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高齢者の方々は『戦艦ポチョムキン』という映画を憶えていますか?

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先日の9月11日に白崎謙太郎著、「往年の名画、『カサブランカ』と『秋のソナタ』について」という記事を掲載しました。この記事の著者の白崎さんが『戦艦ポチョムキン』という映画の全編が字幕つきでネットで見えますと教えてくれました。
1960年代の終り頃映画館で見た記憶はありましたが、昨日もう一度コンピューターで叮嚀に鑑賞しました。
非常に驚いたことにこの無声映画は非常に質の高い芸術作品なのです。その上、現在でも使われている映画製作の斬新な技術がいろいろ駆使されているのです。
舞台は霧の深い黒海のオデッサの港です。戦艦の「ポチョムキン号」の水兵たちが反乱を起こし士官を海に落とし戦艦を乗っとる話から始まります。
従順な水兵たちがウジの湧いた肉を使ったスープを嫌がって食事を拒否します。船医がウジは害虫でないので無害だと説得するシーンが印象的です。この辺の描き方が実に丁寧なので水兵の反乱に拍手を送りたくなります。
場面は変わって戦艦ポチョムキンの水兵の反乱を知ったオデッサの市民が水兵に同情し、大規模なデモを始めます。

1番目の写真がそのデモの場面の撮影に使われたオデッサの街から黒海へ下る大階段です。
ここで行われたデモに対してロシア皇帝の軍隊が隊列を組んで階段を下りながらデモの参加者を上から撃って行くのです。デモの参加者はバタバタと倒れます。

2番目の写真は若い母親が撃たれ即死したために乳母車に乗った赤ん坊だけが階段をガタガタ下って行く場面です。ロシア皇帝の軍隊の残酷さを象徴的に描き出した印象深い場面です。

3番目の写真はオデッサの階段の虐殺後の光景です。
1905年に初めてロシアの共産主義革命が起き、各地で合計280万人以上の労働者が蜂起します。
「ポチョムキン号」の水兵たちもこの労働者に刺激を受け士官を海に落とし戦艦を乗っ取ったのです。
ここまでは事実です。
しかしオデッサの階段での虐殺は無かったのです。まったくのフィクションです。
しかしながらこの6分間の虐殺の場面でこの映画が全世界の人々の心を打ったのです。
さて最後はどうなるでしょうか?
是非、ご自分で、https://www.youtube.com/watch?v=_Glv_rlsdxU にあるこの無声映画をご覧下さい。
無声映画でもこんなに感動的な映画があることに驚かれると思います。
このように「戦艦ポチョムキン」は素晴らしい映画芸術ですが、一方でロシアの共産主義革命を正当化する宣伝映画としても優れたものでした。
感情的な人が見たら、ロシアで共産革命が起るのは当然だ、悪いのはニコライ皇帝とその一派だと拍手を送りたくまります。映画の場面にロシア正教の神父が十字架をかざして反乱水兵へ立ち向かう場面があります。水兵は鬚の神父を殴り倒し十字架を軍靴で踏みにじります。これもフィクションですが、キリスト教は間違いで共産主義が正しいという印象を与えます。
このような内容なので資本主義の多くの国々で上映禁止になりました。

共産主義はマルクスとエンゲルスが『共産党宣言』を書いた1847年に始まりました。
セルゲイ・エイゼンシュテイン監督は、ロシア第一革命20周年記念委員会より、記念映画の製作を依頼されたのです。主要な役以外は艦隊の水兵やオデッサ市民などは素人でした。またオールロケで撮影され、記録映画のような手法がとられていますが共産主義の宣伝映画なのです。
こんな事情だったので日本では検閲で輸入禁止となり、終戦まで政府により上映禁止措置が取られていました。初めて日本の観客が目にしたのは1967年に映画館で一般公開された後のことでした。

共産化したソ連の大規模な飢饉や収容所列島と言われ弾圧の悲劇は皆様ご存知の通りです。
恐ろしいのは共産主義なのでしょうか? それを自分の権力のために利用する人間なのでしょうか?
『戦艦ポチョムキン』という映画は無声映画ながらいろいろなことを考えさせます。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

晴れ上がったので東京の西端の檜原村までドライブに

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今日の午後は何日ぶりかに晴れ上がったので檜原村の養沢を遡って来ました。
十里木交差点から養沢へ折れ曲がり撮った檜原村の今日の写真をお送りします。










花の写真、老境の精神の安定、達観の境地

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今日は日曜日なので宗教に関することを書く日です。
しかし今日は宗教から少し離れて、「老境の精神の安定」に関して短いものを書いてみたいと思います。
老境の精神の安定はいろいろなことから簡単に得られます。
例えば花の写真をジーっと見ているだけでも得られます。
そこで先日撮って来た鶏頭の花の写真3枚とその周りに咲いていた秋の花々の写真2枚をお送りいたします。









長い人生では楽しいことも苦しいこともありました。
しかし老境になると私は苦しかったことを忘れることにしました。悲しかったことも忘却の彼方に捨て去るのです。
そして今までかかわった全ての人に感謝するのです。
他人を憎んだ非難しません。韓国人や中国人を非難する人の群れにも入りません。
衣食住のすべてに満足するのです。老境になると収入は無くなります。心配です。
しかし戦中、戦後の食べ物も無かった時代を思い出すと現在の生活に感謝の気持ちが強く湧いてきます。
憂いや心配がまったく無いのです。
こうして老境の精神が安定します。こんな状態を「達観の境地」と言うのでしょうか?


しかしここからが今日の主張です。
達観の境地になるのは一日のうち10分間だけで良いのです。あとの23時間と50分はそれまでの人生と同じように迷い憂いに満ちていて良いのです。
しかし達観の境地が10分だけでもあれば、他の時間の迷い、憂い、心配の質が変わって来るのです。
憂い、迷いながらもそれらは時間が来れば消えてしまう予感がするのです。
これこそが老境の精神の安定なのです。老境の幸せなのです。
達観の境地に四六時中浸っている「必要」はありません。毎日10分間、できれば毎日2回、合計20分間だけ達観の境地に入れれば良いのです。
これが私の老境の生き方です。
皆様のご意見を頂けたら嬉しく思います。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)

カトリックのミサで重要な歌、あわれみの賛歌、栄光の賛歌

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ミサの冒頭で歌われる「あわれみの賛歌」の動画を2種類お送り致します。

「ミサ曲Ⅰ」 あわれみの賛歌 by ブルーベリー 音楽/動画
http://www.nicovideo.jp/watch/sm25624762

ミサ曲2「あわれみの賛歌」 by sirafu VOCALOID/動画 ...
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20547357

キリエ・エレイソン(主よ、あわれみたまえ)
主よ 哀れみ給え
主よ 哀れみ給え
主よ 哀れみ給え
キリスト 哀れみ給え
キリスト 哀れみ給え
キリスト 哀れみ給え
主よ 哀れみ給え
主よ 哀れみ給え
主よ 哀れみ給え

そして「栄光の賛歌」もどうぞお聞き下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=J2UJv2j_iKQ

旧懐の情に駆られて大島、波浮の港へ旅す

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戦後すぐの少年の頃、「磯の鵜の鳥ゃ、日暮れにゃかえる、波浮の港は夕焼け小焼け、、、」という歌がラジヲから流れていました。歌の意味は、出稼ぎに行く島の娘が波浮からの船の艫綱を泣いて解く、、、船出する人と見送りに来た人が別れを悲しんでいます。鵜の鳥は日暮れに帰るがその人は帰らない、、、。
そんな悲しい歌なので忘れられません。12年前に仕事を一切止めて、彼方此方へ旅をすることにしました。 そうだ!大島の波浮の港へ独り旅をしてみようと思い立ちます。
少年の頃から長い長い間、歌だけで知っていた波浮の港へ行く事にしました。それは旧懐の情に駆られた旅でした。
12年前の、まだ寒い3月5日の朝、竹橋桟橋から船に乗ると、高速船なので昼前に大島に着きます。観光客で騒がしい岡田港の交通案内所で波浮の港へ行って一泊したいと相談します。対応してくれた若い女が。「あそこは観光客は行きませんが。何をしに行くのですか?」と聞きます。
少年の頃の感傷で行きますとも言えず赤面してしまいました。それでも国民宿舎のような宿をとってくれました。
バスで行きました。宿に着くと高台にあり、火口湖のように丸い波浮港が見下ろせます。

1番目の写真は高台から見下ろした波浮の港の風景です。
写真は、http://blog.livedoor.jp/zuifuuino/archives/52120612.html からお借りしました。
宿からの景色が良いのですが、憧れの波浮の港までは遠すぎます。
港へ降りて行って地魚の寿司を食べようと思いましたがタクシーがありません。
思案していましたら、宿の人が電話をすると寿司屋さんが迎えに来てくれるよと言います。
60歳くらいの元気なオバサンが軽自動車を運転して迎えに来ました。
気さくでいろいろ話してくれるのですが乱暴な運転なので怖いのです。曲がりくねった急な坂道を降りて行き、そこ一軒だけの店に着きます。

2番目の写真は波浮の港の町並で、このような場所に寿司屋がありました。
この写真は、http://www.asahi.com/travel/bicycle/TKY201204060190.html からお借りしました。
席について好奇心から地魚の島寿司を頼みました。
ご存知ですか?「島寿司」を?あれはいけません。
活きの良い地魚の握りの上に、どういう訳か甘ったるい醤油が塗ってあるのです。ワサビでなくカラシです。
甘い魚の寿司です。
泣きたくなりましたが、ビールの酔いのお陰で元気になり、店の中を観察することにしました。2組の客が居て日本酒や焼酎を飲んでいます。
客の一組が、寿司を握っている60過ぎの主人や手伝っている息子やその嫁と雑談をしています。寿司屋の一家は明るく、地元の人々に好かれているようです。

