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今日のミサと長寿の祝い

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今日は普通の主日のミサの中で高齢者の長寿も祈りました。敬老の日を早めに祝ったのです。
神父さまが皆に上げる記念品を聖別して、その後に77歳以上の信徒に配りました。
ミサ終了後、記念撮影をし、その後で「長寿を祝う集い」がありました。
帰りにバウムクーヘンのお土産を貰って帰って来ました。
カトリック小金井教会は1600人位信徒がいますが、77歳以上の信徒は200人以上いるそうです。
高齢化も進みまししたが最近、小金井教会から2人の神学生が生まれました。
これも喜ばしいことです。今日写してきた写真をお送りいたします。

1番目の写真は普通のミサどうりに聖餅(聖なるパン片)を加藤主任司祭が信徒一人一人に手渡している場面です。

2番目の写真は記念品の入った籠へ加藤神父様が香の煙をかけて聖別している場面です。

3番目の写真は加藤神父様が聖別した記念品を77歳以上の信徒一人一人に手渡している場面です。

4番目の写真は記念品として頂いたマリア様の聖画です。

5番目の写真は「長寿を祝う集い」の光景です。ミサ終了後、記念撮影をし、その後で「長寿を祝う集い」がありました。

カトリック教会は世界各地に総計22億人の信者がおりますが、各地の祝日を尊重してミサの中で一緒に祝います。
日本では七五三の祝いやお正月や成人の日なども大切にしています。通常のミサの中でそれぞれの祝日の祈りもします。日本の26聖人のためにも祈っています。
ローマ法王はこの現地主義を重要なことと考えているのです。

八百屋さんが作った本格的な川越美術館

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この美術館は三栖右嗣記念館です。正式にはヤオコー川越美術館ー三栖右嗣記念館と言います。三栖右嗣は「みす ゆうじ」と読みます。
この美術館は埼玉県で八百屋さんをしていた川野トモさんが作ったのです。
三栖右嗣さんの絵画を蒐集し展示してある小さいながら芸術性あふれる美術館です。館内にカフェもあり楽しい美術館です。
この美術館を作った川野トモさんがある日、三栖さんのコスモスの絵に感動し、その後三栖画伯と親交を深めました。
そして自分の住む川越市に2012年ご子息幸男さんとヤオコー美術館を建てたのです。そしてそこには三栖右嗣さんの絵画だけ33点を集めて常設展示しているのです。
建物の設計は伊東豊雄氏です。川越の新河岸川のほとりの閑静な場所にあります。
川野トモさんは本当に絵が好きな方だったのです。
それではヤオコー川越美術館に展示してある三栖右嗣画伯の油彩画の写真を示します。

1番目の写真は「麓郷早春」と題した長い大作です。北海道の大地の生命感を力強く描いた1982年の作品です。圧倒されました。

2番目の写真は「信州うみのくち」という題で1997年作、60号の大作の油絵です。
雪の降る木崎湖です。湖面には沿岸の雪が写し出され何故かシーンとした気分になります。私の好きな情感豊かな絵です。

3番目の写真は「春園」という題の大作の部分です。三栖さんの晩年の傑作です。

4番目の写真は冬の北海道の牧場風景です。この絵は展示されていませんでした。

5番目の写真は冬の灯台風景です。

6番目の写真は川越美術館の展示室の風景です。内部の展示室はこのような部屋が二つあり、三栖右嗣さんの絵画だけが33点も展示されているのです。そして33点の絵画の題目や描かれたいきさつが丁寧に説明されています。

7番目の写真はもぅ一つの展示室です。大きな油彩画が間隔を開けてゆったりと展示してあります。

8番目の写真は展示室を出たところにあるカフェです。壁には三栖さが描いた櫻花の大作が掛けてあります。

川越美術館は去年訪問しました。それは驚きと感動の体験でした。
そしてスーパーを経営する川野トモさんと子息の幸夫氏が立派な美術館を作ったことにも感動したのです。
川越からの帰りの車の中で家内が三栖右嗣さんは一流の芸術家だ、そして安井曽太郎や木下孝則の画風に似て柔らかな写実が優しいですねなどとつぶやいていました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料==============
(1)ヤオコー川越美術館のホームページ、
    http://www.yaoko-net.com/museum/
(2)三栖右嗣さんの略歴、
ヤオコー川越美術館がコレクションする作家三栖右嗣は、埼玉県比企郡ときがわ町にアトリエを構え、制作活動をおこなってきました。 現代リアリズムの巨匠といわれ、人気作家であった彼の作品は、単に写真のように対象を精緻に写し取るリアリズム絵画ではなく、彼の優しい視点が反映された人間味のあるものです。物を捉える並はずれた技術力と温かみのある描写の作品の数々は、何度でもその前に足を運び、対峙したくなる非常に質の高い、充実したコレクション群です。
略歴 :
1927(昭和 2年) 神奈川県に生まれる。
1952(昭和27年) 東京藝術大学(安井曽太郎教室)卒業。
1972(昭和47年) アメリカにアンドリュー・ワイエスを訪ねる。
銀座・飯田画廊にて昭和51年(1976)まで毎年個展。
1975(昭和50年) 沖縄海洋博覧会「海を描く現代絵画コンクール展」に『海の家族』を出品、大賞受賞。沖縄県立博物館蔵。
「大賞受賞記念 三栖右嗣展」<読売新聞社主催><新宿伊勢丹>
1976(昭和51年) 第19回安井賞展に『老いる』を出品。安井賞受賞。東京国立近代美術館蔵。
皇太子殿下(現:天皇陛下)依頼により『沖縄の海』を制作。東宮御所蔵。
1977(昭和52年) 国立公園協会の依頼により『小笠原・父島より南島・母島を望む』を制作。同協会蔵。
個展<上野松坂屋>。
1979(昭和54年) クライスラー画像<スペイン・マドリード>にて個展。
個展<上野松坂屋、松坂屋本店(名古屋)>。
中略:
1994(平成 6年) 緞帳『薫風』を制作<玉川村文化センター>。
1995(平成 7年) 個展 <松坂屋本店(名古屋)>。
1996(平成 8年) 『爛漫』500号を制作<(株)ヤオコー本社>。
リトグラフの2世紀記念展に招待出品<フランス>。
2010(平成22年) 4月 逝去 享年82歳
2012(平成24年) 「ヤオコー川越美術館 三栖右嗣記念館」開館。

深大寺界隈の森の写真

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緑深い森の風景を毎日眺めて暮らしたいと思います。
そこで今日は深大寺界隈の森を眺めて来ました。家から車で30分ほどの距離です。
深大寺は大きな森の中に埋まっています。お寺の裏山の森も広いのです。
その裏山に続いて武蔵野の雑木林が西の方へ伸びています。
その広大な武蔵野の雑木林が東京都の神代植物園になっています。
それを大きく一周するように細い自動車道が出来ています。その道路は緑の樹木のトンネルなのです。
写真を撮っていると自分の体も緑色に染まるような気分がしました。
そんな写真をお送り致します。
はじめの3枚は深大寺界隈の森の写真です。終りの2枚の写真は帰りがけに通った武蔵野公園の森の風景です。









白崎謙太郎著、「往年の名画、『カサブランカ』と『秋のソナタ』について」

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時折この欄へご寄稿下さっている白崎謙太郎さんから、原稿をまた頂きましたので以下にお送りいたします。
===================================
白崎謙太郎著、「往年の名画、『カサブランカ』と『秋のソナタ』について」

高齢者の方々は「カサブランカ」という映画を憶えていると思います。
1943年に作られ、日本では戦後に上映された名画だった。
大甘のラブロマンスで、この映画が好きだというのはちょっと気恥ずかしくもあるのだが、最近アメリカの脚本家組合1万人のアンケートでは、過去のハリウッド映画で一番優れた脚本という結果だったそうだ。
ご存知とは思うが荒筋を書く。
時は75年前、ナチがほぼヨーロッパ全域を制圧し、レジスタンスも弾圧されている頃の話だ。
アメリカなどナチの影響を受けない地域に逃れるために、金に恵まれた人たちは脱出ルートの起点になるフランス領のモロッコのカサブランカに集まる。そこもドイツ軍が一応、占領している。
アメリカ人の名優ハンフリー・ボガード演ずるリックもパリから逃れてきてカサブランカで酒場を営んでいる。
そのアメリカ人のリックの眼前に以前パリで恋仲だったバーグマン扮するイルザが現れる。愛し合った男の店と知らずに来る。
バーグマンと一緒に来た夫は彼女のパリ時代に行方不明になっていたレジスタンスの闘士。
パリでリックとつき合っていたときの彼女は夫はもう死んでしまっているのだと信じていたのだ。

パリを離れる日、土砂降りの駅で来るはずの彼女を待つトレンチコートでずぶ濡れのリック。信頼している黒人のピアノ弾き語りのサムが彼女の別れの手紙を持って駆けつけてくる。そこには行けなくなった、もう会えない、だけどあなたを愛している、とある。手紙は雨に濡れインクが空しく濡れて滲む。あきらめきれないリックをサムが促しナチが迫り来るパリを離れる。

パリ時代の恋人同士、イルザとリックが再会したのがここカサブランカのリックの酒場。リックは未練と自分を裏切ったイルザへの思いが断ち切れずにいる。そうだろうあれから半年、いや1年ほどの月日しかたっていなかったのだ。
酒場に入って来た女は昔のように弾き語りをするサムがいるのに驚く。サムにあの曲を弾いて歌ってよ、と頼むが、サムは忘れたととぼける、女はメロディーを口ずさみ、サムもやむなく弾き語りで「時の過ぎゆくまま」を弾き始める。
パリでイルザとリックが一緒に良く聴いたサムの弾き語りだ。リックには辛すぎる。ここではサムに弾かせないでいた。
聞きつけたリックが店の奥からサムに駆け寄り、その曲はやるなと言ったではないかと怒る。サムは弾き続けながら、視線を彼女の方へ送る。
リックとイルザの目が合う。
この時のシーンは歌舞伎の名場面のように切ない。特に音楽「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」はこのシーンと共に日本人のジャズファンの最も好きなバラードの5指に入る人気になった。
アメリカでジャズピアニストをしている娘の彩子へ今でも多数のリクエストが来る曲だ。

さてリックにしてみれば、パリで突然裏切られ、やっと未練が断ち切れようというときに、夫婦でおめおめと現れるイルザを、二人だけの時激しくなじる。
イルザ夫婦はナチの追っ手を逃れ、アメリカに亡命したかったのだ。その玄関口にあるカサブランカで、まさかリックに会ってしまうとは。
しかもその旅券をリックだけが持っている。女は旅券が欲しい、リックはおめおめとわたす気にはならない。女は拳銃を突きつけたりするが、もとよりリックが憎いわけではない。交渉の過程で激しく愛し合ってしまう。女の気は揺らぎ、高名なレジスタンスの闘志の尊敬する夫を捨ててリックとアメリカにとさえ思うのだ。
リックも迷う。女はリックと行きたい、と思うようになる、しかしリックは自分はあきらめて女と夫を旅立たせる。
イルザと一緒に来た夫はリックを残して飛行機でカサブランカを飛び立つ。中立国のポルトガルを経てアメリカに行くのだ。

この映画で描かれている女と男、女は優柔不断、身勝手、貞操観念を捨て去るのをためらはない。男にとっての女の残酷さ、身勝手さをさらけ出している。こんな女を夫も、リックも信ずることは出来ないではないか、「君の瞳に乾杯」と言わしめるような美しい女であっても、いやそれ故にこそ。
まあ男女の愛とはそういうこと、何もないよりは良い人生だと思うよりしょうがない。
イングリッド・バーグマンはこの映画を嫌いだったようだ。彼女の自伝で、制作中の秘話を空かしている。脚本はクランクインの時できていないで、作りながら脚本が届く始末、しかも脚本家と監督はしょっちゅう意見が対立し、筋もどうすすむのかわからない始末だったのだ。バーグマンはたまりかねて、撮影途中、いったい私はリックを愛するの、それとも夫を愛するのと監督と脚本家に詰め寄ったとのことなのだ。そんなことさえ決まらないで撮影はすすみ。結局あの名高いラストシーンへ至るのである。

そんな支離滅裂な映画だったにもかかわらずこの映画がアメリカ映画史上最高の脚本と言われるのは実は映画芸術が集団製作だという本質がまれに見るくらいうまく機能したからなのだ。
言い換えれば監督と脚本家の激しい対立がなければこんな素晴らしい映画にはならなかったのだ。

土砂降りの雨のパリの駅のシーン、女を待つリックの所には一通の手紙が来る。雨に濡れてインクの滲む文面は別れの手紙。
リックの着るトレンチコートもびしょぬれ。あの極上の名場面。
世界中の男が、トレンチコートを買うときあのシーンのハンフリー・ボガードの姿を想起するのだ。あのシーンは脚本にはなく、監督の独断で入れてしまったとのことだ。しかしあのシーンこそ、名場面だ。なんといってもトレンチコートを世界中の男があこがれるようになっただけでも。・・・

