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カトリック小金井教会の今日のミサ

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今日は日曜日の主日のミサが10時から11時までありました。
司式は加藤主任司祭さまがなさって下さいました。
今日のミサの光景の写真をお送りいたします。









今日の新約聖書の朗読は離婚はしてはいけないという教えです。簡単な文章ですからお読みください。

マルコによる福音書 -第 10 章

1 それから、イエスはそこを去って、ユダヤの地方とヨルダンの向こう側へ行かれたが、群衆がまた寄り集まったので、いつものように、また教えておられた。

2 そのとき、パリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして質問した、「夫はその妻を出しても差しつかえないでしょうか」。

3 イエスは答えて言われた、「モーセはあなたがたになんと命じたか」。

4 彼らは言った、「モーセは、離縁状を書いて妻を出すことを許しました」。

5 そこでイエスは言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、あなたがたのためにこの定めを書いたのである。

6 しかし、天地創造の初めから、『神は人を男と女とに造られた。 7 それゆえに、人はその父母を離れ、 8 ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。

9 だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。

10 家にはいってから、弟子たちはまたこのことについて尋ねた。
11 そこで、イエスは言われた、「だれでも、自分の妻を出して他の女をめとる者は、その妻に対して姦淫を行うのである。12 また妻が、その夫と別れて他の男にとつぐならば、姦淫を行うのである」。

聖書の教えは上記の通りですが、キリスト教国の欧米諸国、特にアメリカで離婚が非常に多いのは何故でしょうか? アメリカの離婚率は日本より圧倒的に多いのです。

私は幸運にも離婚したいと考えたことがありません。しかし世の中には相性が決定的に悪い夫婦がいるものです。そのような場合は離婚するのが自然だとも思います。
しかしアメリカで離婚が非常に多いのは個人の自由や尊厳を強く主張しすぎる結果のように感じています。
離婚は子供を不幸にします。そこまで考えて慎重にするのが良いと個人的には思っています。
皆様のご意見を頂けたら助かります。有難う御座います。

秋深い北海道の風景とアイヌ民族を愛した松浦武四郎

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北海道の自然には太古のままのような雰囲気があります。風景もヨーロッパを思わせる景観で旅心をかき立てます。ロマンチックです。特に秋深い北海道は、やがて来る厳しい冬の予感を与えています。
もう何十回も訪れました。
今日はまず秋の風景写真をお送りいたします。2015年に道東に行った時の写真です。

1番目の写真はウトロから知床五湖へ行く途中の白樺です。10月中旬なのに完全に落葉しています。

2番目の写真は知床五湖の第一湖です。駐車場から幅の広い立派な木道があり一湖までは足が弱い人でも歩いて行けるのです
背景の山並みは知床連山です。天候が変わりやすく冬が近い感じです。

3番目の写真は知床五湖から網走に帰る途中にあった白樺林です。

4番目の写真は知床五湖の近辺にいたエゾシカの親子です。エゾシカは沢山見ました。キタキツネも沢山見ました。

5番目の写真は新得町狩勝高原の釧路湿原に続く畑作地帯にいた鶴の一家です。鶴は一生同じ夫婦で過ごし子供も一緒です。
真ん中の首がまだ黒くなっていないのが子供の鶴です。両脇がその両親です。

6番目の写真は知床五湖の近くにいたヒグマです。この熊は人を恐れずにバスから10m位の所を徐行するバスに従って歩いているのです。数分歩いて写真を撮り終わった頃に林の中に消えて行きました。
知床には何度か来ていましたが、ヒグマをこんなに間近に見るのは初めてでした。

7番目の写真はウトロの漁港です。写真の中央の岩山に一度だけ登ったことがあります。観光客が登れるように道がついているのです。
以上の写真では知床近辺だけを示しましたが北海道は雄大なのです。その自然の風景を一層引き立ているのが数々の湖です。摩周湖。阿寒湖、屈斜路湖、オネントー、サロマ湖、洞爺湖、支笏湖、などなど枚挙にたえません。

この北海道の名前をつけ、アイヌ民族を愛したのが松浦武四郎でした。
それまでは北海道は蝦夷地と呼ばれ、北海道という名前は無かったのです。
アイヌは縄文人が弥生人と混血しないで残った原日本人なのです。
北海道には4万年前の石器時代からアイヌ民族が住んでいました。本州北部と同じ文化圏で縄文時代までは同じような土器を使って煮炊きをしていました。
このアイヌ民族を愛し北海道の各地の名前にアイヌ語を残したのが松浦武四郎でした。
松前武四郎の生涯をご紹介します。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E6%AD%A6%E5%9B%9B%E9%83%8E より抜粋しました。
文化15年(1818年)、伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野江町)にて郷士・松浦桂介ととく子の四男として生まれる。
松浦家は、肥前国平戸の松浦氏の一族で中世に伊勢国へ来たといわれている。
父親は庄屋を営んでおり、比較的恵まれた中、文化的な素養を身に付けたとされる。13歳から3年間、平松楽斎(漢学者・伊勢津藩士)のもとで学び、猪飼敬所、梁川星巌らと知己を得る。
山本亡羊に本草学を学び、16歳から諸国をめぐった。天保9年(1838年)に平戸で僧となり文桂と名乗るが、故郷を離れている間に親兄弟が亡くなり天涯孤独になったのを契機に、弘化元年(1844年)に還俗して蝦夷地探検に出発する。1846年には樺太詰となった松前藩医・西川春庵の下僕として同行し、その探査は択捉島や樺太にまで及んだ。
安政2年(1855年)に蝦夷御用御雇に抜擢され再び蝦夷地を踏査、「東西蝦夷山川地理取調図」を出版した。
明治2年(1869年)には開拓判官となり、蝦夷地に「北海道」の名を与えたほかアイヌ語の地名をもとに国名・郡名を選定した。
翌明治3年(1870年)に開拓使を批判して職を辞し、従五位の官位も返上した。この間、北海道へは6度赴き、150冊の調査記録書を遺した。
明治3年(1870年)には北海道人と号して、「千島一覧」という錦絵を描き、晩年の68歳より富岡鉄斎からの影響で奈良県大台ケ原に登り始め、自費で登山道の整備、小屋の建設などを行った。
明治21年(1888年)、東京神田五軒町の自宅で脳溢血により死去。

以上のようにアイヌの伝統文化を尊重し、北海道の各地の地名にアイヌ語の地名をそのまま残したのです。ご存知のようにサッポロも漢字表記にして札幌と書いたのです。
松前武四郎のおかげで北海道にアイヌ語の地名が多数残ったのです。何故か感慨無量です。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===北海道のアイヌ語の地名==========~=
赤平(あかびら) 旭川(あさひかわ) 芦別(あしべつ) 足寄(あしょろ) 厚岸(あっけし) 厚沢部(あっさぶ) 厚田(あつた) 厚別(あつべつ) 厚真(あつま) 網走(あばしり) 虻田(あぶた) 硫黄山 伊香牛(いかうし) 幾春別(いくしゅんべつ) 生田原(いくたはら) 石狩(いしかり)などなど多数。以下省略。
http://www1.plala.or.jp/kanakikaku/ainutimei.htm

江の島の昔の風景と強烈な西洋文化の風景

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日本民族という言葉を私は好きです。その歴史も大好きです。私は日本文を大切にしている愛国者です。
それが心に沁みついているので、写真を撮る時、嗚呼これは伝統文化の風景だ、嗚呼これは日本にある西洋文化の風景だと区別しながら撮る習慣があります。
そうするとその風景の背後にある人々のいとなみの歴史が見えて来て面白いのです。
明治維新の大きな変革がよく理解出来るので興味深いのです。維新で変わったもの、変わらなかったものが見えて来るのです。西洋の文化がどのように入ってきたかが理解できるのです。
昨日も江の島と茅ケ崎の海岸に行って、2種類の写真を撮って来ました。その対比を見ると日本の文化についていろいろ想われて楽しいのです。
それでは早速、日本の伝統的な風景の写真から始めます。

1番目の写真は江の島の西にある茅ヶ崎の海岸の風景です。この広々とした風景は奈良時代、平安時代から寸分変わっていない筈です。

2番目の写真は茅ヶ崎の海岸の烏帽子岩と波打ち際で遊ぶ母と子供の写真です。
烏帽子岩は昔から変わりません。しかし母や子供たちが西洋の服を着ています。昔は質素な着物を着て遊んでいたに違いありません。

3番目の写真は江の島の弁財天の入り口の門の風景です。入り口の門は近年建てられたものですが、その形が日本の伝統的な風景になっています。
この写真は以前にお正月に江の島に遊びに行った時に撮った写真です。このような風景は多分、鎌倉時代からの伝統なのでしょう。江の島は鎌倉に近い島なのです。

4番目の写真は江の島の弁財天の参道にある日本菓子の店の内部の光景です。創業、寛政元年と書かれたノレンが写っています。江戸時代には江の島の弁財天のお参りが流行って江戸からの人々で賑わったと言います。
この弁財天の歴史をかいつまんで書きます。
欽明天皇13年(552年)、神宣に基づき欽明天皇の勅命により、江の島の南の洞窟に宮を建てたのに始まると伝えられています
『吾妻鏡』によれば、寿永元年(1182年)、源頼朝の命により文覚が島の岩屋に弁財天を勧請したとあります。
歴代の鎌倉幕府将軍・執権や、代々の領主から崇敬を受けてたようです。江戸時代には弁才天信仰が盛んになり、多くの庶民が参詣するようになって参道の土産物屋や旅館が賑わったのです。
しかし明治維新は江の島に悲劇をもたらしたのです。
明治元年(1868年)の廃仏毀釈により三重塔や多くの仏堂や仏像などが破壊されたのです。
明治6年(1872年)には、仏式を廃して神社となり「江島神社」へ改称させられたのです。
同時に僧侶は全員僧籍を離れて神職となり、岩本院という宿泊施設は旅館となり「岩本楼」へ改称し現在も存続しています。私も1963年頃に岩本楼に泊まったことがありました。
江の島にはそんな歴史と文化があったのです。
しかし1964年のオリンピックで江の島がヨットレースの会場になってから強烈に西洋文化を代表するヨットのマリーナが島に出来たのです。その西洋文化を象徴するような風景写真を3枚示します。

5番目の写真は江の島ヨットハーバーの風景です。ヨーロッパ文化にとって重要な役割を果たした西洋式の帆船が並んでいます。

6番目の写真はヨットを後ろから撮った写真です。
日本にも昔から帆船がありました。しかし日本の帆船は風に向かってが走れなかったのです。それが決定的な弱点でした。
ヨットと呼ばれる帆船はヨーロッパで設計された図面通り忠実に作られた船です。その部分品一つ一つがヨーロッパ文化を背負っているのです。ヨットを趣味にして25年間乗ってみるとヨットこそヨーロッパ文化が詰まった文化遺産だと深く理解出来たのです。

