党議員と協力し、環境保護の推進を支持。イラク戦争開戦は支持したものの、米政府がテロ容疑などで拘束した相手を「水責め」などの手法で尋問するのは拷問だと呼び、激しく批判した。

(3)葬儀で弔辞を読む人に加え、自分の棺を運ぶ担ぎ手の顔ぶれも、マケイン氏自身が選んだのです。
その人選は、党派を超えて活動した生涯を反映するもので、ハリウッド俳優でリベラル活動家のウォーレン・ベイティー氏、無所属のマイケル・ブルームバーグ前ニューヨーク市長、選挙資金規正法改正のため一緒に法案を作った民主党のラス・ファインゴールド元上院議員、ロシアの反政府政治家ウラジーミル・カラ・ムルザ氏、親友のバイデン前副大統領(民主党)など14人が交代で、議員の棺を大聖堂まで運びました。

(4)ジョン・マケイン米上院議員の埋葬
遺体は米メリーランド州アナポリスの海軍兵学校に埋葬された。
1958年に海軍兵学校を卒業し、後に戦闘機パイロットとしてベトナム戦争で戦ったマケイン氏は、近親者や同級生、現在の士官候補生たちが見守るなか、敷地内の墓地に埋葬されました。軍用機の編隊が、上空を飛んで、故人を称えました。
マケイン氏は同級生で友人のチャック・ラーソン提督の隣に埋葬された。ラーソン提督は2014年の時点で、自分と妻、そしてマケイン夫妻のために場所を予約していたのです。
「チャックは、相棒の僚機を取り戻しました」と、提督の妻サラ・ラーソンさんはCNNに話したそうです。

書きたいことはまだありますが、長くなるので終りにします。
やはりアメリカ社会は相変わらず健全なのです。理想の国だと思えるのです。

今日の挿し絵代わりの写真は留学したオハイオ州の北にあるエリー湖の風景と、その東端にあるナイヤガラの滝の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)









世界遺産の富士山の写真を河口湖、西湖、精進湖から写しに行く

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「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」が国連によって世界文化遺産に認定されたのは2013年です。それ以来、富士山の写真を撮りながら、この美しい山が信仰の対象になってきたことを考えています。人々に芸術的な刺激を与えてきたことを想っています。自分のような者でも富士山の写真を写したくなるのも大げさに言えば芸術的な刺激を受けためででしょうか。
昨日はあいにくの曇り日です。しかし雲の位置が遥か高空で富士山の頂上よりも上にあります。初秋の雲が空一面に広がっています。青空でないので鮮明な写真は撮れませんが秋の気配の漂う静かな富士山が写せると思い中央高速道路の河口湖インターを出ました。

1番目の写真は河口湖の旅館街の岸から見上げた富士山です。以前に泊まったことがある美富士荘という旅館の駐車場から見上げた富士山です。
晩秋から冬になると大きな雁の群れが波打ち際を歩いています。沖にはカモ類が泳いでいます。
左の暗い森の下からは河口湖を一周する観光船が出ています。その発着場の周囲には土産物屋やレストランが沢山あって河口湖の繁華街になっています。夏には花火大会もあります。

2番目の写真は河口湖の西の岸辺からの富士山です。コスモスが咲いていました。
コスモスを手前にして秋の風情を出そうとしましたが、あまり良い写真にはなりませんでした。

3番目の写真は同じ河口湖の西の岸辺からの富士山です。ここには何十年も同じ小型のヨットが係留してあります。手入れがしてあるので時々セイリングしているのでしょう。ヨットの主にお会いしたと思っていますが、姿を見たことがありません。このような静かな湖で独りでセイリングしているのでさぞかし高貴な精神の持ち主だろと思っています。富士山とヨットのある風景は好きなの河口湖に来ると必ず写真を写します。

4番目の写真は河口湖から西湖に登って行ったらあったススキの原の風景です。ススキは尾花とも呼ばれ秋の七草の一つです。箱根の仙石原のススキのようだと家内が興奮して撮ってきた写真です。