さてここから話が「秋のソナタ」に変わる。
25才の美しかったバーグマンも40年も時を重ねれば65才、女の年輪を重ねなくてはならない。
「秋のソナタ」はバーグマン最後の作品、監督はベルイマンである。
ここでのバーグマンは老い始めた容姿をさらけだし、それ故にこそ、圧倒的な存在感である。
高名なピアニストであるバーグマンは、数年ぶりに仕事がとぎれた数日間を田舎の教会の牧師と一緒になっている娘を訪ねる。
牧師と一緒になった娘夫婦は平穏に過ごしている。
しかしバーグマンにはもう一人下の娘がいるのだ。この娘は青春時代に病魔におそわれ、今では 寝たきりで介護の手を借りなくては寝返りも打てず、言語障害もある。
バーグマンはこの娘のことを忘れていたい。そうしないとステージに上がったときにも演奏に没入できないのだろう。
バーグマンは会いたくないのだが、時々、寝ている次女の所に行って優しく声をかける。しかし忘れていたい。しかし牧師と一緒になっている娘を訪てみると、そこ障害者の次女がいるではないか!
長女にどうしてあの子がいるということを前もって知らせてくれなかったのか。いるのなら来なかったとなじる。
その理不尽さをあらわにするのはやはり母と娘の遠慮の無さだろう。
長女もそれをきっかけにして、幼児の頃から演奏旅行に出て不在がちな母の冷たさを責めるのだ。
演奏旅行で家に居ない母、その母に接したい思いが叶わなかったこと、家にいても練習中だと言ってそばに寄ることさえ冷たく拒否された悲しさ、そして存命中だった父さえ孤独で寂しさに耐えていたこと等を口を極めて母を攻める。
この二人のせめぎ合いというか、ほとんど一方的に長女が母を攻める場面は圧倒的だ。多分始めての母への反抗だったに違いない。
特に少女時代初恋の相手との間に子が出来てしまい、若すぎるといった理由だけで娘に中絶させたときの恨み辛みを言うときはクライマックスといえる。それを物陰で聞いてしまった牧師の夫の無表情だがじっと耐える姿勢も感動的だ。
別室で寝返りも出来ない病気の次女が、なんとか母の近くに行こう、母に見つめてもらおう、母に抱きしめてもらおうと思い、渾身の力を振り絞りベッドから身を落とし、芋虫がはうように母の声のする部屋にゆこうともがく姿を、アップで克明に描くベルイマンのリアリズム。母と長女、母と次女それぞれの親子愛、親子の残酷さ、監督は直視する。人間なんてそんなに美しいものでもないし、見捨てるほど悲しいものでもないのだということを画くのだ。

母は長女の家を去る日が来た。数年ぶりで来てよかったのか、会って良かったのか、しかしお互いの思いのたけをさらけ出し、絆は一歩深まったとも思う。
長年の演奏活動で慢性的な背中の痛み、加齢による力の衰え、演奏家としての寿命もそうは長くなかろう。次女は遠からず死ぬだろう。
牧師の夫は妻の過去を知ってしまったが、知らない振りをして耐えている。そして優しさを絶やさない。
長女夫婦は次女の妹を介護しながら、平穏な日々を、いや何があっても固い絆を切らさずに日々を送るだろう。
バーグマンは愛人でもあるらしいマネージャーに「私にはあなたがいるわ」と気弱にすがるようなまなざしを送り、次の演奏会の場所に行く。
若い頃の水も滴る美貌はもはや片鱗が残っているだけである。人間の弱さ、醜さをさらすバーグマンは私には「カサブランカ」のバーグマンよりずっと美しく見えるのだ。
役中の彼女は芸術家である。芸術とは平穏な親子関係、人道的な感情をも犠牲にしてもよいほどのものなのか。それほどの崇高なものなのかと問うているのだ。おそらくは否であろう。
しかし彼女の感動的なピアノ演奏は世界中の聴衆を感動させ、悩みを和らげ、失恋の痛みをいやし、労働のつらさを忘れさせ、死の恐怖さえ忘れさせるのだ。(終り)
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著者の白崎謙太郎さんの紹介:

この欄で2011年11月30日に『白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(1)全体の構成、そして渡辺修治さんとの絆』という記事を掲載しました。
2017年08月04日 に『新刊紹介、白崎謙太郎著、「小網代ヨット史」』という記事を掲載しました。
そして今年は『明治・海・2人ースクーナーとカヌー』という本を白崎さんが執筆し出版しました。
この白崎さんの人となりは次の記事にあります。
「インターネットを拒絶する白崎謙太郎の写真芸術の世界」(2018年04月10日掲載)
併せてご参照下さい。

今日の挿し絵は『カサブランカ』の写真5枚と『秋のソナタ』の写真2枚です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)












ノーベル賞の大村博士が山里に作った小さな美術館

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大村智博士は2015年の秋にノーベル化学賞を受賞しました。その大村さんは昔から美術が好きで2006年には山梨県韮崎市の山里に小さな美術館を作りました。鈴木信太郎が好きで多数の油彩画を常設展示しています。そして2007年にはこの美術館を韮崎市に寄贈します。
それ以来、この美術館は時々、特色のある企画展を開催してきました。
2015年の初頭に企画展の森田元子絵画展があったので見に行ったのです。それは大村さんがノーベル賞を貰う10ケ月前のことでした。

今日は韮崎大村美術館をご紹介します。楽しい小さな美術館です。
そして森田元子さんの絵画と鈴木信太郎さんの絵画もご紹介しようと思います。

さて日本には実業家が作った美術館は沢山ありますが、学者が特許料で作った美術館は珍しいのではないでしょうか?
大村さんは、韮崎の農家に生まれ、山梨大学を卒業した生粋の甲州育ちの方です。
山梨大学には昔、私の友人もいて何度も訪問した大学でした。その山梨大学からノーベル賞受賞者が出たのですから素晴らしいことです。地元の韮崎市の方々や山梨大学の方々の喜びが目に見えるようです。
それはさておき私どもは韮崎市の隣の北杜市に山の小屋を45年間持っていて韮崎には何度も行きました。カトリック韮崎教会のミサにあずかったこともあります。

3015年の1月9日に森田元子絵画展を見に行った時、薬学者の大村さんが美術に深い造詣があることを知り、その幅広い才能に驚嘆したものでした。2階には鈴木信太郎の絵画も数多くあります。穏やかな具象のものばかりです。この森田元子さんと鈴木信太郎さんの絵画は家内が大好きなのでとてもうれしそうに観ていました。
韮崎大村美術館について説明をいたします。

1番目の写真は八ヶ岳や甲斐駒岳や鳳凰三山の見渡せる眺望の良い場所に建っている美術館です。
大村さんは30代の頃、日本画家の野田九浦(きゅうほ)の掛け軸「芭蕉」に一目ぼれして購入したことをきっかけに美術に傾倒。美術館には自身で集めた絵画や陶芸品など約2000点が収蔵されているそうです。
天然有機化学者でありながら、その一方で大村さんは女子美術大学の理事長も務めています。
美術館の一階は常設展示として上村松園、三岸節子、片岡球子、堀文子ら女流作家の作品が展示されており、季節ごとに企画展が開催されます。二階は鈴木信太郎を中心とした男性作家の作品が常設展示されています。
二階に上がると、また島岡達三や浜田庄司らの陶器が展示されている展望の良い部屋があります。この2階のもう一つの部屋には大村さんが好きな鈴木信太郎の絵画24点や男性画家の作品が展示されています。

2番目の写真は二階の部屋から1月9に撮った八ヶ岳の眺望です。
この部屋からは更に茅ヶ岳、そして富士山のパノラマを望むことができます。
森田元子絵画展では森田元子の優しいタッチの油彩45点が並んでいました。性格の良さを感じさせる素直な絵画です。殆どが婦人像で、赤や緑などの明るい色彩は、見ていて楽しくなります。
45枚の絵画を丁寧に見ていくと、その優しい色彩感覚に魅了されていきます。絵画では色彩も非常に重要なのだとあらためて理解したのです。

3番目の写真がこの展示会のポスターです。

4番目の写真は会場内の写真です。 出典は、http://tcstudio10.exblog.jp/iv/detail/index.asp… です。

5番目の写真は森田元子さんの絵画です。
出典は、http://www.art.pref.tochigi.lg.jp/…/backnum…/011021-j.htmlです。
1階の2つの展示室は森田元子絵画展でしたが2階に上がると2番目の写真で示したような眺望の良い部屋があり、主に陶器が展示してあります。その奥に大きな部屋があり鈴木信太郎さんの絵画24点が展示されています。
写真で鈴木信太郎さんの絵画5点を示します。

6番目の写真はグリーンの林檎の絵です。緑色の種類の林檎を素直に描いた静物画です。リンゴの色が何とも言えない穏やかな美しさを感じさせます。

7番目の写真は桃3個の絵です。桃3個がそれぞれ自己主張をしていますが、静かな絵画です。

8番目の写真は子供の童話の挿絵のような絵です。彼は油絵以外にも、本の装幀をしたり挿絵なども描きました。

9番目の写真は孔雀2羽と籠の中のオームをメルヘンチックに描いた絵です。

10番目の写真は風景画です。彼は全国各地を訪れ、数多くの風景画を描きました。
風景画は独特なフォルムと豊かな色彩が特徴です。鮮やかな色彩が踊っているようですが絵画ぜんたいから受ける印象は静かです。東洋的な穏かさが漂っているのです。不思議です。

この美術館の隣には大村さんが作った天然掛け流しの湯「白山温泉」もあります。温泉にゆったり浸かり、隣の蕎麦やで昼食を摂ることも出来ます。両方に広い駐車場があります。
富士山や甲斐駒岳や八ヶ岳の見える風景絶佳の場所にあります。兎に角、訪れて絶対楽しいところです。
場所は韮崎大村美術館を検索すると出てきます。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料===================
(1)大村 智(おおむら さとし、1935年7月12日[1] - )は、日本の有機化学者。北里大学特別栄誉教授。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E6%99%BA
45年余に亘り独創的な探索系を構築し、微生物の生産する有用な天然有機化合物の探索研究を続け、これまでに類のない450種を超える新規化合物を発見した。

一方、それらに関する基礎から応用にわたる幅広い分野の研究を推進した。遺伝子操作による初めての新規化合物の創製、マクロライドを中心とした一連の生物有機化学的研究と有用化合物の創製、工業的にも重要な抗寄生虫抗生物質イベルメクチン生産菌の遺伝子解析など、いずれも世界に先駆けた研究であり、新しい研究領域を切り開いてきた。

発見した化合物のうち25種が医薬、動物薬、農薬、生命現象を解明するための研究用試薬として世界中で使われており、人類の健康と福祉の向上に寄与している。加えて100を超える化合物が有機合成化学のターゲットとなり、医学、生物学、化学をはじめ生命科学の広い分野の発展に多大な貢献をしている。

その中の抗寄生虫薬イベルメクチンは、熱帯地方の風土病オンコセルカ症(英語版)(河川盲目症)およびリンパ系フィラリア症に極めて優れた効果を示し、中南米・アフリカにおいて毎年約2億人余りの人々に投与され、これら感染症の撲滅に貢献している。さらにイベルメクチンは、世界中で年間3億人以上の人々が感染しながらそれまで治療薬のなかった疥癬症や沖縄地方や東南アジアの風土病である糞線虫症(英語版)の治療薬としても威力を発揮している。
(以下省略)

(2)森田元子 もりた-もとこ
https://kotobank.jp/…/%E6%A3%AE%E7%94%B0%E5%85%83%E5%AD%90より。
1903-1969 昭和時代の洋画家。
明治36年2月11日生まれ。岡田三郎助に師事し,フランスに留学。昭和12年「聴音」,13年「麗日」で新文展に連続特選,35年「女」で日展文部大臣賞。新聞小説の挿絵もおおい。女子美大教授,日展審査員,光風会理事。昭和44年8月12日死去。66歳。東京出身。女子美専(現女子美大)卒。