7番目の写真は江の島のヨットマリーナの全景です。
ヨットにはキャビンの無い小型のものもあります。その小型ヨットのことをデンギィと呼びますが、その置き場のデンギィヤードはこの写真の右側に広がっています。
私がヨットを習ったレッツゴーセイリングというヨットスクールがあった場所です。
この江の島や葉山などの湘南海岸に多数のヨットが入って来たのは戦後です。
石原裕次郎がデインギィに乗っていたことがヨットの流行に拍車をかけたのです。
しかしキャビンを持つ大型のヨットのマリーナが出来たのは1970年代から始まる経済の高度成長の後でした。
なお詳しくは次の記事をご覧下さい。
『白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(1)全体の構成、そして渡辺修治さんとの絆』2011年11月30日 掲載記事。

5,6、7番目のような写真の歴史は比較的に新しく日本の経済の高度成長の後に出来た風景なのです。

このように日本の風景写真を日本の伝統的な風景とヨーロッパ文化の影響を受けた風景と分類して撮るのが私の趣味です。しかし風景によっては2つの伝統文化が混然一体になっている場合もあります。面白いものですが、困っています。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

谷川岳が はやり安保闘争デモの時代、その時代の空気

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谷川岳の一ノ倉沢の岩登りが若者の胸を熱くした時代がありました。1960年代1970年代のことです。
一ノ倉沢の岩肌を命がけで登っている人がいる一方、街には安保闘争のデモが渦巻いていました。デモは学生の情熱でした。若者が燃えていた時代でした。
そんな時代の空気が懐かしいです。あの空気は二度と来ません。
先日、あるSNSに山の遭難記事を掲載しましたところその時代の空気をまざまざと思い出させるコメントを2人の方から頂きました。非常に活き活きした文章なのでそのまま転載致します。

(1)すけろくさんから 2018年10月06日 に頂いたコメント
若い頃は毎週のように谷川岳東面の岩場に取り付いていました。
社会人山岳会会員の宿命は休みが少ないため夜行、日帰りで岩登りをせざるを得ませんでした。
上野を前夜22時13分発長岡行きに乗り、未明の午前3時過ぎ土合駅に着きます。長い階段を駆け上がり、国道を早足で歩き、一ノ倉沢に入り、岩壁に取り付きます。
あちこちのルートから健闘中のパーティの声がします。昼近くに国境稜線に出て、西黒尾根、中芝新道を下り、登山は完結します。
このようにすべてうまく行けば良いのですが、転落、滑落をするときもあります。大したこともないパーティもあれば,致命的なミスをしてしまったパーティもいます。
何組か救助をしたことがありましたが、その多くが初心者よりも中堅~猛者のパーティが多かったものです。これはいかに谷川岳の岩壁が困難なものかがわかると思います。
最近は岩場に取り付く若者は50年前と比べると激減しているそうで、その分遭難も減っています。
しかし、昭和のはじめから最近までの遭難、死者の数はおびただしいもので、世界で一番遭難の多い山としてギネスブックに載ってしまいました。ロープウエー下の遭難碑を見るたびに山で亡くなった人々の冥福を祈ります。合掌。

(2)nishiちゃんさんから2018年10月06日に貰ったコメント
すけろくさん、長岡行きドンコ列車は22時45分か?49分だった様な記憶があります。尾瀬沼田、谷川土合駅など懐かしいです。
最初に行った時は地下からの階段は無かったです。2度目に翌年、翌々年に行った時は400~500段近くの地下トンネルから階段を上がって土合駅に出ました。
まだ渋川から蒸気機関車だったのも覚えています。
一ノ倉沢の出合の次のカーブに慰霊碑がはめ込まれています。
この横でテントを張って朝の日の出の写真を撮ったものでした。
衝立岩での宙吊りの遭難者を自衛隊がザイルを射撃して切断し、犠牲者を回収しましたね。その現場のオーバーハングを思い出しますね。6級ルート+スーパー6級ルート、七級ルートでした。
上部草付きルート、脆い岩で花崗岩岩壁では無いのと、沢筋ルートと相まってスーパー6級ルートです。やはりクライマーは憧れる訳ですね。
私もバットレスを少しやった位ですが・・・、やはり岩場で落ちたら死ぬ覚悟・・・、しかし相棒がザイルを握ってくれ確保してくれている・・・有難味。やはり相棒がいてのクライミングと思いました。
急に個人的な話になって済みませんが、加藤保男さんの笑顔、小西さんの笑顔からこぼれる白い歯今でも覚えています。
キャラバンにいた小西政嗣さんにも展示会でお会いすることが出来ましたね。そうだ・・・加藤保男さんのエルキャピタンで冬期エベレスト挑戦への前にこの映画を見て頑張って下さいと握手して励ましたのですが・・・。いろいろな方の想い出があります。
クライミングをやった時は落ちたら死ぬんだ・・・絶対に落ちない様に…と近場のゲレンデに毎週通いました。
しかし、やはりロマンチストには自分との戦いをロッククライミングに向けます。
サラリーマン世界の毎日の後の週末の岩登りに魅かれ多くの岳人が山に登ったのだと思います。
ポニージャックスかに山に煙が昇ると言う悲しくも哀愁を帯びた唄があります。私もやはり死を覚悟して初めて挑戦した山があります。
厳冬期1月20日から2月末迄を山での厳冬期と言います。
まだ誰もが成し遂げられなかった厳冬の北アルプス全山縦走を目標に単独で全てを自分で背負い挑戦したこともありました。
挑戦には素晴らしい意欲を感じます。
植村直己さんのことです。知り合いに植村さんと親しかった方がいましたのでよく植村さんのことを聞きました。マッキンレー登頂後遭難したのが残念です。・・・老境になると谷川岳に夢中になっていた時代が懐かしいです。あの時代の空気は2度と来ません。

上記のように登山に情熱を燃やしていた若者がいる一方、安保反対のデモに参加して興奮していた若者も沢山いた時代でした。
安保闘争とは1959年から1960年と1970年の2度にわたり日本でおこなわれた日米安全保障条約に反対する運動でした。
デモへの参加者は国会議員、労働者や学生、市民および左翼や新左翼の運動家などなどでした。
60年安保闘争では安保条約は国会で強行採決されたものの、岸内閣は混乱の責任をとって、内閣総辞職をしなければならなくなったのです。
しかし70年安保闘争では、闘争に参加していた左翼の分裂や暴力的な闘争、抗争が激化し運動は大衆や知識人の支持を失い、やがて終息しました。

添付の写真は谷川岳一ノ倉沢の写真3枚と国会を取り囲んだデモ隊安保デモの写真1枚です。1960年6月18日に撮ったデモの写真です。







いかがでしょうか、1960年代1970年代の時代の空気を思い出されましたでしょうか?

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

世界各地に住む中国人と漢詩のことなど

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中国人は漢民族とも呼ばれます。昔から東南アジアの各地に移住して住んでいました。近代になると欧米諸国にも住むようになります。この漢民族と共通の文化的基盤を有するのは朝鮮民族と日本民族などがあります。
今日は漢民族に焦点をあてて考えて見ようと思います。
私は北京や瀋陽に招ばれ大変世話になったことがあります。またアメリカ在住中には中国人に助けられたこともあります。
何時も感心することは外国に住んでいても中国人は漢民族文化に誇りを持って生きていることです。外国の国籍になっても中国人はあくまでも漢民族なのです。そんな漢民族の一人一人は義理人情に篤く信用出来るのです。
現在、中国は共産党の独裁国家です。しかし中国人と個人的に付き合うと共産主義など全く関係無く長い間親身のお付き合いが出来るのです。
その上、彼等と日本人の共通のものとして漢字があります。簡単な要件なら筆談で意志が通じるのです。
店の看板が分かります。中国に行っても違和感が無いのです。
そして唐時代の漢詩の話をすると親近感が一層湧いてきます。漢詩こそ漢民族の誇りなのです。
漢詩は日本人の教養ですが共産党の中国の学校でも現在教えています。
例えば、湖南省の邵阳市第一中学校のHP(http://www.sysyz.com.cn/wx/sh.aspx?id=280 )にも「元二の安西に使するを送る」と題した漢詩が挿絵入れで紹介してあるのです。その挿絵をここにお送りいたします。

1番目の写真は共産国家の中国の湖南省の邵阳市第一中学校のHPの挿絵です。日本人のよく知っている漢詩が書いてあります。
その漢詩は以下の通りです。

「元二の安西に使するを送る」
渭城の朝雨 軽塵を潤し
客舎青青柳色新たなり
君に勧む更に盡くせ一杯の酒
西のかた陽關を出づれば故人無からん

「送元二使安西」
渭城朝雨潤輕塵
客舎青青柳色新
勧君更盡一杯酒
西出陽關無故人

邵阳市は日本の漢字で書くと邵陽市になります。
古典文学の教養として日本も中国も同じ漢詩を幾つも習っているのです。
日本でも唐時代の漢詩を学校で教えています。ですから日本人は漢詩の幾つかを憶えていて、折にふれ詠み返しています。
王維が友人の送別のために書いたのがこの漢詩です。唐の都から西の陽関という関所を越えて西域の僻地に旅立つ親友との惜別の詩です。もう二度と会えないかも知れない友へもう一杯の酒を飲んでくれと言いながら別れを惜しんでいるのです。
この詩のポイントは故人にあります。故人とは古くからの友人や親友の意味です。そして 陽関は関所の名で、現在の甘粛省敦煌県の西南の玉門関の陽(みなみ)にあったのです。

皆様も友人の送別会の時、この漢詩を朗誦したのではないでしょうか?
・・・渭城の朝雨 軽塵を潤し~客舎青青柳色新たなり~~
君に勧む更に盡くせ一杯の酒~~~
西のかた陽關を出ずれば故人無からん~無からん無いからん故人無からん  と三回繰り返しました。

外国で親しくなった中国人にこの漢詩の話をします。そして貴方も陽關を出て外国に住むようになったのですねと聞きます。故人(昔からの知り合い)はいなかったでしょうかと言うとニッコリ笑います。
それだけで非常に親近感が湧いてくるから不思議です。
外国に住む多くの中国人は外国生まれなので陽關を出て移住したのは祖父の代です。しかし外国籍の中国人は漢字の素養があり、小さい時から孫悟空の物語を読んでいます。
中国人は漢民族の誇りを持って世界各地に住んでいるのです。
現在、日本人も世界の各地に住んでいます。彼等の心の拠り所は日本民族の文化です。
世界に誇れる日本民族の文化とは何でしょうか?
万葉集でしょうか。源氏物語でしょうか。そして最近の工業製品の品質の良さでしょうか。あるいは現在、日本人が非常に優しいと有名だそうです。日本は何処へ行っても清潔で安全な国です。
これらの全体が日本民族の誇れる文化なのです。私は個人的にそのように信じています。

今日の挿し絵代わりの写真は私が好きな北京の離宮の頤和園の写真です。
写真は「頤和園の写真」を検索してネット上にあるものから選び、お借りしました。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)






聖徳太子はいなかった!教科書の大間違い!