見ると店の壁に古い写真が沢山飾ってあります。波浮の港に木造漁船がビッシリと並んでいる写真です。港の通りには漁師が溢れ、居酒屋が軒を連ねています。
主人に聞くと昔は漁船の船足が遅く、この港が太平洋での漁の中継基地として賑わったそうです。今は船が高速化して、取れた魚を冷凍し、積んだまま築地の魚河岸へ直行するのです。
だれも波浮の港へ寄らなくなり、すっかりさびれました。と主人が淋しそうに言います。
そして島では火山灰が土地を覆っていて米が取れなく、昔から貧しい所だったと説明してくれます。気分を引き立てるため地魚の刺身と「亀の爪」という一品を注文しました。
亀の爪のように見える小さな一枚貝が、磯の岩にしがみついているそうです。不味い貝です。普通には食べるものではない代物です。救荒食とはこんなものかも知れないと考え込んでしまいました。
少年の頃聞いた歌で、下田や熱海へ出稼ぎに行く島の娘の悲しい歌が実感として体で感じられるのです。
主人へ不味いとも言えず。「結構なお味ですね」と言います。ニコリとして、主人が、「そうでしょう!昔は毎日のように食べたものです」と答えます。
酔い醒ましに、暗い港通を散歩すると、店も居酒屋も無く真っ暗な通りなのです。淋しげな波音だけが響いていて、通りが尽きた浜辺に「磯の鵜の鳥ゃ、日暮れにゃかえる、、、、」の野口雨情の記念碑が立っています。
まだ3月の始めで、寒い夜風が吹く抜けて行きます。
もとの店へ戻り、もう一杯飲み暖まってから帰ることにしました。帰りは赤ん坊を連れた嫁が、軽乗用車で高台の宿まで送ってくれました。助手席に赤ん坊を乗せているので丁寧な運転です。道々、乳飲子の自慢話を聞かせてくれたのでこちらも明るい気分になりました。

3番目の写真は大島の南端にある波浮の港近辺の地図です。
私の行ったのが3月のせいで観光客が居ませんでした。しかし、夏には釣り客やダイビング客で賑わうそうです。皆様、是非波浮の港へ泊まりに行って下さい。港通りのお寿司屋さんへも行って下さい。島寿司でなく普通の握りにしたほうが無難です。
それから大島ではレンタカーがお薦めです。波浮の港へはバスしかありません。
レンタカーですと大島の海岸沿いを一周出来ます。三原山の火口近くまで車で登れます。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人) 
===参考資料====================
(1)昭和の流行歌、「波浮の港」について、
https://ja.wikipedia.org/wiki/波浮の港
この流行歌はまだ大正時代だった1923年に野口雨情が発表した詞に、中山晋平が作曲した歌曲でした。
レコードは1928年5月に佐藤千夜子が日本ビクターから、その2ヶ月後の7月には藤原義江が同じくビクターから高額な赤盤レコードとして発売されます。
昭和初期の伊豆大島は、観光とは無縁の離島で、島の南東部にある波浮港村は、島の中心部の新島村からも三原山を挟んで反対側にあるわびしい漁村でした。
当時は東京からの船便もなく、雨情は現地には全く行かず、地図さえも確かめずに詩を書いたそうです。

歌詞
磯の鵜の鳥ゃ 日暮れにゃ帰る
波浮の港にゃ 夕焼け小焼け
明日の日和は ヤレホンニサ なぎるやら

船もせかれりゃ 出船の仕度
島の娘たちゃ 御神火暮らし
なじょな心で ヤレホンニサ いるのやら

島で暮らすにゃ 乏しゅうてならぬ
伊豆の伊東とは 郵便だより
下田港は ヤレホンニサ 風だより

風は潮風 御神火おろし
島の娘たちゃ 出船の時にゃ
船のとも綱 ヤレホンニサ 泣いて解く

磯の鵜の鳥ゃ 沖から磯へ
泣いて送らにゃ 出船もにぶる
明日も日和で ヤレホンニサ なぎるやら

(2)波浮の港の歌、
佐藤千夜子
https://www.youtube.com/watch?v=jL0-Va80y8A

藤原義江
https://www.youtube.com/watch?v=pF455p_Ocl8

「中秋の名月へ供えるススキを採りに行く」

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ススキを自由に採ってよいような広い草原はなかなか見つかりません。いろいろ考えた末に多摩川の向こうの稲城市の崖の下の草原を思いつきました。
早速、午後から行きました。
家内がススキを植木鋏で採っている間、私は草原や崖上の雑木林の風景写真を撮っていました。

今夜はススキとダンゴを縁側の机の上に供えようと思います。
晴れれば中秋の名月が拝めるはずです。
撮って来た写真をお送り致します。









冬の波荒れる八丈島への独り旅の思い出

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生来軽率な私は若い頃、藤村の詩を読んで独り旅に憧れるようになりました。それ以来、「独り旅」は私の人生のキーワードになり折々に独りで旅をしました。
今日は八丈島への独り旅について書きたいと思います。
しかしその前に藤村の詩をご覧下さい。

「小諸なる古城のほとり」  -落梅集より-   島崎藤村

小諸なる古城のほとり   雲白く遊子(いうし)悲しむ
緑なすはこべは萌えず   若草も藉(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ)  日に溶けて淡雪流る
          ・・・中略・・・
暮行けば浅間も見えず   歌哀し佐久の草笛(歌哀し)
千曲川いざよふ波の    岸近き宿にのぼりつ
濁(にご)り酒濁れる飲みて  草枕しばし慰む

藤村の詩はさておき、私は2009年1月に冬の波荒れる八丈島へ独りで旅をしました。
帰りの船が悪天候で欠航したので非常に印象深い旅になりました。
芝浦の桟橋から遥か286Kも船に揺られて翌朝辿り着いたのです。
着いてみると八丈島は想像以上に大きな島です。
島の東に10万年前の噴火山の三原山があり、西に1万年前に出来た八丈富士があり、その間が平野で農村が広がっています。
そして西の海上には八丈小富士という急峻な火山が突き出ています。この3つの山が近過ぎず、遠過ぎず、丁度良い距離でどっしりと座っています。この配置が雄大な景観を作っています。島の周囲は60Kmです。

冬の荒波で帰りの船が欠航したのでレンタカーを借りて島の隅々まで走り回りました。
江戸幕府の島役所跡や古い集落や秀吉の家老だった宇喜多秀家のお墓にも行きました。
そして八丈島の自然の景観も楽しみました。
島の西にある八丈富士の中腹に広大な牧場があり、そこまで車が上がれます。写真を撮るには丁度よいので2回登りました。

1番目の写真はこの中腹に牧場のある八丈富士の写真です。麓は平野になっていて農村が広がっています。左奥の海上に見えるのが八丈小富士です。
手前の町は大賀郷町です。左の方向に飛行場が見えます。そして町の左右に港があります。風の向きによって客船の発着する港が変わります。

2番目の写真は車でもっと八丈小富士に近づき撮った写真です。昔は人が住んでいて小学校もありましたが現在は無人島です。
私は伊豆七島の大島や神津島へは何度か行きましたが、景観の雄大さという点で八丈島は抜群です。
八丈島で感動的なことは、島全体が熱帯性の植物で覆われていて、さながら天然の植物園のように見えることです。

3番目の写真は島の大賀卿町の中央にある東京都立公園です。公園の真中にドライブウエイがあって車で楽しみながら通り抜けられるようになっています。
車を停めて歩いていたら、赤ん坊を抱いた母親に会いました。島の観光案内のような話をしてくれました。そして三原山の東の山麓の樫立に團伊玖磨の記念館がありますと教えてくれました。

4番目の写真は島の主産業の観葉植物の栽培地の風景です。三原山の麓にあったアロエの花です。1月の末なのにウグイスが啼いていました。

八丈島で忘れられない人に歴史民俗資料館でお会いした細谷昇司氏という方がいます。
地域歴史の専門家で、その後、数か月にわたってメールの交換もしました。島独特の風習や歴史を教えて頂いたのです。
例えば、八丈島から約6000年前の縄文時代の人々の遺骨や石器・土器が出土していることを教えて頂きました。
そして石斧の石は海岸にあるような石ですが、土器に使われた粘土は火山で出来た島には有る筈がありません。従って縄文人は土器を持って太平洋を渡って本州から来たのです。それを証明するために海用のカヌーで伊豆半島、大島、神津島と島づたいに漕ぎ渡った青年の写真も送ってくれたのです。

5番目の写真は團伊玖磨の記念館の中にある作曲室です。写真は地方新聞、「南海タイムス」の2002年5月31日の掲載写真です。
随筆と言えばこれまでに、いろいろ読みました。寺田寅彦、中谷宇吉郎、團伊玖磨などのものは長年愛読してきました。團伊玖磨の「パイプのけむり」は、アサヒグラフに連載されていました。1963年に八丈島の樫立に別荘を作った翌年から2001年に亡くなる直前まで40年近く続いた随筆です。朝日新聞社から27巻の本として出版されていますので、お読みになった方々も多いと思います。
外国で仕事をしながら忙しく書いたものや、葉山の自宅や、八丈島でゆっくり書いたものなど変化があって飽きさせません。
世界の珍しい風物や人情、そして八丈島の自然、人々・植物のことなどが軽妙洒脱な筆致で活き活きと描いてあります。話題は多岐ですが、いずれも上品な書き方で、文章の裏に人間愛が流れています。読後の爽快感が忘れられません。
八丈島では團伊玖磨氏を誇りにしています。2002年の没後一周忌に團さんの別荘を公開し、遺品や著作を展示しました。

八丈 島では島唯一のホテルに投宿していました。そこから島の寿司屋に通いご主人から島の周辺で取れる魚のことをいろいろ教わりました。地魚の姿を見たいと言ったら、スーパーに沢山並んでいますと教えてくれます。翌日行ってみたら、成程スーパーの魚売り場に活き活きした地魚が5種類ほど並んでいます。

独り旅は淋しいものです。家族旅行のように楽しくはありません。
しかし旅先で会う人がみんな優しく話しかけてくれるのです。そしてその地方独特の暮らし方や地域の歴史を教えてくれるのです。