(3)鈴木信太郎(すずき しんたろう 1895〜1989年)
http://www.yumebi.com/acv11.html
明治28年(1895年)八王子市八日町の生糸商の家に生まれる。
明治43年(1910年)に黒田清輝の主宰する白馬会洋画研究所に入所する。その後東京府立織染学校(現・東京都立八王子工業高校)で織物図案を学び、上京後、染織図案家滝沢邦行のもとで図案を学ぶ。
大正5年(1916年)の第10回文展に水彩画が初入選。のち、図案の仕事は断念し、絵の制作に専念する。
大正11年(1922年)第9回二科展に初入選、以後石井柏亭に師事しながら、大正15年(1926年)の第13回二科展で樗牛賞を受賞する。
戦前は二科会で活躍し会友、会員にまでなるが昭和30年(1955年)に野間仁根らと脱会、一陽会を結成する。
昭和35年(1960年)一陽会や日展などでの活躍により日本芸術院賞を受賞。昭和44年(1969年)には日本芸術院会員となり、昭和62年(1987年)文化功労者に選ばれる。
全国各地を訪れ描いた風景画や静物画など、独特なフォルムと豊かな色彩で多くの油絵作品を制作した。油絵以外にも、本の装幀や挿絵なども手掛けた。
また、昭和25〜36年(1950〜61年)に武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)、昭和28〜41年(1953〜66年)には多摩美術大学で教鞭をとった。
平成元年(1989年)5月13日逝去、享年93歳であった。

秋、ススキの思い出

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秋はもの想う季節なのでしょうか。
涼しくなり、夜に澄んだ虫の声を聞くと昔のことがいろいろ想い出されます。
昔の野原で見た秋の七草の花々を想う人もいるでしょう。
中秋の名月の折りに家族で縁側から月見をしたことを思い出す人もいるでしょう。ススキを沢山花瓶に入れ、団子などを供えた光景を思い浮かべる人も多いと思います。
そして昔は野原がいっぱいありました。その原っぱには必ずのようにススキの穂が秋風に揺れていました。
月見の縁側で使うススキを野原から採ってくるのは子供の仕事でした。
ススキは鎌がないと採れません。茎に筋が入っていて手で折っただけでは取れないのです。刃物で筋を切らないと取れません。その上葉の縁が鋭くてうっかりすると指の皮膚を傷付けてしまいます。子供にとってはススキ採りは危険なだけにかえって面白く、印象深い仕事だったのです。
そんな事を思い出しながら午後からススキの写真を撮りに行きました。
この界隈でススキが群生している所は都立武蔵野公園だけです。先程撮ってきた写真をお送りします。

1番目の写真は武蔵野公園のススキです。この公園の真ん中を野川が流ていてその岸のあちこちにススキが群生しています。

2番目の写真はまだ穂が出たばかりのススキです。秋が始まったばかりなのです。

3番目の写真は昨年の11月末頃のススキの穂波です。武蔵野公園のあちこちにススキの白い穂が輝くのです。
今日、ススキの写真を撮りながら、もっと広大なススキの原が無いか考えました。そうしたら何度も家内と一緒に行った箱根の仙石原のススキの群生の光景を思い出したのです。

4番目の写真は仙石原のススキの群生地の全体の風景です。
写真の出典は、http://jere.blog1.fc2.com/blog-entry-628.html です。

5番目の写真も仙石原のススキの群生地の光景です。写真の出典は4番目の写真と同じです。尚この出典には美しい花の写真が沢山掲載されている楽しいブログです。花のお好きな方へお薦めのブログです。

それはさておき貴方はススキにどのような思い出をお持ちでしょうか?お聞かせ頂ければ嬉しく存じます。

アメリカは9・11同時多発テロを絶対に忘れない!

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日本人は8月15日の終戦記念慰霊祭を絶対に忘れません。毎年かならず天皇、皇后両陛下がご臨席し、天皇陛下が心のこもった追悼のお言葉を述べるのです。
同じ様にアメリカ人は9・11同時多発テロを絶対に忘れません。毎年9月11日に大統領が出席して追悼式が挙行されるのです。ですからアメリカ人は9・11同時多発テロを絶対に忘れないのです。同じような忘れない日は1941年12月8日の真珠湾攻撃の日です。どちらも奇襲攻撃だったのです。
さて同時多発テロの事件現場はニューヨークの貿易センタービルとワシントンの傍にある国防省のペンタゴン・ビルとペンシルバニア州のシャンクスビルです。
ここで2001年の9月11日に起きた同時多発テロ事件を振り返ってみましょう。

1番目の写真は貿易センタービルへ2機目の大型旅客機が今まさに突っ込もうとしている場面です。
ワールドトレードセンター(WTC)へのテロ攻撃による死者は合計で2763人でした。その内訳は、事件当時WTCに居た民間人が2192人、消防士が343人、警察官が71人、ハイジャックされた旅客機の乗員・乗客が147人、ハイジャック犯のテロリストが10人です。ハイジャックされた旅客機はアメリカン航空11便とユナイテッド航空175便でした。
この他に、ワシントンの傍にある国防総省本庁舎(ペンタゴン)に突入した現場ではアメリカン航空77便の乗客・乗員全員が死亡したほか、ペンタゴンに居た125人の国防総省職員(民間人70人、軍関係者55人)が死亡し、106人が重傷を負ったのです。
そしてユナイテッド航空93便はペンシルベニア州ピッツバーグ郊外シャンクスヴィルに墜落し、乗客37名(日本人1名を含む)(乗客37名中4人はテロリスト)・乗員7名の全員が死亡しました。

2番目の写真はこの事件が起きて10年目の2011年に犯人、オサマ・ビンラディンが暗殺されたニュースを見つめておるオバマ大統領と政府の高官たちです。オサマ・ビンラディンはパキスタンの邸宅で寝ているところをアメリカ軍の特殊部隊によって射殺されたのです。

3番目の写真はピッツバーグ郊外シャンクスヴィルの墜落現場にたてられた慰霊碑です。

4番目の写真は今回のシャンクスヴィルの墜落現場での慰霊祭で涙をにぐう軍人の姿です。

5番目の写真は今回の慰霊祭で膝まづいて死者の冥福を祈るアメリカ兵の写真です。

この9・11同時多発テロの起きた原因は何でしょうか?
原因を分析した資料は沢山ありますが、これと言って明確な一つの原因があるわけではありません。
戦後、アメリカが常にイスラエル側に立ち4回もの中東戦争でイスラエルを支援したことや湾岸戦争なども原因だと指摘されています。要するにアメリカは常にイスラム教の国々の敵だったのです。
この9・11同時多発テロの後、アメリカはアフガニスタンを占領しイラク戦争があったのです。それに対抗するように「イスラム国」の興亡があったのです。そして現在のシリア内戦が続くのです。
ですから9・11同時多発テロは世界の歴史の屈曲点だったのです。

下に「9/11から17年、トランプ米大統領が墜落跡地で演説」というBBCのニュースの抜粋をお送りします。
2018年09月12日のニュースですが日本のマスコミには殆ど出なかったニュースです。
・・・ドナルド・トランプ米大統領とファーストレディーのメラニア夫人は11日、17年前に起きた同時多発テロの追悼式典に出席するため、ペンシルバニア州の墜落現場に新しく造られた追悼施設を訪れた。
トランプ氏は、「アメリカの未来は敵がつむぐものではない。アメリカの未来はこの国の英雄たちがつむぐ」と、ハイジャック犯たちと戦って犠牲になった乗客たちをしのんだ。
米同時多発テロは米国本土に対する外国からの攻撃として過去最大で、2996人が亡くなった。
シャンクスビルでの演説は、新たに建設された高さ28メートルの「Tower of Voices(人々の声の塔)」の足元で行われた。この場所に墜落して犠牲となった乗員乗客40人にちなみ、40個の風鈴が塔に設置されている。
演説でトランプ氏は、「この土地は今、米国の抵抗の記念碑になった。(中略)米国は決して暴虐に屈しない」と述べた。
「この記念塔が建っている限り、この記念碑が残る限り、勇敢な愛国者はアメリカの危機に際して立ち上がり、そしてまた反撃するだろう」
トランプ大統領は乗客たちの「素晴らしい勇気」を称え、その抵抗は「米国が反撃した瞬間だ」と述べた。
「勇敢な愛国者の一団がこの国の敵に立ち向かい、アメリカが誇る不滅の英雄たちの一員となった」
シャンクスビルの墜落跡地を訪れた現職の大統領は、トランプ氏で3人目となる。
・・・
ニューヨークの追悼式典にはアンドリュー・クオモ・ニューヨーク州知事、ニッキー・ヘイリー国連米国大使、ビル・デブラシオ・ニューヨーク市長が参加したほか、マイケル・ブルームバーグ前市長やルディ・ジュリアーニ元市長の姿も見られた。
遺族が犠牲者の名前を読み上げ、民間機が世界貿易センターの北棟と南棟に激突した午前8時46分と午前9時3分に、それぞれ黙とうが捧げられた。
テロ攻撃後にはマンハッタン島南部、特に早い段階で救助・捜索作業にあたり有毒がれきを掘り進んだ救急当局者の間で、がんの発症が増加した。
9/11犠牲者補償基金は、この事件を生き延びた人たちの医療費としてこれまでに40億ドル(約4500億円)を提供している。
世界貿易センター健康事業によると、生存者のうち1万人近くが何らかのがんを発症している。さらに、攻撃後に現場の煙を吸い込んだ数万人の間で、腫瘍が発見されて医療給付を申請する患者の数が近年増えているという。・・・

9・11同時多発テロの後遺症は現在のアメリカで問題が続いているのです。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

日本の戦後の自虐史観の正しい部分と間違っている部分

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自虐史観とは、太平洋戦争後の日本の社会や歴史学界、教育界を風靡した一つの歴史観のことです。
私自身の自虐史観の定義を示します。
この自虐史観は二つの部分から成り立っています。
(1)日本が朝鮮を合併し、中国を侵略し満州国を作ったことは悪かった。日本民族は本質的に悪い性質を持った民族である。
(2)アメリカに比較して日本の工業技術は劣悪過ぎる。それなのに戦争を始めた日本民族は本質的に劣った民族である。
このように日中戦争と太平洋戦争の歴史を理解するのが自虐史観と私は定義します。
日本の歴史の負の部分をことさらに強調する一方で、正の部分を過小評価し本質的に日本民族を貶める歴史観のことです。

さて上に書いた(1)と(2)の部分の何処が正しく、何処が間違っているでしょうか?

(1)の「日本が朝鮮を合併し、中国を侵略し満州国を作ったことは悪かった」は全く正しいと私は現在でも信じています。反論したい方には私は一切沈黙します。
その代わり、ドイツの大統領だったヴァイツゼッカーの「40年の荒野」という本をお読み下さいと言います。その本は世界中で出版されています。
「40年の荒野」は、ドイツ人の第二次大戦への真摯な反省と謝罪なのす。

さて(1)の「日本民族は本質的に悪い性質を持った民族である」という部分は全く間違っています。世界中のどんな民族も倫理上の優劣は絶対に無いのです。
どんな民族でも状況次第では悪いことも良いこともするのです。

次に(2)ですが、これは長い間、私を苦しめました。
工業技術のレベルを自動車製造技術で比較すると明快に日本が劣っていたことが判ります。

1番目の写真は日本の戦前のダットサンの写真です。マニュアルシフトのギアボックスがついてクラッチを踏んで素早くギアチェンジをしないと動かなかったのです。
戦後、1960年頃に出たトヨペットクラウンやダットサンも全てマニュアルシフトのギアボックスとクラッチがついていたのです。

2番目の写真は1960年に留学したとき町を走っていた車です。
こんなに大きい車なのにオートマチックだったのでクラッチを踏んでギアチェンジをする必要が無いのです。これには心底驚いたものです。

3番目の写真も1960年当時アメリカで走っていた車です。
いかにも重そうな見かけですが乗ってアクセルを軽く踏むと軽々と加速するのです。大きなエンジンがついていると車は羽毛のように軽いのです。
その上、当時日本では見なかったパワーブレーキ、パワーハンドル、パワーウインドーが完備していたのです。
この乗用車製造技術のレベルの高さには長い間私は劣等感を持っていました。

しかし日本の自動車工業のレベルも次第に上がって来ました。
決定的だった事件はホンダがオハイオ州に大きな自動車工場を作ったことです。周りのアメリカ人が皆「ホンダの車の性能が良い!」と絶賛しはじめたのです。
上の(2)の「アメリカに比較して日本の工業技術は劣悪過ぎる」の部分は間違っているのです。
それでは(2)の「それなのに戦争を始めた日本民族は本質的に劣った民族である」という部分はどうでしょうか?
この部分は現在でも、ある程度正しいっと思っています。
世界の経済分野における日本政府の戦略性の無さや、軍事バランスにおいてもアメリカへ頼り切っている様子を見ると日本民族は戦略的にものを考える能力が劣っているようなのです。
第二次大戦で食料の補給の戦略も無いのに戦線を野放図に拡大したことは現在でも考えるべき日本民族の弱点でないでしょうか?