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私ども高齢者は聖徳太子は「憲法十七条」や「冠位十二階」「遣隋使の派遣」などを成し遂げた偉大な人物だと学校でならいました。
しかし近年の歴史学者の研究により、それは間違いと言われ、現在、多くの教科書では「厩戸王」や「厩戸皇子」という名前で登場しています。「厩戸王」が死んでから50年後に天武天皇が天皇の権威を強化するために「厩戸王」を聖徳太子と称して数々の偉業をしたことにしたのです。
ですから以前の教科書は事実に反する大間違いを記述していたのです。
「聖徳太子」は厩戸皇子の存命中の呼称ではないという理由により、たとえば山川出版社の『詳説日本史』では2002年(平成14年)度検定版から「厩戸王(聖徳太子)」に変更されています。
また清水書院の高校日本史教科書では2014年(平成26年)度版から、歴史研究者によって指摘されるようになってきた聖徳太子虚構説をとりあげて記述しています。
歴史家らから、厩戸皇子の存在はともかくとして、「聖徳太子」という呼称の人物像の虚構性を指摘されることが増え、学問的には疑問視されるようになっているのです。その結果、中学や高校の教科書では「厩戸皇子(聖徳太子)」についてそもそも一切記述しないものが優勢になっています。
つまり将来は「聖徳太子」の名前すら知らない人が増えていくのです。

それはさておき、「厩戸皇子」と「聖徳太子」の関係はどうなっているでしょうか?
いろいろ調べましたが以下の説明が一番明快なのでご紹介いたします。

歴史上実在した「厩戸皇子」は何をした人物?
https://toyokeizai.net/articles/-/118796

Q1. ズバリお聞きします。聖徳太子はいたのですか?

いました。「厩戸皇子」のことです。でも、「聖徳太子」と私たちが呼んでいるこの名前は、彼の本名ではありません。これは彼の功績を称える人々が後世になり彼に贈った名前で、贈られた人物の名は「厩戸王」です。この「厩戸王」は実在の人物です。よって、答えは「いた」ということになります。

Q2. 「聖徳太子はいなかった」はウソだったのですね。

ところが、そうとも言えない事情があります。「聖徳太子はいなかった?」は、ここからが本題です。
たしかに「厩戸王」はいましたが、厩戸王が今日に伝わる「聖徳太子」そのものの活躍を実際にしたのかとなると、話は変わってきます。聖徳太子が行ったとされる数々の偉業と「厩戸王」との関係をあらためて調べていくと、「意外な結果」へとたどりつくのです。

Q3. まず「厩戸王」について簡単にご説明ください。

「厩戸王(うまやとおう、574~622)」は飛鳥時代の政治家です。本名は「厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)」。用明天皇の皇子として誕生し、母は蘇我稲目(そがのいなめ)の孫にあたる穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)です。19歳で推古天皇の摂政となり、「憲法十七条の制定」など数々の偉業を成し遂げます。この功績により、後世「聖徳太子」として人々に称えられ、その名がいまに定着しています。しかし「聖徳太子がすべてやった」とは考えにくいのです。

Q4. 聖徳太子が否定されるきっかけは何だったのですか?

彼の行ったとされる実績は「冠位十二階の制定」「憲法十七条の制定」「国史編纂」「遣隋使の派遣」「仏教興隆(三経義疏、法隆寺・四天王寺の建立)」などです。こうして書き連ねるだけで膨大です。
冷静に考えて、「これらをひとりの人物がすべてやったとは考えられない」というわけです。

Q5. 聖徳太子と厩戸王との相違点は何ですか?

聖徳太子は上記の偉業をすべて行った、それゆえの「“聖徳”太子」ですから、人物像も明快です。それに対し、「厩戸王」については、当時の史料をあらためて検証する限り、「憲法十七条」も「冠位十二階」も、彼が主体として確実に関与していたという証拠がないのです。
もちろん、だからといって、彼が政治の中枢にいたことはたしかですから、まったく無関与であったとも言えません。現時点では「グレー」なのです。

Q6. 憲法十七条はあったのですか?

ありました。ただ、『日本書紀』にある604年という成立年に疑問が生じているようです。当時の天皇家の持つ権力(=勢力)は、蘇我氏など大豪族とあまり差がなく拮抗しており、この状態で条文にある「天皇中心の国家」をうたいあげるにはまだ時期が尚早だったとの見方と、条文にある「国司」名が未だ使われていなかったのではという疑問点から、「実際の制定はもっと後の時代だった」という主張もあります。


Q7. 冠位十二階はあったのですか?

ありました。ただ、中国、朝鮮半島でも同じような制度はあったので、それを導入したと考えるのが自然でしょう。また、制定の理由は「新しい人材登用が目的」というより、「当時遣隋使の派遣などで積極的に国際化を目指した日本が、先進国としての対外的イメージをつくるため」という意味合いが強いようです。なお、制定に際し、ここでも「厩戸王」の主体的関与の証拠はありません。
遣隋使派遣、法隆寺建立も証拠はなしです。

Q8. 遣隋使派遣はあったのですか?

ありました。でも小野妹子で有名な607年が最初ではありません。日本側の記録にはありませんが、中国側にはっきりと600年に遣隋使が訪れたときの詳細な記録が残されています。当時の遣隋使は、後の遣唐使ほどの重要性を持ってなかったとも考えられます。
遣隋使に関しても、厩戸王の主体的関与の証拠は見つかっていません。

Q9. 法隆寺は厩戸王が建てたのですか?
わかりません。現在の法隆寺は再建(670年に一度焼失)で、寺院に伝わる仏像も彼より後の時代のようですから無関係。焼失前のオリジナルは、現法隆寺の敷地に重なる形で残る「若草伽藍(わかくさがらん)」と呼ばれる寺院遺構とされていますが、なにぶん、こちらも遺構ですから関与の証拠を見出すのは難しいでしょう。近年の考古学的成果からは、部材類の年代は「再建説」を補強しています。

Q10. では、なぜ「聖徳太子」が作り上げられたのですか?
厩戸王が死去して50年後、凄惨な皇位継承権争い(壬申の乱)が起きます。天皇の権威は失墜し、勝者となった天武天皇(631?~686)は「天皇中心の中央集権律令国家づくり」をすすめていきます。
そのとき天武天皇は「厩戸王」というひとりの人物に着目します。彼と同時代に行われた数々の施策を誇大評価し、これらの偉業すべての部分で関与したとする「聖徳太子」をつくり上げたのです。ライバルである有力豪族に対し、神代から続く自らの血筋の優秀性と日本国の統治者であるという正統性を再認識させようとしたのでは、と考えられています。
こうしたことを背景にして戦前につくり上げられた「聖徳太子」像は、いま大きく揺らいでいるのです。

ここまでの話を整理してみましょう。
★ 聖徳太子の称号は「憲法十七条」をはじめ、数々の功績によるもの。
★ ところが、最近の研究から、推古王朝は彼一人でなく天皇、蘇我氏、厩戸王3者の共同体制による運営とされ、
① 冠位十二階などは「多くの人物」の手による合作
② 憲法十七条は彼よりも「後の時代」に完成した
③ 遣隋使は小野妹子より「以前から」派遣されていた
など、厩戸王自身の実績とは直接関係ないとする可能性も指摘され、徐々に疑問が生じています。

★ 少なくともこの時代に、厩戸王が天皇の摂政として存在したのは確かですが、「聖徳太子」の称号に値する“すべてをひとりで成し遂げた”人物ではなかった、つまりは「“聖徳太子”はいなかった」とする見方が現実味を帯びてきたのです。「一度に民衆十人の訴えをお聞きになって、それぞれに明快な判断をお下しになった」と我々が教わってきた聖徳太子はいなかったのです。

さらに驚くことは聖徳太子の肖像画は別人と判明したのです。
http://historivia.com/cat3/prince_shotoku/3442/
聖徳太子の肖像の絵は「唐本御影(とうほんみえい)」といい、「聖徳太子及び二王子像(しょうとくたいしおよびにおうじぞう)」とも呼ばれています。
これは聖徳太子を描いた最古のものと伝えられています。30年ほど前までは、一万円札などの紙幣に使われておりました。
この絵が描かれた年代としてはここに描かれている服装や冠などが、厩戸王が生きた飛鳥時代のものではなく、早くとも奈良時代となる8世紀頃のものと考えられており、それに付随して制作年代もその頃と考えられており、平安時代以降の模本とする説もあります。
また、横に描かれている二人の人物は、左が聖徳太子の弟の殖栗皇子(えぐりのみこ/生没年不詳/用明天皇の第5皇子で母は穴穂部間人皇女)、右が聖徳太子の息子の山背大兄王(やましろのおおえのおう/生年不詳~643年12月30日/蘇我入鹿に攻められ自害)と言われています。

1982年に当時の東京大学の史料編纂所長であった今枝愛真がこの絵に描かれた人物は聖徳太子ではないのではないかという説を唱えました。
この肖像画に描かれている人物がかぶっている冠や、着ている服、手に持っているもの等すべてが律令国家が成立してからのものであり、あごひげは後に書き加えられたとされ、以上のことからもこの人物が聖徳太子ではないという説が現在では有力です。
また、中国で描かれたという説もあり、誰を描いたものかということも含めて、どこでいつの時代に描かれたのか決着はついておらず、現在では教科書には掲載されていないか、または掲載される場合、「伝聖徳太子像」(聖徳太子が描かれていると言われていますよという意味)と書かれています。

以上を簡単に言うと「聖徳太子」という虚構の人物は天武天皇が創作したに過ぎない存在なのです。
厩戸王が死去して50年後、凄惨な皇位継承権争い(壬申の乱)に勝った天武天皇が「天皇中心の中央集権律令国家づくり」をすすめるために勝手に作り上げたのです。
天武天皇のライバルである有力豪族に対し、神代から続く自らの血筋の優秀性と日本国の統治者であるという正統性を再認識させようとしたと考えられています。

日本の歴史には天皇や幕府政権の権威を強めるため歴史事実に反することを事実と変えてしまうことが多いのが普通です。聖徳太子の虚構もその一例に過ぎないのです。
これは明治維新以来の天皇制強化と富国強兵政策のおかげで聖徳太子の功績を学校で教えたのです。
このような歴史の間違いは他にも沢山あるのかも知れません。困ったものです。