藤村ではありませんが、
八丈の海辺のほとり 雲白く遊子悲しむ 
欠航の船よ 明日は波荒れるとも出てくれ  と想いながら日が暮れ行きます。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料==============
八丈島生成の地質学、
東京の南方海上287キロメートル、御蔵島の南南東方約75キロメートルにあり、東山(別名:三原山・標高701メートル)と西山(別名:八丈富士・標高854メートル)のふたつの火山が接合した北西-南東14キロメートル、北東-南西7.5キロメートルのひょうたん型をした島。面積は山手線の内側とほぼ同じ。(面積の比較)
富士火山帯に属する火山島で、東山は約10万年前から約3700年前まで活動し、約4万年前にカメソウノ鼻火砕流、鴨川火砕流を噴出した噴火で山頂部に6×4.5kmの東山カルデラを形成したと考えられている。完新世内では約4千年前と約6.6千年前に規模の大きな噴火が発生している。最終噴火は有史以前であり歴史記録上の噴火はない。西山は数千年前から活動を始めた新しい火山で、山頂に直径約500メートルの火口がある。1487年12月、1518年2月、1522年 - 1523年、1605年10月、1606年1月に噴火が記録されており、特に1606年の記録には、海底噴火によって火山島ができたとされる。
東山と西山の間にある低地には、20以上の側火山(寄生火山)があり、海岸近くには神止山などのマグマ水蒸気爆発による火砕丘がある。17世紀までに数回活動した記録があるが、規模は大きくなかったと考えられている。
気候は、暖流である黒潮の影響を受け、海洋性気候となっている。年平均気温は17.8℃となっており、高温多湿。年間を通して風が強く、雨が多いのが特徴。そのため、「常春の島」とも言われている。

貴乃花親方の辞任と日本の伝統文化

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昨日からマスコミは貴乃花親方の相撲協会からの辞任の速報を流し大騒ぎをしています。
大相撲は毎場所テレビで見ているのでこの辞任劇にはショックを受けました。
この辞任の原因は昨年10月に横綱日馬富士が貴ノ岩を殴って怪我をさせた傷害事件に端を発しています。
貴ノ岩の親方の貴乃花が怒って相撲協会の権力機構である理事会と抗争をしました。その結果、理事会の一員でもあった貴乃花親方は理事を馘になります。
その後、いろいろな紆余曲折がありましたが、それは省略します。
そして昨日、記者会見をして日本相撲協会に退職届を提出したことを発表したのです。
その上日本相撲協会の運営に疑義があるとして内閣府に提出し、その後取り下げた告発状をむしかえし、内容が事実無根であったことを認めるよう協会から強要されたと貴乃花親方は主張したのです。ですから相撲協会に退職届を提出したと言うのです。放り出された弟子の力士は他の親方に頼んだと言うのです。
 
この事件に関して、身近にいる相撲ファンに意見を聞いてみました。
3人ほどに聞きましたが、以前から貴乃花の言動に疑問を感じていたので今回の事も貴乃花に問題があるようだという感想を言っていました。
はっきり書けば貴乃花は相撲全体のことを考えていないのです。相撲ファンの心を大切にしていないのです。
日本相撲協会と自分の対立の感情的な部分を重視しすぎて弟子たちへの迷惑を考えていないようです。

それはさておき、私は昨年、日馬富士が貴ノ岩を殴って怪我をさせた時から、これは相撲が日本の伝統文化の故に起きた事件だと考えていました。
相撲界では力士同士が仲良くし、勝負の勝ち負けも義理人情や金銭で決めるという古い体質があったのです。貴乃花親方をそれを理解せず、大相撲を西洋のスポーツにしようとしたのです。そして自分の弟子達に他の親方やその弟子と一切交際してはいけないと指導したのです。
これに怒ったのがモンゴル出身の日馬富士でした。そして貴ノ岩へ鉄拳制裁を下したのです。
大相撲は西洋のスポーツではありません。日本の伝統文化の神事の一部でもあるのです。
神社の祭の見世物興行という性質も伝統的に混じっているのです。江戸時代からの伝統を持っているのです。
この西洋のスポーツとの違いを理解出来るのはモンゴル出身の力士達です。
栃ノ心、魁聖や把瑠都、琴欧州などの西洋人も理解したのです。彼等の柔軟な理解力が彼等を助けたのです。
大相撲で成功する外国人は強く、そして日本の伝統文化への理解力が必須条件なのです。
外国人力士達の流暢で完璧な日本語を聞く度に私は感動します。彼等の日本文化の理解の深さに感動します。

昨日の貴乃花親方の辞任劇をテレビで見た感想を書いてみました。
七十年以上相撲を見ている家内は、全く今回の騒動に関心を示さないので吃驚しました。勝負だけに興味を持っているようです。

今日の挿し絵代わりの写真は秋の花、カクトラノオ、オミナエシ、セージの3種です。
先日三鷹の公園で撮ったものです。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)






郷土史の面白さ、現地調査の面白さ

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老境になると不思議に郷土史に強い興味を感じる人が多くなります。
学校で教える日本史は大和朝廷や平城、平安時代の天皇や貴族のことばかりです。鎌倉幕府や室町幕府や江戸幕府の政権交代の歴史が主です。地方の歴史はあまり教えません。
そして地方、地方の生活の実態の歴史は中央政権の歴史とはあまり関係の無いことがあるのです。
それは地方特有の環境に密接に関係する歴史です。
老境に至ると中央政権の歴史と地方の歴史の違いが鮮明に見えて来るのです。
地方の歴史、郷土史は学校で習わない面白い歴史なのです。
仕事を止めた高齢者にとっては地方の歴史をしらべる暇がたっぷりあります。その上、何度も現地に足を運ぶことは旅の楽しさにもなります。
現地の地形や川や海の配置を実際に見ると、その地方の歴史がまた一段と明らかになるのです。

そこで今日は最近、まず書面で調べ、何度か現地調査した立川市の鎌倉、室町時代の地方史をご紹介したいと思います。
立川市は東京駅から電車で約60分の西方にあります。戦前は陸軍の立川飛行場があり戦後はそれが米軍の立川基地になりました。その基地の拡大に反対した「砂川闘争」は規模と期間が長かったので記憶にある方も多いと思います。
その後、立川基地は返還され、現在は広大な昭和記念公園になっています。

さて立川という地名は明治維新の後につけられた名前です。それまでは南半分は柴崎村と呼び、北半分は砂川村と呼んでいました。
それでは、立川という地名はどういう経緯で出来たのでしょうか?

調べたらすぐに分かりました。
鎌倉時代から1590年の豊臣秀吉の関東平定までの約370年間、この地方は豪族の立川氏に支配されていたのです。立川氏は立河氏とも書かれていました。
ぞれでは立川氏の館は何処にあったのでしょうか?
早速、調べたら現在の立川市柴崎町4丁目の普済寺と同じ敷地にあったのです。立川氏が秀吉によって滅ぼされる直前に普済寺が立川氏の館の敷地の中に移築されたのです。
近年行われた発掘調査の結果、この普済寺の土地には西暦1400年代前半から1500年代前半にかけて、居館があったことが判明したのです。
一方西暦1252年には立川氏の氏神として八幡神社(柴崎町1丁目)が建てられたことも文書に残っています。すなわち立川氏(立河氏)は鎌倉時代の初期から地方豪族として現在の立川市一帯を統治していたのです。
そこで昨日、この普済寺のある現地に行ってみました。
そこは多摩川の支流の根川の北岸の高台の広い場所でした。
南側は根川とその向こうの多摩川が敵の侵入を防いでいます。高台なので西に丹沢の山並みから北の奥多摩の山稜が見渡せます。
成程、豪族の館を建てるにはふさわしい場所です。その場所に関東では珍しい規模の臨済宗の普済寺が建っています。
それでは昨日、撮って来た写真を示します。

1番目の写真は長い参道の奥にあった本堂の前の楼門です。写真の右下に国宝の六面石幢がありますと書いてます。

2番目の写真は本堂ですが木の枝が邪魔になっていて写りませんでした。

3番目の写真は堂々とした庫裏の写真です。

4番目の写真は本堂の裏にある日本庭園の池です。

5番目の写真は国宝の六面石幢です。緑泥片岩製の石幢で、延文6年(1361年)に作られました。
普済寺境内のコンクリート製の覆堂内に保存されてます。石幢は六角形で上部には笠石を乗せ、高さは204.5センチもあります。
普済寺の近くにある立川市歴史民俗資料館にはこの石幢の原寸大のレプリカが展示されているで、それも見て来ました。

6番目の写真は立川市歴史民俗資料館の石幢の原寸大のレプリカです。

7番目の写真は普済寺の近くにあった江戸時代の農家の納屋です。

さて普済寺は現在は臨済宗建長寺派の寺院で、本尊は聖観音菩薩です。
この寺は、文和年間(1352年 - 1356年)地頭だった立河宗恒の開基です。
このお寺は、寺伝によると開創は文和二年(1335)と伝えられており、臨済宗建長寺派に属して、大本山巨福山建長興国禅寺の別格地として多摩一円に末寺十八ケ寺を有する同派屈指の名刹です。
開山当時の場所は明らかではありませんが、永禄六年(1563)、立川氏の居住地に移されたと伝えられています。
普濟寺の境内には土塁の一部が今でも残っており、特に本堂前のものは雄大で一端に数百年を経たと思われる大銀杏があり、壊れを防ぐために石垣で補強をしてあります。

以上の調査で分かったことを箇条書きにします。
(1)鎌倉時代も室町時代も現在の立川市一帯の農民を直接支配していたのは豪族の立川氏であった。
(2)立川氏は鎌倉幕府に忠誠を誓いその隷下にあった。
(3)室町時代の後半に北条氏昭が八王子城に君臨すると北条氏昭の配下になり、秀吉の関東平定で1590年に北条氏昭と共に滅んだ。
(5)立川氏の館の跡地に現在は国宝を持っている臨済宗の普済寺が建っている。

さて皆様の住んでいる町や市の名前の歴史をご存知でしょうか?
それを調べ、関連の場所を訪ねるといろいろ面白い発見があります。郷土史は老境の楽しい趣味ではないでしょうか?