5番目の写真は西湖の岸辺です。左手の黒々した山はその遥か左にある富士山から流れて来た溶岩が固まって出来た山です。これも富士山の一部なのです。西湖からは溶岩の山のかげになって富士山の主峰が見えにくいのです。
この湖岸は波打ち際まで車を入れて良い場所なので何度も来ました。昨日は暗い雲の下で溶岩の山が晩秋の風景のように写っています。やがて寒い冬もやって来るのでしょう。

6番目の写真は精進湖の西岸から見た富士山です。この近所に昭和天皇の泊まった山田屋旅館があります。
私共も何度か泊まりました。そして昭和天皇がこんなにも質素な宿に泊まったことに驚いたことなどを思い出しました。

7番目の写真も精進湖の西岸から見た富士山です。遠景も写るように撮った写真ですが、こうすると同じ場所からの写真でも随分と印象が変わります。
それにしても富士五湖は随分何度も遊びに来たものです。奥の本栖湖でもカヤック遊びもしました。
泊まったホテルもいろいろでした。何と言っても思い出の深いところは山口湖の夏だけ営業のグランドホテル(横浜のグランドホテルの経営)や河口湖の木造だった頃の富士ビューホテルなどです。この二つのホテルは戦前のリゾートホテルの雰囲気があったのです。そんな雰囲気も消えてしまって何十年にもなります。

昨日を撮って来た富士山の写真をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=======================
「何故、富士山、富士五湖、忍野八海、北口富士浅間神社などが世界文化遺産か?」
2016年08月27日掲載の記事です。

国連のユネスコの世界遺産には3種類に分かれています。知床や白神山地のような自然遺産と、京都の文化財や白川郷の合掌造り集落などの文化遺産、と日本にはまだ無い複合遺産の3種類です。
自然遺産とは文字通り非常に美しい景観の山や湖や海の組み合わせが主なものです。一方文化遺産とは人類の遺産として残すべき人間の作った特別な文化のことでです。
複合遺産とはこの2種類の遺産が複合したもので、日本にはまだありません。

今日、ご紹介する「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」は文化遺産に分離されます。
これは富士山にまつわる信仰や宗教と、芸術活動に対して認定されたものです。
従って富士山や富士五湖や幾つかの浅間神社がそれぞれ単独で認定された訳ではありません。
しかし観光客を集めるためもあって、「世界遺産の忍野八海」を見に行こうとか「世界遺産の北口富士浅間神社」をお参りに行こうという表現がよく使われています。
しかしこの表現は、文化という二文字が省略されているので、しばしば誤解を招くことになります。

さて、2013年に認定された「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」には、それを証明する構成資産が全部で25箇所もあるのです。この25の構成資産の全部を一まとめにして世界文化遺産に認定されたのです。
すなはち富士山、富士五湖、忍野八海、北口富士浅間神社などが世界文化遺産に認定された理由はそれにまつわる文化が貴重だったからなのです。

一昨日、この25の構成資産の一つである北口富士浅間神社の写真をいろいろ撮って来ました。その写真の説明の前にまず全体的な説明をいたします。
静岡県と山梨県にまたがる富士山は古来より信仰の対象とされ、その上、芸術上の主要な題材としてされてきました。
その日本人の富士山にまつわる宗教活動と芸術活動が国際的に非常に貴重だと認められたのです。
それでは芸術活動とは具体的に何を意味するのでしょうか?
今から約1,200年前、奈良時代にはすでに富士山を題材にした歌が、日本最古の歌集である「万葉集」に詠まれています。
また、富士山は、『竹取物語』や『伊勢物語』などの古典作品をはじめ、俳句や漢詩、夏目漱石や太宰治の文学作品にも取り上げられてきました。
絵画の世界では、平安時代から富士山は絵画に描かれるようになります。現存する最古の絵画は、『聖徳太子絵伝』です。
そして江戸時代になると、富士登山が「富士講」等を通じて庶民に爆発的に人気となると、富士山も多くの絵師に描かれるようになりました。葛飾北斎の『冨嶽三十六景』や歌川広重の『不二三十六景』、『東海道五拾三次』など、様々な場所から見た富士山が浮世絵に描かれています。浮世絵が海外に輸出されるようになると、ゴッホやモネなど、西洋の芸術家にも大きな衝撃を与えました。

