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私は馬鹿でした!

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10月20日に、「日本人は欧米人と共通の価値観を持っていない」という記事を掲載しました。
その冒頭部分は次のような物でした。
昨日、「サウジ記者惨殺で大騒ぎ、日本にとっては対岸の火事」という記事を掲載しました。
私が主張したかったことは、この事件を対岸の火事のように冷ややかに見ている日本人には問題があるという主張でした。
日本人は欧米人と共通の価値観を持っていないということです。人間の平等とか自由に関して共通の価値観を持っていないということです。
日本人が欧米人の感じ方を深く理解していないのが悲しいのです。
しかし多くの日本人はそれが当然だと考えています。そんな欧米人の感情は放っておけと感じているのです。日本人には関係ないと思っているのです。・・・・

この記事の評判は非常に悪かったのです。日本人は各人それぞれの価値観を持っているのが当たり前です。何も欧米人と同じ価値観なんて持つ必要などありませんという反対意見を沢山貰ったのです。そして私の主張は現実を理解していない机上の空論だと非難されました。
下書きを読んだ妻がまず口をとがらせて言いました。あなたとは価値観がいろいろ違います。それでも平和に暮らしているのだから良いではありませんかと。この意見と皆様から頂いた批判を虚心坦懐に考えれば私が間違っていることに気がつきました。
私は馬鹿だったのです。

今日は何故、馬鹿な間違いを書いてしまったか理由を書きます。
理由は二つあります。一つは自分の職業病のせいです。もう一つの理由はキリスト教の信者なので仏教徒や無宗教の人の価値観を考慮に入れなかったせいです。
以下にその説明をさせてください。

(1)人類共通に価値のある研究成果を上げなければ駄目な研究者だというお題目を唱える職業についていたので間違いました。
私は工学部で工業の基礎研究をしていました。分野は金属精錬で、その技術の進歩に役に立つ物理化学の実験的研究でした。
いつも目標にして心がけいたことは世界に通用する研究をすることでした。良い研究とは国境に関係無く金属精錬の工業に少しでも役に立つ研究です。
私が努力したことは研究成果が世界中に普遍的に通用する成果を少しでも上げることでした。
このように工業の基礎研究においては世界共通の価値を常に考えます。
このことはあらゆる分野の工業の基礎研研究で要求される必須条件なのです。
このように科学や工学の研究の分野では「共通の価値感」が間違いなく存在しているのです。
この状態を浅はかにも政治的な価値観や宗教的な価値観まで同じだと考えたのです。
人間の平等や人権に関する考え方は国々によって違います。個人、個人によって違います。
それなのに日本人は欧米人と人権などに関しても共通の価値感を持つべきだと主張したのです。
それは工学の研究者としての職業病のような愚かな主張でした。

(2)人間は神の前で完全に平等だというキリスト教を信じていたので無宗教の人々の価値観に言及しなかった間違いもありました。
人権は一人一人へ神が与えたものだから重要視し、それが世界の共通の価値観にすべきという主張は他の宗教への配慮が無いのです。これこそが前の記事の欠陥でした。
お釈迦さまは人間は平等だとは教えませんでした。第一、この世の現実を見れば人間は不平等なのに気が付きます。貧しい家に生まれた人は出生から不平等なのです。
不平等だと不平を言い続けているの周囲から疎外され不幸になります。
無宗教の人も人権は大切だと思いますが、自分の人権だけを守ろうとすると協調性が無いと言われます。
日本では和を以って貴しとなすという言葉が優先します。
このように人権や人間の平等が重要だという考え方はキリスト教から生まれた思想です。
ですから無宗教の人の多い日本やアジアの仏教国や中東のイスラム教の国々でもキリスト教から生まれた思想が通用すると考えたら大間違いです。

皆様から真摯なコメントを沢山頂いたおかげで自分の間違いが分かりました。
特に中村 裕一 さん、Motoko Boutdumonde さん、石山 望 さんへ感謝します。

それにしても日本のマスコミには問題があります。末尾にMotoko Boutdumonde さんと石山 望 さんのご意見をつけましたのでご覧ください。

今日の挿し絵代わりの写真は3つの都立公園の秋の風景写真です。1、2、3番目の写真は小金井公園で、4、5番目の写真は武蔵野公園で、6,7番目の写真は野川公園です。昨日撮りました。

それはそれと、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)

===日本のマスコミの欠陥===================
Motoko Boutdumonde
おっしゃることは良く分かりますし、この風潮を嘆いておいでになることも良く理解しております。ただ、また生意気なのですが、私の思ったことを述べさせてくださいませ。
この事件に関し試しにグーグルで日本語で「サウジアラビア カショギ」で検索したところ、ほとんどがついこの数日の記事で、カショギ氏が蒸発してから大分経ったものしか見つかりませんでした。ということは日本人が欧米人と共通の価値観を持っていないと言うよりはメディアが取り上げないことに問題を感じています。例外は朝日新聞とAFPBBです。この2社は早速5日に報道していました。
日本のメディアが騒げば自ずと日本の方もこういった事件に注目するのではないでしょうか。
いつも私が感じることは、日本のメディアの意識の低さです。もちろん全てのメディアがそうであるとは申しません。普通一般のニュースとならなければ「知らない」訳ですから。日本のテレビとか観ても、全局が例えば芸能人のスキャンダルを追ったり、くだらない事を大げさに報道して、肝心なことに視聴者の眼を向かせないように思えます。それでなければ視聴率が落ちるのかも知れませんが、新聞などを見ても特に海外のニュースに割かれている面積はひどく少ないような気がするのです。メディアがこれではどうやって日本人の価値観が、世界情勢に関するニュースを提供されている欧米人のものと共通になれるのでしょうか。

石山 望
人間は、自分に固有の価値観を持てばいいとは、思います(しかし、その価値観は、客観的に見て「妥当」でなければなりませんけれど。荒唐無稽、無茶苦茶ではない)。
しかしながら、異国で起っている事は、自分には関係がない、または何の影響も感じないからと言って、無関心でおられるものでしょうか。
私は、30歳まで日本にいましたが、その間、日本の本当のところ、ましてや異国のことは、正直に言って、何も知りませんでした。
日本を出たのにはいろんな理由がありますが、そのうちの一つが、この世界を見たいということでした。もともと日本には住めなかった人間でしたので、それで、良かったのです。気持ちはすっきりしました。
幸い、私の住んでいる英国では、直接自分たちには関係がなかっても、世界の隅々のことまで、逐一知らせてくれます。これはありがたいです。
そうすると、物事を「俯瞰的に」見ることができます。自分のおかれている立場を知ることができます。
さりながら、私、日本も日本人も好きですので、毎年一回帰ります。
そんなに不満を抱くのでないのであれば、自分の生れ育った国で、一生を終えるというのが、最高の幸せなんですよ。私はそう思います。













日本の自然は本当に美しい

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日本の自然は四季折々美しい姿を見せてくれます。そしてその山野には可憐な花々が季節のうつろいとともに次々と咲いてくれます。
早春の梅の花に始まり、絢爛な櫻花、そして梅雨時になればアヤメやアジサイが野山を飾ります。庭にも咲き誇ります。日本の自然は本当に美しいおのです。
そんな花々や美しい自然の風景を日本民族は昔から愛してきたのです。
万葉集には自然の美ししさや花々の華麗な姿を歌った和歌が沢山あります。

「春の野に すみれ摘みにと 来しわれぞ 野を懐かしみ 一夜寝にけり」 
                               山部赤人
自然の風景に抱かれて、「一夜寝にけり」というところに、自然への愛が滲み出ています。
さて自然の風景と言ってもいろいろです。
春霞にかすんだ田園風景、梅雨雲が中腹にかかった山々の遠景、長閑な春の海などなどいろいろな景観が楽しめるのです。
そしてそれらの風景が季節の流れにともなってまた別な美しさを見せてくれるのです。
暑い夏が過ぎれば、秋が喨々と空に鳴るのです。その空に魂が吸われます。
山々の紅葉にも心が奪われます。
静かな山の湖の碧さと、それを縁取る紅葉した木々の様子も息を止めて眺めてしまいます。
冬になりすっかり落葉した木々の梢も美しいものです。そして一面の雪景色にも心が奪われなす。

そこで今日は2016年10月に撮った北海道の支笏湖の風景写真をお送りします。そして2015年の11月に撮った茨城県の袋田の滝の紅葉の写真をお送りします。
2016年10月の中旬、北海道の千歳空港の西の支笏湖の近くの北湯沢温泉に泊まり、羊蹄山の麓から日本海の岩内町に出て、海岸沿いに積丹半島まで行きました。
余市のニッカウイスキー工場に寄り、2晩目は羊蹄山の麓のルスツリゾートに泊まりました。そして千歳から羽田に帰りました。その折に撮った写真です。

1番目の写真は支笏湖です。

2番目の写真は支笏湖の岸辺の紅葉です。北海道の紅葉は本州の紅葉より色あざやかです。

3番目の写真は支笏湖の岸辺のナナカマドの樹です。ナナカマドの実が美しい紅色になっています。

4番目の写真は高低差が大きく何段にもなっている袋田の滝です。周りの紅葉が美しく滝を飾っています。

5番目の写真も袋田の滝です。写真の左には昔の滝の展望台が写っています。昔はこんな高い展望台まで歩いて登って行ったのです。新しい展望台にはエレベーターがついています。

自然の風景や花々を愛するのは日本民族に限ったことではありません。
しかし緑豊かな山々に囲まれ、花々が溢れるように咲き、秋には紅葉が野山を飾ります。
このように自然が四季折々美しい国はそんなに多くはないのです。
その上、緑に覆われた列島は美しい海にかこまれているのです。
それは幸運なことです。日本民族はその美しい風景に魂を吸いとられ、一層強く自然を愛し、崇敬していると思います。
これから紅葉や黄葉が益々美しくなります。
皆様も野山に出て紅葉を楽しむように祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