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

夏でも淋しい北欧への独り旅の哀歓とサウナの話

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藤村の詩の「小諸なる古城のほとり」のはじめは、「雲白く遊子悲しむ 緑なすはこべは萌えず 若草もしくによしなし」です。軽薄な私は自分が遊子になったつもりで独り旅をします。
旅が仕事の旅でも、独りで行くときには必ず藤村の詩を思い出します。
仕事をしていた昔はよく外国へも仕事のために独り旅をしました。
遠方の大学にいる同じ専門の研究分野の人を個人的に訪問する旅も何度かしました。
初めて会う人でも同じ専門の人は同志として暖かく迎えてくれるのです。
例えば以前スウェーデン、ノルウエイ、フィンランドなどの北欧の国々を一人でそんな旅をしました。夏の終わりでしたが人影が無く冬のような冷たい風が吹いていました。
それは孤独な淋しい旅でした。
しかし訪問した人は非常に暖かく迎い入れて私の冷え切った心を癒してくれたのです。
そして北欧の文化のサウナに一緒に入り、裸の付き合いをしてくれたのです。
今日は夏でも淋しい北欧への独り旅とサウナにまつわる話を書いてみます。
その前にまず北欧の風景をご覧ください。

1番目の写真はスウェーデンの夕暮れ風景です。
出典は、http://free.gatag.net/2011/05/24/190000.html です。

2番目の写真はストックホルムの風景です。
写真の出典は、http://www2.jfn.co.jp/blog/wfn/2010/08/post_226.html
Geirangerfjordnorway1 です。
ここの王立ストックホルム工科大学のエケトルプ教授のもとに3カ月間逗留していました。1972年の晩夏から秋にかけてでした。

3番目の写真はノルウエイのフィヨルドの風景です。
写真の出典は、http://www.libertyhill.co.jp/blog/gym/post-59.php です。

4番目の写真は遥かノルウエイのトロンハイムの工科大学の写真です。この工科大学は現在は科学技術大学になっています。
写真の出典は、https://www.jasnaoe.or.jp/old_sites/west/mm/007/article03.htmlです。
トロンハイム市はノルウェーの首都オスロから北へ 500km 離れた北極圏にほど近い北緯 63 度に位置します。この街はヴァイキング王 Olav Tryggvason が AD 997 年に Nidaros と呼んで以来,ノルウェー王国最初の首都となり,現在では 1000 年以上もの長い歴史を持つ北欧の古都です。

5番目の写真はフィンランドの首都、ヘルシンキの街の風景です。
写真の出典は、http://www.pbcruise.jp/report/87th/onboard/post_61.html です。
ここにあるヘルシンキ工科大学の同じ専門の教授を訪問しました。

それでは北欧のサウナの話です。
サウナは家族でも楽しみますが、旅人をもてなすためにも使います。疲れた旅人にくつろいで貰うために提供する最大の歓迎のしるしなのです。そのような使い方は昔からの北欧の伝統文化なのです。
サウナの設備は日本の大浴場にありますが、お風呂と一緒にあるのが普通です。風呂に入ったりサウナに入ったりしますが、北欧では風呂が絶対についていません。純粋にサウナだけを楽しむのです。
1972年秋、ストックホルム工科大学へ三ケ月間行った折、大学のゲスト用サウナへ二度ほど招待されました。
驚いたことに、訪問者をもてなすためのサウナが必ず大学についているのです。
広いサウナで16坪くらいはありました。日本の大学にサウナはありません。
北欧のサウナは、極北の香り高い白木で内装されています。隣に談笑する大きな部屋が付いていて、窓からは広々とした風景が見えるのです。
その談笑室には白木のテーブルと椅子があり、酒を飲みながら裸で談笑するのです。
酒は雑穀を発酵させ蒸留した透明な強い酒。ロシアのウオッカや中国東北地方の白酒に似ています。この蒸留酒に、自宅の裏庭で摘んできたラズベリーやコケ桃の実の汁を入れて風味を付け、大きなボールに入れて運びこみます。それを木製の大さじで各自グラスに取り、飲むのです。
つまみはバルト海で捕れる小形のロブスターを真っ赤にゆでたものだけです。
サウナに入る作法は、まず全員一斉に裸になります。脱衣室を兼ねている談笑部屋の隅にある籠に脱いだ衣服を入れ、バスタオルを持って入ります。熱すぎると叫ぶ者、もっと熱くしようと焼け石に水を掛ける者の笑い声で大騒ぎにななります。十分暖まったら談笑する部屋に出て、酒を飲み、ロブスターを割り、勝手な話をするだけです。
サウナで歓迎するのは何処に行っても最高の歓迎のしかたという伝統なのです。

北極圏にあるキルナ市のスウェーデン鋼の会社を訪問した時もサウナで歓迎されました。豪華なゲストハウスは森閑とし、お客は私一人だけでした。
食堂で夕食を摂っていると、中年のウェイトレスが入って来て「私はこれで帰りますが、食事が終わったら食卓はそのままにして、サウナへ是非入っておやすみください」と言うのです。
言われた通り、食後にサウナに行きました。一段と立派なサウナで、前室には、ピンク色の強い酒とライ麦の粉を煎餅のように焼いたものがチーズともに皿に乗っています。
同じような経験はヘルシンキ工科大学を訪問した時でも体験しました。

そしてノルウエイのトロンハイムの工科大学を遠路はるばる訪ねたおりにも大学のサウナに招待され歓迎されたのです。
同じ施設でも日本と北欧ではその使い方が違うのです。サウナは北欧の重要な伝統文化なのです。
些細な実例ですが日本に外国の文化が入ってくると文化が変容する例です。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

美しい稲田の風景とお米にまつわる話

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稲田は四季折々美しい風景を見せてくれます。春、田植え前に一面に水をはった田圃もすがすがしい光景です。
田植えが終わったばかりの小さな稲は可愛いものです。梅雨が音も無く青い稲に降り注ぎ、やがて夏が来ます。
田圃には稲の香りがあふれ、稲が勢いよく成長しています。
そして秋になると穂先が垂れ、黄色い稲田が広がります。刈り取った後の切株や穭稲の淋し気な冬の風景にも心惹かれます。
こんな四季の稲田の風景は人間が作った自然な風景です。それが好きな私共はよく稲田を眺めにいきます。
昨日も都内で珍しい本格的な稲作農家の田圃を眺めに行きました。車で1時間30分もかかる町田市の小山台という所です。昨日撮って来た写真をお送りします。

1番目の写真は町田市の本格的な稲作農家の田圃の様子です。

2番目の写真は稲田の中に入って行って撮った写真です。

3番目の写真は米が実って穂先が垂れている光景の写真です。まだ黄金色にはなっていませんが。

4番目の写真は昔から大切にして来たような大きな柿の木に、百匁柿がたわわに実っている光景です。この地域は本当の農村だったことが偲ばれます。

5番目の写真は田圃の向こうに繁っている雑木林の風景です。昔は人々が薪を取ったり、落ち葉を集めて堆肥を作ったりし、生活には欠かせない雑木林だったのです。現在はあまり使わないので自然林になっています。
手入れしない自然林も美しいものです。
写真は何時ものように家内が走り回って撮りました。
こうして昨日ものんびりと秋の日の午後を楽しみました。

写真を撮りながら不思議に思います。一体、東京都の米の生産量はどのくらいなのでしょう?
帰宅してから調べたら2017年の東京都内では米が583トンも収穫されているのです。
こんなに多量に都内でお米が採れているのには吃驚します。
しかし都道府県別の米の生産量を見ると東京都は最も少ないのです。
全国でとれる米の生産量の合計は 7,824,000 トンです。
トップは新潟で、北海道、秋田と続きます。コシヒカリ・ひとめぼれ・あきたこまちなど有名ブランドのある県は生産量も多いようです。
それでは、米の収穫量のランキングを見ていきましょう。
(https://yattoke.com/2018/04/24/rice-production/ )
このデータは2017年の米の収穫量に基づいています。
1、新潟、611,700トン
2、北海道、581,800
3、秋田、498,800
4、山形、385,700
5、茨城、358,900
6、宮城、354,700
7、福島、351,400
8、千葉、299,700
9、栃木、294,200
10、岩手、265,400
11、青森、258,700
12、富山、205,300
13、長野、203,200
14、兵庫、183,400
15、福岡、181,700
16、熊本、175,500

・・・中略・・・
41、奈良、44,900
42、和歌山、33,300
43、山梨、27,200
44、大阪、26,100
45、神奈川、15,700
46、沖縄、2,190
47、東京、583
(出典:農林水産省 2017年統計)
以上のランキングを見て驚くことは北海道が2番目に多量の米を作っていることです。
昔は北海道は寒すぎて米が採れないと言われていました。品種改良で寒さに強い稲が出来たのです。
もう一つ注目すべきは東北地方のお米の生産量が目立って多いことです。
私共高齢者は昔学校でお米は暖かい九州や四国で沢山取れますと教わりました。
それが何時の間にか逆転してしまったのです。これも時代の流れです。

ところで美味しい米の品種は何でしょうか?
コシヒカリやあきたこまちは皆様もご存知と思います。
しかしそれら以外にも様々な米の品種があります。

そこで有名な米の品種とその生産都道府県を紹介します。
品種ごとの味わいが違うのです。
1、コシヒカリ
コシヒカリは日本で最も有名な米の品種です。特に新潟県魚沼産のコシヒカリはブランド米として有名です。
しかし、コシヒカリ自体は新潟県のみならず全国各地で生産されています。
甘みが強く、余韻が長いのが特徴の米です。
2、あきたこまち
あきたこまちはその名のとおり秋田県で作られる米です。モチモチとした食感と粘り気の強い米です。この柔らかさと粘り気が美味しいのが特徴です。柔らかめの米が好きという人に良い米です。
3、ササニシキ
ササニシキは宮城県が誇る米です。一昔前は米といえばコシヒカリかササニシキといわれるほど有名でしたが、昨今は知名度が低くなってきている感があります。
しかし、独特のさらりとした味わいは素晴らしく、固めでさっぱりした味わいの米を求める人に好まれるそうです。
4、ヒノヒカリ
大分県で最も多く栽培されているヒノヒカリは、コシヒカリと黄金晴を親に持つ非常にバランスに優れた米である。コシヒカリよりも安価ながらも、味わいの系統が似ていることから普段使いの米として強い人気がある。炊く際は少し水を多めに入れるのがコツだ。
5、つや姫
つや姫は昨今注目されている山形県の米です。その強い甘みと、旨味・コクの豊かさは時にコシヒカリを凌ぐと言われています。
東北の米の美味さを知るためには欠かすことのできない品種です。
6、ゆめぴりか
一昔前、北海道の米は不味いと言われていました。しかし、その常識を決定的に覆したのが、このゆめぴりかです。

しかし美味しい米の評価はいろいろ分かれます。もう一つのランキングを示しましょう。
本当に美味しいお米「厳選10種」、https://food-drink.pintoru.com/rice/
1、北海道産「ゆめぴりか」
2、山形県産「つや姫」
3、新潟県魚沼産「コシヒカリ」
4、秋田県南産「あきたこまち」
5、岩手県南産「ひとめぼれ」
6、山形県産「はえぬき」
7、熊本県城北産「ヒノヒカリ」
8、北海道産「ななつぼし」
10福岡県産「元気つくし」

さてこれだけ多数の品種が並んでいると選ぶのに苦労します。
スーパーに行くと毎回選ぶのに苦労するのは私だけではないでしょう。
高い米を買えば美味しいという原則はあります。しかし原則には必ず例外があります。

それと安い米でもサラダ油を少し加えて炊くと美味しいご飯になります。酒やもち米を加えると粘り気のあるご飯になります。
皆様はお米に対してこだわりをお持ちでしょうか?