挿し絵代わりの写真は昔の教科書にあった聖徳太子の絵と、聖徳太子の肖像が使われていた昔の紙幣の写真です。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)





写真でご案内する八ヶ岳山麓の小屋への小さな旅

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このところ雨続きで行けなかった山梨県北杜市の山林の中の小屋へ昨日行って来ました。
その小屋は甲斐駒岳の足元の深い、深い森の中にあります。昨日は甲斐駒岳が雲の中で八ヶ岳だけが見えましたので、表題を「・・・八ヶ岳山麓の小屋へ・・・」と致しました。
人のいない淋しい雑木林の中の小屋への旅はチョッとした冒険の旅でもあります。そして俗界を離れた桃源郷への旅のような感じもいたします。
それでは皆様を深い山林の中への小さな旅を写真にしたがってご案内いたしましょう。

1番目の写真は北杜市武川町の山道の入り口に広がる稲田の風景です。ブランド米の武川米(農林48号)を作っています。寿司屋さんがよく使う米です。

2番目の写真は雑木林の中の小屋へ登って行く悪路です。ゆっくり車を走らせないと路面に出ている石に車体をガツンとぶつけます。冬になると、すっかり落葉して明るい道になりますが、何時もは昼でも暗い道です。ここで俗界からいよいよ離れるのです。

3番目の写真は暗い雑木林を2Km位登った終点にある私の小屋です。鉄筋コンクリートにしたので建てて44年になりますが朽ちません。家の中に入ると何時も清潔になっています。周囲は湿気の多い谷地ですが朽ちないのが取り柄です。

4番目の写真は小屋の反対側の黄葉が始まった木の写真です。写真の左手前に写っているガーデン燈は夜に美しい光を放ちます。小屋にはガス、水道はありませんが電気だけは来ています。

5番目の写真は小屋の庭を流れる小川の写真です。この畔の椅子に座って水音を聞いていると俗界のことは全て忘れてしまいます。桃源郷とはこのような所なのかと想像をめぐらせます。私は桃源郷に遊ぶ心地で座っています。周囲を流れる空気が新鮮で遠方で鳥の声がします。静かに坐っていると時々猿の群れが遊びに来ます。
一方、家内は何時ものように長い棒を持ってしきりに川の中の落ち葉や枯れ枝を取り除いています。そうすると綺麗な川底の白っぽい砂床が見えて美しい小川になるのです。先日の台風で木の枝が折れ、橋の上まで水が上がり「沈下橋」状態になっていました。何時来ても家内は川で夢中に遊んでいます。
小屋に着いたのは11時前でしたが小川のそばで1時間位のんびりしました。その後屋内でお茶を淹れ持参したオニギリを食べました。

6番目の写真は下界の別荘地の花々です。

7番目の写真も別荘地の花です。この別荘には夫婦が住んでいますが。奥さんが花好きでいろいろな花を栽培しています。以前にご挨拶したら、何時でも写真を撮っても良いと言われました。

8番目の写真はダリアの花です。

9番目の写真は名前の知らない花です。

10番目の写真は万葉集の山上憶良の歌にあるフジバカマの花です。日本で1000年以上大切にされている花です。

11番目の写真は菊の花の向こうに見えた八ヶ岳です。
ここからは甲斐駒岳がまじかに見える筈ですが、昨日は厚い雲に完全に覆われて見えませんでした。
このような写真を撮った後は何時ものように白州道の駅にある大型スーパーに寄ります。
そのスーパーではバラの花が12本で200円なのです。昨日は2束24本買って来ました。何故バラの花が何時も安いのか不思議です。白州から甲州街道を甲府の方向に行くと昔の台ケ原宿に入ります。古い宿場町で七賢という酒蔵と信玄餅の元祖の金精堂があります。
この元祖の信玄餅を買って帰ってきました。
中央高速道路へは須玉インターから入りました。往復300Kmの小さな旅でした。
面白いことが何も無い地味な小さな旅です。あるのは山林だけです。
山林がお好きな方にはお薦めの旅です。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

これでウクライナがロシアから完全に独立した!

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昨日の読売新聞にウクライナ正教会がプーチン大統領の支援を受けているロシア正教会の傘下から離れ、独立したというニュースが出ていました。
私は個人的にウクライナと細い糸のようなご縁があるので、そのご縁を書いてみます。

新聞によると東方正教会の筆頭格のコンスタンチノーブル総主教庁がウクライナ正教会の独立を承認したのです。
日本の正教会は日露戦争の後、ロシア正教会の傘下から離れ日本正教会として独立しました。神田のニコライ堂が日本の本部です。
それはさておき今回のウクライナ正教会の独立に対してプーチン大統領は猛反発しているそうです。ウクライナのクレミア半島のロシアによる接収以来、プーチン政権とウクライナは厳しい対立が続いていたのです。
今回のウクライナ正教会の独立はウクライナのロシアからの決別です。ウクライナは名実共に独立国家になったのです。
東方教会の信者は2億人以上です。ロシアもウクライナも人口の7割以上が正教会の信者です。
私はカトリックですが正教会に以前から親近感を持っていました。
それで2009年には何度かニコライ堂を訪れ、そこで伝教師の金田一豊さんに親切にして貰ったことがあります。
初めて礼拝式(聖体礼儀という)に出席した私の面倒をみてくれたのです。
聖体礼儀の儀式は10時に始まり約3時間で、午後1時近くに終りました。荘厳な合唱で進める儀式でその合唱の芸術性には感動します。堅苦しい儀式には厳格な決まりがあって他宗派の私には疎外感と違和感があり、儀式開始後15分位は緊張し、多少後悔もしていました。見上げると聖堂のあちこちにマリア様のイコンが沢山飾ってあります。そうだ気楽に母の居る実家に帰った心算で居ることに決めました。主教の行列や祭壇での祈祷に聖職者として参列していた金田さんが、ニコニコしながら傍に降りてきて説明してくれました。マリア様のお陰で気楽にしている私を見て安心していました。それでも祈祷の合間に、3回も来てくれました。面倒見の良い人だったのです。

1番目の写真は神田のニコライ堂です。2009年11月9日に撮った写真です。

2番目の写真は日本正教会の伝教師だった金田一豊さんです。
その後、何度かメールの交換がありました。しかしそれも途切れご無沙汰してしまいました。
それが2015年11月4日に次のようなメールを下さったのです。

正教会の金田です。
ご無沙汰しています。
お元気ですか。
数年前、ニコライ堂において伝教師(宣教師)をしていた金田です。
覚えていらっしゃいますか?
当時は、私の記事をブログのほうに載せていただいてことがあります。
思い出していただければ幸いです。

今回、久しぶりに連絡させていただきまたのは、私のことがクリスチャントゥデイという新聞に取り上げられたのでお知らせをさせて頂きたくてのことです。
現在は輔祭となり奉職しています。
下のリンクは按手の模様が記事になっています。
よかったら、見てみてください。
http://www.christiantoday.co.jp/articles/17454/20151029/deacon-yvan-kazutoyo-kaneda.htm

このクリスチャントゥデイという新聞の2015年10月29日の記事を見たら、日本正教会の伝教師だった金田一豊さんがウクライナ正教会(キエフ総主教庁)の聖職者に叙聖されたという記事でした。
輔祭は、正教会で主教、司祭に次ぐ神品(聖職者)です。
金田さんはウクライナ正教会の在日教会である「聖ユダミッション」で、初の日本人聖職者です。

3番目の写真はウクライナ正教会の輔祭の正装の金田一豊さんです。
金田一豊さんは日本ハリストス正教会の東京正教神学院で学び、聖ユダミッションでは輔祭に叙聖される前から、奉神礼で誦経したり、毎週の週報を日本語・英語・ウクライナ語の3カ国語で作ったり、日本語でカテキズムを教えるなど、中心的な役割を担ってきたのです。リディア夫人との間に娘が1人います。
このリディア夫人とその母親を私に金田さんは紹介して下さいました。お二方とも非常に美しい方だったと記憶しています。私は金田さんがウクライナ正教会の輔祭になったのはこの二人がウクライナ人だからだろうと勝手に推察しています。
それだけの話です。私のウクライナと細い糸のようなご縁とは金田一豊さんがウクライナ正教会の輔祭として活躍しているということです。

この記事をお読み下さいました
皆様にもイエス様の祝福がありますようにお祈り致します。シルベスター後藤和弘

「今日は 成城教会の山本量太郎司祭のミサに行った」

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今日は小金井教会ではなく、カトリック成城教会のミサに行きました。
成城教会の山本量太郎主任司祭が司式なさるミサに参加するためです。
山本神父さまは個人的にご縁の深い方です。尊敬している素晴らしい神父さまです。
神父さまは私共がカトリック立川教会で塚本金明神父様に洗礼を受けた時、代父をして下さった山本大二郎先生のご子息だったのです。当時はまだ神学生でした。
その後、関口教会で山本神父さまの叙階式に参列したことを鮮明に憶えています。
叙階式の後しばらくご無沙汰していましところ、2000年に突然私どもの小金井教会の主任司祭として来られたのです。
その時は本当に嬉しく、そして不思議なご縁に感動しました。
2000年から2010年迄の10年間、私共の小金井教会の主任司祭をして大変お世話になったのです。
イエスさまが傍にいるような感じになる説教をなさいます。起承転結の明快な感動深い説教です。そして私どもが神に愛されている、イエスさまに愛されていることを感じさせる力強い説教なのです。
2010年に小金井教会を去られたときは非常に淋しく感じたものです。
小金井教会の後、本部の関口教会の主任司祭を6年なさってから2016年の6月から成城教会に着任されました。今日お眼に掛かってとてもお元気そうなので嬉しく感じました。

今日は成城教会の山本神父が司式するミサに出席して、恩人の塚本金明神父様や、代父をして下さった山本大二郎先生の為にも神に祈って来ました。
人生における人間の絆の有難さを想います。
そして神様の愛を今日も強く感じました。
写真は今日のカトリック成城教会のミサの風景です。








日本民族の誇り、聖徳太子と弘法大師の虚構

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世界中にはいろいろな民族が住んでいます。そしてぞれぞれの民族文化を誇りに思っています。各民族には誇りにしている偉人や聖人もいます。
さて日本民族が誇りに思う過去の人は誰でしょう?信長や秀吉でしょうか?
沢山いますが、今日は聖徳太子とと弘法大師を取り上げてみます。