それでは一方の宗教活動とは何でしょうか?
それは富士山信仰のことです。富士山そのものを信仰の対象としたもので修験道の山行きとそれを支える幾つかの登山口にあるそれぞれの浅間神社です。修験道の山行きが重要なので吉田口や須走口から登る登山道などもこの文化遺産に含まれているのです。
それでは構成資産の一つである北口富士浅間神社を一昨日撮って来た写真に従ってご紹介いたします。
・・・・以下は省略します。・・・・・

平野茂樹著、「今回のジャカルタで開催された第18回アジア競技大会に想う」

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始めに著者の平野茂樹さんのご紹介をしたいと思います。
平野茂樹さんは昔、私が仙台に住んでいたころの近所の友人でした。今年の3月に大磯のプリンスホテルで60余年ぶりにお会いし、彼の実に興味深い趣味のお話を伺いました。そこでいろいろな面白い話をこの欄に寄稿して下さいとお願いしました。
朝日新聞で停年まで働いていたことは知っていましたが彼の趣味の世界は知りませんでした。
白馬の麓に大きな山小屋を3回も建てかえて、仲間と楽しく登山やスキーの基地として使っています。そしてヨットも楽しんでいることを話してくれました。
平野茂樹さんは親切で魅力的な人間です。おのずと仲間が彼の回りに集まってきます。
人との付き合い方が下手な私にとっては感動的な存在です。
そして、平野茂樹著、「カンボジアの夕日と子供達の瞳に魅せられて」(2018年03月05日掲載)という記事をご寄稿してくださいました。
そして「奇跡の山小屋と呼ばれ続けて! =半世紀以上続いた3つの謎」(2018年03月10日掲載記事)もご寄稿頂きました。
今日、以下にある記事は平野茂樹さんによる3番目のご寄稿です。
平野茂樹さんへ感謝しながら皆様へお送りします。
===平野茂樹著、「今回のジャカルタで開催されたアジア大会に想う」===
仙台の時代からのある親友の長期海外滞在で頑張っている場所がインドネシアのジャカルタでした。
そのジャカルタが今回のアジア大会の開催地だったです。それで今回の退会は始めから興味深く見ていました。
そうしたら日本選手の活躍が、大会が進むに従って期待を大きく上回ってきたのです。
国内の次期総裁選絡みの報道をはじめ国内のニュースにはあまり興味が持てなかったので、時間が空けば民放とNHKBSでアジア大会を観ながら日本選手を応援していました。

大会が始まる前の国内のスポーツ関係の出来事と言えば、日大のアメフト問題を皮切りに、ボクシング団体や体育協会の体質が問われる問題が続き暗い話が続いていました。
そんな折、アジア大会を応援することで気分が晴れたのです。
国の威信を背負った健気な若い選手たちの頑張りと、良い結果を見せられているうち、どんどんアジア大会の面白さに引きずり込まれてゆきました。
終わってみれば、日本の成績は、質(金)量(メタル数)ともにアジアナンバー2の座を、余裕を持って堅持できていました。
一方、韓国で選手が兵役免除の特権を与えられ、アジアナンバー2を目指していましたが、結果は第3位でした。
しかしもちょっと待ってください! 日本が韓国を大きく切り離したからと言って、手放しに安堵してよいのでしょうか?
 不思議な現象ですが、今回のアジア大会では、朝鮮半島関連で、元々同一民族だった国が、3つ登録されています。韓国、北朝鮮、それにコリア(南北合同チーム)3国です。
 この3国の金銀銅を合算してみましょう。韓国(49、58、70)、北朝鮮(12、12、13)コリア(1、1、2)合計218(62、71、85)、一方日本は205(75、56、74)で、勝っているのは金だけで、銀と総計では負けています。五分五分です。質で勝って量で負け、まぁ拮抗しているとみてよいでしょう。

一方、中国と比べると比較になりません。質、量、ともに断然一位です。
 負け惜しみで、人口が13.9億と1.3億と10倍違うし、中国は国営プロ集団で、日本はアマチュア中心の違いがあると言い訳していて良いのでしょうか?