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

ローテンブルグのカトリック教会でのある重要な発見

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あれは随分と昔のことです。1969年の晩夏から晩秋にかけて3ケ月間、ローテンブルグに逗留していました。ゲーテインスティテュートという学校でドイツ語の講習を毎日受けていたのです。
その折、毎週の日曜日に通っていたのがカトリック聖ヤコブ教会でした。
その外観と内部の写真を示します。

この3枚の写真の出典は、https://plaza.rakuten.co.jp/laurier/diary/201001100001/、 です。



ミサはドイツ語ですが日本のカトリック教会のミサと同じ内容なので大体の意味が分かったのです。
そのミサのはじめに「あわれみの賛歌」を会衆が歌います。
その意味を一言で説明します。
自分は神様の教えに従うつもりでしたが、意志が弱くて度々悪いことをしてしまいました。神様そしてキリスト様そんな弱い私を憐れんでください。憐れんで、そしてどうかお許し下さい。
このように、自分の弱さを憐れんで下さいという願いなのです。私も同感です。
私の好きな歌の一つです。
歌詞は次のようなものです。

あわれみの賛歌(キリエ):典礼聖歌203「あわれみの賛歌」
          主よ、あわれみたまえ 主よ、あわれみたまえ
           キリスト、あわれみたまえ キリスト、あわれみたまえ
            主よ、あわれみたまえ 主よ、あわれみたまえ
この歌を3回繰り返します。

ローテンブルグの聖ヤコブ教会でこの歌を唄っているドイツ人達の様子を見てある重要な発見をしたのです。
常日頃傲慢そうにしているドイツ人が例外なく頭を垂れれ、文字通り「青菜に塩」という様子なのです。彼等は毎日よっぽど悪いことをしているに違いありません。
第二次世界でアメリカ人に徹底的に負けた日本人として、私は欧米人に少し恐怖感を持っていました。
そしてアメリカに留学し、その理想的な社会に圧倒されました。そんな個人的な経験から私は欧米人を恐れ敬っていたのです。別世界の人間として越えがたい距離感を持ち続けていました。
しかし聖ヤコブ教会でのドイツ人達を見てこの「越えがたい距離感」が一挙に消えてしまったのです。それは私個人にとっては大発見です。
この発見以来、私はドイツ人に同じ人間としての親近感が持てるようになったのです。そして欧米人の全てに親近感を持ったのです。
この親近感はカトリックの多いフィリピンや、はるか遠方の南米諸国にも強く感じます。
これが初めて行ったドイツの聖ヤコブ教会の忘れられない個人的な大発見でした。

ついでに「あわれみの賛歌」に続けて唄う「栄光の賛歌」の歌詞を示しておきます。

 栄光の賛歌(グロリア): 四旬節と待降節は歌いません。
  典礼聖歌204「栄光の賛歌」
    天のいと高きところには神に栄光、地には善意の人に平和あれ
    われら主をほめ、主をたたえ、主を拝み、主をあがめ、
    主の大いなる栄光のゆえに感謝したてまつる。
    神なる主、天の王、全能の父なる神よ。
    主なる御ひとり子、イエズス・キリストよ。
    神なる主、神の小羊、父のみ子よ。
    世の罪を除きたもう主よ、われらをあわれみたまえ。
    世の罪を除きたもう主よ、われらの願いを聞き入れたまえ。
    父の右に座したもう主よ、われらをあわれみたまえ。
    主のみ聖なり、主のみ王なり、主のみいと高し、イエズス・キリストよ。
    聖霊とともに、父なる神の栄光のうちに。
            アーメン。
今年の初秋は雨天が続き、台風も次々やってきます。皆様如何お過ごしでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「自由に花の摘める花畑に行きました」

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三鷹市花と緑の広場では一年に数回自由に花が摘めます。今日はマリーゴールドとキバナコスモスとジニアが自由に摘んでよい日です。
先程、家内と一緒に行って来ました。1番目の写真が今日採った花です。
ついでにコスモスの花の写真も撮って来ました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。










台風が過ぎ、小さい秋見つけた

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長く続いた秋雨も昨夜の台風で今朝は抜けるような青空になりました。
いよいよ本当の秋が来たのです。こうなると毎年、いつものように「小さい秋見つけた」という歌を思い出します。
皆様もご存知と思いますが、次の動画にこの歌があります。
https://www.youtube.com/watch?v=

『小さい秋見つけた』、【作詞】サトウハチロー、【作曲】中田喜直
1.だれかさんが だれかさんが
  だれかさんが 見つけた
  小さい秋 小さい秋
  小さい秋 見つけた
   目かくし鬼さん 手のなる方へ
   すましたお耳に かすかにしみた
   呼んでる口笛 もずの声
  小さい秋 小さい秋
  小さい秋 見つけた

2.だれかさんが だれかさんが
  だれかさんが 見つけた
  小さい秋 小さい秋
  小さい秋 見つけた
   お部屋は北向き くもりのガラス
   うつろな目の色 とかしたミルク
   わずかなすきから 秋の風
  小さい秋 小さい秋
  小さい秋 見つけた

3.だれかさんが だれかさんが
  だれかさんが 見つけた
  小さい秋 小さい秋
  小さい秋 見つけた
   むかしのむかしの 風見の鳥の
   ぼやけたとさかに はぜの葉ひとつ
   はぜの葉あかくて 入日色
  小さい秋 小さい秋
  小さい秋 見つけた

この歌は1955年にNHKの特別番組『秋の祭典』の楽曲の1つとして作曲されました。1962年にキングレコードから発売されました。

小さい秋とは何を意味するのかは分かりません。
詩人のサトウハチローの心象にある秋のイメージなのでしょう。
私の小さな秋のイメージに浮かぶ写真を2枚示します。

秋の栗や柿の写真の出典は、https://colocal.jp/topics/lifestyle/shodoshima/20150928_54427.html です。

この詩はサトウハチローが木の紅葉する情景を見たのが作詞のきっかけとなったそうです。
自宅の文京区弥生の庭にはぜの木が植えられており、この木の紅葉する情景を見たのです。

ハゼの実の写真の出典は、https://iyashi.midb.jp/detail/4103?id=4103 です。
少し説明が理屈っぽくなりましたが、「小さい秋」は秋の物なら何でも良いのです。
道端にあるススキの穂でも野原に何気なく咲いている萩の花でも良いのです。
あるいは自宅の庭の片隅に隠れるように咲いている彼岸花でも良いのです。
今日は「小さい秋」を見つけながら秋の日を静かに過ごしたいと思います。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


秋晴れ、世界遺産、山中湖、富士山の写真を撮りに行く

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昨日は台風一過、青空になったので山中湖、富士山の写真を撮りに行って来ました。

昨日は10月1日です。本当に心地良い秋の季節が巡ってきました。
皆様、秋の日々をお楽しみでしょうか。
昨日、山中湖周辺で撮った写真を7枚お送りいたします。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)














===参考資料===============
世界遺産、富士山とは?
http://heiwa-ga-ichiban.jp/sekai/fujisan/index.html

富士山‐信仰の対象と芸術の源泉は世界文化遺産です。
それに認定された理由は、荘厳な富士山は山岳信仰の伝統を鼓舞し、多様な信仰の対象として崇拝されてきたこと、富士山の図像は芸術作品にとって創造的感性の源泉であり、浮世絵に描かれた富士山の姿は西洋の芸の発展に影響をもたらしたことなどが評価されたためです。
2013年、文化遺産に登録されました。
構成資産は次の25資産です。

富士山域(山頂の信仰遺跡、富士宮口登山道、須山口登山道、須走口登山道、吉田口登山道、北口本宮富士浅間神社、西湖、精進湖、本栖湖)
富士山本宮浅間大社
・・・
山中湖
河口湖
忍野八海-お釜池
・・・
三保の松原

世界遺産として登録されている富士山域は、標高1500m以上の範囲と山裾まで一帯化して登録されている本栖湖、精進湖、西湖までの範囲。標高1500m以下は緩衝地帯で、浅間大社、白糸の滝、三保の松原などは緩衝地帯内に独立して分散登録されている。

芸術の源泉となり西洋の芸術作品にも影響を与えた富士山
また、富士山は芸術の源泉となり万葉集や日本最古の物語とされる竹取物語をはじめ数多くの和歌や物語など文学の題材になった。 室町時代には富士山を題材とした絵画作品が多数描かれ、江戸時代には文学、絵画、工芸、庭園等のモチーフとして多岐にわたって取り上げられた。
特に葛飾北斎、歌川広重により描かれた浮世絵は、西洋の芸術家の作品にも影響を与え、富士山の荘厳な形姿を世界に知らしめた。
田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける   山辺赤人 (万葉集)
・・・以下省略

日本仏教を作った玄奘三蔵法師の遺骨が埼玉県に

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日本人の考え方の基底には仏教の無常(つねならず)の思想が流れています。それは「もののあわれ」ともなり、私たちの心の基調となっています。日本文化は大乗仏教の影響を深く受けているのです。
この大乗仏教の教えをはるばるインドへ旅をして持って帰って来たのが唐時代の玄奘三蔵法師でした。
現在、日本で読まれているお経のほとんど全ては彼がインドから持ち帰り、漢文に翻訳したものです。そして一部はインドのパーリ語の発音をそのまま漢字で表したものです。
ですから私は玄奘三蔵法師こそ日本文化の産みの親と信じています。
彼は602年に生まれ、664年に62歳で亡くなりました。629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教の研究を行って、16年後の645年に経典657部や仏像などを持って帰還しました。
以後、翻訳作業をしながら、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、これが後に伝奇小説『西遊記』の基ともなったのです。それでは下に彼の旅の道程を示しましょう。