2018年10月12日に「聖徳太子はいなかった!教科書の大間違い!」という記事を掲載しました。そうしたら聖徳太子はいなかったという歴史学者の学説は間違っているという趣旨の反論を沢山頂きました。
反論を下さった方々は聖徳太子を尊敬し、民族の誇りと信じているようです。
自分が尊敬している人をそんなに簡単に虚構だったと言われたら誰でも不愉快に思います。怒ります。その感情に寄り添いながら、もう一度、教科書のどの部分が虚偽であったか明快に説明したいと思います。
どうぞ聖徳太子を尊敬し、民族の誇りと信じている方々も心静かに以下をお読みください。

(1)聖徳太子という尊称は「厩戸皇子」という名前で呼ばれていた人の死後50年たってから天武天皇が送った尊称です。
聖徳太子のモデルになった人物が実在していたのですで「聖徳太子は居た」と信じたい人が居ても良いのです。

(2)しかし昔の教科書に書いてあった「聖徳太子の数々の偉業」は殆ど全て事実ではないのです。
厩戸王(574~622)は飛鳥時代の政治家です。用明天皇の皇子として誕生しました。
しかし「憲法十七条」や「冠位十二階」、「遣隋使の派遣」などを成し遂げた偉大な人物ではなかったのです。
例えば小野妹子で有名な607年の遣隋使の派遣はが最初ではありません。日本側の記録にはありませんが、中国側にはっきりと600年に遣隋使が訪れたときの詳細な記録が残されているのです。その上、遣隋使に関しても、厩戸王の主体的関与の証拠は見つかっていないのです。

(3)昔の教科書の間違っている部分
1、 冠位十二階は「多くの人物」の手による合作でした。厩戸王の部分的な関与があったかも知れません。
2、憲法十七条は厩戸王よりも後の時代に完成しているのです。厩戸王が作ったという記述は間違いです。
3、遣隋使は小野妹子より以前から派遣されていたのです。厩戸王が始めたという記述は間違いです。
4、その他、厩戸王自身の実績とは直接関係ない功績が書きてある昔の教科書は間違いであったのです。
例えば、「一度に民衆十人の訴えをお聞きになって、それぞれに明快な判断をお下しになった」と我々が教わってきた事は常識的に虚偽に決まっています。

結論は、聖徳太子のモデルになった政治家は実在してたが、 冠位十二階や憲法十七条や遣隋使の派遣などを行ってはいないのです。これは明々白々です。
さらに驚くことは従来、紙幣に使われたいた聖徳太子の肖像画は別人と判明したのです。
http://historivia.com/cat3/prince_shotoku/3442/

さて聖徳太子を聖人としている人々も沢山います。太子堂というお堂に聖徳太子を祀り信仰する太子信仰の宗教も古くからありました。それを信じている人々にとっては昔の教科書どうり永遠に信じていれば良いのです。
私はそれを非難する意図は皆無です。
何故なら宗教には奇跡物語が非常に重要だからです。

一つの例だけを上げます。弘法大師信仰の場合です。

弘法大師は、空海とも呼ばれ、高野山の真言宗を開いた方です。民衆の救済を非常に大切にし、現在風に言えば民衆に対する愛が溢れていた方です。
弘法大師さまは諸国を巡って人々の苦悩を解決し、農業用の溜池を作り、文化の恩恵を受けない大衆のために、綜芸種智院という学校を開かれ、民衆の教育につとめたのです。
私は昔から温泉が好きで、数多くの温泉を訪れました。そうすると幾つかの温泉では、弘法大師が杖を突いたら湯が出て来たと言うのです。それは不思議な奇蹟です。嘘に決まっています。
弘法大師の真言宗では護摩を焚いたり加持祈祷をします。源氏物語には出産や病気の時、祈祷専門の僧を呼んで安産や病気平癒を祈祷したと書いてあります。
しかし病気など直る筈がありません。
現在、空海の始めた真言宗の信徒は、高野山真言宗:548万人、真言宗智山派:153万人、真言宗豊山派:120万人、真言宗醍醐派:56万人、合計約900万人もいるのです。現在、全国にはお大師さまを祀ったお寺が沢山あります。
この事実は宗教の信仰には奇蹟が重要な役割をしていることを明確に示しているのです。
ですから聖徳太子を信仰の対象にする場合は昔の教科書を真実として信じて良いのです。
私は聖徳太子を信仰の対象にはしていませんが尊敬していました。その人は実は居なかったということはショックでした。残念です。

今日の挿し絵代わりの写真は秋の野に咲く花々の写真です。近所で撮りました。


それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)









親の墓が遠くにあり墓参りの出来ない方々のために

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皆様のご両親のお墓や先祖の墓は遠方でしょうか?
今日は遠方で毎年は墓参りに行けない方々の為に、墓参りに代わる方法をご説明したいと思います。
その方法は簡単です。親や先祖のお墓のあるお寺の宗派と同じ近くのお寺に参るのです。
そしてそのお寺のご本尊さまに親や先祖の冥福をお祈りするのです。本堂の前の賽銭箱の少し供養料を入れます。後は境内を静かに歩きながら故人の思い出を偲びます。
昨日の午後、私どもも墓参りの代わりに近くの府中市にある曹洞宗の高安寺の寺参りに行って来ました。
そのことを写真に従ってご説明いたします。

私の両親の墓は仙台市にあります。祖父の墓は兵庫県にあります。遠くにあるので墓参りが困難です。
祖父は兵庫県の曹洞宗の正林寺の住職でした。父も大学の定年後、島根県の曹洞宗の宗安寺の住職になりました。弟も大学定年後、宗安寺の住職になりました。そんな関係で両親や祖父の墓参りに行けない時は近くの曹洞宗の高安寺にお参りに行きます。それは年中行事のようになっています。
私どもの寺参りの様子を昨日撮って来た写真に従ってご説明します。

1番目の写真は府中市の高安寺の参道にある釈迦牟尼仏です。両手を合わせて拝みます。

2番目の写真は高安寺の本堂の前にある楼門です。明治5年(1872年)に建てられ、左右に仁王像を配する山門で東京都選定歴史的建造物です。

3番目の写真は楼門と本堂の間に立っている曹洞宗を始めた道元さまの像です。このお寺の住職さんの偉いところは道元さまへ常に花を供えていることです。何時行っても造花でない美しい活きた花を供えています。手を合わせて拝みます。

4番目の写真は本堂の写真です。現在の本堂は215年前の享和3年(1803年)に再建したものです。本堂正面には「等持院」の扁額がありますが、これは開基となった足利尊氏の法名の一部です。本堂も東京都選定歴史的建造物になっています。

5番目の写真は本堂の中の須弥壇の写真です。曹洞宗のお寺のご本尊様は釈迦牟尼仏となっています。
このご本尊に親、祖父母、先祖の冥福を祈って来ました。

6番目の写真は無縁佛の墓を集めた集合墓です。無縁仏の墓とは江戸時代の墓が多く、子孫がもう墓参りに来なくなって縁が切れてしまった墓です。古いお寺には必ず無縁佛の墓を集めた集合墓があります。私は必ず無縁仏の墓を拝みます。住職さんが無縁になった墓も大切にしているのが嬉しいのです。自分の親や先祖の墓もいずれはこの世と縁が切れて無縁の墓になるのです。

7番目の写真は高安寺の墓地の風景です。お寺に参ると必ず墓地を静かに散歩しながら故人を偲びます。昨日は墓参りに来ていた2組の人に会いました。墓参りに来て偉いなあと考えていましたら挨拶をしてくれました。
これで私の墓参りの代わりの寺参りの終わりです。
ご両親のお墓や先祖の墓が遠方過ぎて墓参りになかなか行けない方々のご参考になれば嬉しく存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===高安寺の歴史===========================
この高安寺の特徴は時代、地代の戦の軍事拠点として使われてきた歴史にあります。
以下に、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%AE%89%E5%AF%BA からの抜粋をお送りします。
・・・このお寺は平安時代に藤原秀郷が武蔵国府近郊に置いた居館を市川山見性寺に改めたのが始まりとされる。平家滅亡後に鎌倉入りを許されなかった源義経もこの寺に立ち寄って武蔵坊弁慶が大般若経を書き写したと言われている。ここは武蔵国府の近くにあり国衙荒廃後にはここが重要拠点と見なされるようになり、南北朝時代には、新田義貞が分倍河原の合戦で本陣を構えている。これら一連の戦乱によって寺が炎上するなどして見性寺は荒廃してしまった。

そこで暦応年間(北朝、1340年前後)に入ると、足利尊氏が建長寺の大徹禅師を開山として招き臨済宗の禅寺に改めて再興した。この際、尊氏が進めていた安国寺の一つとしてこの寺を位置づけ、名称も尊氏の旧名(高氏)から龍門山高安護国禅寺と命名された。これによって高安寺は室町幕府の保護を手厚く受けて、一時は塔頭10・末寺75と称されるほどの大寺院となった。

だが、それは同時に室町幕府足利氏、あるいはその指揮下にあるとされた鎌倉公方の影響力を深く受ける事となり、軍事拠点としての色彩を帯びる事となった。永徳元年/弘和元年(1381年)には小山義政討伐に向かう第2代鎌倉公方足利氏満が、続いて応永6年(1399年)には応永の乱に呼応して将軍足利義満打倒を図ろうとした第3代鎌倉公方足利満兼が、それぞれ高安寺に陣を置いている。

この状況は第4代鎌倉公方足利持氏の代にも変わらず、応永30年(1423年)に常陸国の小栗満重討伐の帰途に高安寺に入りここに仮の政庁を置いた。だが、翌年には失火による焼失を招いてしまい、再建を行う事になった。そして永享11年(1438年)には関東管領上杉憲実討伐のために持氏が再び高安寺に陣を構えた。ところが、持氏の反幕府的姿勢に業を煮やしていた当時の将軍足利義教が持氏討伐を命じた事を知り急遽鎌倉に引き揚げる事になると、時は既に遅く鎌倉は陥落して持氏は滅亡する事になった(永享の乱)。

逆に康正元年(1455年)に行われた再度の分倍河原の合戦(享徳の乱の緒戦)では、第5代鎌倉公方足利成氏が籠もる高安寺に攻め寄せた上杉軍を成氏が打ち破っている。

その後もその地政学的条件から上杉氏・後北条氏などによって軍事的に利用される事も多く、度々の戦乱で衰退・荒廃した。江戸時代初期には海禅寺(現在の青梅市)の末寺に入り、宗派も曹洞宗と改めた。

現在の本堂は寛永元年(1624年)に火災に遭い消失したものを享和3年(1803年)に再建したもの。本堂正面には「等持院」の扁額があり、これは開基となった足利尊氏の法嗣名である。明治5年(1872年)に建てられ左右に仁王像を配する山門、安政3年(1856年)に建てられた鐘楼と共に東京都選定歴史的建造物に選定されている。・・・