今日の議論を総括します。
(1)日本が朝鮮を合併し、中国を侵略し満州国を作ったことは悪かった。日本民族は本質的に悪い性質を持った民族である。
(2)アメリカに比較して日本の工業技術は劣悪過ぎる。それなのに戦争を始めた日本民族は本質的に劣った民族である。
結論を整理すると、
(1)の前半分は全く正しく、後半は間違っているのです。
(2)の前半は間違っていますが、後半は正しいのです。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

ドイツ人の真摯な反省として有名な演説、「荒野の40年」

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リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー(Richard Karl Freiherr von Weizsäcker、1920年4月15日 - 2015年1月31日)は、ドイツの第6代連邦大統領(在任:1984年 - 1994年)でした。
彼は敗戦40周年記念日に西ドイツ連邦議会で以下の演説をしました。それは「40年の荒野」と題し、ドイツ人の反省と謝罪として世界中で有名になりました。その演説は世界各国で出版せれています。勿論、日本でも岩波書店から『ヴァイツゼッカー大統領演説集』として出版されています。
これは西洋人の良心的な告白であり悲しみに満ちた独白です。
いろいろな意味で感動的な演説なのでご紹介いたします。

http://www.asahi-net.or.jp/~EB6J-SZOK/areno.html よりの転載です。

『荒れ野の40年』 (1985)    ヴァイツゼッカー
 5月8日は心に刻むための日であります。心に刻むというのは、ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを信誠かつ純粋に思い浮かべることであります。そのためには、われわれが真実を求めることが大いに必要とされます。
 われわれは今日、戦いと暴力支配とのなかで斃れたすべての人びとを哀しみのうちに思い浮かべております。
 ことにドイツの強制収容所で命を奪われた 600万のユダヤ人を思い浮かべます。
 戦いに苦しんだすべての民族、なかんずくソ連・ポーランドの無数の死者を思い浮かべます。
 ドイツ人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で捕われの最中に、あるいは故郷を追われる途中で命を失った同胞を哀しみのうちに思い浮かべます。
 虐殺されたジィンティ・ロマ(ジプシー)、殺された同性愛の人びと、殺害された精神病患者、宗教もしくは政治上の信念のゆえに死なねばならなかった人びとを思い浮かべます。
 銃殺された人質を思い浮かべます。
 ドイツに占領されたすべての国のレジスタンスの犠牲者に思いをはせます。
 ドイツ人としては、市民としての、軍人としての、そして信仰にもとづいてのドイツのレジスタンス、労働者や労働組合のレジスタンス、共産主義者のレジスタンス――これらのレジスタンスの犠牲者を思い浮かべ、敬意を表します。
 積極的にレジスタンスに加わることはなかったものの、良心をまげるよりはむしろ死を選んだ人びとを思い浮かべます。
 はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております。
 死者への悲嘆、
 傷つき、障害を負った悲嘆、
 非人間的な強制的不妊手術による悲嘆、
 空襲の夜の悲嘆、
 故郷を追われ、暴行・掠奪され、強制労働につかされ、不正と拷問、飢えと貧窮に悩まされた悲嘆、 捕われ殺されはしないかという不安による悲嘆、迷いつつも信じ、働く目標であったものを全て失ったことの悲嘆――こうした悲嘆の山並みです。
 今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲悼の念とともに思い浮かべているのであります。
 人びとが負わされた重荷のうち、最大の部分をになったのは多分、各民族の女性たちだったでしょう。
彼女たちの苦難、忍従、そして人知れぬ力を世界史は、余りにもあっさりと忘れてしまうものです(拍手)。彼女たちは不安に脅えながら働き、人間の生命を支え護ってきました。戦場で斃れた父や息子、夫、兄弟、友人たちを悼んできました。この上なく暗い日々にあって、人間性の光が消えないよう守りつづけたのは彼女たちでした。
 暴力支配が始まるにあたって、ユダヤ系の同胞に対するヒトラーの底知れぬ憎悪がありました。ヒトラーは公けの場でもこれを隠しだてしたことはなく、全ドイツ民族をその憎悪の道具としたのです。ヒトラーは1945年 4月30日の(自殺による)死の前日、いわゆる遺書の結びに「指導者と国民に対し、ことに人種法を厳密に遵守し、かつまた世界のあらゆる民族を毒する国際ユダヤ主義に対し仮借のない抵抗をするよう義務づける」と書いております。
 歴史の中で戦いと暴力とにまき込まれるという罪――これと無縁だった国が、ほとんどないことは事実であります。しかしながら、ユダヤ人を人種としてことごとく抹殺する、というのは歴史に前例を見ません。
 この犯罪に手を下したのは少数です。公けの目にはふれないようになっていたのであります。しかしながら、ユダヤ系の同国民たちは、冷淡に知らぬ顔をされたり、底意のある非寛容な態度をみせつけられたり、さらには公然と憎悪を投げつけられる、といった辛酸を嘗めねばならなかったのですが、これはどのドイツ人でも見聞きすることができました。
 シナゴーグの放火、掠奪、ユダヤの星のマークの強制着用、法の保護の剥奪、人間の尊厳に対するとどまることを知らない冒涜があったあとで、悪い事態を予想しないでいられた人はいたでありましょうか。
 目を閉じず、耳をふさがずにいた人びと、調べる気のある人たちなら、(ユダヤ人を強制的に)移送する列車に気づかないはずはありませんでした。人びとの想像力は、ユダヤ人絶滅の方法と規模には思い及ばなかったかもしれません。しかし現実には、犯罪そのものに加えて、余りにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでおこうと努めていたのであります。当時まだ幼く、ことの計画・実施に加わっていなかった私の世代も例外ではありません。
 良心を麻痺させ、それは自分の権限外だとし、目を背け、沈黙するには多くの形がありました。戦いが終り、筆舌に尽しがたいホロコースト(大虐殺)の全貌が明らかになったとき、一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人は余りにも多かったのであります。
 一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。

ドイツ人の真摯な反省として有名な演説、「荒野の40年」

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「荒野の40年」はキリスト教徒にとっては、これが自分の腕を切って血を流しながらの凄い謝罪文なのです。
それを判るのはキリスト教文化の国々の人とユダヤ教徒です。

日本人には何故これが自分の腕を切って血を流しながらの凄い謝罪文だということが理解出来ないのです。
キリスト教徒が40%もいる韓国人は理解します。そして日本が自分の腕を切って血を流しながらの凄い謝罪文を言わないと非難し、それも慰安婦問題に結びつけているのです。
日本人の謝罪についての表現方法があまりのも日本的で国際的には通用しないのです。韓国人への配慮が足りないのです。
日本人はもっともっと賢くならなければいけません。困った問題です。

リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー(Richard Karl Freiherr von Weizsäcker、1920年4月15日 - 2015年1月31日)は、ドイツの第6代連邦大統領(在任:1984年 - 1994年)でした。
彼は敗戦40周年記念日に西ドイツ連邦議会で以下の演説をしました。それは「40年の荒野」と題し、ドイツ人の反省と謝罪として世界中で有名になりました。その演説は世界各国で出版せれています。勿論、日本でも岩波書店から『ヴァイツゼッカー大統領演説集』として出版されています。
これは西洋人の良心的な告白であり悲しみに満ちた独白です。
いろいろな意味で感動的な演説なのでご紹介いたします。
http://www.asahi-net.or.jp/~EB6J-SZOK/areno.html よりの転載です。


『荒れ野の40年』 (1985)    ヴァイツゼッカー
 5月8日は心に刻むための日であります。心に刻むというのは、ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを信誠かつ純粋に思い浮かべることであります。そのためには、われわれが真実を求めることが大いに必要とされます。
 われわれは今日、戦いと暴力支配とのなかで斃れたすべての人びとを哀しみのうちに思い浮かべております。
 ことにドイツの強制収容所で命を奪われた 600万のユダヤ人を思い浮かべます。
 戦いに苦しんだすべての民族、なかんずくソ連・ポーランドの無数の死者を思い浮かべます。
 ドイツ人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で捕われの最中に、あるいは故郷を追われる途中で命を失った同胞を哀しみのうちに思い浮かべます。
 虐殺されたジィンティ・ロマ(ジプシー)、殺された同性愛の人びと、殺害された精神病患者、宗教もしくは政治上の信念のゆえに死なねばならなかった人びとを思い浮かべます。
 銃殺された人質を思い浮かべます。
 ドイツに占領されたすべての国のレジスタンスの犠牲者に思いをはせます。
 ドイツ人としては、市民としての、軍人としての、そして信仰にもとづいてのドイツのレジスタンス、労働者や労働組合のレジスタンス、共産主義者のレジスタンス――これらのレジスタンスの犠牲者を思い浮かべ、敬意を表します。
 積極的にレジスタンスに加わることはなかったものの、良心をまげるよりはむしろ死を選んだ人びとを思い浮かべます。
 はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております。
 死者への悲嘆、
 傷つき、障害を負った悲嘆、
 非人間的な強制的不妊手術による悲嘆、
 空襲の夜の悲嘆、
 故郷を追われ、暴行・掠奪され、強制労働につかされ、不正と拷問、飢えと貧窮に悩まされた悲嘆、 捕われ殺されはしないかという不安による悲嘆、迷いつつも信じ、働く目標であったものを全て失ったことの悲嘆――こうした悲嘆の山並みです。
 今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲悼の念とともに思い浮かべているのであります。
 人びとが負わされた重荷のうち、最大の部分をになったのは多分、各民族の女性たちだったでしょう。
彼女たちの苦難、忍従、そして人知れぬ力を世界史は、余りにもあっさりと忘れてしまうものです(拍手)。彼女たちは不安に脅えながら働き、人間の生命を支え護ってきました。戦場で斃れた父や息子、夫、兄弟、友人たちを悼んできました。この上なく暗い日々にあって、人間性の光が消えないよう守りつづけたのは彼女たちでした。
 暴力支配が始まるにあたって、ユダヤ系の同胞に対するヒトラーの底知れぬ憎悪がありました。ヒトラーは公けの場でもこれを隠しだてしたことはなく、全ドイツ民族をその憎悪の道具としたのです。ヒトラーは1945年 4月30日の(自殺による)死の前日、いわゆる遺書の結びに「指導者と国民に対し、ことに人種法を厳密に遵守し、かつまた世界のあらゆる民族を毒する国際ユダヤ主義に対し仮借のない抵抗をするよう義務づける」と書いております。
 歴史の中で戦いと暴力とにまき込まれるという罪――これと無縁だった国が、ほとんどないことは事実であります。しかしながら、ユダヤ人を人種としてことごとく抹殺する、というのは歴史に前例を見ません。
 この犯罪に手を下したのは少数です。公けの目にはふれないようになっていたのであります。しかしながら、ユダヤ系の同国民たちは、冷淡に知らぬ顔をされたり、底意のある非寛容な態度をみせつけられたり、さらには公然と憎悪を投げつけられる、といった辛酸を嘗めねばならなかったのですが、これはどのドイツ人でも見聞きすることができました。
 シナゴーグの放火、掠奪、ユダヤの星のマークの強制着用、法の保護の剥奪、人間の尊厳に対するとどまることを知らない冒涜があったあとで、悪い事態を予想しないでいられた人はいたでありましょうか。
 目を閉じず、耳をふさがずにいた人びと、調べる気のある人たちなら、(ユダヤ人を強制的に)移送する列車に気づかないはずはありませんでした。人びとの想像力は、ユダヤ人絶滅の方法と規模には思い及ばなかったかもしれません。しかし現実には、犯罪そのものに加えて、余りにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでおこうと努めていたのであります。当時まだ幼く、ことの計画・実施に加わっていなかった私の世代も例外ではありません。
 良心を麻痺させ、それは自分の権限外だとし、目を背け、沈黙するには多くの形がありました。戦いが終り、筆舌に尽しがたいホロコースト(大虐殺)の全貌が明らかになったとき、一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人は余りにも多かったのであります。
 一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。

一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。
 人間の罪には、露見したものもあれば隠しおおせたものもあります。告白した罪もあれば否認し通した罪もあります。充分に自覚してあの時代を生きてきた方がた、その人たちは今日、一人ひとり自分がどう関り合っていたかを静かに自問していただきたいのであります。
 今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下してはいない行為に対して自らの罪を告白することはできません。