昔のお寺と檀家との関係と現在の寺院仏教の衰退

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祖父は兵庫県の曹洞宗の正林寺の住職でした。叔父は同じ祖父の後の住職でした。
父も大学の定年後、島根県の曹洞宗の宗安寺の住職になりました。弟も大学定年後、宗安寺の住職になりました。そんな関係で私は戦前の田舎のお寺と檀家の関係を少し憶えています。
遠い昔の記憶のうえ、兵庫県のある山里の正林寺と檀家の関係なので日本全国で同じようだとは思いません。
しかし戦前の農村におけるお寺と檀家の関係が少しだけお分かり頂けると思います。
正林寺は白壁の塀に囲まれ高台にありました。見上げると石段の上に質素な山門がありました。後ろに緑の山があり遠方から見るとそれは美しい小さなお寺でした。
住職の祖父と祖母に3人の兄弟がいました。長男と三男が都会の大学を出ましたが、次男の叔父は祖父のあとの住職になったのです。
最近、老境に至って考えることは、あの貧乏なお寺の息子2人が帝国大学を卒業出来たお金は何処から出たのだろうと不思議に思っていることです。
田舎のお寺には少しばかりの田畑が寺領として付随しています。住職一家の一年間の最小限の食料を作るためにあるのです。祖父のお寺には3、4枚の田圃の寺領がありました。下の集落の周囲にも稲田が広がっています。
寺領の田圃の田植えや稲刈りは檀家の人がしてくれます。収穫した米は寺の倉の中にいれ一年間たべます。
野菜は檀家の人がいつも持ってきてくれます。味噌、醤油も檀家の人が届けてくれます。
この正林寺には墓地がありません。集落のあちこちに小さな墓地があり土葬していたのです。
檀家の人が死ぬと住職が戒名をつけます。その戒名を書いた位牌を二つ作ります。一つは自宅の仏壇に祀り、もう一つは正林寺の本堂の須弥壇のお釈迦様の像の後ろの段の上にならべます。そうして住職は毎朝、釈迦如来像と多くの位牌へお経を詠んで死者の冥福を祈ります。
故人の法事は本堂に親類縁者を招き入れて長いお経を詠みます。
お彼岸やお盆には住職は袈裟を着て集落の一軒一軒を回って短いお経を詠みます。私も子供用の袈裟を着て一緒に檀家まわりをしました。お経もあげました。
お盆には施餓鬼供養という一大イベントを毎年ありました。近隣のお寺から多くのお坊さんが集まって、本堂でお経を唱和し、銅鑼を鳴らしながら輪になって歩き、お経を唱えるのです。
このようにお寺の住職は檀家の集落の故人の世話をするのです。その恩返しに檀家の人々は住職一家が生きて行けるように食料を供給するのです。この人関係は慈悲深いお釈迦さまによって見守られているのです。
昔のお寺と檀家の関係は温かいものでした。帰省した私共に対しても檀家の人々は実に温かく接してくれたのです。
しかし戦前の農村は貧しかったのです。お寺も現金収入が無くて貧しかったのです。
祖父の後に住職になった叔父が言っていました。神社仏閣には現金収入が無いので必ずお賽銭を入れなさい。10円でも20円でも入れなさい。この叔父が死んでからもう何十年にもなりますが、私は現在でも神社仏閣に行けば必ず少額のお賽銭を入れます。
こんな貧乏寺なのに長男と三男が都会の大学を卒業出来たのは不思議です。必ずや檀家の精神的な支援があったのでしょう。その恩返しのつもりか父は大学定年後、私財を使って島根県の田舎の曹洞宗の宗安寺の本堂を再建し、住職になりました。現在は私の弟がそこの住職をしています。

戦前の農村におけるお寺と檀家の関係は濃密で温かい関係だったのです。
それなのに何時の間にかお寺と檀家の関係が疎遠になり、良い寺院仏教が消滅しそうな雲行きです。
とくに経済の高度成長の頃から都会に出て来た人が都会の集合墓地に墓を作るようになってからお寺と関係が無くなったのです。これも時代の流れです。
現在は寺院仏教は悪いという人が多いようです、
私はカトリックの信者ですが、戦前のお寺と檀家の親密な関係を懐かしく思って居ます。貧乏な檀家と貧乏な寺でしたが、その関係は心温まるものだったのです。

この写真は正林寺の鐘楼を見上げた光景の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

見晴らしの良いドライブウエイの風景写真

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どういう訳か私は若い頃から車の運転が好きでした。車の加速や減速の時に感じる感覚的刺激が好きなのです。加速、減速の時のエンジンの音がたまらいのです。そして左右に揺れる時の感覚が好きなのです。
この感じはヨットの帆走の時も同じように感じました。波に揺られながらセイルが風を掴み、グイと前方に引っ張っていくときの快感がたまらいのです。そして舷側を打つ波の音が好きなのです。
ヨットの方は体力が必要なので75歳できっぱり止めました。車のドライブは安全に気を使いながら現在でも楽しんでいます。
何時も同乗している妻が私の運転は安全で安心だと評価しています。
毎日、ドライブに出ます。今日は一人です。行った所は何時もよく行くコースです。
多摩川を渡り、JR南武線の稲城駅近辺から川崎街道に入ります。そして都立桜ガ丘公園の入り口交差点で左折しました。今日は公園内をあちこちゆっくり走りました。
桜ガ丘公園の横の抜け道を通って「多摩尾根幹線道」に出て帰って来ました。
「多摩尾根幹線道」の沿道には広大なゴルフ場があって見晴らしが良い尾根の上の自動車道です。遠方にはるかに新宿の高層ビル群が見えます。
今日撮って来た写真をお送りします。お楽しみ頂けたら嬉しく思います。

1番目の写真は都立桜ガ丘公園から見た多摩市の町並です。遠方の山並みは丹沢山系です。

2番目の写真は桜ガ丘公園の無料駐車場です。何時行っても空いています。

3番目の写真は「多摩尾根幹線道」の沿道にある広大なゴルフ場です。

4番目の写真も「多摩尾根幹線道」の沿道にあるゴルフ場です。

5番目の写真はJR南武線の稲城駅近辺にある崖です。崖の上の樹木が魅力的なのでよく来る場所です。
崖の上の樹木と崖の関東ローム層の重なりを飽きずに眺めています。

江戸時代以前の関東には城主不明で謎の城跡が沢山ある

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平安時代末期、鎌倉時代と歴史が流れ、やがて室町時代の「応仁の乱」に至ると関東地方は群雄割拠の戦国時代になります。「応仁の乱」は室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの11年間にわたって継続した内乱でした。
そのころは各地に城が沢山作られましたが、江戸時代以前の城については文献が少なくてよく分かっていません。
僅かに残っている文献から江戸という名前は現在の東京に最初に根拠地を置いた武家、江戸重継に由来しているようです。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての江戸氏の居館が、後の江戸城の本丸・二ノ丸辺りの台地上に置かれていたと考えられています。
その後の15世紀の関東の戦乱で江戸氏が没落したのち、扇谷上杉氏の上杉持朝の家臣である太田道灌が「応仁の乱」の10年前の1457年(長禄元年)に江戸城を築城しました。徳川幕府の公文書である『徳川実紀』ではこれが江戸城のはじめと書いてあるそうです。
ですから太田道灌が1457年に築いた江戸城が現在の東京の発展の出発と考えることも出来ます。
1600年に徳川家康が江戸に幕府を置いてから260年余の江戸時代が始まりました。

現在の東京の江戸時代の歴史はかなり詳しく知られていますが、それ以前の歴史はあまり明確には判っていません。
その理由は現在の東京都の23区内にあった城や館の大部分は江戸時代に消えてしまったからです。
しかし、郊外の城跡は堀跡、広場、出入口の土手、建物の礎石群がそのまま残っているものも多く往時の様子が偲ばれます。
私は引退後にこれらの城跡をかなり丁寧に見てまわりました。車で行って、あまり人のいない城跡を歩き回って観察し考えたのです。
八王子城、滝山城、片倉城、深大寺城、平山氏館跡、石神井城、高幡城などの跡地へは何度も行きました。

1番目の写真は八王子城の見取り図です。八王子市の西の山の中にあります。以下の写真も全て、http://yogokun.my.coocan.jp/tokyo/hatioujisi.htm から転載させて頂きました。

2番目の写真は当時の鍋や食器が多数発掘された主殿跡の広場です。

3番目の写真は主殿跡の石垣です。
八王子城は北条氏康の三男・氏照が1571年(元亀2年)頃より築城し、1587年(天正15年)頃に本拠とした。
氏照は当初、大石氏の滝山城に拠っていたが、小田原攻撃に向かう甲斐の武田信玄軍に攻められた際に滝山城の防衛の限界を感じて本拠を八王子城に移したのです。
この城址には3回ほど城址に登りました。広く大きな城跡で当時の地形が残っていました。
城跡には当時の建物群の礎石や空堀が良く保存されています。発掘調査も行き届き、説明板も丁寧に明快に書いてあります。
この八王子城は1590年に落城しました。文献が残っていて次のようなことが分かっています。
小田原征伐の一環として1590年(天正18年)7月24日(旧暦6月23日)、八王子城は豊臣秀吉の軍勢に加わった上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められます。
城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城内には城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀らわずかの将兵の他、領内から動員した農民と婦女子を主とする領民を加えた約3000人が立て籠りました。
激戦となり1000人以上の死傷者を出し、その日のうちに城は陥落した。
氏照正室、比左を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられています。
この八王子城攻防戦を含む小田原征伐において北条氏は敗北し、城主の北条氏照は兄、氏政とともに切腹します。
関東地方に新しい江戸時代が始まる最後の激戦でした。新領主となった徳川家康はその後八王子城を廃城とします。
この八王子城の城主の氏昭がこの城の以前にいた城が滝山城です。

4番目の写真は八王子市の東の郊外にある滝山城の見取り図です。私はこの城跡にも何度か登り観察しました。

5番目の写真は滝山城から見た多摩川の遠景です。

6番目の写真は敵が攻め込んで来たら引いて倒してしまう曳き橋です。
滝山城跡には壮大な規模の城跡がそのまま残っています。

八王子と滝山城は北条氏昭が小田原城からやって来て関東地方の西部を統治していたときに住んでいました。武田信玄に何度か侵入されましたがその都度撃退しています。
八王子城と滝山城は小田原の北条一族が関東一円を支配していた時代の数多くあった北条一族の城の一部だったのです。
このように城主が分かっている場合もありあすが、誰が作ったかさっぱり判っていない城跡もあちこちにあるのです。

7番目の写真は八王子市の南のはずれにある片倉城の見取り図です。
不思議なのは片倉城の主が分かっていないことです。鎌倉時代よりも前の山城と推定されていますが、誰が作ったか不明です。謎の城跡なので、ロマンを感じ何度も登りました。
 
8番目の写真は頂上にある本丸跡の広場です。

9番目の写真は城跡にある住吉神社でです。
この片倉城のように誰が作ったかが分からない城跡が多摩地方には沢山あるのです。
例えば深大寺城も誰が作ったか確定されていません。
築城した人が判っていない城跡が意外に多いのです。
高幡不動の裏山に登ると頂上に土塁が残っていて、素人目にもある時代に城があったことが分かります。
裏山を下りて高幡不動の和尚さんに尋ねました。しかし文献が無いから知らないの一点張りでした。ただ発掘調査で、鎌倉時代よりも古いと推定されていると言っていました。

学校で習う日本の歴史は天皇や幕府のような中央政権に関する歴史が主なものです。地方の歴史はあまり教えません。
自分で少し地方の歴史を調べてみると判らないことが非常に多いことに驚きます。
歴史の闇に消えてしまった事実が沢山あるのです。失われてしまったものに対する好奇心が湧きあがって来ます。
さらに書けば東京には江戸城の他に、御殿山城、荏原氏館、品川氏館、池上氏館、馬込城、赤堤砦、奥沢城、世田谷城、渋谷城、滝野川城、板橋城、志村城、石神井城、練馬城、深大寺城、立川氏館、平山氏館、小野路城、小山田城、八王子城、滝山城、片倉城、高月城、桧原城などなどもあるのです。これらの城や館は天正18年の秀吉勢の小田原城攻撃によって降伏します。
そうするとすぐに関東一円の北条一族の城や館が秀吉勢に揃って降伏してしまったのです。
そして江戸に入った徳川家康は消滅した数多くの城や館を再び利用することはありませんでした。
直轄領として代官を派遣する場合に川越城や土浦城や行田城は代官の館として利用しただけで、その他の数多くの戦国時代の城は意図的に歴史の闇に葬ったのです。文献も消えてしまいます。