1番目の写真は玄奘三蔵法師の16年間にわたるインドへの旅の道筋を示す図です。この図面の出典は、http://todaibussei.or.jp/asahi_buddhism/12.html です。
インドへ入った玄奘は、ガンダーラやカシミールを経由し、ブッダゆかりの地を訪れた後に、有名なナーランダー僧院(現在のビハール州)へと赴いています。
当時のナーランダー僧院では、仏教以外にも様々な学問が行われており、数千人もの俊才たちが勉強していました。玄奘は、彼らのなかでも誉れの高い戒賢(シーラバドラ)について『瑜伽師地論』を中心に学び、この地で五年間、勉学に励んだのです。

さて何故、私は玄奘三蔵法師のことを親しみをこめて「彼」と書くのでしょうか?
それには私が彼の遺骨が埼玉県の慈恩寺にあることを知り、2009年の9月に訪ねて行ったことがあるからです。
先代の住職の大嶋見道師の奥さんから何故遺骨が埼玉県にあるか詳細に取材しました。
そうしたら遺骨が日本に渡ってきた経緯が分かりました。

かいつまんで経緯を書くと次のようになります。
玄奘三蔵法師の遺骨を発見したのが昭和17年でした。南京を占領していた関東軍の高森部隊でした。部隊長は金沢出身の高森隆介氏であったといいます。高森部隊長は日中両国の専門家に鑑定を依頼したのです。その結果、玄奘三蔵法師の頂骨であるとされたのです。
発見の翌年の昭和18年の2月に、関東軍は遺骨と副葬品一式を中国側の南京政府へ返したのです。
南京政府は日本の傀儡政府で、蒋介石の政府は重慶にありました。
南京政府は壮大な奉迎式典を開催し、昭和19年には南京市の玄武山に玄奘塔を建てます。この塔の建設発起人は南京政府の外務大臣の緒民誼と日本の駐支大使の重光葵がなっています。
そして完成した10月に盛大な式典が挙行され、その折に分骨され、南京政府の日中友好の証として日本仏教連合会へ贈呈されたのです。
東京の増上寺に安置された遺骨が埼玉県の慈恩寺へ移動した経緯は埼玉県の慈恩寺の先代の住職の大嶋見道師が熱心に働きかけて埼玉県に持って来たのです。
そして埼玉県の慈恩寺の近くに玄奘塔を作り、祀ったのです。

2番目の写真は埼玉県にある玄奘塔の門の写真です。慈恩寺の先代の住職の大嶋見道師が建てたものです。

3番目の写真は玄奘塔の脇にある玄奘三蔵法師の像です。 この写真の玄奘三蔵さまが背中にうず高く背負っている物がインドから持って来た経典の詰まった入れ物なのです。その入れ物の上に傘がさしてあります。自分の身より経典を大切にして、はるばるインドから運んできたのです。
現在、日本の多くのお寺にこの 玄奘さまの像があります。

4番目の写真は埼玉県にある玄奘塔の隣の畑の風景です。玄奘塔は慈恩寺から離れた場所にあり、周囲は畑に囲まれています。

5番目の写真は中国の西安にある大雅塔です。この中で玄奘三蔵法師が経典の漢文への翻訳作業を続けていたのです。私は1981年にこの大雅塔の最上階まで登りました。当時は文化大革命の後だったので大雅塔の土の階段が崩れていたことに心が痛みました。
現在は綺麗に修復され立ち入り禁止になっていると聞きました。

さて埼玉県の玄奘塔の基部に埋まっている遺骨は本物の玄奘三蔵法師の遺骨でしょうか?
第二次大戦中の日本の軍隊と南京政府、そして日本の駐支大使館が深く関係した経緯があったのです。とても信用するわけにはいきません。
しかし私は何故か感動しています。興奮しています。
唐の西安から遺骨の一部を南京へ持って来た演化大師とその弟子たち。そして埼玉の慈恩寺の大嶋見道住職と見順住職の父子などの玄奘三蔵法師への尊敬と信仰の美しさに私は感動を覚えます。
遺骨は偽物でしょう。
しかし遺骨と称するモノが日本へ渡って来て、埼玉県の慈恩寺に埋葬されたいきさつを調べて行くと人々の願いや祈りが私の胸を打つのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「自由に花の摘める花畑で考えた」

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先週、花畑に行きました。
そこは三鷹市の予算で作ってる「花と緑の広場」という所です。
ここでは一年に数回、種類の違う花を植え替えます。花を刈り取る前の1週間くらいは自由に花が摘めます。
植木鋏を貸してくれて、摘んだ花を紙で包んで花束にしてくれます。先日はマリーゴールドとキバナコスモスとジニアが自由に摘めました。その花畑の写真は、2018年09月30日 掲載の「自由に花の摘める花畑に行きました」で示しました。
今日はその折に撮った他の花の写真をお送りします。そして花の写真を撮りながら考えたことをいろいろ書いてみたいと思います。










花の写真を撮りながら考えました。
三鷹市の市役所の公園課の人々の心の温かさを考えていました。
三鷹市の市民でありませんと言う家内に、「どうぞ、自由にお摘み下さい」とほほ笑んでいたそうです。
花畑の中に入って嬉しそうに花を切っている妻の姿を見ていると幸福感がしみじみと湧いてきます。
何時も土にまみれて花の世話をしている人に「有難う御座います」と挨拶をします。ニッコリした顔を私の方に向けます。嗚呼、なんと穏やかな美しい顔をしているのでしょう。
そして暫く散歩している間にいろいろな雑念も湧いてきます。
花の世話をしてる人の穏やかな顔の反対側にある顔を思い出しました。
トランプ大統領の顔です。口角泡を飛ばして記者会見をしている時の顔です。
それにしても北朝鮮の非核化が遅々として進まないのはトランプ大統領がかたくなに制裁を解除しないからと思います。意地の張り合いを止めて、この「花と緑の広場」の花畑を暫く眺めて貰いたいと想います。
それにしても安倍総理も3回目の総裁選挙に勝ち、もう3年総理大臣を続けることになりました。
安倍さんは外交の分野で優れた才能を発揮しています。国際的なバランス感覚も良く国際関係において日本の立場を強くしています。外交は良いのですが、しかし少し気になることもあります。
それは憲法改正を実行することです。
日本の憲法は敗戦直後に出来たもので問題の多い憲法です。それを改正することは正しい方向です。
私が危惧していることはそれに便乗して浅薄な右翼的日本人が増えそうなことです。
彼等は先の日中戦争や太平洋戦争は正義の戦争だったと気楽に言うのです。そして朝鮮併合も朝鮮人を保護するためにしたことだと言うのです。
花畑で思い出しますが、先の日中戦争や太平洋戦争では日本軍が2000万人の中国人を殺し。フィリピン、インドネシア、マレーシア、仏領インドシナ、などで数百万人の人を殺したのです。イギリス兵として出征したインド人も87000人殺されたのです。
日本人も310万人も死にました。
このような戦争を正当化する理由などある筈がありません。

三鷹市の「花と緑の広場」で楽しそうに花を摘む妻の姿を見ながら、私は深い溜め息をつきます。
しかし次の瞬間、広がる花畑を見晴らして気分が変わりました。残酷な戦争のことは忘れました。
でも戦争の犠牲になった人々の悲しみは絶対に忘れません。
そんな事を考えながら車を運転して花束とともに帰って来ました。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==================
日中戦争と太平洋戦争の人的被害を国別に示します。

この一覧表では1、国の名前、2、軍人と兵士の死者数、3、民間人を含めた死者数の合計の3項目が順に示したあります。

そうして欧米諸国の国別人的被害数は欧州戦線での損害も含めた人的損害の合計です。
(https://www.nationalww2museum.org/students-teachers/student-resources/research-starters/research-starters-worldwide-deaths-world-war )

China、中国
3-4,000,000
20,000,000

Dutch East Indies(インドネシア)
--
3-4,000,000

French Indochina(仏領インドシナ)
--
1-1,500,000

India、インド
87,000
1,500,000-2,500,000

Japan、日本
2,120,000
2,600,000-3,100,000

Korea(朝鮮出身の日本兵や軍属も含む合計です。)
--
378,000-473,000

Malaya、マレーシア
--
100,000

Netherlands(オランダ)
17,000
301,000

Philippines、フィリピン
57,000
500,000-1,000,000

United Kingdom(イギリス)
383,600
450,700

United States(アメリカ)
416,800
418,500

この人的損害の一覧表の数字の正確さは証明が困難なものです。しかしこの表は世界中でよく引用される表なのです。従って数字の正確さに疑問があっても広く用いられている一覧表なのです。

「今日は面白い本をご紹介致します」

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面白い本とはアメリカ人のドニー・アイカーが書いた、『死に山』という本です。
分厚い350頁の本を手にした私は「これは飛ばし読みして筋だけ楽しもう」と考えました。
内容は1959年のソ連のウラル山脈の近くのオトルテン山に登ろうとしていた9人が全員遭難し帰らぬ人になった山岳遭難の話です。
この遭難事件では寝ていた9人全員が薄着のまま靴も履かずに、安全で温かいテントを飛び出して凍死したのです。真夜中に突然テントを内側から切り裂いて全員が飛び出したのです。
何故、急に飛び出したかが1959年から、この本の出版された2018年8月30日まで深い謎でした。ソ連国内では興味本位の本が数多く出版され、「ディアトロフ峠事件」として有名な遭難事件だったのです。

私はこの本の初めの部分を読み、途中は飛ばして最後の謎解きの部分だけを読みました。
成程、そんなことだったのかと納得して終りです。
しかし何時ものように著者のドニー・アイカーが書いた謝辞の部分だけは丁寧に読みました。
謝辞を読むとその本を書くための取材の深さと範囲が分かります。著者がその本を書いたときの姿勢や執念が判るのです。
嗚呼、これは生半可な本ではない!ドニー・アイカーは命を懸けて書いた本だ!
そこで初めから丁寧に読みはじめました。
訳文も良いのです。美しい日本語が流れています。訳者は安原和見というベテランの翻訳家です。
この本のクライマックスは最後の謎解きの部分です。しかし謎解きはここでは致しません。
そしてこの本が面白いのは次のようないろいろな内容が興味津々なのです。