 ドイツ人であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。
 罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。
 心に刻みつづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。
 問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。 ユダヤ民族は今も心に刻み、これからも常に心に刻みつづけるでありましょう。われわれは人間として心からの和解を求めております。
 まさしくこのためにこそ、心に刻むことなしに和解はありえない、という一事を理解せねばならぬのです。
 物質面での復興という課題と並んで、精神面での最初の課題は、さまざまな運命の恣意に耐えるのを学ぶことでありました。ここにおいて、他の人びとの重荷に目を開き、常に相ともにこの重荷を担い、忘れ去ることをしないという、人間としての力が試されていたのであります。またその課題の中から、平和への能力、そして内外との心からの和解への心構えが育っていかねばならなかったのであります。これこそ他人から求められていただけでなく、われわれ自身が衷心から望んでいたことでもあったのです。
 かつて敵側だった人びとが和睦しようという気になるには、どれほど自分に打ち克たねばならなかったか――このことを忘れて五月八日を思い浮かべることはわれわれには許されません。ワルシャワのゲットーで、そしてチェコのリジィツェ村で虐殺された犠牲者たち(1942年、ナチスの高官を暗殺したことに対する報復としてプラハ近郊のこの村をナチスは完全に破壊した。)――われわれは本当にその親族の気持になれるものでありましょうか。
 ロッテルダムやロンドンの市民にとっても、ついこの間まで頭上から爆弾の雨を降らしていたドイツの再建を助けるなどというのは、どんなに困難なことだったでありましょう。そのためには、ドイツ人が二度と再び暴力で敗北に修正を加えることはない、という確信がしだいに深まっていく必要がありました。
 ドイツの側では故郷を追われた人びとが一番の辛苦を味わいました。五月八日をはるかに過ぎても、はげしい悲嘆と甚だしい不正とにさらされていたのであります。もともとの土地にいられたわれわれには、彼らの苛酷な運命を理解するだけの想像力と感受性が欠けていることが稀ではありませんでした。
 しかし救援の手を差しのべる動きもただちに活発となりました。故郷を捨てたり追われた何百万人という人びとを受け入れたのであります。歳月が経つにつれ彼らは新しい土地に定着していきました。彼らの子どもたち、孫たちは、いろいろな形で父祖の地の文化とそこへの郷土愛とに結びついております。それはそれで結構です。彼らの人生にとって貴重な宝物だからであります。
 しかし彼ら自身は新しい故郷を見出し、同じ年配の土地の仲間たちと共に成長し、とけ合い、土地の言葉をしゃべり、その習慣を身につけております。彼らの若い生命こそ内面の平和の能力の証しなのであります。彼らの祖父母、父母たちはかつては追われる身でした。しかし彼ら若い人びと自身は今や土地の人間なのです。
 故郷を追われた人びとは、早々とそして模範的な形で武力不行使を表明いたしました。力のなかった初期のころのその場かぎりの言葉ではなく、今日にも通じる表白であります。武力不行使とは、活力を取り戻したあとになってもドイツがこれを守りつづけていく、という信頼を各方面に育てていくことを意味しております。
 この間に自分たちの故郷は他の人びとの故郷となってしまいました。東方の多く古い墓地では、今日すでにドイツ人の墓よりポーランド人の墓の方が多くなっております。
 何百万ものドイツ人が西への移動を強いられたあと、何百万のポーランド人が、そして何百万のロシア人が移動してまいりました。いずれも意向を尋ねられることがなく、不正に堪えてきた人びとでした。無抵抗に政治につき従わざるをえない人びと、不正に対しどんな補償をし、それぞれに正当ないい分をかみ合わせてみたところで、彼らの身の上に加えられたことについての埋合せをしてあげるわけにいかない人びとなのであります。
 五月八日のあとの運命に押し流され、以来何十年とその地に住みついている人びと、この人びとに政治に煩らわされることのない持続的な将来の安全を確保すること――これこそ武力不行使の今日の意味であります。法律上の主張で争うよりも、理解し合わねばならぬという誡めを優先させることであります。
 これがヨーロッパの平和的秩序のためにわれわれがなしうる本当の、人間としての貢献に他なりません。
 1945年に始まるヨーロッパの新スタートは、自由と自決の考えに勝利と敗北の双方をもたらすこととなりました。自らの力が優越していてこそ平和が可能であり確保されていると全ての国が考え、平和とは次の戦いの準備期間であった――こうした時期がヨーロッパ史の上で長くつづいたのでありますが、われわれはこれに終止符をうつ好機を拡大していかなくてはなりません。
 ヨーロッパの諸民族は自らの故郷を愛しております。ドイツ人とて同様であります。自らの故郷を忘れうる民族が平和に愛情を寄せるなどということを信じるわけにまいりましょうか。
いや、平和への愛とは、故郷を忘れず、まさにそのためにこそ、いつも互いに平和で暮せるよう全力を挙げる決意をしていることであります。追われたものが故郷に寄せる愛情は、復讐主義ではないのであります。    
戦後四年たった1949年の本日五月八日、議会評議会は基本法を承認いたしました。議会評議会の民主主義者たちは、党派の壁を越え、われわれの憲法(基本法)の第一条(第二項)に戦いと暴力支配に対する回答を記しております。
ドイツ国民は、それゆえに、世界における各人間共同社会・平和および正義の基礎として、不可侵の、かつ、譲渡しえない人権をみとめる五月八日がもつこの意味についても今日心に刻む必要があります。
戦いが終ったころ、多くのドイツ人が自らのパスポートをかくしたり、他国のパスポートと交換しようといたしましたが、今日われわれの国籍をもつことは、高い評価を受ける権利であります。
 傲慢、独善的である理由は毫もありません。しかしながらもしわれわれが、現在の行動とわれわれに課せられている未解決の課題へのガイドラインとして自らの歴史の記憶を役立てるなら、この40年間の歩みを心に刻んで感謝することは許されるでありましょう。
 ――第三帝国において精神病患者が殺害されたことを心に刻むなら、精神を病んでいる市民に暖かい目を注ぐことはわれわれ自身の課題であると理解することでありましょう。
――人種、宗教、政治上の理由から迫害され、目前の死に脅えていた人びとに対し、しばしば他の国の国境が閉ざされていたことを心に刻むなら、今日不当に迫害され、われわれに保護を求める人びとに対し門戸を閉ざすことはないでありましょう(拍手)。
――独裁下において自由な精神が迫害されたことを熟慮するなら、いかなる思想、いかなる批判であれ、そして、たとえそれがわれわれ自身にきびしい矢を放つものであったとしても、その思想、批判の自由を擁護するでありましょう。
――中東情勢についての判断を下すさいには、ドイツ人がユダヤ人同胞にもたらした運命がイスラエルの建国のひき金となったこと、そのさいの諸条件が今日なおこの地域の人びとの重荷となり、人びとを危険に曝しているのだ、ということを考えていただきたい。
――東側の隣人たちの戦時中の艱難を思うとき、これらの諸国との対立解消、緊張緩和、平和な隣人関係がドイツ外交政策の中心課題でありつづけることの理解が深まるでありましょう。双方が互いに心に刻み合い、たがいに尊敬し合うことが求められているのであり、人間としても、文化の面でも、そしてまたつまるところ歴史的にも、そうであってしかるべき理由があるのであります。
 ソ連共産党のゴルバチョフ書記長は、ソ連指導部には大戦終結40年目にあたって反ドイツ感情をかきたてるつもりはないと言明いたしました。ソ連は諸民族の間の友情を支持する、というのであります。
東西間の理解、そしてまた全ヨーロッパにおける人権尊重に対するソ連の貢献について問いかけている時であればこそ、モスクワからのこうした兆しを見のがしてはなりますまい。われわれはソ連邦諸民族との友情を望んでおるのであります。
人間の一生、民族の運命にあって、40年という歳月は大きな役割を果たしております。
当時責任ある立場にいた父たちの世代が完全に交替するまでに40年が必要だったのです。
われわれのもとでは新しい世代が政治の責任をとれるだけに成長してまいりました。若い人たちにかつて起ったことの責任はありません。しかし、(その後の)歴史のなかでそうした出来事から生じてきたことに対しては責任があります。
われわれ年長者は若者に対し、夢を実現する義務は負っておりません。われわれの義務は率直さであります。心に刻みつづけるということがきわめて重要なのはなぜか、このことを若い人びとが理解できるよう手助けせねばならないのです。ユートピア的な救済論に逃避したり、道徳的に傲慢不遜になったりすることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう、若い人びとの助力をしたいと考えるのであります。
人間は何をしかねないのか――これをわれわれは自らの歴史から学びます。でありますから、われわれは今や別種の、よりよい人間になったなどと思い上がってはなりません。
 道徳に究極の完成はありえません――いかなる人間にとっても、また、いかなる土地においてもそうであります。われわれは人間として学んでまいりました。これからも人間として危険に曝されつづけるでありましょう。しかし、われわれにはこうした危険を繰り返し乗り越えていくだけの力がそなわっております。
 ヒトラーはいつも、偏見と敵意と憎悪とをかきたてつづけることに腐心しておりました。
 若い人たちにお願いしたい。
 他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。
 ロシア人やアメリカ人、
 ユダヤ人やトルコ人、
 オールタナティヴを唱える人びとや保守主義者、
 黒人や白人
これらの人たちに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。
 若い人たちは、たがいに敵対するのではなく、たがいに手をとり合って生きていくことを学んでいただきたい。
 民主的に選ばれたわれわれ政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい。そして範を示してほしい。
 自由を尊重しよう。
 平和のために尽力しよう。
 公正をよりどころにしよう。
 正義については内面の規範に従おう。
今日、1985年の五月八日にさいし、能うかぎり真実を直視しようではありませんか。 (終わり)

数日前、富士山で遭難した旧友の思い出

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老境にいたり達観の境地というものが少し見えてきました。もうどんなことが起きても驚かないようになります。何事も自然の摂理のままに日々が流てゆくのです。
こんな悠然とした気分でいましたら高校時代から親友だったOT君が富士山で行方不明になったという知らせがありました。
9月2日の午前4時半に山行きの服装で出発したそうです。そして富士山8合目の山小屋に記帳しています。
その後、行方不明になったのです。もう10日以上も経過しています。
OT君とは大学の同じ学科を1958年に卒業しました。そして彼は当時の石川島重工に就職して停年まで技師として過ごしました。
仕事の内容はジェットエンジンの製造でした。アメリカから設計図を供与され戦闘機やヘリコプターを作り航空自衛隊へ納入していたのです。
その田無工場に私を招んでくれて工場見学をさせてくれました。その工場の玄関には日本軍の開発した「桜花」のジェットエンジンが飾ってあったのです。
彼は葉山に住んでいたので葉山マリーナで一緒によくでヨットにも乗りました。
ある時葉山マリーナから彼と一緒に船で熱海沖に浮かぶ初島へ一泊の船旅をしたことがありました。船は払下げられた古い巡視艇でした。マリーナから操船のためにスタッフが3人加わり、総人数5人の船旅でした。

1番目の写真は熱海から初島へ行く連絡船から撮った初島です。

2番目の写真は連絡船の後部デッキから熱海方向を見た風景です。熱海の町が白く輝いています。

3番目の写真は40分後に着岸した初島の港です。はるか向こうに熱海の町が小さく見えています。
葉山マリーナからOT君と一緒に行ったときはこの港ではなく島の反対側の入り江の突堤に古い巡視艇を舫ったのです。
それは20年位前のことでしたが元気だったOT君の顔を鮮明に思い出します。
古い巡視艇は船足が遅く葉山から3時間もかかったのです。そのせいで遠方の孤島へはるばる渡ってきたという感じがしました。
島ではOT君と民宿に泊り、宿の主人に船を出して貰いサバを釣りました。夜にそのサバを刺身にして貰い、ビールを飲みましたが、サバは不味かったのが印象に残りました。新鮮過ぎるサバは不味いそうです。
帰りは葉山に直行しないで三崎港に寄りましたが、そこで古い巡視艇のエンジンから煙が上がったので大変な経験をしました。私が舵の舵輪を握っている間にプロの船長が消火器で火を消したのです。船火事の恐ろしさがよく分かりました。
火が出たエンジンはもう使えません。葉山マリーナから高速艇が来てくれて我々を連れ帰ったのです。
その間中、OT君は沈着冷静でした。「船長が火を消したのですぐ傍の三崎港から救いの船が来るよ」と笑っていました。

そして皆の定年後からは3ケ月ごとに大学の金属工学科の30人の同級生が集まって昼食会をして来ました。OT君は律義に毎回出席してました。軽い冗談を言ってみんなを笑わせていました。
今年の夏に東京駅の地下のビアホールでの昼食会でOT君と話したのが最後になりました。
この昼食会もみんなが年老いたからそろそろ止めようと話し合った矢先でした。
OT君の晩年の趣味は古文書を読むことでした。特に鎌倉幕府の歴史書の吾妻鏡は熱心に読んでいました。この本は鎌倉時代研究の非常に重要な史料なのだそうです。
OT君と一緒に一泊した初島へはその前後7回ほど家内と一緒に行きました。
だんだん観光開発され、豪華なホテルや東南アジアの植物を植えた公園も出来て、島の内部はすっかり観光地化しています。
以前は夏ミカンの木が生い茂り、そこここに熟れた実が転がっていました。広い大根畑に沢山の臭い漬物の樽がありましたが、それらはすっかり姿を消してしまいました。
港のそばに民宿や食堂が沢山あり、地魚の美味しい昼食が食べられます。
私にとっては懐かしい思い出の沢山詰まった小さな島です。