これらの数多くの城や館にはそれぞれ主がいて、家族がいて、武士集団が住んでいたのです。それが江戸時代になると消えてしまったのです。歴史の闇に消えてしまったのです。何かはかないです。無常です。
それにしても城の数の多いのに驚かされます。戦国時代、室町時代の群雄割拠ぶりが想像され感慨深いのです。
現在私が住んでいる東京の多摩地域の歴史は文献が少なく不明なことが多ようです。
しかし城跡を発掘調査をすると当時の家具調度、日用道具、食器、鍋釜などの破片が多数出土し最近、色々なことが分かって来ました。それらの情報は現地の歴史資料館に行くと分かります。

今日は現在の東京に残っている江戸時代以前の城跡について少しご紹介いたしました。
さて皆様かの住んでいらっしゃる土地にも江戸時代以前の城跡や館跡がたくさんあると思います。それをお教え頂けたら嬉しく存じます。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

人間の悲嘆の山並みがつづく

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多摩の横山に多摩尾根幹線道路があります。見晴らしの良いドライブウエイです。爽快な気分になるのでよく行きます。その付近に桜が丘公園があり、そこに満蒙開拓団の殉難の碑が並んでいる一画があります。
その横を通って多摩尾根幹線道路へ入ります。
そこを通る度に殉難者の霊気を感じます。悲しい気持ちが湧いてきます。
そして「はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております」という「荒野の40年」の中の文章を思い出します。この文章に関する記事は2018年09月14日 に掲載してあります。

今日は都立桜が丘公園の入り口にある蒙開拓団の犠牲者の慰霊碑をご紹介いたします。
その一画の一番奥には「拓魂」と大きく彫り込んだ慰霊塔があります。その慰霊塔を囲むように全国の都道府県から満蒙へ渡った開拓団の名前を彫った慰霊碑が多数並んでいます。

1番目の写真は開拓団の名前を彫った慰霊碑のほんの一部の写真です。以前に自分で撮った写真です。

2番目の写真は「拓魂」と大きく彫り込んだ慰霊塔の左手にづらりと並んだ開拓団の名前を彫った慰霊碑の写真です。この写真には写っていませんが、右側にも同じように開拓団の名前を彫った慰霊碑がづらりと並んでいます。

3番目の写真は見上げた空の写真です。満蒙開拓団の悲劇を悼むかのように暗い木立の上に白い雲が流れていました。

満蒙開拓団とは、1931年に起きた満州事変から1945年の敗戦まで、旧満州国や内モンゴル地区に国策として送り込まれた入植者約27万人の開拓団のことです。
満蒙開拓団は加藤完治らが考えた移民政策でした。武装した移民による満州国境維持を目的にしていました。従って対ソ戦兵站地の形成を目指す関東軍により推進されたのです。
戦争末期の戦局の悪化により、開拓団からの招集も増え、特に1945年7月の「根こそぎ動員」では、約4万7000人が招集されます。
1945年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、関東軍は開拓移民を置き去りにして逃亡しました。
ソ連参戦時の「満蒙開拓団」在籍者は約27万人であり、そのうち「根こそぎ動員」者4万7000人を除くと開拓団員の実数は22万3000人でした。
この開拓移民は文字通り、難民となり逃避行に向かい、その過程で約8万人が死亡したのです。
敗戦時に旧満州にいた日本人は約155万人といわれていますが、その死者20万人の4割が拓団員だったのです。

私はこの悲劇を忘れないために毎年、この満蒙開拓団の慰霊碑をお参りしています。
そして戦争の悲劇を忘れないように心に刻んでいます。
そして「荒野の40年」の中の文章を思い出します。
・・・今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲みの念とともに思い浮かべているのであります・・・
そして私は次のように思うのです。
「戦いと暴力支配とのなかで斃れたすべての人びとを哀しみのうちに思い浮かべます。
日本との戦いに苦しんだすべての民族、なかんずく中国と東南アジアの諸国の犠牲者を思い浮かべます。
日本人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で犠牲になった310万人の戦没者を哀しみのうちに思い浮かべます。
はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております」

かつて中国大陸やアジア諸国に武力侵攻した日本軍から逃げるために実に多数の人が難民になりました。そして多数の戦没者がでたのです。中国だけでも2000万人以上と言われています。
満蒙開拓団の慰霊碑を見た昨日も心に思い浮かべました。

なお満蒙開拓団の悲劇を忘れないようにする記念館もあります。満蒙開拓平和記念館です。長野県下伊那郡阿智村駒場にあります。

昨日、満蒙開拓団の慰霊碑に参りながら考えたことを書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

宗教のことをネットに書く私は馬鹿でしょうか

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佛教には不立文字という言葉があります。
「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」の語句の始めに当たる言葉です。
「経典の言葉から離れて、ひたすら坐禅することによって釈尊の悟りを直接体験する」という意味だそうです。禅の根本を示すものとして知られるようです。
ですからインターネットの上に私の浅はかな仏教の話やキリスト教の話を書いている私は馬鹿なのでしょうか?
そのように迷いつつ時々、仏教の話やキリスト教の話を書いています。
以前に「佛教を簡単に理解する方法」という記事を書きました。そうしたらある方から大変分かり易かったというコメントを頂ました。
そこで今日はキリスト教を簡単至極に説明したいと思います。
分かり易く説明するために皆さまよくご存知のお釈迦さまの教えと比較しながら話を進めて行きたいと思います。
さて、ユダヤ民族だけの民族宗教として旧約聖書が紀元前 900年頃に出来ました。それから、長い年代にわたって改正が続きましたが、ユダヤ民族がバビロニアに捕囚されていた時代に大部分が完成し、編集されたそうです。
この旧約聖書は長い間、ユダヤ教の基本でしたが2000年前にイエス・キリストが改正をして世界の全ての民族に通用するキリスト教を作ってしまったのです。ユダヤの民族宗教が全ての民族に普遍的に通用する世界宗教になったのです。
この宗教の特徴は『神はヤハウエ神だけである。偶像崇拝は行わないこと』ということにあります。
仏教も全ての民族に普遍的に通用する世界宗教です。
その仏教と比較しますとキリスト教では唯一の神が存在しますが、仏教では神の存在を認めていません。
お釈迦さま自身はあくまでも人間であって死んだら空(クウ)になるだけです。ですからお墓を作るな、仏像を作るなと言って入滅したのです。
人間はお釈迦さまの教えた「色即是空、空即是色」を理解し、固く信じることによって悟りの境地に入り恐れも悲しみもない幸福な状態になれると教えたのです。
「色即是空、空即是色」とはこの世のことはすべて空しいという意味です。空しいからこの世なのですという意味です。ですから恐れも悲しみも空なのです。
一方、キリスト教では「この世のことに執着しないで天の神様やイエス様のことを愛せ」と教えます。
佛教もキリスト教も、この世の全てのことに執着するなと教えている点は全く同じなのです。
どうすれば此の世に執着しないことが実行出来るかという方法が全く違うのです。
佛教では修行をつんで悟りの境地に入るのです。神の助けもイエスさまの助けもありません。
一方、キリスト教では「神やイエスさまを愛せ」、そうすれば「神やイエスさまが貴方を愛します」と教えます。そして此の世に執着しないようになれるのです。
繰り返しますと、人間が神の愛、イエスさまの愛を信じ、確信出来れば、この世のことには執着しなくなります。いろいろな悪い欲望が消えるので心が平和になります。幸福になれます。
仏教とキリスト教の違いは仏教では神がありませんが、キリスト教では神が中心になっています。

ここで一休みしてユダヤ民族だけのためにあったユダヤ教が全ての民族へも普遍的に通用するようにしたのがイエスさまでした。
その改革の重要な部分を考えて見ましょう。
それはは「神は全ての人を、異民族も平等に愛す」と言い出したのです。異教徒のサマリア人も愛したのです。取税人も愛したのです。
イエスさまは弟子たちに全ての言語が話せるようにして外国へ派遣したのです。
これは神は人種、職業、金持ち、貧しい人を問わず全ての人を愛しているという、当時としては衝撃的な教えでした。
これはユダヤ教徒だったイエスさまの大きな宗教改革だったのです。
一方、お釈迦さまの教えは始めから、人種、職業、金持ち、貧しい人などを問わず普遍的な重要な教えだったのです。
ですからこそ仏教もキリスト教も世界宗教として現在も多くの人々に信じられているのです。

ところで日本の仏教とキリスト教の大きな違いは信者の参加する宗教的な儀式の違いにもあります。
日本の佛教では信者が毎週お寺に集まってお釈迦様にお祈りするという儀式はありません。たまにお葬式や法事の時に僧侶が読むお経の声を聞くだけです。
しかし一方キリスト教では毎週一回教会に集まり、神やイエスさまにお祈りをささげます。そして驚くべきことにイエスさまの肉体の一片に模したパン片をたべる宗派もあるのです。カトリックがその宗派です。
この宗教的儀式はミサと言いす。そしてその儀式の概略は以下のようになっているのです。

まず簡単に言えばミサは次の4部分から成り立っています。
1、開  祭
2、ことばの典礼(旧約聖書、新約聖書の朗読)
3、感謝の典礼
4、交わりの儀と閉祭。
この4つの部分で一番重要なのが、4、交わりの儀なのです。
この時、信者一人一人が神父の前に行って、イエスさまの肉体の一片に模したパン片(聖体)を拝領します。
これは仏教には無い行為です。お寺に行って、仏教徒はお釈迦様の肉体の一片に模したパン片(聖体)を食べません。
一般的に日本の仏教は多神教的なのでお釈迦さまだけをことさら大切にしません。
一方、キリスト教では神がこの世に派遣したイエスさまを非常に大切にします。
これも仏教とキリスト教の大きな相違です。
このような大きな相違はありますが、仏教もキリスト教もどんな国々の人にも普遍的に通用するという性格が全く同じなのです。

如何でしょうか?キリスト教の内容がご理解頂けたでしょうか?

今日の挿し絵代わりの写真は神代植物公園で撮ってきた菊の花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)




ハロウィンはキリスト教以前のケルト民族の祭

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1番目の写真は渋谷ハロウィンの光景です。
写真の出典は、https://murauchi.muragon.com/entry/523.html です。
渋谷ハロウィンの今年の日程は10月26日(金)、27日(土)、28日(日)、29日(月)、30日(火)、31日(水)です。時間は18時から22時までで、その間は渋谷スクランブル交差点、SIBUYA109横の文化通りと道玄坂が歩行者天国となります。
(https://communediary.com/2615.html#2018 )
渋谷ハロウィンを簡単に言えば悪魔や幽霊の仮装をした若者やコスプレの男女が渋谷スクランブル交差点で仮装大会をしているのです。その仮装は近くのハロウィングッズ店で貸し出し、着替えも店内でします。
そして家庭ではカボチャをくり貫いたランタンなどを飾りパーティをして楽しみます。

2番目の写真は家庭での飾り物です。この写真の出典は、https://11mono.net/636.html です。
さて日本全国のハロウィン祭の一覧表は次のURLに紹介してあります。
https://www.walkerplus.com/search/halloween/ar0419/

3番目の写真は白い恋人パークハロウィンです。
期間は2018年10月13日(土)~31日(水)で、北海道の白い恋人パークがハロウィン気分に包まれるそうです。入場無料です。

4番目の写真は北海道のじゃがいもハロウィンです。北海道 星野リゾート トマム で10月1日(月)~31日(水)に開催されています。

5番目の写真は山梨県、北杜市の「ハイジの村のハロウィンと収穫祭」です。9月1日(土)~11月3日(土)に開催されています。
カボチャが飾られた園内では「ジャック・オ・ランタンづくり」や「ハロウィンジェルキャンドルづくり」など楽しいイベント盛り沢山あるそうです。
日本の家庭では秋になるとハロウィン・パーティを開いて楽しみます。