それにしても昔は国内で何度も戦があったものですね。お寺は大きい建物だので多くの武士が寝泊まり出来たので何度も利用されたのです。
日本に内戦が無くなり平和な時代が続くようになって本当に幸せです。

今日の実に楽しいニュースと暗いニュース

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今日は実に楽しいニュースと暗いニュースを一つずつご紹介します。
皆様は小学校5年生(11歳)福地啓介君がセロゲームの世界チャンピオンになったという微笑ましいニュースをご存知と思います。
それまでの最年少チャンピオンは1982年に15歳でチャンピオンになった谷田邦彦君でした。彼はその後、大型旅客機の機長になって働いていました。
この谷田邦彦さんが操縦する旅客機に新しいチャンピオンの福地啓介君が乗ってヨーロッパから帰って来たのです。
その時、谷田邦彦機長がアナンスで新しいチャンピオンの福地啓介君がこの飛行機に乗っていることを告げたのです。そうして機長自身は1982年以来、世界の最年少チャンピオンだったことも報告したのです。
何と微笑ましいニュースではありませんか!  以下にこのニュースを示します。

「オセロ優勝者に前記録保持者の機長がサプライズ」
2018年10月16日、https://www.yomiuri.co.jp/national/20181016-OYT1T50090.html
 チェコで開催された第42回世界オセロ選手権で最年少優勝記録を更新した小学5年福地啓介君(11)に、帰国便の全日本空輸(ANA)がサプライズ祝福し、話題になっている。
 福地君の帰路の経由地のドイツ・デュッセルドルフ空港で、「オセロの世界チャンピオンに、この飛行機をご利用いただいています」との機内アナウンスが流れた。
声の主は機長の谷田邦彦さん(51)。
谷田さんは、こう続けた。「以前の記録は私自身が1982年に打ち立てた15歳という記録。今回、大幅な更新。快挙でございます」
 谷田さんは1982年の第6回世界大会で15歳で優勝。これまでの記録保持者だった。
福地さんは12日までチェコの首都プラハで開かれていた第42回大会で優勝し、この便で帰国の途にあった。
一般社団法人日本オセロ連盟によると、1982年の第6回大会の優勝者は15歳の谷田邦彦さんだった。
ANAの広報担当者は「福地君と日本選手団が乗るのを知り、前のチャンピオンの谷田機長を配置しました。アナウンスは本人の機転」と話した。機内の様子はツイッター上で紹介され、「いい瞬間に立ち会う事ができました」といった乗客らの反響が広がっている。

1番目の写真は小学5年福地啓介君(11歳)と51歳の機長の谷田邦彦さんの写真です。
それにしても何故日本の少年がオセロに強いのでしょうか?日本には昔からハサミ将棋があるからでしょうか?
オセロゲームは日本人が考え出したゲームだからでしょうか。
余談ながらオセロをすると妻が勝ってしまうので私は悔しいのでハサミ将棋もオセロもしないことにしています。

次のニュースは暗く奥深いニュースです。
絶対王政のサウジアラビアの反体制記者がトルコにあるサウジアラビアの大使館内で殺されたというニュースです。これはイスラム教国には人権も報道の自由も無いことを公に示した重大なニュースです。
欧米のマスコミは大騒ぎをしていますが、例によって人権意識の弱い日本では詳しくは報道されていません。

以下の報道で注目すべきことが二つあります。
1、サウジアラビア当局者の一団が館内に入った約1時間後に、トルコの捜査員たちが中に入ったのです。
これはサウジアラビア当局者が証拠物件を持ち去ったことを暗示しています。
2、トランプ大統領はサウジアラビアのサルマン国王をかばい、サウジアラビア人記者は「行きずりの殺し屋」に殺害されたのではないかと述べた というご粗末な発表をしていることです。サウジアラビアの大使館内へ「行きずりの殺し屋」がどうやって入れたのでしょうか?
ご粗末な発表です。日本のマスコミはこの2点を詳しく報道していません。

「サウジ、記者死亡認める準備か=トルコの総領事館捜索」
https://www.jiji.com/jc/article?k=2018101600829&g=int
 CNNが複数の関係筋の話として報じたところによれば、サウジ当局はカショギ氏をトルコ国外に連れ去ろうとしていた。総領事館内で誤った形での尋問が行われ、死亡させてしまったという趣旨の報告書を準備しているという。
ウォール・ストリート・ジャーナル紙も「サウジは誤って殺害したという声明を出すことを検討している」と報じた。
 トルコ警察は15日から16日にかけ、総領事館の捜索を行った。
ロイター通信によると、エルドアン大統領は16日、捜索では有毒物質などを探したものの「上から塗装され、消されてしまっていた」と述べた。今後、領事公邸でも捜索が行われるという。

2番目の写真は15日、トルコ・イスタンブールのサウジアラビア総領事館に到着したトルコ捜査当局(AFP時事)の一行でし。トルコ捜査当局はサウジアラビアの捜査員が入った1時間の後に入館が許されたのです。

 カショギ氏は、ワシントン・ポスト紙のコラムニストとしてサウジ政府を批判してきた。ポスト紙は、サウジのムハンマド皇太子がカショギ氏の拘束作戦を命じていたと報じていた。
 (2018/10/16)

もう一つ関連の報道を示します。

「サウジ記者「殺害」疑惑、トランプ氏は「行きずりの殺し屋」のせいではないかと」
2018年10月16日、https://www.bbc.com/japanese/45872374

トランプ米大統領は、失踪のサウジアラビア人記者は「行きずりの殺し屋」に殺害されたのではないかと述べた
サウジアラビア政府に批判的だった同国の著名記者が殺害されたのではないかという問題で、トランプ米大統領は15日、「行きずりの殺し屋」のせいではないかと発言した。
サウジアラビアのサルマン国王と電話会談後に記者団を前にしたトランプ大統領は、カショジ記者がなぜ行方不明になったかについて国王はまったく何も知らないと断言したことを明らかにした。
トランプ大統領は記者団の質問に答えるなか、サルマン国王は「非常に強く断固として」何も知らないことを強調したと述べた。
「どうやら行きずりの殺し屋じゃないかという感じが、僕にはした。誰にも分からないよ」と大統領は述べたが、発言の根拠は示さなかった。
サウジ当局の当初の目的はカショジ記者の拉致だったが、尋問中に死なせてしまったのだという。
15日午後にはトルコの鑑識捜査員がサウジアラビア総領事館の中に入った。
カショジ記者が失踪して以来、トルコの捜査員が総領事館内に入るのは初めて。サウジアラビア当局者の一団が館内に入った約1時間後に、トルコの捜査員たちが中に入った。


3番目の写真はサウジアラビアのメッカのカアバ神殿です。
サウジアラビアは国際人権規約(自由権、社会権)に批准しておらず、厳格にシャリーアを執行する姿勢に対して、欧米諸国から批判が何度もなされて来ました。
しかし、批判国に対する石油輸出停止などの経済制裁がたびたび実行されているため、これらの報復を恐れて国交断絶や経済制裁などを発動する先進国は皆無となっているのです。
また中東有数の親米国家であることから、アメリカ合衆国は、アメリカ中央軍の部隊を駐留させて中東の反米諸国を牽制している事情もあって、トランプ大統領はサルマン国王をかばうのです。奥深い困った問題なのです。

兎に角、イスラム教の国々での人権侵害は憂慮に堪えません。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

一度、絶滅した美しい朱鷺がよみがえり佐渡に舞う

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朱鷺(トキ)は何とも言えない薄紅色の羽で空を舞う非常に美しい鳥です。羽の内側が美しい薄紅色なのです。そして眼の回りは濃い紅色です。
日本では2003年に絶滅しましたが2007年に中国から5羽提供され佐渡で飼育し、野山に放鳥されました。
それが増えて3013年には211羽が佐渡の野山や田圃の上の空を舞うようになりました。その一部は海を渡って本州にも飛んできていると言われています。
日本では昔から「朱鷺色」という羽の薄紅色の呼び名があったくらい日本全国に普通に飛んでいた鳥だったのです。
今日のTV報道によると中国からトキ2羽が再び、11年ぶりに提供されたという明るいニュースがあります。
そこで早速、朱鷺の美しい姿の写真を3枚示しましょう。





この3枚の写真は伊藤さんという方が撮ったもので、写真の出典は、https://sado-biyori.com/blog/photorepo/archives/58 です。
この写真の下に伊藤さんは「トキとの共生ルール」を書いています。
伊藤さんの野生の朱鷺に対する優しい愛が込められているようなので転載します。
1、やさしく静かに見守りましょう。
トキを驚かせないように、なるべく音をたてずに静かに見守りましょう。
トキを見るときは、双眼鏡などで遠くから静かに観察しましょう。また、車から降りずに観察しましょう。
2、トキに餌付けをしないようにしましょう。
トキは野生生物です。エサを与えるのではなく、エサが豊富な自然を再生していきましょう。
3、繁殖期間はトキの巣に近づかないようにしましょう。
3月から6月にかけてはトキの大事な繁殖期です。この時期に人が近づくと、巣づくりや子育てをやめてしまうことがありますので、できるだけ人の姿を見せないことが大切です。
観察や撮影などでトキの巣には近づかないようにしましょう。
4、トキを観察する時は地域に迷惑をかけないようにしましょう。
トキは集落周辺の水田、草地、沢などでエサをとり、木の上に巣をつくります。観察する時に無断で私有地や農地などに立ち入らないようにしましょう。
また、農道や林道に駐車して通行の妨げにならないようにしましょう。

今日の私の記事はここで止めても良いのですが、しかし朱鷺の絶滅の様子をご紹介したいと思います。
そうすると皆様が一層、朱鷺を大切の思うようになると存じます。
次は、https://ja.wikipedia.org/wiki/トキ からの抜粋です。

朱鷺は昔は広い範囲に普通に飛んでいた鳥でした。
しかしロシア、韓国、北朝鮮、日本、台湾では絶滅してしまったのです。
かつては北海道・本州・伊豆諸島・佐渡島・四国・九州といった日本各地にいました。
そしてロシア極東、朝鮮半島、台湾、中国の全域と東アジアの広い範囲にわたって生息していたのです。

しかし、いずれの国でも乱獲や開発によって19世紀から20世紀にかけて激減し、朝鮮半島では1978年の板門店、ロシアでは1981年のウスリー川を最後に観察されておらず、日本では2003年に最後の日本産トキ「キン」が死亡したことにより完全に絶滅しました。
野生では中国に997羽(2010年現在)が生息しているほか、日本の佐渡島において2008年秋から2012年秋までに人工繁殖のトキ計107羽が放鳥されています。
飼育した朱鷺は、中国に620羽(2010年現在)、日本に211羽(2013年現在)、韓国に13羽(2011年現在)がいます。
かつて日本に生息していたトキは留鳥で、その一部は冬は北日本から、太平洋側へと移動する漂鳥もいたのです。一方、ロシアや中国北部、朝鮮半島など寒冷地に生息していたトキは渡りを行っていました。