ちょっと視点を変えて考えてみよう。
人口統計を持つ世界約190カ国の総人口約73億人のうち、アジアの人口は約40億人で、全体の54%です。
中国、インドという、いずれも10億を超える2つの人口大国を持つアジアとは言え、世界の半分以上をはるかに超えた民族がアジア人なのです。
 このうち、スポーツ、芸術を含めた近代国家として世界に通用する国は、日本を除くと、中国、韓国、台湾ぐらいと私は思います。
 戦前、善悪は別とし、近代国家として欧米に追いつき、追い越せと切磋琢磨した日本が、中国大陸の中に満州帝国をつくり短期間ではあったが、ヨーロッパ諸国に負けない近代国家を造り上げました。
そして中国、韓国、台湾だけが、現在、近代国家として世界に通用しているのです。
 東南アジアの多くの国々は、戦前、ヨーロッパの植民地として利用されたが、近代国家としての国の形や教育がなされていなかったため、スポーツと芸術を含む近代国家として現在、世界に通用していないのではないでしょうか?
今回のアジア大会の結果は、以上のことを良く現していると思いますはいかがでしょうか?
 戦前の日本国家の行動を正当化する考えは微塵もないが、アジアの歴史を考えさせる大会でした。

さて今度は日本だけに絞って考えてみよう。
日本の戦績から日本の現状を推察してみよう!
水泳で6冠を達成し、女性初のMVPを授賞した、スーパー高校生・池江璃花子の出現があったとは言え、75個の金メダルの半分以上は日本女性選手が獲得し、アジア大会初めての女性MVPも日本選手が獲得した快挙を成し遂げました。
スポーツの世界を切っ掛けに、日本のウーマンパワーが世界に向けて動き出した年とわたくしは捉えたい! 
2年後の東京オリンピックの年を元年とし、女性の新しい時代をスタートさせたい。
いままで地球の歴史を男性中心に創り上げてきたが、女性中心に徐々に切り替え、女性の本能を100%生かした平和主義が人類に定着するまで、一旦女性にすべてを委ね、男性はサポート役に徹する時代をスタートさせたい。
男性中心の武力集団が、多くの地球上の女系中心の先住民を征服し、男色文化で作り上げてきた地球の歴史が、いま、行き詰っていると、私は見ている。
武力中心でしか運営できない男性哲学に、一旦遠慮していただき、武力亡き地球の歴史が動き出すまで、女性にすべてを託してみる哲学を確立し、実行に移しだすのを見届けたいと想う。
アジア大会が終わり、私は本気で以上のことを考えている。みなさん! お笑いください!
(9月3日 平野茂樹)






信州、安曇野にあるロマンチックな碌山美術館

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はじめに碌山美術館の写真をご覧ください。この1番目の写真は蔦のからんだ赤レンガの美術館で、昨年5月に撮ったものです。
教会風のロマンチックな建物です。
この碌山美術館は信州の安曇野にあります。背景には夏でも雪のある北アルプスの山稜が見えています。その前は湧き水が豊かに流れるワサビの畑が広がっているのです。
周囲の風景だけでも楽しい場所なのです。
しかし中に展示してある萩原碌山の彫刻が素晴らしいのです
まだ若かった妻が私に彫刻の美しさを教えてくれた場所です。それまで彫刻をあまり見たことのなかった私は碌山の彫刻を見て、その魅力を知ったのです。それ以来、信州に旅をするたびに何度も訪れた小さな美術館です。