結論を言えば日本のハロウィンとはカボチャの提灯を飾り仮装してワイワイ騒ぐ楽しい祭の一つなのです。
白い恋人は何故ハロウィンと関係あるかという野暮な詮索をしてはいけません。
ドイツ文化圏のハイジの村はアメリカ流のハロウィンはしない筈だと議論してはいけません。
アメリカでは仮装した子供たちが「Trick or Treat(いたずらか、お菓子をくれるか?)」と門口で言いながらキャンディを貰いに来ます。その日は10月31日と決まっています。昔、アメリカの住んでいた頃、10月31日に家内は沢山キャンディを用意していて訪問した子供達が「Trick or Treat」と言うと一人一人にキャンディを上げていました。それが楽しい思い出になったと今でも話しています。

それにしてもハロウィンの歴史を纏めておきましょう。
以下は、https://ja.wikipedia.org/wiki/ハロウィン からの抜粋でう。
ハロウィン、 Halloweenとは、毎年10月31日に行われる、古代ケルト人の祭のことです。
もともとは秋の収穫を祝い、悪霊などを追い出す原始宗教的な意味合いのある行事でした。
現代では特にアメリカ合衆国で民間行事として定着し、原始宗教的な意味合いはほとんどなくなっています。
カボチャの中身をくりぬいて「ジャック・オー・ランタン」を作って飾ったり、子どもたちが魔女やお化けに仮装して近くの家々を訪れてお菓子をもらったりする風習などがアメリカなどにあります。
キリスト教がヨーロッパに普及する前の原始宗教の祭なので非常に興味深い一面を持っています。
カトリック教会ではハロウィンについて「オカルト」であると考え無視しています。
カトリック教会の教会暦にある祭ではないのです。

仮装の意味も纏めておきます。
アメリカでハロウィンで仮装されるものには基本的には「恐ろしい」と思われているものが選ばれる傾向があり、たとえば幽霊・魔女・コウモリ・悪魔・黒猫・バンシー・ゾンビなどの民間で伝承されるものや、吸血鬼や狼男・フランケンシュタインのような欧米の怪談や恐怖小説に登場する怪物が含まれています。
この恐しい仮装はハロウィンには恐しい仮装で悪魔を追い払う目的もあったからです。
しかし20世紀後半になるとアメリカでは、お姫様・海賊などといった人物をディズニー的でアメリカ流にアレンジして楽しい仮装も加わりました。
スパイダーマンやバットマンなど漫画・映画のキャラクターの仮装も行われるようになり仮装を楽しむようになってきたのです。
日本での仮装はアメリカの真似に日本独自のコスプレが加わったものになっています。
要するに仮装は何でも良いのです。
ハロウィンが盛んになったのは最近のことなので高齢者には理解困難はものです。
しかし日本全国のハロウィン祭の一覧表を見ると時代の変化の速さに驚くのは私だけではないでしょう。
次のURLを是非ご覧になって下さい。
https://www.walkerplus.com/search/halloween/ar0419/

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

自分探しの旅、世界のこんな所に日本人!

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老境になると良いことが沢山あります。第一に仕事から解放されます。この解放感は実に良いものです。
そして仕事のための出張ではなく楽しむための旅が出来ます。
その旅に関連したテレビ番組を丁寧に見ます。すると単なる観光案内だけではなく、「人生こそ旅」という深い内容の番組もあります。
私が欠かさずよく見る番組は、世界の村で発見!!「こんな所に日本人」というものがあります。
南米の僻地やアフリカの奥地、あるいは北極圏のイヌイット人の村などに住んでいる日本人を紹介する番組です。
面白い理由が二つ以上あるのです。第一にその奥地に苦労して訪ねて行く途中の風景や人情が非常に興味深いのです。普通の観光番組では絶対に分からない僻地の風景や生活の情景が興味深いのです。
そして第二の理由はその僻地に何十年も住んでいる日本人の個性が面白いのです。皆例外なく幸せに暮らしていますが、その人生の軌跡が独特で、嗚呼、こんな人生もあるんだと感動してしまうのです。
その多くの日本人は若い頃、自分探しの旅に出た人々です。
「自分探しの旅」は後期高齢者には理解しにくいことです。後期高齢者が若い頃は日本が貧しくて、学校を出たら食べて行けるように必死で働いたものです。「自分探しの旅」などと悠長なことを考える余裕などありませんでした。
その上、現在の学校では先生方は進学相談や就職相談はしない事になっているそうです。
生徒達が民間の塾や進学教室で相談しているようです。先生方は生徒の個性を尊重し生徒の将来に干渉しません。自分でよく考えなさいと指導します。ですから生徒は進学や就職を自分で研究して決めて行かなけれいけない時代なのです。

そうするとまず「自分は何者だ?」、「自分は一生何をすれば良いのか?」などの疑問が湧いてきます。
ある若者は自分を探すために外国を周遊します。その時、自分のしたい事を発見してそこに住み着くのです。そしてその地で現地の人と結婚し、子供や孫に囲まれた幸福な老境を迎えるのです。
テレビの「こんな所に日本人」という番組の内容は大体こんなものです。
しかし毎回面白い理由があるのです。世界の奥地や僻地で日本人がしている仕事が実に変わっているのです。奇想天外な仕事で成功しているのです。
後期高齢者の私は、嗚呼、何と独創的な人生なのだろうと感動してしまうのです。今夜もこの番組がテレビ朝日のチャンネルにあります。

それにしても我々の若い頃とは「自分探しの旅」など想像も出来なかった時代でした。
最後にその昔話を書かせて下さい。簡略に書きます。
それは戦後の貧しさが漂っていた頃の仙台の思い出です。主な道路の中央しか舗装されていず、風の日は砂ぼこりが舞っていました。
私はその砂埃りの道を自転車で高校に通っていました。その高校は旧制の中学校がそのまま高校になった学校です。旧制中学のドイツ語や漢文の先生が熱心に教えていました。
特に漢文の先生は情熱的にいろいろな漢詩を朗読しながら教えてくれたのです。
何度も青雲の志を抱いて郷関をいづるという文を教えていたのです。
そして君達は故郷の仙台を出て、広い世の中で日本の復興に努めなければいけない。そして常に高い志を持って立身出世しなさいと教えたのです。若い私はその教えを文字どうり信じ、人生の道しるべにしました。
この「青雲の志」は唐時代の張九齢の次の漢詩の中に出てきます。
照鏡見白髪
宿昔青雲志
蹉タ白髪年
誰知明鏡裏
形影自相憐

鏡に照らして白髪を見る
宿昔 青雲の志
蹉タたり 白髪の年
誰か知らん 明鏡の裏(うち)
形影 自ずから相憐れまんとは

この教えに従って私は仙台を飛び出してアメリカに留学しました。それからいろいろな外国に研究のために旅をしました。
そして年老いて自分の人生を振り返ると上の漢詩の蹉タ白髪年 誰知明鏡裏 形影自相憐という部分が身に沁みるのです。
この意味は以下のようなものです
「何度も挫折を繰り返しているうちに、頭に白いものが目立つ歳になってしまった。いったい誰が考えただろう。鏡に映った姿を見ながら自然に憐れみの情がわいてくる、こんなことになろうとは。」

青雲の志を抱いてオハイオ州立大学へ行ったのは1960年の夏のことでした。
当時、外貨の無い日本では外国への自由な旅行は禁止されていました。留学と業務出張だけが許可されていたのです。
私は故郷、仙台の友人や親類の見送りを受け、羽田を飛び立ちました。主翼に4個のプロペラが勢いよく回っているノース・ウエスト機でした。
オハイオのコロンバス空港に着くとボランティアのアメリカ人の学生さんが古い車で迎えに来ていました。
大学では指導教官のセント・ピール先生が歓迎してくれて、いきなり9月の学期から博士コースの講義を3課目聴きなさいと言います。英語に自信の無かった私は困惑しました。
教室で机を並べていたアメリカ人とも親しくなり一生付き合った人も出来ました。

以上のように昔は「自分探しの旅」など想像も出来ない時代だったのです。
それに相当するのが「青雲の志を抱いて郷関を出る旅」だったのです。しかし両者の内容の余りにも大きな違いに愕然とします。これも時代の流れです。

今日の挿し絵代わりの写真はこの記事の構成を考えながら見た小金井公園の秋の夕方の風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)








貧しい家に生まれた人、桂の落ち葉を見ながら想う

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旧甲州街道は現在の裏高尾を通って小仏峠を越す山道でした。
その途中に高尾山に登る道がついている日影沢があります。その日影沢に私が四季折々何度も足を運ぶ桂の国有林があります。
約1400本の桂の木を昭和3年に林野庁が植えた見事な桂林です。現在でも林野庁が木道を整備し、一般へ公開している見事な桂の森なのです。
この季節になると落ち葉が甘い香りを漂わせているのです。その香は本当に自然な甘い香りです。カナダの原住民が昔から採っていたメープルシロップに似た香りです。もっと素朴なカルメ焼きの匂いです。
昨日はその香が日影沢に漂い、黄色い落ち葉が道に散り敷いていました。
昨日撮って来た写真をお送りします。

1番目の写真は落葉した巨大な桂の林の風景です。昭和3年に植えたので90年でこれくらいの大木になります。

2番目の写真はまだ落葉しない桂の黄葉です。

3番目の写真は「高尾山国有林・林野庁」の看板の写真です。

4番目の写真は日影澤の高尾山登山道近くの橋の木道に散り敷いた黄葉した桂の葉です。甘い香りがします。

5番目の写真は日影澤の奥から木材を運び出しているトラックの写真です。まだ林業が廃れていなことに感動します。

昨日は車を日影澤に入れて少しの間、写真に示したような光景を見て貧乏な家に生まれた人の不幸を想いました。
私にはそのような友人がいたのです。
学校の給食費が払えないのでお昼時間は校庭で遊んでいました。先生が見かねて給食費は要らないから食べろと言ってくれました。しかしその子は先生の親切を拒否して絶対に給食を食べませんでした。
新聞配達をしながらやっと中学校を卒業し、働き始めました。
中学校しか出てない男は世の中でひどい扱いを受けます。歯を食いしばり工場労働者を務めあげ貯金も少し出来ました。株で儲けて1000坪以上の山林を買い山荘を建てました。もう何十年もそこに独りで住んでいます。
彼は一生独身です。
私の山小屋の近くだったので自然に親しくなりました。彼は頭脳明晰で私はコンピューターの使い方を彼から習いました。
いろいろな話を聞くと学歴の無い男のつらさがしみじみと判るのです。彼がせめて高校を卒業していればもっと幸せな人生を送ったに違いありません。
彼の偉い所は他人を頼りにしないことです。意固地なくらい他人の親切を拒否するのです。プライドも高いのです。
しかし日本の政治や社会に対して根強い恨みを持っています。金持ちを差別し信用しません。通っている病院の医者の悪口を言います。医者は金持ちなので憎んでいるのです。
山荘に独り住んで現地の人々とも交流しません。社交性が皆無なのです。
特に冬の間は何ケ月も人間に会わないのです。

貧乏な家に生まれなかった幸運な人々はとかく説教したくなります。
「もっと現地の人々と仲良くなりなさい」とか、「市役所に頼んで独り暮らしの支援をして貰いなさい」と忠告したくなります。
「もっと社会や政治に感謝の気持ちを持ちなさい」とも言いたくなります。

しかしそれは貧乏な家に生まれなかった幸運な人々の気楽過ぎる発想なのです。
貧乏な家に生まれた人の悲しみや苦しみは他人には理解出来ないのです。
静かに見守るのが良いのです。
世の中には結構な言葉があります。
貧乏に負けるな!
貧乏でも志を高く持て!
清貧な一生を送れ!
貧乏でも恩人への感謝を忘れるな!
みんな正しいのです。
しかしそんな生やさしい貧乏でないのです。
神様は何故、極貧の家に子供を生ませるのでしょうか?