それにしても富士山で遭難したOT君はどうしたのでしょうか?
健脚だったOT君は安全な登山道をはずれ冒険の道に踏み込んだのでしょうか?
私はOT君の無事を信じて、祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)

4番目の写真は2月に咲いた初島の菜の花と桜の花の写真です。

5番目の写真も2月に咲いている 菜の花と桜の花の写真です。

6番目の写真は昔、大根畑だった所に芝生が植えてあり、美しい公園になっている風景です。

キリスト教が犯した大罪の謝罪を祈るローマ法王のヨハネ・パウロ2世

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周りの人々へ時々、「私はキリスト教の信者です」と言います。すると親しい人は、「私は宗教は嫌いです!宗教は戦争の原因になるから嫌いです!」とニベも無く言い放つ人がいます。「そうですか。そうですね。」と答えて話題を変えます。
2009年の11月、読売新聞の「時代の証言者」という連載記事でヨゼフ・ピタウさんの話が二十数回続いていました。
この連載でピタウさんは一般の人々の宗教への疑問に対してとても明快な解答を出ています。
例えば2009年11月17日の「時代の証言者」では、ピタウさんが2つ重要な解答を出しています。

(1)ヨハネ・パウロ2世はキリスト教の全ての宗派を再び融合・統一する努力をした。
例えば聖ピエトロ寺院での祭祀にはイギリス教会(聖公会など)のカンタベリー大主教と東方の正教会のコンスタンティノポリス総主教と一緒に司祭しました。
東方の正教会とはギリシャ正教、そしてロシア正教、日本正教会などを含みます。
2000年前のイエス様が生きていた頃はこれらの別々の宗派は存在しなかったのです。
その状態へ戻し、正しいあり方に復帰しようとする運動をエキュメニズム(教会一致促進運動)と言います。
ヨハネ・パウロ2世は、別々の宗派の存在がキリスト教としてあるべき状態でないという強い信念を持っていたのです。

(2)キリスト教が犯した大罪を認め謝罪し、神に許しの祈りを何度もした。
十字軍のイスラエル奪還の為の遠征と殺戮、それも正教徒も殺戮した大罪。
ガレリオ・ガレリイなどの科学者の裁判。
魔女狩りと種々の異端裁判。
そして数々の宗教戦争。
これらの大罪の謝罪をローマ法王のヨハネ・パウロ2世は神へ祈ったのです。
これは画期的なことです。従来のローマ法王は謝罪の祈りをしなかったと言われていたのです。

日本人の常識から見て明らかな大罪をローマ法王として始めて公式に認めたのです。その上、その大罪の許しを神へ祈ったのです。
特に2000年(キリスト生誕2000年の大聖年)の3月の許しを求める祈りは壮絶だったそうです。体力が衰え倒れそうな体で長時間、ひざまずいて祈ったそうです。

日本人の常識ではヨーロッパの中世にはキリスト教が原因になっている戦争が幾つかありました。
しかし洗礼を受けて信者になってみると違う理解になります。
「人間はどんな理由でも戦争をする。他民族を殺戮する本能を持っているからそうするだけです」、そして「キリスト教が原因ではないのです。ただ戦争の口実にキリスト教の名を利用するだけです」と理解できます。

ですからヨハネ・パウロ2世の神に許しを求めた内容は2つに分けられと自分は考えています。

十戒の一つの殺人を大量にした罪。
その殺人の正当性を主張するために、それを禁じていたイエス・キリストの名前を勝手に使った大罪。

この二つを一緒にして神の許しを祈ったのだと、私個人は理解しています。

ローマ法王のヨハネ・パウロ2世は1881年に日本への巡礼の旅をして日本人へ深くかかわったのです。

1番目の写真は1920年にポーランドで生まれ12歳になった時の写真です。

2番目の写真はローマ法王当時の写真です。(2005年4月2日、84歳で旅立ちました)

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)

「今日のミサは歌ミサでした」

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ミサの中の聖書朗読と神父さんの説教などは歌いませんが、その他の祈りや信仰宣言などの全てを唄うのが歌ミサです。

それは崇高な音楽的境地なのです。

例えば、イエスさまが神に祈った通りの文句を「主の祈り」といいますが、カトリック教会ではミサの度に同じ祈りをいたします。
それを歌うのが歌ミサです。

その歌を以下の動画でお送りいたします。
https://www.youtube.com/watch?v=ubD4e_-hmG4

『主の祈り』(聖公会/ローマ・カトリック共通 )
 天におられるわたしたちの父よ、
 み名が聖とされますように。
 み国が来ますように。
 みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
 わたしたちの日ごとの糧を今日も お与えください。
 わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
 わたしたちを誘惑におちいらせず、
 悪からお救いください。

2000年前のイエスさまの言葉を現在でも用いて祈るのです。
是非この動画をご覧下さい。

箱根ガラスの森美術館と箱根ラリック美術館の楽しさ

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箱根は東京から2時間以内に行ける観光地です。小田急のロマンスカーだけでなく新幹線の小田原駅乗換えで湯本や強羅に簡単に行けます。湯本から芦ノ湖、仙石原、宮ノ下、大涌谷などなどへは頻繁にバスやケーブルカーが出ていて交通が至極便利に出来ています。勿論、車で行っても便利です。
自然の中の散策が好きなら芦ノ湖畔の遊歩道や仙石原の広大なススキ原があります。そして仙石原には魅力的な湿性植物園があります。
東海道の歴史に興味のある人のためには箱根の関所の建物が精巧に復元されています。往時の杉並木もあります。
芸術の好きな人のためには箱根彫刻の森美術館やポーラ美術館や成川美術館や岡田美術館があります。
ヨーロッパの香りがする工芸品の展示場として箱根ガラスの森美術館と箱根ラリック美術館もあります。
そして星の王子さまミュージアムもあります。
これら全てをご紹介するわけにはいきませんので、今日は気楽に楽しめる箱根ガラスの森美術館と箱根ラリック美術館だけを簡単にご紹介したいと思います。

この2つは近くにあります。共にヨーロッパの工芸品が展示してあります。敷地全体に散在する建物が古いヨーロッパの街のような雰囲気をかもしだしているのです。古い町を散歩しながら昔の工芸品を見て楽しめるのです。
箱根ガラスの森美術館はヴェネチアのガラス工芸の美を集めた美術館です。なにか世紀末の退廃への道行きを暗示するような展示物が丁寧に蒐集されてあります。
以前訪れた時の写真でまず箱根ガラスの森美術館の風景写真をお送りいたします。

1番目の写真は箱根ガラスの森美術館の園内の風景をカフェの階段の上から撮った風景です。向かいの建物はヨーロッパのガラス細工のお土産店です。

2番目の写真は園内の散歩道を3人の家族連れが楽しそうに歩いている風景です。

3番目の写真は園内にあるヴェネチアのガラス工芸品の展示場の建物です。

4番目の写真はヴェネチアのガラス工芸品の展示場の内部の様子です。愚妻が楽しそうにしています。

次に箱根ラリック美術館をご紹介します。
ルネ・ラリックは20世紀初頭に活躍したフランスのガラス工芸家です。
日常使うガラス食器や花瓶から装身具、室内装飾用のガラス壁の彫刻など、その作品は多種多様です。そのどれもが藝術性を感じさせます。
それらの作品を集めたのが箱根ラリック美術館です。
その上、ルネ・ラリック・ミュージアムにはオリエント急行の車両もあります。
ルネ・ラリックが作った室内の装飾用のガラス壁が見事です。その壁や電燈の笠を展示するために車両ごと日本へ運んで来たのです。
車両内ではコーヒー・紅茶とケーキを楽しみながら寛げます。1929年製の車両でパリとニースの間を1990年まで走っていた車両です。毎月1回はトルコのイスタンブールまで行っていたそうです。
この一輌だけを輸入して船で運んで来ました。下に、サロンカーの写真をお送り致します。

5番目の写真はパリとニースの間を1990年まで走っていた車両です。
鉄道ファンには興味深い車両ではないでしょうか?

6番目の写真はサロンカーの内部です。室内の部屋を仕切る壁にはめ込んだすりガラスの板がラリックの作品です。

7番目の写真はこの車両で使われていた食器です。座席に座り注文するとこんな感じの食器で紅茶とケーキが出て来ます。アガサ・クリスティの映画、「オリエント急行殺人事件」の場面を思い出しながらゆっくり紅茶を喫します。
このように19世紀末から20世紀初頭にかかてのヨーロッパの文化を楽しめるのが箱根ラリック美術館なのです。
2つは近くにある美術館です。ヨーロッパの香りがする箱根ガラスの森美術館と箱根ラリック美術館の両方を見ることをお薦めします。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

箱根彫刻の森美術館と美ケ原高原美術館の彫刻作品

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今日は2つの雄大な彫刻の野外展示美術館をご紹介いたします。
箱根、強羅の箱根彫刻の森美術館と長野県の高原にある美ケ原高原美術館の2つです。
箱根の方には近代の有名な彫刻家の大作が120点も広い園内に野外展示してあります。
オーギュスト・ロダン、ヘンリー・ムーアをはじめ、ブールデル、ザッキン、岡本太郎、流政之、佐藤忠良などの有名彫刻家の作品が展示してあります。大きなピカソ館もあり、彼の造形作品が展示されています。
一方、美ケ原高原美術館の方は世界で活躍している新進気鋭の造形芸術家の大きな作品が350点も展示してあるのです。
これは私見ですが,私は彫刻にとっては展示してある場所の景観も非常に重要だと考えています。彫刻が与えてくれる興奮と背景の景観の調和も重要だと考えているのです。
そのようなに考えると箱根の彫刻の森と長野県美ケ原高原美術館は実にすばらしい展示方法をとっています。周りの自然の景観を巧みに生かして世界中の力作を集め、展示しています。
周囲の新鮮な空気や、高原のさわやかな風が個々の彫刻の造形美を一層引き立てています。野外美術館の素晴らしさです。
それではこの両方の野外展示の光景を写真で示します。始めの3枚が箱根彫刻の森美術館で。後の4枚が美ケ原高原美術館です。いずれも2008年に撮った写真です。













箱根の彫刻の森と美ケ森高原美術館とを比較してみます。
誤解を恐れずに書けば箱根の展示はあまりにも大人しい美しさです。あまりにもオーソドックな作品が多いのです。景観の生かし方も和風の美意識を感じさせます。日本人の調和の感覚に合わせ過ぎているような印象です。要するにオーソドックスな印象が強いのです。
一方、美ケ原の方は彫刻自体が挑戦的な作品が多いのです。その上周囲の景観との組み合わせの仕方が斬新で、独創的なのです。展示方法の独創性も楽しむことが出来るのです。作品がオーソドックスでないだけでなく、展示方法も新鮮な感じを与えています。
両方を比較すると芸術世界でよく出て来るアカデミズムという言葉の意味が少し理解出来たような気分になりました。箱根の方がアカデミズムを重視した展示で、美ケ原の方はアカデミズムへ対して挑戦しているのです。
素人の感想ですから間違っていると思います。

美ケ森高原美術館は交通が不便な場所にあるので、もう少し説明を加えておきます。
この美術館は、はるかに遠い天空の上の美術館です。標高は2004mです。
この彫刻群を楽しむため一番重要なことは天気予報を注意深くしらべ、寒い日、強風の日、猛暑の日は行かないようにします。私達が訪れたのはは霧が流れ、幻想的な日でした。高原の丘一面に遊歩道がひろがり世界中の彫刻家の作品が展示されています。すべて野外で鑑賞するために創られた大きな造形芸術作品です。
箱根の強羅にある彫刻の森の姉妹美術館です。でも感動のスケールの大きさは美ケ原の方が勝っています。
交通案内、会館時間などは、http://www.utsukushi-oam.jp に有ります。

お終いに申し上げたいことは是非、両方の野外美術館をご覧下さいということです。
両方を見るとそれぞれの良さが深く味わえられるのです。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