一度は絶滅した純白な姿の朱鷺をよみがえらせ、野山へ放す努力にはロマンがあります。人間と野鳥との美しい交流です。
今日の心暖まるニュースを末尾の参考資料につけましたのでご覧下さい。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料========================
「中国からトキ2羽 11年ぶりに提供」、2018年10月17日
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181017/k10011675101000.html

繁殖や野生復帰を進めるため、中国から11年ぶりに提供されることになったトキ2羽が17日、成田空港に到着し、日本側に引き渡されました。
引き渡されたのは、中国の陝西省にある施設で飼育されてきたいずれも2歳の、オスの「楼楼(ろうろう)」とメスの「関関(ぐわんぐわん)」です。
2羽のトキは、17日午後2時前、成田空港に到着すると、箱に入れられたまま航空機の外に運び出され、その後、検疫を受けました。
空港内では、中国と日本の関係者が出席して引き渡しの署名式が行われ、環境省の勝俣孝明政務官が「中国側の関係機関の皆様のご好意に深く感謝申し上げます。今後トキの野生復帰がさらに進むことを期待します」とあいさつしました。
これに対し、中国の国家林業草原局の李春良副局長が「両国のトキの保護協力がさらなる成果を収めるように期待するとともに、トキが両国の末永い友好に貢献できるよう心から願っています」と述べました。
トキは、17日夜には佐渡市にある佐渡トキ保護センターに到着する予定で、自然に近い環境で飼育されることになっています。
日本は野生のトキが絶滅したあと、これまで中国から5羽のトキの提供を受けましたが、両国の関係悪化に伴って2007年を最後に途絶え、今回の提供は11年ぶりになります。

野原の美しいセイダカアワダチソウの花の写真を撮って来ました

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今日は野原に一面に咲いているセイダカアワダチソウの花の写真を撮って来ました。
この花は外来植物で一時は休耕田に広がり問題視されましたが近年は勢いが無くなり大切に思われています。
日本に古来からあるアキノキリンソウによく似ていて、その代わりの役目として人々を楽しませてくれています。
稲城市の崖下の野原で撮って来た写真をお楽しみ下さい。









この北米のセイダカアワダチソウは明治時代末期に日本国内へ園芸目的で持ち込まれました。
「昭和の初めには既に帰化が知られている」との記述が牧野日本植物図鑑にあるそうです。
この花が目立って広がったのは第二次世界大戦後で、アメリカ軍の輸入物資に付いていた種子によるものと言われています。
昭和40年代以降には全国、特に関東以西から九州まで一時大繁殖し問題になったこともあります。
しかし近年は勢いが無くなり野原に群生して咲いている場所を探すのは容易ではありません。私は数年前から稲城市の崖下の野原に美しく咲き乱れる風景を毎年楽しんで来ました。
今日撮って来た写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。

サウジ記者惨殺で大騒ぎ、日本にとっては対岸の火事

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サウジアラビアの反体制ジャーナリストのカショギ氏がムハンマド皇太子関係者に惨殺された事件でアメリカとヨーロッパは大騒ぎをしています。その理由は次の3つと考えられます。

(1)昨年、ムハンマドが皇太子になった後、カショギ記者はアメリカへ亡命し、ワシントン・ポスト紙の記者になりました。その記者はまだアメリカ国籍にはなっていませんが、アメリカ人は自分達を頼って来た記者を惨殺されたので感情的に怒って大騒ぎをしています。惨殺現場はトルコにあるサウジの大使館内だったのです。

(2)トランプ大統領はこの事件に関して、アメリカ軍の基地のある親米国家のサウジアラビア王国を援護する発言をしています。これに対してトランプ大統領に敵対するアメリカのマスコミはここぞとばかりトランプ大統領を攻撃する報道を繰り広げませ。反トランプ派が大騒ぎしています。

(3)親米国家、サウジアラビア王国はアメリカの敵のイランに厳しい政策を実行して来ました。またアメリカが支援しているイスラエルを助けるような外交路線をとって来ました。
この理由でサウジアラビア王国問題はアメリカの中東での立場を左右する重大問題なのです。いろいろな意見がマスコミに出て来るのは当然です。

対岸の火事として欧米の報道ぶりを見ていると、いささか感情的になり過ぎているような感じがします。
ムハンマド皇太子を攻撃するカショギ記者をうるさいから殺してしまったという単純な事件です。
勿論、絶対にあってはいけない事件です。この事件のせいでムハンマド皇太子の国際的な信用は酷く下落しました。ムハンマド皇太子は世界中からサウジへ投資を呼び込み、サウジを先端工業国にしようとしていました。
その政策が挫折してしまったのです。その為の10月下旬の予定されていた投資のための国際会議の出席者がいなくなったのです。
日本からは孫正義さんが出席し、2兆円ほどの投資をすると言われていましたが、孫正義さんは欠席すると発表しました。

さて中東では常に血なまぐさい事件が次々と起こります。日本人記者の後藤健二さんもイスラム国によって殺されました。そのイスラム国もアメリカとクルド族によって滅ぼされました。このように中東では何が起きるか誰も分からいのです。
そこでもう一度、中東の地図を見てみましょう。見る時、親米国家とプーチンのロシアと友好関係にある国と色分けして地図を見ると分かり易いのです。

この地図の出典は、http://www.i-ise.com/jp/column/salon/201501.html です。 
この地図で広大な領土のあるのは親ロのイランと親米のサウジアラビア王国です。
その間にアメリカが必死で石油の利権を守っている湾岸の親米の4国が挟まっています。クエイト、バーレン、カタールとアラブ首長国連合(UAE)です。
そして地中海よりに現在もロシアの軍事基地がある戦乱の続いているシリアがあります。
その南隣が親米のレバノンとヨルダン王国です。
そしてその西の地中海に面して紛争の絶えない親米のイスラエルと親ロのパレスチナ自治区があります。

このように中東はアメリカとロシアの代理戦争を行っている上にシーア派とスンニ派というイスラム教の宗派の勢力争いも重なって事情を一層複雑にしています。
この事情を踏まえて今回の事件を振り返ってみましょう。
そうすると今回の事件はムハンマド皇太子の激情が起こした個人的な犯罪という性格が強いようです。
ムハンマド皇太子は常に白黒のはっきりした政策を好んでいました。
彼の外交では、アメリカの宿敵イランの最高指導者ハメネイ師を「新たなヒトラーだ」と批判してアメリカを喜ばせましたが中東では物議を醸していました。
また昨年のカタールとの断交や2015年のイエメン軍事侵攻も、皇太子の意向が反映された政策だといわれています。
ムハンマド皇太子が直接、殺害を指示したと疑い、その詳細を伝える報道も相次いでいるのです。
ムハンマド皇太子は国内改革の象徴的存在である半面、敵対する国や人物を容赦なく打ちのめしてきた皇太子の激しい気性が今回の事件の原因なのです。
この皇太子の欧米の評価は厳しくなりました。
 「崖っぷちに追い込まれる皇太子」(米誌ニューヨーカー)、「輝き失う皇太子」(英紙フィナンシャル・タイムズ)。海外の有力メディアではこうした見出しで連日、多くの報道がなされているのです。

このような騒ぎに対して日本人はどのような態度を示すべきでしょうか?
私は次のことを言うだけで、それ以上のことは沈黙を守ったほうが良いと思います。
「カショギ記者を惨殺し、言論の自由を奪ったムハンマド皇太子は厳しく糾弾されるべきである」
さて皆様は今回の事件に対してどのようなご意見をお持ちでしょうか?

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日は晩秋のコスモスの花の写真を撮りに行った

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今日は朝から暗い雲が覆い寒い日です。最高気温も18度と低く如何にも晩秋のようです。
曇り日の晩秋のコスモスの花も淋しそうで風情があるものです。
午後から三鷹市の花と緑の広場に行きました。色とりどりのコスモスが一面に咲いています。
そんな写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。








日本人は欧米人と共通の価値観を持っていない

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昨日、「サウジ記者惨殺で大騒ぎ、日本にとっては対岸の火事」という記事を掲載しました。
私が主張したかったことは、この事件を対岸の火事のように冷ややかに見ている日本人には問題があるという主張でした。
日本人は欧米人と共通の価値観を持っていないということです。幾つかの分野で共通の価値観を持っていないということです。
日本人が欧米人の感じ方を深く理解していないのが悲しいのです。
しかし多くの日本人はそれが当然だと考えています。そんな欧米人の感情は放っておけと感じているのです。日本人には関係ないと思っているのです。
こういう態度には良いこともあります。今回のような中東問題に立ち入らない日本をイスラム教の諸国は尊敬し友好的になります。中東の国々は大体において親日的なのはこれも一つの理由になっています。

しかし明治維新以来の日本と欧米諸国の関係を考えると、日本はもう少し欧米人の感じ方や考え方を理解すべきではないでしょうか?
何時も理路整然としたコメントを下さる中村 裕一さんが私の感じ方に反対して次のようなコメントを投稿してきました。
・・・ムハンマド皇太子のカショギ氏殺害の関与が立証された訳でもなく、関与が既定の事実であることを前提に所論を展開しない方が宜しいでしょう。金正男氏暗殺に関わる北鮮首脳の関与に関して、その後国際世論はどうなったでしょうか。南北朝鮮宥和に大拍手でしょうか。北鮮は国民の言論の自由を奪っていないのでしょうか。北鮮は厳しく糾弾されないのでしょうか。一国の政治家ならずとも、我々は無意識にダブルスタンダードで国際事象をみているのです。・・・

コメントの内容は何時ものように正論です。しかし何故欧米人がサウジの反体制記者の殺戮を大騒ぎしているのか理解が行き届いていないようです。欧米人の感情が理解されていないのです。
極論すれば欧米人と共通の価値観を持っていないコメントです。
勿論これは言い過ぎです。中村 裕一さんはいつも人類全てに共通する価値観を追求しています。
それでイスラム教の人々を支援したくてこのようなコメントをくれたのです。しかし今回のカショギ記者の殺害に限定すれば上記のコメントはいささか的外れす。

このコメントにすぐに反応してフランス在住の元日本人女性のMotoko Boutdumondeさんから以下のようなコメントを頂きました。
・・・ 確かに殺害は立証されていません。トルコが詳しい情報を得ているらしいのですが、それを公表するとトルコにあるサウジアラビア大使館をスパイしていることを認めることになります。それをエルドアン大統領がどうするかにかかっています。
もっとも19世紀初頭からトルコ(オスマン帝国でしたが)とサウジアラビアは宿敵になっていますので、トルコの言い分が絶対に正しいと言い切ることは出来ません。
しかし他の国々(欧米諸国)がカショギ氏のサウジアラビア大使館での殺害という大事件を何の証拠もなしに鵜呑みにするとは考えられないのです。

この事件は非常に大きな問題だと思います。こちらフランスではテレビのニュースなどで大きく取り上げられています。
ムハンマド皇太子は昨年からスイスラム強硬派の粛清とか、女性が車を運転したり一人で催し物や映画に行かれるようにしたのです。
それでフランス人はこれからはサウジアラビアも自由な国になると明るい気持ちになりました。
それが今度の事件で全くの期待はずれだったことが分かったのです。
最近ではムハンマド皇太子が女性解放運動のリーダーの女性たちを投獄したり、罰したりしています。
また、カタール国との間に運河を掘って孤立させようとしています。
レバノンの首相を誘拐して強制的に辞任させもしました。挙げ句の果てには、今回カショギ氏を殺害したのです。
フランス人はムハンマド皇太子に120%騙されていた感じを受けております。
現在の皇太子ではなく別の王子が皇太子になるのではというような説もあります。・・・

尚今朝の新聞ではカショギ記者殺害の15人の実行部隊はサウジからトルコへ自家用機で乗り付け、サウジの大使館内で数分間で殺したことを明らかにしています。
その15人の実行犯のリーダーと他4人はムハンマド皇太子の側近の護衛官とも明らかになっているのです。
ムハンマド皇太子が関与していなかったという言い訳は正しいでしょうか?