昨日、日影澤の桂の森の中で解答の無い問題を考えていました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

蚕糸試験所跡の黄葉 の風景と養蚕の歴史

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多摩川の中流にある日野市は昔の甲州街道の宿場町でした。
家内の祖父がそこの地主でした。そんな関係で私は1960年の夏以来、日野に何度も出掛けていました。
当時は街道沿いに家々があるばかりで、家内の祖父の古い家の裏から多摩川までは一面の田圃でした。多摩川までは800メートル以上あり、水田だけが広がっていました。
その水田に浮かびように緑の雑木林に囲まれた蚕糸試験所があったのです。
それは不思議な美しい風景でした。
その後しばらくしてから蚕糸試験所が廃止になり、跡地に「蚕糸の森公園」が出来ました。
そこへ行くと若かった頃の家内の姿を思い出します。
何度も行く公園ですが、昨日の午後にも久しぶりに行きました。
撮って来た「蚕糸の森公園」の写真をお送りいたします。まだ黄葉していませんが、お楽しみ頂けたら嬉しいです。









昨日は公園を少しだけ歩きながら養蚕や絹織物の歴史を考えていました。
昔、学校で習ったことですが朦朧として断片的なことしか思い出せません。
帰宅後いろいろネットで調べました。沢山情報が出ています。
その中から、大日本蚕糸会のHPの「養蚕の歴史」を選びました。
文章がよく推敲されている上に、何と言っても養蚕や絹織り物に愛情が感じらるのです。
冷たい知識の羅列でないのです。
皆様は養蚕や絹織物の歴史はよくご存知のこととは思いますがお送りいたします。
大日本蚕糸会、http://www.silk.or.jp/kaiko/kaiko_yousan.html からの抜粋です。

養蚕や絹織物の歴史の目次;
1、古代(こだい)~江戸時代
2、明治~第二次世界大戦
3、 戦後~現在
4、 皇居で作られた繭を使って正倉院の宝物の織物を復元
5、 今にのこる風習・ことば
6、カイコからのおくりもの

1、古代~江戸時代
カイコを育てて繭(まゆ)をとることを養蚕(ようさん)といいます。
養蚕(ようさん)は、中国の黄河や揚子江流域で野生のクワコを家畜化したのがはじまりといわれます。今から5,000~6,000年も前のことです。
はじめは中国の宮廷内だけで秘密に行われていた養蚕も、紀元前1000年くらいになると、一般の農家に養蚕をさせるようになりました。でも、できた絹は、宮廷ですべて取り上げてしまいました。
紀元前200年くらい、漢の時代になると西域との貿易が始まり、異民族を支配するためのほうびとして使われました。こうして、絹の魅力は、中近東へ、そして、ローマまで広まっていきました。やがて、この交易ルートが「シルクロード」(絹の道)といわれ、東西文化の交流に多くの役割をはたしました。

卑弥呼の時代には中国に絹織物を贈っていた 日本の養蚕;
日本への養蚕技術が伝わったのは紀元前200年くらい、稲作といっしょに中国からの移住者(日本人の祖先のひとつ)が、伝えたといわれています。さらにAD195年には百済から蚕種が、283年には秦氏が養蚕と絹織物の技術を伝えました。
奈良時代には、東北・北海道を除き全国的に養蚕が行われ、産地ごとに等級が決められていて、税として朝廷に集められました。
平安時代になると服装も日本風に変わり、日本独自の紋様の絹織物が作られるようになりました。
鎌倉時代になると質素を好む武士が中心となり、京都の織物は衰退しましたが、地方の産業振興が行われ、絹織物の技術が地方にも広がっていきました。
室町・桃山時代になると、中国から糸に撚りをかける撚糸(ねんし)の技術が伝わり、西陣織が生まれました。京ちりめん、丹後ちりめんなどがこのころから作られるようになりました。能装束や小袖飾りなど実用性を離れ権力を誇示するためのものが多くなりました。

日本の銅がなくなるくらい生糸を輸入した江戸時代;
江戸時代になると、武士以外の人びとの絹着用は禁止されましたが、能装束や小袖などの高級織物は保護され、中国から生糸が輸入され、その支払いには国産の銅があてられました。輸入の増加により国内の銅の大半がなくなるほどでした。こうして幕府は、中国からの生糸の輸入を減らすため養蚕を奨励しました。一方、各藩でも財政の建て直しや下級武士の救済のために、西陣から技術を学び、金沢の友禅染め、山形の米沢織、茨城の結城紬、仙台の仙台平など独自の織物を生み出しました。


2、明治~第二次世界大戦
江戸時代末から勧められた製糸の機械化は、明治時代になるとさらに進み、殖産興業方針により、1872年には群馬県の富岡に官営富岡製糸場がフランス人の設計で建設され、フランス式の最新機械が導入され、フランス人指導者のもとで多くの技術者たちが育ち、各地の製糸技術の向上に貢献しました。

また、関東・中部地方を中心に近代的な製糸工場が建設されました。同時に繭を作る養蚕農家も全国に広がり、養蚕業の最盛期1930年代には、農家の40%で養蚕が行われていました。

日本の近代化を支えた生糸
明治から昭和初期にかけて生糸は日本からの輸出の70%~40%を占めていました。
1900年ころからは中国を抜いて世界一の生糸輸出国になりました。最大の輸出先はアメリカでした。つまり、生糸が稼いだお金で近代化のための機械などを買っていました。

化学せんいの登場により生糸生産量は減少
成長を続けた養蚕業にも転機がきました。1929年アメリカから広がった世界恐慌により生糸が売れなくなりました。さらに、1940年には生糸の最大の輸出先のアメリカで、生糸に代わってナイロンが使われるようになりました。その後、低価格で大量生産ができるさまざまな化学せんいが開発されるようになりました。

3、戦後~現在、
そして戦後の復興期を経て、昭和30年~40年頃に再び養蚕はピークを迎えます。
その当時の様子を聞いたことがありますので紹介しましょう。
■朝の5時から夜まで、桑畑と家をトラックで行ったり来たり
現在は桑の木の垣根で囲った畑で野菜を作る神奈川の白井さんの話です。
普通は倉庫に桑の葉を貯めておくんだけど、たくさん蚕を飼うと倉庫の分では間に合わなくなって、朝の5時にもなると畑でとった桑をトラックで運んで、そのまま蚕に与えて、また畑に桑採り、朝の5時から夜の10時まで、家中で大変だったよ。当時は新聞社なんかで、養蚕農家の表彰もやっていて、それをもらったりもしたよ。真っ黒になって一生けんめい働いたってことだね、と最後に付け足しました。
■昭和初期の養蚕農家の収繭光景
おじいちゃん、おばあちゃんから子供たちまで家族総出で繭を集めています。いそがしい養蚕を終えて、子供たちまでほっとした表情で仕事をしています。回転マブシが普及する前で、ワラで編んだマブシから繭を取っています。

その後、都市近郊の宅地化や農業人口の減少、さらに化学繊維の発達により、養蚕農家は急速に減少しました。こうして、かつては世界一位の生産量を誇った日本の繭生産量は、現在では最盛期の1%以下になっています。
しかし、衣類ばかりでなく、化粧品、食品などに繭が利用されるようになり、良質で安全な日本の繭への需要は強く、新しい養蚕業の創出が求められています。

4、皇居で作られた繭を使って正倉院の宝物の織物を復元;
皇室では古くから養蚕が行われてきました。一時中断していましたが、明治になり復活、皇后陛下が行われる養蚕ということで「皇后御親蚕(こうごうごしんさん)」といわれ、皇居の紅葉山御養蚕所でカイコが飼育されています。
皇室で飼育されているカイコのなかに「小石丸」という日本産種のカイコがいます。江戸時代から明治時代にかけて養蚕の主流でしたが、糸が細く収量が少ないので改良品種に代わってしまい、現在では飼育されているのは皇室と、特別な注文に応じて飼育する一部の養蚕家だけとなってしまいました。
この「小石丸」の糸の太さが古代の糸に近いことから、正倉院に保存されている織物の復元に使われました。
ひとつの繭(まゆ)から取れる糸の長さは小石丸の場合400~500メートルと短く、糸の太さも普通の繭糸にくらべ細いのが特徴です。

5、 今にのこる風習・ことば は省略します
6、カイコからのおくりもの  も省略します。

それにしても養蚕とか絹織物は長い歴史があるのですね。家内の和服は全て絹織物だと言うのですから驚きです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

爽快な秋空の下、老境の日々が静かに流れ行く

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最近は爽快な秋です。
今朝見上げたらサバ雲が美しく広がっていました。



そのサバ雲の下の家の軒先には赤い干し柿が吊り下がっています。

午前中はブログの記事を書いてから、車を動かしスーパーへ買い物に行きました。
家内は重要な用事がある銀行へ自転車で出掛けました。
昼食は天麩羅ウドンです。
午後からは保険屋さんが来てくれました。9月30日の台風24号の我が家の被害の修理代を保険会社が出してくれる手続きをしてくれました。有難くも45万円ほど出してくれると言うのです。
その用事が済んでから家内とシクラメンの鉢3個を買いに行きました。例年、11月になると必ず3鉢買います。
行く道は武蔵野公園に沿った細いみちです。

この写真が武蔵野公園の今日の風景です。
そこから東八道路という4車線の大きな通りに出ます。
住宅街ですが写真のように柿の実がたわわになっている木があったので写真を撮りました。

自転車に乗った主婦は買い物に行くのでしょぅか。
東八道路をさらに東に行ったところにある大型ホームセンターでシクラメンを3鉢買いました。
帰りにある園芸店でさらにパンジー20株と腐葉土を2袋買いました。大きな台車をガラガラ押して嬉しそうに家内が車に戻って来ます。

家に帰ったら3時過ぎです。秋の日は短く、もう夕方の陽射しになっています。

こうして爽快な秋空の下、老境の日々が静かに流れ行くのです。
凡々と生きている幸せをしみじみ感じる毎日です。

外国の田舎道で受けた温情が人生の宝になった

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夫婦が一緒に健康で老境に入ったとしたら、それは非常に幸運なことです。
一生は邯鄲の夢と言いますが、それでも辛いことや悲しいいことなどいろいろあります。
そんな折に私ども夫婦の心の支えになって来た思い出があるのです。この思い出こそ人生の宝です。
それは遠い外国の田舎道で、通りかかった見知らぬ人から受けた温情の思い出なのです。
その思い出を私ども夫婦は時々話合います。そして私共の人生を豊かにしてくれるのです。
今日はこの思い出を書かせて下さい。