(1)ドニー・アイカーは2度ロシアの現地を訪問しています。そのアイカーが根気よくロシア人達と友人関係になっていく過程が面白いのです。
「ディアトロフ峠事件」を知るロシア人は皆高齢者でスターリン時代に育っています。かたくなで昔敵だったアメリカ人のドニー・アイカーに心を許しません。これでは「ディアトロフ峠事件」の真相は聞き出せません。それを崩す過程が面白いのです。

(2)2度目の訪問の時、ドニー・アイカーは遂に9人が遭難死した現場まで登ったのです。そして自分独自の謎解きのヒントを得るのです。雪のオトルテン山めがけて登る冒険紀行が面白いのです。

(3)ドニー・アイカーは非常に人間的な男です。全ての人間に興味を持ち大切にします。
遭難死した9人を一人一人詳しく紹介し謎解きの背景を固めていきます。
特に現地の原住民のマンシ族に好意を持ち「ディアトロフ峠事件」のことを聞き出しています。

(4)遭難者の凍死死体が見つかったあとで遺族たちは盛大なお葬式をしようとします。しかしその地区担当の共産党書記が小規模な葬式にしろと命令します。
遭難の原因が解明出来ないのは共産党の失態になると考え、「ディアトロフ峠事件」は無かったものにしようとしたのです。
事件が起きた1959年は冷戦の厳しい時代でした。
1953年のスターリンの死後、フルシチョフらによるスターリン派に対する批判が展開されいたのです。
しかしソ連は共産党独裁が1990年頃まで続いたのです。この独裁制のもとで遭難者の捜索や発見された死体の検死の行われ方が興味深いのです。
ソ連時代の人々の関係や暮らし方が活き活きと書いてあるので面白いのです。

(5)最後にもっとも重要なことを書きます。
それはドニー・アイカーは人間愛に強い男だということです。
「ディアトロフ峠事件」で死んだ9人、病気になり途中で引き返したきた1人を等しく愛しています。特に途中で引き返したきた1人の心に寄り添い本音を聞き出しています。
遭難者の遺族にも慎重に会い彼等の心情を聞いているのです。
ドニー・アイカーは共産主義の批判を一切しません。キリスト教にも言及しません。しかし原住民のマンシ族の聖地のことは詳しく調べています。
共産主義もキリスト教も関係無く人間は人間として生まれるのです。その人間に対するドニー・アイカーの人間愛に私は感動したのです。
ちなみにドニー・アイカーは映画監督だそうです。

兎に角、いろいろな観点から実に面白い本です。

今日の挿し絵代わりの写真はウラル山脈の風景写真です。
写真の出典は、「ウラル山脈の厳しい冬の美しい写真」
http://osoroshian.com/archives/42220421.html です。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)





日本の山岳遭難の悲劇と数多くの墓標

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昨日の記事は1959年のソ連のウラル山脈の近くのオトルテン山に登ろうとしていた9人が全員遭難し帰らぬ人になった山岳遭難の話でした。
遭難現場の巨大な花崗岩には9人の死者を偲ぶ切々とした詩文が刻み込んであります。
このような山岳遭難と慰霊碑は日本にも数多くあるのです。

今日は日本の山岳遭難を振り返って見ようと思います。

1番目と2番目の写真は上高地の帝国ホテルの傍の梓川の岸辺から撮った穂高連峰です。

1番目と2番目の写真は以前、何度も散策したおりに自分で撮った写真です。

3番目の写真は上高地にある山岳遭難者慰霊碑、「山に祈る塔」です。
写真の出典は、https://blog.goo.ne.jp/hz0326/m/201706 です。

4番目の写真は梓川沿いのカラマツ林の中にひっそり眠る数多くの慰霊碑です。
みな遺族や山仲間が遭難者を慰めるためにたてた碑です。亡くなった者への想いが刻み込んであります。

5番目の写真は谷川岳の岩壁ある遭難者のレリーフです。谷川岳では800人近くの若者が命を落しているのです。写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/gyamerongiasu/28744478.html です。

さて山岳遭難の一覧表はこの記事の末尾の参考資料にあります。この表は戦後の昭和時代に限って、3名以上の犠牲者のあった遭難事故だけを示しています。1名あるいは2名の事故は含まれていないのです。
その表を見ると谷川岳の遭難が多いのに気づきます。そこでまず谷川岳に焦点をあてて紹介します。文章の出典は5番目の写真と同じです。

谷川岳の標高は2,000mにも満たないが、急峻な岩壁と複雑な地形に加えて、中央分水嶺のために天候の変化も激しく、遭難者の数は群を抜いて多いのです。
1931年(昭和6年)から統計が開始された谷川岳遭難事故記録によると、2005年(平成17年)までに781名の死者が出ています。
この飛び抜けた数は日本のみならず世界のワースト記録としてギネス認定もされているのです。

1960年(昭和35年)には、岩壁での遭難事故で宙吊りになった遺体に救助隊が近づけず、災害派遣された陸上自衛隊の狙撃部隊が一斉射撃してザイルを切断、遺体を収容したこともありました。
谷川岳の宙吊り遺体収容のTVニュースを憶えている人も多いと思います。
また、一ノ倉沢で1943年(昭和18年)9月8日に、2人の登山者が絶壁の岩場で遭難死します。
しかし遭難場所がわからず行方不明として処理され、遺体はそのまま岩場に放置されました。
30年後の1973年(昭和48年)5月13日に、偶然この場所にたどり着いた登山者が白骨化した遺体を発見します。
ポケットに残されていた10銭硬貨や過去の記録から、1943年の遭難者と判明したのです。
山岳クラブと地元警察により、30年ぶりに下山して親族の元に帰ったのです。
急激な気象の変化による遭難が後を絶たないので、谷川岳は「魔の山」とも呼ばれ、遭難の防止のために群馬県谷川岳遭難防止条例が制定されているくらい特別な山なのです。

日本の山岳遭難は谷川岳ではありません。
北海道の大雪山、東北の蔵王、北アルプス、南アルプス、そして四国や九州の山々に山岳遭難者の慰霊碑があるのです。
遺された家族や友人の悲嘆の山並みが続いているのです。下に3つだけの山岳遭難の例を示します。

1、松本深志高校遭難事故
1967年8月1日の気象状態は、本州を挟む形で高気圧が2つ並んでおり、南海上には台風があったため、大気の不安定な状態となっていました。
長野県松本市の長野県松本深志高等学校二年生の登山パーティーは、北アルプスの西穂高岳にて教員の引率による集団登山を行なっていたのです。
この集団登山は個人での登山による危険を避けるため、希望者を集めて毎年学校が主催している行事でした。
参加人数は教員5人を含む計55人で、日程は、31日に松本市を出発、上高地で一泊し、1日の朝から西穂高に登山して、翌日下山、松本市に帰る予定でした。
参加者のうち46人が登頂したが、正午過ぎから天候が悪化し、大粒のひょうまじりの激しい雷雨となったためパーティーは避難を開始します。
これにより生徒8名が即死、生徒・教員と会社員一人を含めた13名が重軽傷を負い、生徒3名が行方不明となったのです。
事故発生の連絡を受けた西穂山荘からは従業員と東邦大学医学部による西穂高診療所の医師ら二十余人が現場に向かい、遺体と負傷者を山荘に収容します。
登山の伝統がる深志高等学校の多人数の犠牲者が出た悲しい遭難事故でした。深志高等学校には空しく慰霊碑が建っていて、穂高に山並みを見上げています。

2、富士山大規模落石事故、
1980年8月14日午後1時50分ごろに富士山の山頂付近で落石が発生、吉田ルートの登山道を転がった落石が八合目から六合目にかけて多数の登山者を巻き込んだ事故です。
この事故による死者12人、負傷者は29人を数え、国内の落石事故史上最悪の惨事となったのです。
落石は、頂上の八神峰のひとつ、久須志岳付近の岩場で二度にわたり発生。直径1~2mの巨石5~60個が左右に広がりながら一直線に滑り落ち吉田大沢に向かった。
雪崩のように広がった落石は本八合(標高3300m)付近で吉田砂走りに自然発生的にできた下山道を直撃し、八合目(標高3100m)にかけて多数の登山者を巻き込みながらなぎ倒したのち六合目と七合目の中間付近で再び登山道に合流し、ここでも下山者を襲ったのです。
落石は吉田砂走りの小石を巻き込みながら、最終的に標高差1400mを転げ落ち五合目付近まで達しました。
被害は拡大し、死者12人、重軽傷者29人を数えたのです。
当日の気象は好天で風速は6m程度であり、また地震や火山活動など落石の引き金となる明白な事象はなかった。落石は人為的に引き起こされることもあるが、最初の崩落が発生した場所は登山道から離れていたため自然発生によるものとみられているのです。

3、御嶽山噴火による63名死亡事故
御嶽山噴火は、2014年(平成26年)9月27日11時52分(日本時間)に発生しました。
長野県と岐阜県の県境に位置する御嶽山(標高3,067m)の火山噴火です。噴火警戒レベル1(平常)の段階で突然、噴火したため、火口付近に居合わせた登山者ら58名が死亡し、5名が行方不明になりました。 避難する時間も無く無防備の登山者に巨大な噴石が降り注いだのです。多くは即死でした。

以上のように山岳には想像もつかない危険に満ちているのです。いくら経験豊かな登山家でも避けられない山岳遭難が起きるのです。
登山は冒険です。危険です。危険だからロマンがあります。
悲しむのは遺された家族や友人たちです。・・・・
最近、私にも富士山の山頂に登り、荒天のなかで下山中に行方不明になった親友がいます。
そのせいでこんな記事を書く気になりました。まだ発見されていません。(2018-09-15、掲載記事に経緯が書いてあります)
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料;岳遭難事故一覧=============
seesaawiki.jp/book-wiki/d/%BC%E7%A4ʻ%B3%B3%D9%C1%F8%C6%F1%BB%F6%B8ΰ%EC%CD%F7%A1%A1%A2%A8%BE%BC%CF%C2
最終更新: 2012年01月16日(月) 03:26:13履歴