北朝鮮で大歓迎を受ける韓国の文在寅大統領

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平壌入りした韓国の文在寅大統領が空港からの沿道で朝鮮の民族衣装を着た人々に大歓迎されている様子をテレビで見ました。文在寅大統領が感激して沿道の人々に歩み寄り握手をしながら何か言っています。北朝鮮の一般人と韓国の大統領が握手をして直接言葉を交わしているのです。それは本当に平和な光景です。
戦後すぐの凄惨な朝鮮戦争を知っている老人の私の目頭が熱くなりました。
朝鮮戦争は、アメリカ軍・国連軍と北朝鮮軍・中国共産党軍との大戦争だったのです。
その停戦後も厳しい冷戦体制になり韓国と北朝鮮は小規模な軍事衝突を度々起こして来たのです。
そして昨年、北朝鮮はアメリカへ届く大陸間弾道ミサイルを太平洋へ打ち込みました。核兵器も配備した北朝鮮は今にもアメリカを攻撃するような姿勢を見せていました。
この北朝鮮に対抗してトランプ大統領は日本海へ航空母艦打撃群を3つも同時に派遣して北朝鮮を脅迫したのです。あわや戦争勃発かと思う瞬間に北の金正恩委員長が折れたのです。
その結果、この春の南北会談、中朝会談があり6月の米朝会談が開かれたのです。そして北朝鮮が非核化を約束したのです。昨年から今年は激動の朝鮮半島だったのです。
これこそ隣国の日本も重要視しなければいけない歴史の転換点なのです。
この一連の動きの中でかねて北朝鮮から招待されていた韓国の文在寅大統領が昨日の午後に平壌に入ってのです。
韓国と北朝鮮はともに同じ朝鮮民族として協力しあいながら平和と繁栄の道を歩みはじめたのです。
戦後すぐの凄惨な朝鮮戦争を知っている老人の私にとっては感激せざるを得ません。
北朝鮮の非核化は一向に進展せず、米朝関係は厳しいのです。その中で韓国と北朝鮮の関係は雪解けなのです。
これは日本にとって難しい情勢です。
日本はこの激動の朝鮮半島の目まぐるしい変化に注意深く見守るべきではないでしょうか?
そこで客観的に報道するBBCニュースを以下に転載いたします。

「韓国の文大統領、平壌入り 金委員長、空港で出迎え」
2018年09月18日, https://www.bbc.com/japanese/45556633

韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領と金正淑(キム・ジョンスク)夫人が18日午前10時前、専用機で平壌国際空港に到着した。北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長と李雪主(リ・ソルジュ)夫人が出迎えた。両首脳は握手し合い、抱き合ってあいさつした。韓国大統領が平壌を訪れるの11年ぶり。
両首脳は3日間の日程で、進展の遅れている北朝鮮の非核化などについて協議する見通し。朝鮮半島の「非核化実現のため実務的な方法」を話し合うとされているが、具体的な内容は明らかになっていない。
韓国の主な目的は2つある――。
南北朝鮮の協力と和解の推進
非核化交渉で米朝の仲介役を果たす
文大統領と金委員長が4月に初めて会談した時点では、両首脳が対面しているというだけで大きな前進だった。今回の文大統領は、非核化に向けた具体的な対応の言質を北朝鮮から得るため、北朝鮮を説得し、中身のある成果を確保する必要があると、BBCのローラ・ビッカー・ソウル特派員は指摘している。
さもなければ、今年になって繰り返された南北首脳会談や、歴史的とうたわれた米朝首脳会談はいずれも、華やかな写真撮影の機会に過ぎなかったと位置づけられる恐れがあり、ドナルド・トランプ米大統領の忍耐力が試されるかもしれないと、ビッカー記者は言う。

1番目の写真は南北朝鮮首脳と両夫人が平壌国際空港で温かい挨拶をかわしている様子です。(18日午前) Reuters

2番目の写真はオープンカーで平壌市内へ向かう韓国の文在寅大統領と北朝鮮の金正恩委員長です。

3番目の写真は平壌の沿道に歓迎陣の人々です。

4番目の写真は同行した韓国の経済界の人々です。サムスングループの実質経営トップの李在鎔(イ・ジェヨン)氏など多くの韓国財界人が文大統領に同行しています。

4月の南北首脳会談では、「核のない朝鮮半島」や平和体制の実現で合意したが、具体策は米朝首脳会談にゆだねられた。今月14日には、北朝鮮・開城工業団地内に南北連絡事務所を開所し、両国が常時、連絡を取り合えるようにした。
今回の首脳会談を機に、両国は協力関係の拡大を目指す見通し。文大統領にはサムスン・グループやLG、ヒュンダイなど韓国財界のトップが多数同行しており、経済関係の発展を協議する。軍事境界線の警備体制緩和も主要テーマになるとみられる。
 南北首脳による会談は今年に入って3回目。4月27日の会談は、南北の軍事境界線をまたぐ板門店の韓国側施設で、5月26日の2回目の会談は板門店の北朝鮮側の施設であった。2人が平壌で会うのは初めてだ。
 韓国大統領の平壌訪問は、2000年6月の金大中(キムデジュン)大統領、07年10月の盧武鉉(ノムヒョン)大統領以来。朝鮮中央通信は18日朝、文氏の訪問を事前に報じ、「新しい歴史を開いていく北南関係の発展を、さらに加速させる重大な契機となる」と伝えた。

さて今回の南北会談で非核化の進展は期待できるのでしょうか?米朝関係は緊迫する方向になるのでしょうか?
日本にとっても重要な会談なので注意深く見守りたいと思います。
大相撲の稀勢の里横綱にばかりをハラハラ見ていないで外国ニュースにも関心をもつことが大切と思います。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日は秋のお彼岸の墓参りに行きました。

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毎年、春と秋のお彼岸には家内の家の墓参りに行きます。お寺は日野市にあります。江戸初期に出来た大昌寺という浄土宗のお寺です。
私の父母の墓は仙台にあるのでめったに墓参りには行けません。住職の弟が供養しています。
祖父も叔父も父も曹洞宗のお寺の住職でした。私は時々、府中市にある曹洞宗の高安寺の道元さまへお参りに行きます。祖父や叔父や父の墓参りのつもりで室町時代からの高安寺に参るのです。
今日は家内の実家の墓参りに行きました。森閑とした墓地のなかで家人が持参して来た庭の花を一心に供えています。生け花の色の組み合わせと、全体の形のバランスをいろいろ考えています。昨日、義妹の供えた花々との調和をとっています。
私は線香の束に火を着けています。静かな時間がゆっくりと流れています。
そんな折には「80歳以上の人生は天から貰ったケーキ」という想いがこみあげて来ます。私はすでに82歳です。何故か感謝の気持ちが湧いて来ます。
ボーナスを与えてくれた天の神様への感謝です。そして自分が82歳まで生きる間に支えになってくれた全ての人々への感謝です。
私の中学校時代の友人に大川君というのがいました。彼は60歳代から「俺はせめて80まで生きるから、後藤も生きろよ!」としきりに言ってました。この「せめて80まで、、、」を呪文のようにして、すでに82歳まで来ました。そんな愚にもつかないことを考えながらお墓参りをしました。
墓地には毎年、彼岸花が沢山咲いています。例年のように彼岸花の写真を撮りました。
彼岸花が終わると季節は中秋の名月、山々の紅葉と流れ行きます。秋は涼しくて好きな季節です。
皆様もご気分よく秋を楽しまれるように祈っています。
写真に先程撮ってきた彼岸花やお墓の写真をお送りします。








茨城県の笠間日動画廊美術館と板谷波山記念館

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茨城県の水戸には県立美術館があり北茨城には県立天心記念五浦美術館があります。
そして笠間市には笠間日動画廊美術館と県立陶芸美術館があります。笠間の西隣りの筑西市には板谷波山記念館があります。私はこれらの美術館を以前に家内と一緒に見てまわりました。水戸の県立美術館での中村彜の特別展は印象深いものでした。
今日は笠間日動画廊美術館の展示の絵画と板谷波山記念館の板谷波山の陶芸作品をご紹介したいと思います。
まずこれらの写真を示します。

1番目の写真は「泉のそばの少女 」 オーギュスト・ルノワール (1841-1919)です。

2番目の写真は「ヴェトゥイユ、水びたしの草原 」クロード・モネ (1840-1926)です。

3番目の写真は「パリ裏街 」 佐伯 祐三 (1898-1928)です。

4番目の写真は板谷波山の彩磁藤文花瓶です。

5番目の写真は彩磁花弁紋香炉です。

6番目の写真は白磁唐草文壺です。

7番目の写真は青磁袴腰香炉です。
これらの数少ない写真だけでは笠間日動画廊美術館や板谷波山記念館の多数の展示品から受ける感動はお伝え出来ません。それらのほんの片鱗をご紹介したのです。
日動画廊の展示絵画は豊富です。どれも身近に置きたくなるような楽しい油絵が並んでいます。その上、有名な絵描きさん達と親交が深かったので、美しいパレットが蒐集展示してあるのです。アトリエの中の画家の息吹が感じられるのです。
日動画廊は銀座や名古屋など各地にあります。お店は出入り自由の美術館のようです。その上、その店で時々、個展を開いているのです。
単なる画商ではなく絵画芸術の普及に努力し、画家達を応援しているのです。その精神は尊敬に値しますので以下に創業者の長谷川仁さんをご紹介します。
彼は1928年に友人の弟で洋画家であった松村建三郎の助言で洋画商を志し横浜貿易会館で洋画大展覧を開催したのです。
1931年1には、日本動産火災保険の当時の社長の粟津清亮の好意で京橋区銀座5丁目に「東京画廊」を開きます。それをすぐ「日動画廊」と改称して、洋画だけの画商として現在に至っています。
長谷川仁氏は1897年に生まれ 1976に亡くなりました。
そして1965年には、出身地の茨城県笠間市に笠間日動美術館を作ったのです。

一方、板谷波山は明治5年(1872)に茨城県に生まれ昭和38年(1963)に亡くなりました。
明治27年東京美術学校彫刻科卒業後、明治36年に田端に居を構え、「波山」と号し、陶芸家としての道を歩み始めました。貧窮の生活の中で窯を築き、明治39年初窯に成功し、翌年には東京勧業博覧会で三等賞を受賞。以後様々な展覧会・博覧会で入選・受賞を重ね、陶芸界での地位を不動のものとしていったのです。
板谷波山の作品は静謐な美です。眺めていると心が静まります。そしてその上品な美の世界へ吸い込まれていくのです。宗教とはまったく別な崇高なものを感じさせます。嗚呼、そういうのが陶芸芸術なのだと納得するのです。茨城県の筑波山の北の山麓にある筑西市に生まれ育ったので筑波山の筑を消して波山と号したそうです。

波山の精神性に溢れた陶磁器が沢山あるのが板谷波山記念館です。そして笠間日動画廊美術館の近所にある茨城県立陶芸美術館にも波山の作品が沢山展示してあります。
是非、笠間日動画廊美術館と板谷波山記念館にあわせて茨城県立陶芸美術館もご覧下さい。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

ミレー美術館のような山梨県立美術館と山梨県立文学館

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老人は何かと言うとすぐ古い昔の話をしますので嫌われます。分かっていますが聞いて下さい。
終戦直後の昭和23年に新制中学校に入学したら「日本の復興が君達の双肩にかかっている!」と教わりました。そして「日本は世界中から尊敬される文化国家にならなければいけない」と何度も、何度も教わりました。
文化国家とは何でしょうか?新制の中学生だった私には分かりませんでした。あれから茫々70余年。
造形芸術が少なそうな山国にも堂々たる県立美術館と文学館が並んであるのです。つくづく日本は文化国家になったという感慨に襲われます。
日本各地の県立美術館は幾つも見ましたが、山梨県のものが一番内容が充実し、敷地や建物が広大で芸術的に設計、配置されています。野外にはロダンやザッキンや岡本太郎の大作も展示してあります。南アルプスを望むロケーションが素晴らしいのです。

1番目の写真は大きな彫刻が並んでいる美術館の前庭です。
この美術館は特に絵画の蒐集方針が立派なのです。ジャン フランソワ・ミレーとバルビゾン派にこだわり、根気よく収集を続けています。ミレーの傑作だけでも20点ほどを収集、展示してあります。
昔のヨーロッパの信仰篤い農民の働く姿が心地良い色彩で描いてあります。展示室内を歩いているとフランスの平和な農村を散歩しているようです。

2番目の写真は「落ち穂拾い」です。
この「落ち穂拾い」という絵には、地主が貧しい小作人のために落として置いた麦の穂を小作人の妻たちが拾っている様子を描いたものです。昔のヨーロッパでは、地主はこうして小作人を助ける伝統があったのです。何故かせつないような内容の絵ですが静かな絵です。
「落ち穂拾い」は数枚ありますが、上の写真はオルセー美術館のものです。山梨のは構図が少し違いますが完成度の良い傑作です。

3番目の写真は「種まく男」です。1977年に山梨県が落札した絵です。この「種を播く人」の絵には健康そうな農夫の躍動感が描かれています。種播く男の絵は2枚あり、同じ大きさ、同じ構図だそうです。もう一枚はボストン美術館にあります。
この絵に感動したゴッホも同じ構図で描いています。

4番目の写真は「ポーリーヌ・V・オノの肖像」です。この絵は、若くして貧困の中に死んでしまった最初の妻を描いたものです。ポーリーヌへのミレーの深い愛情が絵筆に乗り移ったような勢いで描いています。しかし最後は、ゆっくり丁寧に仕上げています。
美術館内は撮影禁止なので、ここに示した3枚のミレーの絵画はWikipedeaの「ジャン フランソワ・ミレー」の項目からお借りしました。