あれは1962年の春の事でした。オハイオのコロンバスで、私共は赤子を抱え、とても貧乏な生活をしていました。貧乏なだけでなく私は厳しい勉強と夜遅くまでの実験で遊ぶ暇がありません。
たった一つの贅沢は週末に中古の大きな車でオハイオの農村地帯を家族と一緒にドライブすることでした。
車はダッチ・コルネットという6年前の中古の大型車でした。クリーム色と空色のツートンカラーの乗り心地の良い車でした。
ある春の日に少し足を延ばして有名なオハイオキャバーンという鍾乳洞を見に行ったのです。
それは大規模な鍾乳洞で美しい鍾乳石が沢山垂れ下っています。
不思議なことに広大なトーモロコシ畑の地下に大きな鍾乳洞の空間が広がっているのです。地上はまったくの平野で、山も洞窟も一切無いのです。
ですからその鍾乳洞に入るには1番目の写真にあるような建物に入り、入場券を買ってから地下へと続く階段を下りて行きます。
鍾乳洞の光景は2番目、3番目、4番目の写真に示したように、いろいろな形と色合いの鍾乳石が照明に輝き、それは美しかったのです。

その帰りの田舎道で突然、車が止まってしまったのです。車は中古だったので、それまでハンドルが震えたりオイルが漏れたりしていました。そんないろいろな故障を直しながら乗っていたのです。
ところが今回はエンジンがいきなり止まってしまって、ウンともスンとも言いません。
ボンネットを上げて見ましたがエンジンにはこれといった異常が見えません。このような故障は始めてです。
静かになった広いトーモロコシ畑の上空でヒバリが鳴いています。その声が気のせいか不吉に聞こえるのです。
そこは人家が見えない場所です。車の通らない細い田舎道です。
車内には離乳食をやっと食べ始めた赤ん坊と心配そうにしている妻がいます。
私は妻にすぐ誰かが助けてくれるよと陽気に話しました。
しかし30分待っても誰も来ません、50分待っても誰も来ません。私も妻も心配で顔色が変わっています。
その時です。一台の車が来たのです。その車は迷うことなく私の車の後ろにピタリと止まります。
車から出て来たのは35歳くらいの男です。私はトラクターで畑を耕しているから車の故障はなんとか直せるよと言いながらエンジンを見てくれました。ダメだ。このエンジンは私の手では動かせないと言って、牽引用のロープを持ち出して来ました。
牽引されている間は前の車のブレーキランプが点いたら、自分もブレーキを踏むんだよと私に教えるといきなり牽引し始めました。
そこから10km位離れた村の修理屋さんまで引っ張って行ってくれたのです。
修理している間、彼は私達を見守っていてくれたのです。その時気が付いたのですが、彼の車にも奥さんと子供が乗っていたのです。

故障は15分位で直ってしまいました。エンジンへ電気を供給するデストリビューターにヒビが入り、割れかけていたのです。デストリビューターだけ交換して直ってしまったのです。
彼は私の車のエンジンが動き出すとすぐに帰って行きました。お礼の言葉も聞かずに帰って行きました。
幸い修理している間に妻が彼の名前と住所を書いて貰っていました。
後日、妻が御礼状と感謝の品を送りました。そうしたら彼の奥さんから丁寧なお礼の手紙が来ました。

これだけの話ですが、この温情が家内と私の一生の財産になったのです。
この一年前に私は日本から婚約者を呼びコロンバスで結婚しました。その折にはセント・ピエール先生と奥様に結婚式の準備を全てして貰いました。同級生の奥さん達も私の妻へ対してとても優しくしてくれました。その思い出はやはり家内と私の一生の財産なのです。
しかしオハイオの田舎道で助けてくれた人は全くの見ず知らずです。私共とは何の関係も無い人です。この世では一度しか会わない人です。それなのに彼は躊躇なく、当たり前のことをするように困っていた私達を助けてくれたのです。
これは善い意味で衝撃的な体験でした。
はるばる遠くに旅をしたおかげで家内と私は一生の財産を頂いたのです。
この思い出を私共は大切ににしています。時々思い出して話合いながら感謝しているのです。
考えようによっては小さな出来事ですが、感謝して生涯忘れません。

皆様にも必ず似たようなご経験があると信じています。是非、お聞かせ下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


4枚の写真の出典は、https://en.wikipedia.org/wiki/Ohio_Caverns です。





===参考資料===================
鍾乳洞、オハイオ・キャバーンが1897年に発見された時のいきさつです。
(https://en.wikipedia.org/wiki/Ohio_Caverns より)

1897年に Robert Noffsingerという農夫によって発見されたのです。
The tunnel system known today as the Ohio Caverns was discovered August 17, 1897 by Robert Noffsinger, a farmhand who worked on the land.

その土地の持主はAbraham William Reamsでした。
A sinkhole had been forming on land owned by Abraham William Reams over a period of about 10 years. In August 1897, this sink hole measured 50 feet across by 10 feet deep. One particular night, the sinkhole was filled completely with water during a hard rain. By morning, the water was completely gone.

持主のReamsが新聞社に報告しました。
Reams reported to the local newspaper that he lost "several hundred barrels of water." Reams had recently hired Robert Noffsinger, a young man from Virginia, to work on his farm. By Reams' orders, Noffsinger and Jordan Reams (unknown relation to William Reams) began to dig in the sinkhole.

そうしてNoffsingerたちがどんどん鍾乳洞への穴を掘ったのです。
Noffsinger dug a few feet of soil until he hit the top of the ground's limestone layer.
(limestone layerとは石灰石の層)
After finding a crack in the limestone, Noffsinger broke through this rock as well.

そしてNoffsingerがついに大きな鍾乳洞を発見したのです。鍾乳洞の中の気温は12度C でした。
Immediately feeling the caverns' 54 °F (12 °C) air, Noffsinger was even more curious. He lowered himself into the caverns and became the first living creature inside of the Ohio Caverns system.

品性の高い銃猟の趣味とは?北海道のエゾシカ猟

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趣味はいろいろありますが、自分の品性を高めてくれるような趣味が最高の趣味ではないでしょうか?例えば茶道や香道や書道はやり方によっては品性を高めてくれます。
猟銃の趣味も心がけが正しければ品格の高い趣味になります。
今日はSNSの趣味人倶楽部で知り合った「でいしゅうさん」の銃猟の趣味をご紹介致します。
でいしゅうさんは若い時から「徳不孤必有隣」をモットーにして銃猟の趣味を続けている方です。
山に犬を連れて独りで入っても「徳不孤必有隣」という言葉どうり規則を守って撃つのです。他人が見ていないからと無法な猟は絶対にしないのです。
「徳不孤必有隣」という言葉は論語の言葉で、徳は孤ならず 必ず隣有りと読みます。
意味は本当に徳のある人は孤立したり、孤独であるということは無く、真に徳さえあれば必ず人はその徳をしたい教えを請う人たちが集まって来るという意味です。

でいしゅうさんが品性の高い狩猟の趣味を持てたことは、生まれつきの才能があったことですが、もう一つの理由は一番最初についた銃猟の師匠の高い品性によったと思います。
まず品性の良い猟犬を育て訓練します。
そして独りで山に入って雉を撃つときには次のことを守ります。
1、銃に弾を込めるのは、犬が鳥の隠れている場所をポイントをしてからしなさい。
2、撃つ前に周囲の安全を確かめる 。
3、偶然に歩いて居る雉や、突然飛び出した雉がいても、撃ってはダメです。
4、雉撃ちに行くのだから、鴨を撃ってはいけません。
5、犬より前を歩くつもりで、歩きなさい。

でいしゅうさんは雉猟を経て18年前から北海道の道東の釧路、別海町、標津町などのエゾシカの銃猟を続けて来ました。
秋の猟期になると道東に数週間住み着いて現地の人々と信頼関係を作ります。
現地の人々の信頼が無ければエゾシカが何処に出るか皆目分かりません。
自分の鹿猟用に改造した四輪駆動車を北海道に三重県から持って行ってエゾシカを追うのです。仕留めた鹿は現地の友人の解体場を借りて丁寧に解体します。
撃ったエゾシカは全て友人達に送り食べます。全て食べるのが撃った鹿に対する礼儀だと思っているのです、
エゾシカは牧草を食べたいので牧場の森際に出ます。一撃で倒しても血が牧草地を汚します。でいしゅうさんはそれをティッシュペーパーで叮嚀にふき取り、汚れた紙も鹿と一緒に持ち帰ります。
湿地地帯にいるエゾシカは絶対に撃ちません。一撃で痛みも無く倒せますが、鹿の回収の為に重い四輪駆動車を湿地帯へ入れることができません。鹿を回収出来ないのです。
彼は撃った鹿は食べるという原則を持っているのです。
エゾシカを撃つためには牧場主の信頼が無ければ撃つことを許してくれません。「徳不孤必有隣」という言葉が重要なのです。
エゾシカの雄を一発で倒すためには、道東に滞在している間にも射撃場に行って射撃の練習をしているのです。

さて今年の10月31日のでいしゅうさんのエゾシカ猟の日記をご紹介しましょう。
・・・10月24日からは釧路市の狩猟ガイドさんと狩る事になった。
昨年もお願いしたとうり、釧路市から厚岸にかけて案内して頂ける。
しかし、釧路市近郊の禁猟区でも何時も沢山いる鹿は見受けられない。メスがチラホラで、立派な雄鹿は全くいないので不安もあり、そんな状態で狩りは始まった。
ガイド氏も「いない、いない」を連発していた。
理由として、(1)駆除が年中実施され、報奨金目当ての地元ハンターが絶滅させた。(2)頭のいい鹿達は山奥へ逃げ、道からは見えない。(3)気候変動で他地区へ移動してしまった。などと言う。
4時頃から朝日が昇るまでが鹿を撃つ時間帯だ。それなのに鹿を全く見かけないので撃つ事が出来ない。このような山道を行くと不安になる。
山の入り口で日の出時刻となった。そして林道、作業道を流していくが、チラリとも姿を見かけない。
10時となり鹿達は座り込み始め、なおさら発見が難しくなった。
ガイド氏の秘密の場所へ行くが、全くいない。山道には足跡が少ない。あっても小さくメスシカが多い様だ。
翌日も同様であったが、メスが3匹いた。幸い車は道路上でなく草地なので銃を固定して撃った。猟銃は道路の上では使ってはいけないのだ。
私は銃には絶対に弾を入れていないので、構えてから弾を1込める。距離は180メーター程だ。銃声は一発だけ響く。命中した。
ガイド氏は他の鹿も撃てと言う。回収作業が大変なので1匹にしていたが、猟果が少ないので撃つ事にした。
上に逃げた鹿も命中、右下に逃げた鹿は半矢となった。しかし手応えはあるので、仕留める事にした。
弾を1発持ち、ゆっくりと近づいた。少し大回りをして逃げそうな方向から近づく。
いた、私の足音からバタつくが逃げられない。約20メーターで止めを刺した。初弾は右足の根元に当たっていた。少し着弾が下がるのを計算に入れていなかったのだ。
3頭の肉を運ぶのは、参った。1頭だけ運び、残りはガイド氏が運んだ。
この後は3頭得たが小物ばかりで、記念にするようなトロフィーは得られなかった。
鹿の生息状況も変わり、小生も70歳を超え、無事故の間に引退を考えるべき、これが今回の結論である。
一番の理由は、狩猟に対する意欲が減少しているのだ。
解禁前は遠足前の様にワクワクしていたが、そんな気持ちは数年前からなくなった。
内地のハンターにとって夢の様な「蝦夷鹿猟」も18年間行った。自慢できるトロフィーも得た。多くの友人も出来た。羆も1頭得た。
引退の時期かもしれない。・・・・