碌山は明治12年、長野県安曇郡東穂高村に生まれ30歳結核で死にました。同じ安曇野出身の相馬愛蔵・黒光の新宿中村屋で亡くなったのです。たった30年の生涯でした。
碌山はパリでロダンの作品に感動し、日本へ西洋の彫刻を導入する決心をしたのです。
現在の日本の彫刻界の隆盛はこの碌山から始まったのです。

萩原碌山はニューヨークに住みながらパリにも滞在しました。そこでロダンの彫刻を見て感動し、自分でもブロンズ像を作り始めます。
その碌山は1879年(明治12年)に長野県南安曇郡東穂高村に5人兄弟の末っ子として生まれます。
少年の頃にキリスト教に接し、安曇野で断酒会に入会します。洗礼も受けたのです。
この経験が西洋へ目を向けるきっかけになったと考えられます。
明治34年より渡米、ニューヨークで西洋画を学びます。そして1904年 (明治37年)パリでオーギュスト・ロダンの「考える人」を見て感動し、彫刻家になる決心をします。
1906年 (明治39年)に再び渡仏し、アカデミー・ジュリアンの彫刻部に入学します。
1907年 (明治40年)にはロダンに面会をはたします。そして「女の胴」や「坑夫」などを制作します。
彼はパリで西洋文化の彫刻の魅力を身をもって理解したのです。
1908年(明治41年)に帰国し、新宿の中村屋にて彫刻家として活動を始めます。
そして「文覚」が第二回文展で入選します。
1909年 (明治42年)には「デスペア」を制作し。第三回文展に「北条虎吉像」と「労働者」を出品します。
1910年 (明治43年)に「母と病める子」や「女」などを制作しますが、4月22日急逝します。しかし第四回文展にて「女」を文部省が買上げました。

萩原碌山は30歳の若さでこの世を去りましたが、日本では生前から高く評価され、文部省主催の『文展』にも何度も彫刻を出展したのです。西洋の彫刻の魅力を紹介したのです。このお陰で日本でも数多くの西洋流の彫刻家が育って来たのです。

さてロダンと碌山の彫刻の違いは何でしょうか?
ロダンの彫刻は上野の西洋美術館や箱根の彫刻の森美術館にあります。
そのロダンと碌山の違いを私個人の感じで言えばロダンは力強く自分の哲学を主張しています。西洋人の特徴の自己主張が強いのです。
しかし碌山の彫刻は内省的、繊細で東洋的な美しさを感じさせます。
例えば代表作の『女』は両手を後ろに回し縛られているように見えます。顔は天を仰ぎ悲し気です。体のフォルムは東洋の女です。何故か女性の精神性を感じさせる作品です。
ロダンの力強い自己主張を真似た「文覚」や「労働者」という作品もありますがロダンほど力に溢れていません。
ですから萩原碌山は彼の独創性で西洋と東洋の文化の融合を示したのです。
そんなことを考えさせるのが信州、安曇野の碌山美術館なのです。
写真で碌山美術館の様子を示します。

2番目の写真は蔦の覆われた碌山美術館の正面です。

3番目の写真は明治42年の第三回文展に出展した「労働者」です。

4番目の写真は碌山美術館の内部の様子です。

5番目の写真は遺作・明治43年の第四回文展で文部省が買い上げた「女」です。

6番目の写真は萩原碌山です。
萩原碌山は30歳の若さで亡くなりましたが日本へ西洋彫刻の芸術性を伝えた大きな功績を残したのです。その事を凝縮したような小さな美術館です。大きなことを感じさせる小さな美術館です。
あまり考えて頭が疲れたら近くに十王ワサビ園があります。北アルプスの湧き水が悠然と流れ水車が回っています。
そして大町の丘の上にある山岳博物館からは緑の安曇野と背景のアルプスの山並みが一望出来るのです。少し足を伸ばせば仁科3湖の岸辺を通って白馬へも行けます。
碌山美術館の周囲も楽しいところなのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

我が町、小金井とはこんなところです

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午前中に駅前のイトーヨーカドーに行きました。その6階の駐車場から写した小金井の写真をお送りいたします。