この美術館には日本人の好きな印象派の絵画は一切ありません。バルビゾン派のジャン フランソワ・ミレーのを主にしいして同じ画風のヨーロッパの絵画が展示してあります。立派な見識です。

さてこの美術館のあるところは芸術の森といい、収集・展示方法の優れた文学館もあり、庭園には数々の彫刻もあり、茶室や日本庭園も見事です。天気の良い日は周りの山々の遠景が一層素晴らしい雰囲気を作っています。

5番目の写真は文学館の全景です。明治、大正、昭和の文学者の直筆原稿や初版本などが作家ゆかりの机、文房具とともに展示してあります。
特に樋口一葉の両親が山梨県甲州市塩山の出身なので、第一室にはゆかりの品々が展示してあります。そして樋口一葉関連のものの収集と展示には圧倒的な情熱が注がれています。そこで以下の紹介では他の文学者については省略して一葉だけについて書きます。
一葉の作品は悲しく、美しく、人間の運命のはかなさが白黒写真に写したように描き出されているのです。
この文学館には「たけくらべ」の始めの部分の朗読がイヤホーンで聞けるブースがあります。下の文章からはじまります。
たけくらべ:
「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろどぶの燈火うつる三階の騒ぎも手に取るごとく、・・・」に始まり、結末は「ある霜の朝水仙の作り花を格子門の外より差入れ置きし者のありけり。…信如がなにがしの学林に袖の色かへぬべき当日なりしとぞ。」
(博文館 明治38年15版、一葉全集(家内の蔵書、下に写真))より。
そのあらすじ:花街に育った少女美登利と僧侶の息子信如の淡い恋物語です。
勝気な少女美登利はゆくゆくは遊女になる運命をもつ。 対して龍華寺僧侶の息子信如は、俗物的な父を恥じる内向的な少年である。美登利と信如は同じ学校に通っているが、あることがきっかけでお互い話し掛けられなくなってしまう。ある日、信如が美登利の家の前を通りかかったとき下駄の鼻緒を切ってしまう。 美登利は信如と気づかずに近付くが、これに気づくと、恥じらいながらも端切れを信如に向かって投げる。だが信如はこれを受け取らず去って行く。美登利は悲しむが、やがて信如が僧侶の学校に入ることを聞く。 その後美登利は寂しい毎日を送るが、ある朝水仙が家の窓に差し込まれているのを見て懐かしく思う。この日信如は僧侶の学校に入った。・・・・

6番目の写真は樋口一葉の写真です。

7番目の写真も文学館の入り口です。井伏鱒二と山梨県出身の有名な俳人の飯田蛇笏の特別展がありますとう看板を撮った写真です。
少しくどいようですが、更にこの美術館が常設展示している絵画の一覧表と樋口一葉のことを参考資料につけます。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料===============================
(1)山梨県立美術館の常設展示絵画目録
(出典は、http://www.art-museum.pref.yamanashi.jp/contents/index.php?option=com_content&task=view&id=336&Itemid=155 です。)
ジャン=フランソワ・ミレーポーリーヌ・V・オノの肖像1841-42頃油彩・麻布73.0×63.0
ジャン=フランソワ・ミレー眠れるお針子 ★ 1844-45 油彩・麻布45.7×38.1
ジャン=フランソワ・ミレーダフニスとクロエ1845頃油彩・麻布82.5×65.0
ジャン=フランソワ・ミレー落ち穂拾い、夏1853 油彩・麻布38.3×29.3
ジャン=フランソワ・ミレー冬(凍えたキューピッド) 1864-65 油彩・麻布205.0×112.0
ジャン=フランソワ・ミレー鶏に餌をやる女1853-56頃油彩・板73.0×53.5
ジャン=フランソワ・ミレー夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い1857-60 油彩・板53.5×71.0
ジャン=フランソワ・ミレー種をまく人1850 油彩・麻布99.7×80.0
ジャン=フランソワ・ミレー無原罪の聖母1858 油彩・麻布77.7×44.8 ㈱相川プレス工業寄贈
ジャン=フランソワ・ミレーヴォージュ山中の牧場風景1868 パステル・紙70.0×95.0
ジャン=フランソワ・ミレー習作3(オーヴェルニュの風景Ⅲ) c.1866-67 鉛筆、黒インク・紙11.7×17.2
ジャン=フランソワ・ミレー習作4(オーヴェルニュの風景Ⅳ) c.1866-67 鉛筆、黒インク、パステル・紙12.1×17.0
ナダールミレーの肖像1868 銀塩写真29.0×22.0
エミール・ロワゾーアトリエでのJ.F.ミレー1855頃黒鉛筆・紙15.8×21.5 飯田祐三氏寄贈
ジャン=フランソワ・ミレー「二人の農婦」の習作c.1853 インク・紙19.6×15.0 田村幸子氏寄贈
ジャン=フランソワ・ミレー落ち穂拾い(第1版) 1855-56 エッチング19.0×25.2 飯田祐三氏寄贈
ジャン=フランソワ・ミレー
(ジャン=バティスト・ミレー版刻)
ランプの下で縫物をする女たち(夜なべ) 1855-56 エッチング15.1×11.0 飯田祐三氏寄贈

風景画の系譜 (クロード・ロラン~バルビゾン派)
クロード・ロラン木を伐り出す人々(川のある風景) 1637頃油彩・麻布79.4×115.6
ヤーコプ・ファン・ライスダールベントハイム城の見える風景1655頃油彩・麻布63.5×68.0
ジョルジュ・ミシェル風車のある風景1820-40頃油彩・麻布60.4×86.5
ジュール・デュプレ森の中-夏の朝1840頃油彩・麻布95.5×76.0
ジュール・デュプレ海景 ★ 1870頃油彩・麻布51.0×63.5
ディアズ・ド・ラ・ペーニャフォンテーヌブローの樫の木(怒れる者) 1862 油彩・麻布71.4×93.5
シャルル=エミール・ジャック森の中の羊の群れ1860頃油彩・板49.0×118.0
コンスタン・トロワイヨン近づく嵐1859 油彩・麻布133.0×145.0
コンスタン・トロワイヨン市日1859 油彩・麻布115.4×175.5
テオドール・ルソーフォンテーヌブローの森のはずれ1866 油彩・麻布76.0×95.0 三枝守雄・佐枝子氏寄贈
テオドール・ルソー樫のある風景不詳油彩・麻布75.0×95.0
ジャン=バティスト=カミーユ・コロー大農園1860-65頃油彩・麻布55.2×80.8
ギュスターヴ・クールベ嵐の海1865 油彩・麻布54.0×73.0
ギュスターヴ・クールベ川辺の鹿1864頃油彩・麻布73.0×92.0
シャルル=フランソワ・ドービニーオワーズ河の夏の朝1869 油彩・麻布68.6×100.3
アンリ=ジョセフ・アルピニー陽のあたる道 ★ 1875 油彩・麻布49.3×76.2
ヨハン・バルトールト・ヨンキントドルトレヒトの月明かり1872頃油彩・麻布59.5×102.0
ジュリアン・デュプレ牧草の取り入れ1890-95頃油彩・麻布65.1×81.0
ジュール・ブルトン朝 ★ 1888 油彩・麻布

(2)樋口一葉について
樋口 一葉(ひぐち いちよう):1872年5月2日(明治5年3月25日) - 1896年(明治29年)11月23日)は、日本の小説家。東京生れ。本名は夏子、戸籍名は奈津。中島歌子に歌、古典を学び、半井桃水に小説を学ぶ。生活に苦しみながら、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」といった秀作を発表、文壇から絶賛される。わずか1年半でこれらの作品を送ったが、25歳(数え年、以下同様)で肺結核により死去。『一葉日記』も高い評価を受けている。この1年2ケ月は奇蹟の14ケ月と呼ばれ、日本の近代文学の礎になる作品が生まれたのです。まさしく樋口一葉は薄幸の天才でした。
一葉記念館は彼女が住んでいた下町の住民が戦後に寄付を集めて作りあげました。そのHPを見るとまた泣けてきます。何故か、記念館を作った人々の切々たる気持ちが伝わってくるのです。http://www.taitocity.net/taito/ichiyo/index.html を是非ご覧下さい。

孤独でも幸せな老人、孤独で不幸な老人

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最近の日本では高齢化がどんどん進み独り暮らしの老人が次第に増えて来ました。
このような老人は一見孤独で淋しいように見えます。そして誰にも看取られずに死んでしまう孤独死も起きます。
今日は老人の孤独の問題を考えてみようと思います。単なる問題提起であり、正解ではありません。
まず一人暮らしてるからといって不幸とは限りません。独り暮らしだから孤独で悲しいとは限りません。
孤独な老人を助けようといろいろ干渉して嫌われることもあります。この問題は簡単ではありません。

そこで議論をなるべく客観的に進める為に一人暮らし老人のいろいろな事情を分類してみます。

(1)これといった原因も無いのに、生涯独身だったので、自然に一人暮らしの老人になっている人々。
(2)長い間幸せな結婚生活をしていたが夫婦のどちらかが亡くなり、その上、子供がいなかったので一人暮らしになった人々。
(3)別居している子供や孫もいるが、幸せだった夫婦の一方が亡くなってしまい一人暮らしになった老人。
(4)何度か結婚と離婚をした経験があり、子供もいるが、終いには一人暮らしになってしまった人々。
(5)同性婚をしていて一方が亡くなって一人暮らしをしている人々。この場合は子供はいません。
(6)種々の障害が原因で結婚が出来なくて一人暮らしをしている人々。
(7)その他、いろいろな事情で独り暮らしをしている老人。
上記のように一人暮らしの老人にはいろいろ違った事情があるのです。
ですから一人暮らしの老人を助けようと安易に近づくのは必ずしも良いとは限りません。
人によって孤独が好きで他人に干渉されることを嫌う人々もいます。

それでは孤独でも幸せな老人、孤独で不幸な老人は上記のどれでしょうか?
(1)の人々は孤独に慣れていますから問題がありません。孤独でも幸せな老人です。
(2)の人々は一番悲しい老境を送っているのではないでしょうか?孤独で不幸な老人です。 
(3)の人々は子供や孫がいるので一人暮らしでも悲しくありません。何処かで子供や孫が元気に育っていると考えると孤独を感じないのではないでしょうか?孤独でも幸せな老人です。
(4)の人々は何度か離婚の経験があるので人生の悲しみに対する耐性が出来ているので、あまり心配しなくても良いのではないでしょうか?孤独でも幸せな老人です。
(5)の人々は悲しみに沈んでいると考えられます。孤独で不幸な老人です。 
(6)の人々には深く同情せざるを得ません。孤独で不幸な老人です。 
(7)その他、いろいろな事情で独り暮らしをしている老人については個々の事情によって異なります。。

以上のように簡略に書くと、皆様は孤独感はそんな簡単な問題でないととおっしゃると思います。
孤独で、不幸と思い込んでいる人々に対して、他人がその悩みを解消することも出来ないのです。

しかし、孤独で不幸な老人を助ける方法は一つあります。それは日常の暮らしで困っていることを具体的に支援することです。
車の運転が出来ずに買い物や病院通いが出来ない一人暮らしの老人は車で送迎してあげることです。体が動かず、庭が雑草だらけになっていたら雑草刈りをしてあげるのです。一人暮らしの老人の生活を少しでも楽になるように助けるのが良いと思います。
しかしそれもうるさがられないようい控え目にするほうが良いようです。

一人暮らしをしている老人には全く社交性が無く、偏屈な人もいます。
そのせいで一人暮らしの老人になっている人もいます。こういう場合は要注意です。どんなに善意で支援して上げても感情的に拒絶され、挫折させられることがあります。私はそのような善意の人を知っています。しかしその人を心から尊敬しています。

人間は非常に複雑です。孤独を愛しながら、他人の支援や愛を期待するものなのです。矛盾しているのです。
ですから孤独な老人を助けることは至難の技なのです。

これを書いてしまえば鼻白む方々も多いと思いますが、まあ書かせて下さい。
キリスト教では神様やイエス様が人を愛していますと教えています。
私も神様やイエス様を愛しています。ですから全く孤独になっても信仰の篤い人には孤独の悲しみが無い筈です。しかし人間は弱いものです。イエス様の愛に、四六時中確信が持てないのです。
今日の記事は家内が私より先に旅立ってしまった場合の心の準備として書いたのかも知れません。困ったものです。
さて皆様は孤独を感じ不幸を感じるときがあるでしょうか?

今日の挿し絵代わりの写真は心が豊かになるような広い明るい風景写真です。昨年9月15日に甲斐駒岳、八ヶ岳、白樺湖、車山、霧ヶ峰などで撮った風景写真です。








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