2年ほど前に彼の日記を読んで何故かひどく感動しましたので私のブログ(http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama)へ「狩猟の趣味の深さ」と題する連載記事を寄稿して下さいませんかとお願いしました。
記事は以下のよう2016年の10月4日から10月12日にわたって掲載いたしました。
でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(1)品性の良い犬の訓練」、2016-10-04
でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(2)猟犬への深い愛が狩猟の決め手」、2016-10-05
でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(3)山間部集落の獣害とイノシシ猟」、2016-10-06
でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(4)猟銃の種類と狩猟文化」、2016-10-08
でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(5)勢子と撃手の緊迫した連携」、2016-10-09
でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(6)猪と鴨を美味しく食べるこだわりの料理法」、2016-10-10
でいしゅう著、「猟犬、ココとの別れ」、2016-10-12

でいしゅうさんには2016年、17年、今年と3回もエゾシカの肩ロースとモモ肉を冷蔵宅急便で送って貰いました。厳冬期には三重県のイノシシの肉も送って頂きました。
美味でした。柔らかくて野生の香りがほのかにして奥深い味わいです。モモ肉の方が少し野生の風味が強いようです。

今迄、山梨県の甲斐駒岳の麓にいる日本鹿は何度も食べたことがあります。しかし不味いのです。鹿肉は不味いという固定観念を持っていましたがでいしゅうさんのお陰で変わりました。
でいしゅうさんは大勢で追い出して撃つイノシシ猟でも撃ち役を務めます。撃ち場に隠れたら絶対に動きません。イノシシが来たら一発で倒します。静かな山に一発だけの銃声が木霊するのです。

趣味はなんでもそうですが、自分の品性を高めてくれるような趣味が最高の趣味ではないでしょうか?
でいしゅうさんの狩猟の趣味を見るとしみじみそのように思います。

今日の挿し絵代わりの写真はでいしゅうさんがエゾシカ猟に行く北海道の別海町の風景写真と別海町の禁猟区のエゾシカの写真です。禁猟区には例年ならエゾシカが溢れるようにいるのです。写真は「別海町の風景写真」と「別海町のエゾシカの写真」を検索してお借りしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)








イチョウの黄葉が圧巻、 八王子いちょう祭り

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八王子市追分町から高尾駅入口まで、ほぼ4Kmにわたる甲州街道(国道20号)の両側に、約770本のいちょう並木が続きます。
特に11月中旬になると一斉に美しく黄葉し、道行く人の目を楽しませてくれます。東京界隈では 770本のイチョウは他にありません。黄葉したイチョウの景観は実に圧巻です。
以下に今年の八王子いちょう祭りのご案内をお送りいたします。
第39回八王子いちょう祭り、(https://www.ichou-festa.org/category/event/ )
本年のテーマ、『いちょう並木90年記念事業』『東日本大震災復興応援事業』
開催日時
2018年11月17日(土)9:00~17:00
2018年11月18日(日)9:00~16:30
会場
八王子市甲州街道(国道20号)追分町交差点〜小仏関跡・陵南公園本園・陵南公園分園・陵南いちょう会館跡地・旧免許更新所駐車場・長房市民センター・浅川市民センター・原児童遊園・原宿ふれあい広場・横山事務所・八王子市立中央図書館・東浅川交通公園グランド・陵南中学校体育館 ほか

同時に数多くの楽しいイベントもあります;
イベント一覧;
1、世界の屋台・全国ご当地グルメ屋台村
2 、ふるさとバザール・観光物産展
3、ふるさとバザール・むーちゃん機関車
4 、みんなの広場・木工体験・ミニSL
5、お祭り広場・自衛隊
6 、バザール・ふれあい建築体験・ファミリーランドふわふわくじら
7 、ライブ・落語・人力車・マジック

過去の風景写真をお送りいたします。
皆様、是非お出掛けになって下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真の出典;https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/001/p003255.html

2番目の写真の出典;https://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Ginkgo.jpg

3番目の写真の出典;https://www.ichou-festa.org/news/第%EF%BC%93%EF%BC%99回八王子いちょう祭り/

4番目の写真の出典;https://ochipapa.com/2017/11/18/ichou-festa/

5番目の写真の出典;ttp://jiromaru77.com/?p=952

ロシアは憎い!しかし日本人が愛したニコライさん

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今朝の読売新聞の8ページの「時代の証言者」欄に なかにし礼さんが満州におけるソ連軍の暴虐ぶりを書いています。衝撃的な場面の連続です。
ソ連は1945年の8月9日、突如満州と南樺太に侵攻し、残虐行為を繰り広げたのです。
シベリア抑留で約6万人を殺し、満州引揚で20万人が犠牲になったのです。
ソ連軍の無法な侵攻により合計26万人の日本人が犠牲になったのです。
シベリア抑留や満州引揚の悲惨さは現在でも新聞や雑誌に出ているので若い日本人もよく知っています。
なかにし礼さんは有名な作詞家です。
朝丘雪路 、梓みちよ、アン・ルイス、石川さゆり 「風の盆恋歌」、いしだあゆみ 、石原裕次郎 などなどの唄った歌の詩を書いた方です。
従って今日の読売新聞の なかにし礼さんの書いた記事を読んだ多くの若い人はロシアが嫌いになるかも知れません。多くの高齢者はロシアを憎んでいるかも知れません。
国家としてのソ連は日本人にとっては憎むべき存在でした。
しかしロシア人を個人的にみると良い人もいるのです。

そこで今日は日本を愛し、日本人から好かれた一人のロシア人をご紹介したいと思います。それはニコライ・カサートキンという人です。
話は急に昔のことになり恐縮ですが、1904年、明治37年に日露戦争が始まりました。
翌年日本の勝利で終わりましたが、日本側の死傷者は20万人、ロシア側は15万人という凄惨な戦争でした。
日本人のロシア人へ対する敵愾心は凄まじく、全国に散在するロシア正教関係の教会や集会所は暴徒の襲撃に会います。
しかし東京、駿河台のニコライ堂に居るニコライ・カサートキンは顔色一つ変えず動揺しません。
日本の政府や軍部関係者は日露戦争の間、軍隊の一小隊を常時派遣しニコライ堂を暴徒から守ったのです。
特に1905年9月15日の日露講和条約(ポーツマス条約)の日には激しい日比谷公園焼き打ち事件が発生します。神田、駿河台のニコライ堂へ暴徒の群衆が押し寄せます。
しかし日本の軍隊が暴徒を一歩もニコライ堂の構内へ入れなかったのです。

日露戦争になる前にニコライ・カサートキンはロシアへ逃げ帰ることも出来たのです。
しかし彼は、「私はロシアに仕えるのでない。キリストに仕える者です」と明言して断固日本に残留したのです。
日本の信者を見捨てる筈はなかったのですが、それを実際に見た政府関係者や軍部も武士道精神に従ってニコライ・カサートキンを大切にしたのです。
これだけではありません。ロシア正教の日本人信者がロシア兵捕虜の慰問を日本軍が許可したのです。慰問にはロシア正教の礼拝式を捕虜収容所で行うことも含まれていました。
1905年にはおびただしい数のロシア兵捕虜が日本の収容所へ送られて来ました。旅順や奉天での捕虜も含めるとその数は7万人以上と言われています。
日本国内には27ケ所の収容所が、弘前から始まって仙台、京都と南の熊本まで各地に散在していました。
ロシア語の出来る日本人の司祭がそれぞれの収容所を担当して死者の埋葬、病者の見舞い、家族からの郵便の配布、ロシアからの慰問袋の仲介、礼拝式や祈りの会の開催、行方不明者の調査などなどを日本人司祭と信者が手を尽くして行ったのです。
私の手元にはかつてニコライ堂で求めた当時の写真があります。

捕虜収容所を訪問したニコライ・カサートキンと日本軍幹部との記念写真。イオアン小野帰一司祭の指導による大阪、浜寺捕虜収容所の祈りの会の風景。松山捕虜収容所を担当したセルギイ鈴木九八司祭の肖像写真。ペトル内田 補司祭と信者の家族とロシア兵捕虜との集合写真。京都、伏見捕虜収容所を担当したシメオン三井道郎司祭の肖像写真。習志野捕虜収容所でのイアコフ藤平新太郎司祭とロシア兵との集合写真。神田、駿河台のニコライ堂前でのロシア兵捕虜慰問会の集合写真。 などなどを見ました。
1905年と言えば、1917年の共産党ソ連の出来る随分前です。ロシア人はロシア正教徒でした。戦いに敗れ、呆然自失の状態で敵国の収容所へ送られたのです。そのような傷心の時、突然ロシア語の話せる日本人の司祭が現れたのです。信者の家族が親類のように子供連れで遊びに来てくれたのです。彼らの心が躍った様子が目に見えるようです。
それを許した明治時代の日本人は心が広く、本当に偉かったと思います。1912年、ニコライ・カサートキンは75歳で日本の土になりました。明治天皇が大きな恩賜の花輪を供えました。葬列を見送る日本人が数十万人いました。

明治時代の日本人のロシア兵に対する寛大な処置は長く外国から称賛されたのです。私は明治時代の日本人をも誇りに思います。
そして日本のロシア正教が実質的に日本正教会への育って行ったのはこの日露戦争の頃からです。

さて日本人を愛し、愛されたニコライ・カサートキンの略歴です。
スモレンスク県のある村の輔祭、ドミトリイ・カサートキンの息子として生まれました。母は五歳のときに死にます。
サンクトペテルブルク神学大学に1857年入学します。在学中、ゴローニンの著した『日本幽囚記』を読んで以来日本への渡航と伝道を希望するようになったのです。
ニコライは、在日本ロシア領事館附属礼拝堂の司祭募集を知り、志願してその任につくことになります。
1861年に函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任したのです。
そして新島襄らから日本語を習います。函館にて日本ハリストス正教会の最初の信者を育てます。初の日本人司祭となる沢辺琢磨らも育てます。
中井木菟麻呂らの協力を得て祈祷書および聖書の翻訳もしました。
1869年、1879年に二度帰国しますが、それ以降は日露戦争中を含め、日本を離れることなく、神田駿河台のニコライ堂正教会本部で没します。
ニコライ堂から谷中墓地までの葬列には数十万人の人が沿道に溢れたのです。明治天皇をニコライ・カサートキンは尊敬して、礼拝の度に明治天皇の健祥を祈っていたと言われています。
そんなロシア人も居たのです。

今日の挿し絵代わりの写真は長野県茅野市の長園寺の紅葉の写真です。2015年11月3日に撮って来ました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)








経済制裁で激怒のイランとアメリカの立場を分かり易く書く

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トランプ米政権はイランの核合意離脱を受けて、イランへの経済制裁を再開しました。
その前日の11月4日には、イラン人達が激怒して1979年11月に起きた在イラン米大使館人質事件を記念したデモで経済制裁を厳しく非難しアメリカへ反発したのです。

分かり難いニュースですが、簡単に言うとイランが核兵器開発を再開するというのでアメリカが怒って経済制裁を再び始めたのです。
これだけを見ると何が何んだか一向に判然としないニュースです。
これを理解するためには親米のパーレビ国王の追放とホメイニ師のイラン革命とそれに続くアメリカ大使館の占拠と大使館員の人質事件などの歴史を考える必要があります。

1941年から1979年までのパーレビ国王時代のイランはアメリカを手本にして近代化を進めた非常に親米的な国だったのです。
それが1979年のホメイニ師のイラン革命後は手のひらを返したようにアメリカの敵国になったのです。
1979年以来いろいろな抗争がありましたが、今回の経済制裁の再開もその一つに過ぎないのです。