以上は日本人が欧米人と共通の価値観を持っていない実例の一つに過ぎません。
共通の価値観とは感情の問題も含めるべきです。
日本人が欧米人に反発するのはある程度自然な感情ですが、彼等の感情も理解するように努力すべきと私が考えています。

今日の挿し絵代わりの写真は野川公園に毎年10月に咲くサクラの花と三鷹市の花と緑の広場の花々の写真です。昨日撮りました。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)








秋の青空に誘われて奥多摩湖まで行ってしまいました

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昨日は秋の青空が広がっていました。
つい青空に誘われて奥多摩にドライブに行きました。
樹々はまだ紅葉していませんがカッパー色になって秋の山々の美しい風景です。
鳩ノ巣くらいで帰って来るつもりでしたが、秋の色の山々にうながされて奥多摩湖まで行ってしまいました。

ずっと晴れていましたが奥多摩湖の上だけは暗い雲が覆っています。奥多摩湖だけ晩秋の風景になっていました。
そんな奥多摩湖の写真5枚のと続いて2枚の御岳駅の近くの多摩川の風景写真をお送りいたします。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)














===参考資料=========================
奥多摩湖とは、https://ja.wikipedia.org/wiki/奥多摩湖

1957年(昭和32年)多摩川を小河内ダム(おごうちダム)によって堰き止めて造られた。竣工当時、水道専用貯水池としては世界最大規模の貯水池であった。現在も水道専用貯水池としては日本最大級を誇る。現在、東京都の水源は利根川水系を主としているが、渇水時の水瓶として極めて重要な役割を担っている。また、東京都交通局の発電施設(多摩川第一発電所)も併設されており、発電された電気は東京電力へ売却され、奥多摩町・青梅市などの多摩地区に電力を供給している。
湖畔には様々な見どころ・観光施設があり、首都圏のオアシスとしても親しまれている。

ダム建設にあたり、旧:小河内村と山梨県丹波山村及び小菅村の945世帯約6,000人が移転を余儀なくされた。中でも旧:小河内村は、その大部分が水没した。移住先の一つに山梨県北巨摩郡高根町(現:北杜市)近辺があり、彼らはその後小海線清里駅(清里高原)周辺に再移住し、清里高原における農業や畜産、観光業の発展に大きく寄与した。
工事殉難者慰霊碑
建設中に東京都職員や建設会社社員、下請作業員ら87名が殉職し、現在では湖畔に慰霊碑が建てられている。

今日のカトリック小金井教会のミサの様子

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今日はイエズス会の竹内修一神父さまが司式して下さいました。主任司祭の加藤神父さまが補佐役をなさって下さいました。
カトリック小金井教会では毎日ミサがありますが、日曜日は午前10時から約1時間の主日のミサがあります。毎回、150人から180人の参加者がいます。
洗礼を受けていない人々も沢山参加していますし、見学だけの人もいます。教会では誰でも歓迎しています。
カトリック教会の全世界のミサの式次第は同じです。その日読む聖書の個所も同じです。
ここに今日のカトリック小金井教会のミサの様子を示す目的は、忙しくて教会に行けなかった方々のお役にたてるためです。ミサに行きたくても高齢のため行けない方々のためです。
そしてキリスト教に関係の無い方々にも少しキリスト教を知って頂きたいのです。
それでは撮って来た写真に従って今日のカトリック小金井教会のミサの様子をご報告いたします。

1番目の写真は主任司祭の加藤神父さまが福音書を朗読している場面です。今日の朗読はマルコによる福音の10章の35から45まででした。尚、ミサの式次第は、http://ubecat.jp/missa/ に出ていますので、ご覧ください。

2番目の写真はイエズス会の竹内修一神父さまが説教している場面です。
竹内修一神父さまは上智大学キリスト教文化研究所所長だけあって知的で明快な説教をします。静かに話されるので押し付けがましくないのです。

3番目の写真は竹内神父さまが、「みなさん、このささげものを、全能の神である父が受け入れてくださるように祈りましょう」と言いながら祈っている場面です。

4番目の写真は竹内神父さまがパンと葡萄酒を本物のイエス様の肉と血に聖変化するように祈っている場面です。
「まことにとうとくすべての聖性の源である父よ、いま聖霊によってこの供えものを尊いものにしてください。わたしたちのために主イエス・キリストの御体と御血になりますように。」

5番目の写真は聖変化したパンを「イエスの体」と言いながら信者一人一人に手渡している場面です。

実際の式次第はもっと複雑ですが、主要な部分だけを簡略に説明すると以上のようになります。

カトリック教会に登録している信者は全国で44万人ほどいます。
詳しくは、https://www.cbcj.catholic.jp/wp-content/uploads/2018/07/statistics2017.pdf に掲載されています。

しかし教会のミサは卒業したと言ってミサへ出てこない方もいます。
どうでしょうか、同窓会のようにミサに時々ご出席になられるのも良いと思います。
今日はそんなことを考えました。失礼します。

秋の歓喜、美しい空と紅葉、黄葉の風景

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秋は歓喜の季節です。澄んだ高い空に白い雲が美しい模様を描いてくれます。
空気も程よく乾燥して爽やかな風が頬を撫でて行きます。
蒸し暑くて耐えられなかった長い夏を辛抱した後で、このような爽快な日々が来るのです。歓喜です。
その上樹々の葉が黄色や赤く変わって野山を飾ります。
昔は紅葉した庭の落ち葉を集めて落ち葉焚きをしたものです。そのかぐわしい煙の匂いが懐かしいです。
今日は去年の11月に撮った秋の空と紅葉の写真をお送りします。ここ東京近辺では10月中はまだ紅葉になっていません。紅葉が待遠しい風景です。

1番目の写真はでは相模湖の上の秋空です。薄く筆で白く描いたような秋独特の雲が広がっています。

2番目の写真も相模湖の上の秋空です。秋独特の白い雲が山の上に踊っています。
秋独特の雲と言えば鯖雲や鰯雲や羊雲ですが、すぐに消えてしまうので肉眼でしか楽しめません。写真をお送り出来ないのが残念です。

3番目の写真は山梨県の甲斐駒岳の山麓の秋の色です。

4番目の写真も同じです。褐色に近い秋の色も美しいものです。

5番目の写真はの私の山の小屋に登って行く道の風景です。黄葉した樹々が道を明るくしています。

6番目の写真は小屋の周囲の林の中に流れる紅葉を焚いた煙の写真です。昔は焚火をしていましたが焚火禁止になったので、落ち葉を少量室内の薪ストーブで焚きます。煙の香りを楽しむためです。

7番目の写真は山小屋の帰りに寄った昇仙峡の上のダム湖の黄葉の風景です。水面に黄葉が映っていて美しい風景です。

さて紅葉を焚き、その煙の香りを嗅ぐと必ず想う漢詩があります。
白居易が昔遊んだ仙遊寺の林で紅葉を焚いて酒を温めたことを回想する漢詩のことです。
年老いた自分は遠方の仙遊寺の林へ行く事はもう無い。しかしそこへ帰って行く君が羨ましい。そんな内容の詩です。この句は平家物語にも出て来て日本でもよく知られています。
山林の中の小屋の周りに散り敷いた紅葉を掃除して、薪ストーブで少々焚く度に、思い出す漢詩です。
毎年晩秋になると小屋の周りの落ち葉を掃き集め綺麗にします。
林間に流れる煙の香りを楽しみながら、行く秋を惜しみます。
季節の移ろいは早く、あんなに猛暑だった夏も嘘のようです。間もなく白い雪が一面に覆います。

寄題送王十八帰山仙遊寺   白居易

曽於太白峰前住
数到仙遊寺裏来
黒水澄時潭底出
白雲破処洞門開
林間煖酒焼紅葉
石上題詩掃緑苔
惆悵旧遊復無到
菊花時節羨君廻

<通釈>
その昔、私が太白峰の麓に住んでいた頃はよく仙遊寺へ出かけたものだ。
水が澄む秋の季節には、川淵の底まで透けて見え、白雲が切れた辺りに
仙遊寺の山門があった。また仙遊寺の林間では散り落ちた紅葉を焚いて
酒を煖めたり、緑苔を払った石の上に詩を書いたりしたものだ。
ああ残念ながら、昔遊んだあの地に私はもう二度とは行くことはないだろう。
菊の花の咲くこの季節に、そこに帰っていく君が羨ましいよ。

<語句の解説>
・王十八・・・・排行(兄弟・従兄弟の順の十八番目)、の意。
・寄題・・・・・その場所から離れている地で詠ずる、の意。
・太白峰・・・・都長安の県城南方20kmにある秦嶺山脈の主峰のひとつ。
海抜3767m、李白の「太白峰に登る」で有名。
・仙遊寺・・・・唐の都、長安の郊外にあった寺。
・黒水・・・・・秋の川の水、の意。
・曾遊の地・・・以前に遊んだ土地。
・潭・・・・・・川の淵、の意。
・惆悵・・・・・恨み嘆く、の意。
以上の出典:http://plaza.rakuten.co.jp/1492colon/diary/200812110000/

さて皆様はこの素晴らしい秋の季節をどのように楽しんでいらっしゃるでしょうか?

それはそれと、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)
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