【主な山岳遭難事故一覧】 ※昭和(戦後) ※大量遭難=3名以上死亡 のみのリストです。
昭和25(1950)年11月 平標山遭難事故(平標山)5名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/top...
昭和25(1950)年12月 佐野高校山岳部雪崩事故(谷川岳/西黒沢尾根)5名死亡
http://mtgear.blog18.fc2.com/blog-entry-30.html
昭和26(1951)年 5月 法政大学山岳部崩落事故(谷川連峰/一ノ倉沢) 4名死亡
昭和29(1954)年11月 日大/慶応大山岳部・東大スキー山岳部雪崩事故(富士山)15名死亡
http://www.fujiyamanchu.com/fujisanzatugaku.html
http://www.fujisan-net.jp/data/article/1410.html
昭和29(1954)年12月 戸山高校山岳部遭難事故(北アルプス/西穂高岳)3名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/top...
昭和32(1957)年 3月 明治大学山岳部雪崩事故(北アルプス/白馬鑓ヶ岳)5名死亡
http://120.29.191.181/amedaze/dic/dic-his/his-05.H...
昭和33(1958)年12月 慶応大学山岳部雪崩事故(北アルプス/中岳)4名死亡 ※他日大山岳部2名死亡
http://120.29.191.181/amedaze/dic/dic-his/his-05.H...
昭和33(1958)年12月 早稲田大学山岳部雪崩事故(北アルプス/明神岳)4名死亡
http://www.geocities.jp/oriental_com/ogura/now/myo...
昭和34(1959)年10月 東大山岳部他雪崩・遭難事故(北アルプス/北穂高岳)8名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history04/top...
昭和34(1959)年12月 立命館大学山岳部雪崩事故(北アルプス/剱岳)6名死亡
http://www.jlogos.com/webtoktai/index.html?word=%C...
昭和34(1959)年12月 専修大学山岳部雪崩事故(北アルプス/槍ヶ岳)6名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history04/top...
←◎参照 昭和35(1960)年 9月 谷川岳宙吊り遺体ザイル銃撃事件(谷川連峰/谷川岳)2名死亡
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5...
昭和35(1960)年11月 早大/東京理科大山岳部他雪崩事故(富士山)11名死亡
http://www.fujiyamanchu.com/fujisanzatugaku.html
http://www.fujisan-net.jp/data/article/1410.html
昭和36(1961)年 1月 富山大学山岳部遭難事故(北アルプス/赤谷山)6名死亡
http://yamamemo.seesaa.net/article/151883513.html
昭和36(1961)年12月 剱岳池ノ谷遭難事故(北アルプス/剱岳)3名死亡
昭和37(1962)年 1月 五竜岳遭難事故(北アルプス/五竜岳)5名死亡  
昭和37(1962)年 1月 甲斐駒ケ岳遭難事故(南アルプス/甲斐駒ケ岳)3名死亡
昭和37(1962)年 1月 久住群星生山遭難事故(久住連山/群星生山)7名死亡
http://www.nan-nan.jp/lib/unpyou02a1.pdf
昭和37(1962)年11月 穂高岳遭難事故(北アルプス/前穂高岳)5名死亡
http://120.29.191.181/amedaze/dic/dic-his/his-05.H...
昭和37(1962)年11月 成城大WV部遭難事故(南アルプス/間ノ岳)4名死亡
http://www.minamialps-net.jp/data/article/202.html
昭和37(1962)年12月 北海道学芸大学函館分校山岳部遭難事故(大雪山系/旭岳)10名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history04/top...
昭和38(1963)年 1月 愛知大学山岳部遭難事故(北アルプス/薬師岳)13名死亡 ※1パーティーとしては近代登山史上最大
http://dankai.akimasa21.net/index.php?%E6%84%9B%E7... 
昭和39(1964)年 1月 大館鳳鳴高校山岳部遭難事故(岩木山)4名死亡
http://blog.goo.ne.jp/kitsunekonkon/e/1515ca32334a...
昭和40(1965)年 3月 北海道大学山岳部遭難事故(日高山脈/カムイエクウチカウシ山)6名死亡
http://www.tokachi.co.jp/kachi/jour/20.jiken/9.htm...
http://www.geocities.jp/kyyamamoto2/dcyukinoisyo1....
昭和40(1965)年 3月 横尾雪崩事故(北アルプス/横尾)7名死亡
http://120.29.191.181/amedaze/dic/dic-his/his-05.H...
←◎参照 昭和40(1965)年 5月 東京農大ワンゲル部しごき死事件(奥秩父/雲取山)1名死亡
http://yabusaka.moo.jp/noudai.htm
http://gonta13.at.infoseek.sk/newpage55.htm
←◎参照 昭和41(1966)年 6月 日大三島山岳部しごき死事件(富士山)1名死亡 ※日大山岳部とは別組織
http://www.geocities.jp/showahistory/history05/top...
昭和41(1966)年11月 富士山連続滑落事故(富士山)6名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history05/top...
昭和42(1967)年 1月 涸沢雪崩事故(北アルプス/涸沢)8名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history05/top...
昭和42(1967)年 1月 大日山遭難事故(大日山)6名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history05/top...
昭和42(1967)年 1月 剱岳遭難事故(北アルプス/剱岳)3名死亡
http://120.29.191.181/amedaze/dic/dic-his/his-05.H...
昭和42(1967)年 1月 谷川岳二重雪崩遭難事故(谷川連峰/谷川岳)6名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history05/top...
昭和42(1967)年 4月 山形市立商業高校山岳部遭難事故(朝日連峰)3名死亡
http://www.asahi-net.or.jp/~dq5h-kmnt/akiba/1989ko...
昭和42(1967)年 8月 松本深志高校遭難事故(北アルプス/西穂高岳)11名死亡
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%A9%82%E9...
昭和44(1969)年 1月 剱岳大量遭難事故(北アルプス/剱岳)19名死亡
http://mtgear.blog18.fc2.com/blog-entry-70.html
昭和45(1970)年 7月 福岡大学ワンゲル部羆襲撃事件(日高山脈/カムイエクウチカウシ山)3名死亡
http://seesaawiki.jp/book-wiki/d/%ca%a1%b2%ac%c2%e...
昭和45(1970)年12月 同志社大/中央大他天狗平遭難事故(北アルプス/天狗平)7名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history05/top...
昭和47(1972)年 3月 富士山大量遭難事故(富士山)24名死亡
http://blog.goo.ne.jp/yukiyuki-tei/e/498c94ac51a8d...
http://www.fujisan-net.jp/data/article/1410.html
昭和49(1974)年 3月 白馬大雪渓雪崩事故(北アルプス/白馬岳)5名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history05/top...
昭和49(1974)年 3月 鹿島槍ヶ岳雪崩二重遭難事故(北アルプス/鹿島槍ヶ岳)9名死亡
http://www.argos-net.co.jp/nadare_bunkakai/nadare_...
昭和52(1974)年 1月 鹿島槍ヶ岳雪崩事故(北アルプス/鹿島槍ヶ岳)9名死亡
昭和52(1977)年 3月 都立航空高専山岳部遭難事故(中央アルプス/将棊頭山)7名死亡
http://www.asahi-net.or.jp/~dq5h-kmnt/akiba/1989ko...
昭和55(1980)年 8月 富士山大規模落石事故(富士山)12名死亡
http://univ.ygu.ac.jp/kasai/fujirakuseki/FUJISTONE...
http://www.fujiyamanchu.com/fujisanzatugaku.html
http://www.fujisan-net.jp/data/article/1410.html
昭和55(1980)年12月 逗子開成高校山岳部遭難事故(北アルプス/八方尾根)6名死亡
http://www.zushi-kaisei.ac.jp/history/100history/1...
昭和57(1982)年 3月 八ヶ岳阿弥陀岳雪崩事故(八ヶ岳/阿弥陀岳)12名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history06/top...
昭和57(1982)年 8月 黒部渓谷土石流事故(北アルプス/黒部渓谷)7名死亡
http://120.29.191.181/amedaze/dic/dic-his/his-05B....
←◎参照 昭和58(1983)年 9月 富士見平小屋OL殺人事件(奥秩父/富士見平小屋)1名死亡※殺人
http://www.chichibu.ne.jp/~elf/3/field/file1.htm
昭和61(1986)年 1月 岩木山雪崩事故(青森/岩木山)4名死亡
http://120.29.191.181/amedaze/dic/dic-his/his-05B....
昭和62(1987)年 1月 常念岳遭難事故(北アルプス/常念岳)3名死亡
http://homepage2.nifty.com/m_hayaka/book/bn1863.ht...
昭和62(1987)年 9月 穂高岳屏風岩落石事故(北アルプス/穂高岳)4名死亡1名不明
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今年も秋は喨々と空に鳴り

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ついに本当の秋が来ました。
秋空の風景を写真に撮ろうと昨日はいろいろな場所をさまよいました。
次のような詩を口ずさみながら写真を写しました。

『秋の祈り』  高村光太郎

秋は喨喨と空に鳴り
空は水色、鳥が飛び
魂いななき
清浄の水こころに流れ
こころ眼をあけ
童子となる

多端粉雑の過去は眼の前に横はり
血脈をわれに送る
秋の日を浴びてわれは静かにありとある此を見る
地中の営みをみづから祝福し
わが一生の道程を胸せまつて思ひながめ
奮然としていのる

いのる言葉を知らず
涙いでて
光にうたれ
木の葉の散りしくを見
獣のキキとして奔るを見

飛ぶ雲と風に吹かれるを庭前の草とを見
かくの如き因果歴歴の律を見て
こころは強い恩愛を感じ
又止みがたい責めを思ひ
堪へがたく

よろこびとさびしさとおそろしさとに跪く
いのる言葉を知らず
ただわれは空を仰いでいのる
空は水色
秋は喨喨と空に鳴る


1番目の写真は稲城市にある草原と雑木林の上に広がる秋の空です。

2番目の写真は多摩市の都立桜が丘公園から見た秋の空です。この写真も1番目の写真も秋の空には違いありませんが、秋は喨喨と空に鳴るという風情ではありません。そこで以前に撮った秋の空の写真を3枚お送りいたします。

3番目の写真は2015年の10月4日(日曜日)に、山梨県甲斐駒岳の上の空を撮ったものです。左端の高い山が甲斐駒岳です。

4番目の写真も甲斐駒岳の上の空を撮ったものです。中央の高い山が甲斐駒岳です。

5番目の写真は同じ場所からの写真ですが、30分くらい時間が経過して空に夕日の輝きがひかりはじめた頃の風景です。

如何でしょうか? 秋が喨喨と空に鳴っていませんでしょうか?
それにしても良い季節になりました。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
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