1番目の写真は小金井市の北西の半分です。西には奥多摩の山々が連らなって見えます。南西には丹沢の山稜があり、その上に富士山が見えます。

2番目の写真は学芸大学の敷地にある森です。私の家はこの森の手前にあります。

3番目の写真は小金井市の北方角の写真です。北側は小平市に接していてその先は茫々たる関東平野です。

4番目の写真は小金井市の北部を占めている都立小金井公園です。

5番目の写真は小金井市の南部を占めている都立武蔵野公園です。
我が町の自慢はこれらの2つの広大な公園があることです。
JR中央線の小金井駅から新宿まで30分で東京駅までは45分です。
緑が多くて静かな住宅街が広がっている町です。
ついでに参考資料もお送りします。
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小金井市は、東京都のほぼ中央、武蔵野台地の南西部にあり、都心から約25km西方に位置しています。
 市の東は武蔵野市、三鷹市、西は国分寺市、南は調布市、府中市、北は小平市、西東京市に接しており、市の中央部には中央線が東西に、東南部には西武多摩川線が南北に通り、中央部には小金井街道が南北に、北部には五日市街道が東西に通っています。

2万年以上も前から人が住みはじめ、江戸時代、玉川上水が完成し、新田開発が活発となり、急速に集落が発達しました。戦後、住宅都市化が進み、人口が約4万人となった昭和33年10月1日、市制を施行しました。その後、人口は急増し、現在は、11万人を超える人が小金井市で暮らしています。市内に大学、研究施設が設置され、住宅都市、文教都市としての性格が強いまちです。

小金井の地名の由来
 小金井の地名は、「黄金に値する豊富な水が出る」ことから、黄金井(こがねい)が小金井になったと言われています。 (東京の名湧水)
 また、中世には、現在の前原町南部が金井原(かないはら)と呼ばれており、あるいは、土地の支配者金井氏にちなむ地名という説もありますが、明らかではありません。

カトリックとプロテスタントの違い、マリア信仰の有無

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今日は日曜日なのでカトリックとプロテスタントの違いの一つのマリア信仰の有無について気軽に書いてみます。
気軽にご覧下さい。
キリスト教はカトリックとプロテスタントとに別れます。1517年のルターの宗教改革の後で生まれたキリスト教のいろいろな宗派をプロテスタントと言います。そしてその以前から連綿と続くのがカトリックです。
この2つの分類は大まか過ぎます。この2分類の他に私が好きな宗派のロシア正教や日本正教もあります。これらもカトリックに非常に近いものです。
イギリスの聖公会はカトリック的な典礼を用いますが信仰の内容はプロテスタント的です。ようするに中間的です。
それではカトリックとプロテスタントの違いは何でしょうか?
神学的には難しい説明がありますが、カトリックの一信者として簡単に言えば、カトリックではマリア様への信仰が重要ですが、プロテスタントにはそれがありません。

1番目の写真はカトリック小金井教会のマリア像です。幼いイエスを抱いています。

2番目の写真は他の教会のマリア様の写真です。カトリックの教会の中にな必ずこのようなマリア像があります。

くどくど書かない方が良いのかも知れませんが、凡俗な一信者としてのマリア様への祈りについて少し説明いたします。
マリア様への祈りは「甘えた祈り」なのです。病気が直りますようにとか、家内安全を祈ります。イエス様には恥ずかしくて出来ないような利己的なお祈りをします。
しかしイエス様へは東日本大震災で被害にあった方々のために祈ります。イエス様の慈しみが豊かにありますようにと祈ります。世界の平和も祈ります。イエス様へは利己的な身勝手なお祈りはしません。それを引き受けてくれるのがマリア様です。
マリア様は仏教の観音さまのような方です。
このようなことを書いてましたら、山梨県の韮崎市にある巨大な観音像を思い出しました。

3番目の写真は韮崎市にある巨大な観音像の写真です。
観音さまはお釈迦様の知恵や慈悲のシンボルなのです。男性でも女性でもありません。中性です。韮崎の観音像は間違っているという人もいますが、作った人の気持ちを考えるとほほえましいですね。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
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