今日は錯綜するアメリカとイランの敵対関係の歴史を写真に従って説明したいと思います。
まずパーレビ国王の写真です。

1番目の写真はパーレビ国王です。
彼の名前はモハンマド・レザー・シャーと言い、在位は1941年9月16日 - 1979年2月11日でした。
出生は1919年で死去は1980年(60歳没)でした。
パーレビ国王はイランを近代化した実に傑出した国王でした。
以下は、https://ja.wikipedia.org/wiki/モハンマド・レザー・パフラヴィー からの抜粋です。
父である先代の皇帝レザー・シャーの退位により即位し、イランの近代化を進めたが、あまりのも急進的だったためにイラン革命により失脚したのです。

1960年代より、上からの改革を図って経済成長を目指すという、いわゆる開発独裁体制を確立します。
日本の飛躍的な経済成長に注目して1963年からは石油の輸出により獲得した外国資本とアメリカ合衆国による経済援助を元手に近代化革命に着手しました
土地の改革、国営企業の民営化、労使間の利益分配、婦人参政権の確立、教育の振興、農村の開発などの改革を実行してイランの近代化を進めました。
一方、親欧米路線のもと欧米諸国の外国資本の導入に努めたのです。
また自らも英語やフランス語を駆使して親欧米外交を進めるなど、政策の先頭に立っていました。

2番目の写真は1971年、訪米時のパーレビ国王とニクソン米大統領及びニクソン夫人の写真です。
パーレビ国王の政策を支持した欧米諸国、とりわけアメリカ合衆国は革命直前の1970年代に深い関係を続け、1970年代中盤には、まだ他の同盟国にも販売したことのない最新鋭のグラマンF-14戦闘機をイラン空軍に納入したほか、同じく最新鋭のボーイング747旅客機をイラン航空に販売するなど、イランを事実上の最恵国として扱っていたのです。
それは現在のイラン空軍の威力の基礎になっているのです。

ニクソン大統領を会見した後の1979年にはイラン革命が起きパーレビ国王は国外へ亡命します。
1979年1月16日に皇帝専用機のボーイング727を自ら操縦し、最初の妻の出身地でもあるエジプトに皇后や側近とともに亡命し、モロッコ、バハマ、メキシコ、アメリカへと転々としたのです。
するとホメイニ師は2月1日に15年ぶりの帰国を果たし、直ちにイスラム革命評議会を組織しバーザルガーンを首相に任命しました。
そして1879年11月にイランにあるアメリカ大使館の占拠と人質事件が起きたのです。

3番目の写真は大使館前で星条旗を逆さに広げる学生グループの写真です。
大使館の敷地には次々に学生たちが侵入してきたが、大使館の警備にあたっていたアメリカ海兵隊員も、事態の悪化を恐れてこれに対して制止、発砲することをしなかったのです。
学生たちは間もなく大使館の建物内に侵入しこれを占拠し、アメリカ人外交官や海兵隊員とその家族の計52人を人質に、元皇帝のイラン政府への身柄引き渡しをアメリカへ要求したのです。
アメリカはこれを拒否し、52人を人質を救出する特殊部隊を送ります。
しかしこの人質救出作戦は失敗に終わりました。

4番目の写真は人質救出作戦のイーグルクロー作戦中に事故を起こした輸送機の残骸です。
アメリカ政府はイラン政府を懐柔するために、パーレビ国王を12月5日にアメリカから出国させてパナマへ送ることで事態の打開を図ったのです。

その後、イランは仲介国と人質の返還でアメリカと合意し、レーガンが新大統領に就任し、カーターが大統領の座から退任する1981年1月20日に人質が444日ぶりに解放されました。

5番目の写真はアメリカ軍のボーイングVC-137輸送機で444日ぶりに帰国した人質の写真です。
このアメリカ大使館の占拠と人質事件はイランとアメリカの関係を決定的に悪くしたのです。面子を潰されたアメリカは長い間イランを恨み続けることになるのです。
今度の経済制裁の発動はこの延長にある一つの出来事なのです。
イランの核兵器開発再開は一つの口実ではありますが根が深いのです。

今回のアメリカの経済制裁の発動で喜ぶのはイランと敵対関係にあるイスラエル、サウジアラビアと湾岸諸国です。イランを引き込もうとしているロシアと中国です。
国際関係は複雑です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

日本の紅葉の名所一覧と定山渓の思い出

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日本の秋は美しい季節です。
山々が見事な紅葉や黄葉に彩られ息をのむような風景になります。
その紅葉は北海道から始まって次第に南に下ってきます。
北海道では富良野の丘の白樺が黄葉し雄大な眺めになります。そして山々にはカエデ、ヤマブドウ、ナナカマド、山サクラ等の紅葉が楽しめます。
北海道から紅葉前線が南に移動してくると本州、四国、九州のケヤキ、コナラ、クヌギ、カツラ、エゴノキ、カエデなどの里山の雑木林も紅葉や黄葉し華やかな風景になります。
日本の秋は本当に素晴らしい季節です。

そこで今日は日本全国の紅葉の名所をご紹介いたします。
それは「人気紅葉名所ランキング(全国)」というHPにあります。
URLは、https://koyo.walkerplus.com/ranking/ です。
これには全国各地エリア別の人気紅葉スポットをアクセス数順に10位までランキングした情報が掲載されています。
その上、全国約700ヶ所の紅葉情報が掲載されているのです。

この資料により北海道と関東地方だけを例として下に示します。他の地域は長くなるので割愛しました。
北海道では、
1、定山渓(定山渓温泉)、北海道/札幌市南区
2、円山公園、北海道/札幌市中央区
3、定山渓(豊平峡ダム) 北海道/札幌市南区
4、層雲峡(流星・銀河の滝)北海道/上川郡上川町
5、大沼(大沼公園、月見橋、大沼湖畔)北海道/亀田郡七飯町
6、滝の上公園北海道/夕張郡由仁町
7、大雪山(黒岳)北海道/上川郡上川町
8、阿寒 北海道/釧路市
9、北海道大学苫小牧研究林 北海道/苫小牧市
10、支笏湖(支笏湖温泉)北海道/千歳市

関東地方では、
1、長瀞:埼玉県/秩父郡長瀞町
2、明治神宮外苑:東京都/新宿区
3、高尾山 :東京都/八王子市
4、国営昭和記念公園 東京都/昭島市
5、六義園 、東京都/文京区
6、大山寺・大山阿夫利神社下社 、神奈川県/伊勢原市
7、養老渓谷、千葉県/市原市
8、袋田の滝、茨城県/久慈郡大子町
9、花貫渓谷、茨城県/高萩市
10、中津峡、埼玉県/秩父市
 他の地方にも沢山ありますが、今回は長くなりますので割愛いたします。

そして全国のランキングは次のようになります。
1、香嵐渓 、愛知県/豊田市
2、長瀞 、埼玉県/秩父郡長瀞町
3、明治神宮外苑 、東京都/新宿区
4、メタセコイア並木、滋賀県/高島市
5、高尾山 、東京都/八王子市
6、国営昭和記念公園 、東京都/昭島市
7、永観堂 禅林寺、京都府/京都市左京区
8、六義園 、東京都/文京区
9、鶏足寺(旧飯福寺)、滋賀県/長浜市
10、岩屋堂公園 、愛知県/瀬戸市
この表のランキングの上位の場所は交通の便が良く観光バスも多数行く所になりますので皆様の近所の紅葉の名所は必ずしも出て来ません。例えば私の好きな奥多摩の紅葉は出ていません。

それはさておき、北海道の1位は札幌の郊外にある定山渓(定山渓温泉)です。
ここへは2004年の春の新緑の頃に家族旅行で初めて行きました。
大都会の札幌から少しだけ離れた温泉地ですが、山奥の温泉地で谷地のあちこちから湯気を上げて温泉が湧き出しています。
その近辺の峡谷の紅葉が綺麗だと聞いたので秋にも2度ほど行きました。
温泉街から温泉が湧き出している峡谷まで遊歩道があります。
ゆっくり登って行くと山々のカエデ、ヤマブドウ、ナナカマドなどが真っ赤に色ずいています。
温泉が湧き出している裸の岩肌の回りを紅葉が飾っています。立ち上る湯気が紅葉を一層美しくしています。
定山渓温泉は紅葉の頃が一番美しいのです。
例年、10月中旬が見頃で、定山渓の紅葉ビュースポットをめぐるバスも運行されています。
この温泉は東京からのお客も多いので旅館やホテルも良いです。料理も洗練されています。
定山渓の紅葉の写真を、https://koyo.walkerplus.com/ranking/ からお借りしてお送りします。
北海道に10月に行ったら是非、定山渓温泉にお泊り下さい。札幌から短時間で行けます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)








東京の高尾山の紅葉と神仏習合が理解出来る薬王院

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今日は東京の高尾山の紅葉をご紹介します。そしてその後で神仏習合が明快に分かる高尾山薬王院の説明をしたいと思います。高尾山、城山、小仏峠、景信山、陣馬山の尾根歩きのハイキングもご案内したいと存じます。
高尾山は、東京の西の郊外にある山です。標高は599mあります。
山頂付近に神仏混淆の薬王院というお寺があり、お寺の本堂の背後に飯綱権現神社があります。古くから修験道の聖地でした。
11月の中旬になるとイロハカエデ、ブナ、オオモミジの木々が美しく色づき山全体が紅葉になり素晴らしい所です。
ミシュランの3つ星に認定されたこともあり、海外からの観光客も多く訪れます。
それでは早速、昨年11月16日に自分で撮って来た写真と、https://yamahack.com/1945 からお借りした写真をまじえて高尾山の紅葉の風景写真を7枚お送り致します。

1番目の写真は高尾山に上げるケーブルカーの出発駅周辺の紅葉です。
7枚の写真のうち2番目、3番目、と7番目の写真は自分で撮りました。残りはお借りした写真です。

2番目の写真はケーブルカーの出発駅の右手にある高尾山登山道の入り口周辺の紅葉です。

3番目の写真はケーブルの線路下から見上げた高尾山の南面の紅葉です。

4番目の写真はケーブルの山頂駅から少し登った所にある展望台から見下ろした八王子の街の風景です。

5番目の写真は山頂の薬王院の周囲の紅葉です。

6番目の写真は薬王院を通過して高尾山の最高部へ行く登山道の回りの紅葉です。

7番目の写真も同じく高尾山の最高部へ行く登山道の回りの紅葉です。
高尾山は都心から電車で約1時間と便利な位置にある自然の宝庫です。1967(昭和42)年に明治の森高尾国定公園に指定されました。
山内には、約1200種の植物、約100種の野鳥、約5000種の昆虫が生息していると言われています。

さてこの高尾山には神仏習合が明快に理解出来る薬王院があります。
正式には真言宗智山派のお寺ですが、本堂のご本尊様が神道の飯綱権現という神様なのです。
この本堂のすぐ上に立派な飯綱権現神社の本社が建っているのいです。
この本堂のご本尊様と飯綱権現神社の本社の両方に真言宗のお経をあげているのが僧侶なのです。
この神道の飯綱権現の本部は長野県の飯綱山を神様と信仰する飯綱権現神社なのです。
さてそれでは高尾山薬王院はお寺なのでしょうか?それとも神社なのでしょうか?
皆様はどちらだと思いますか?
例えばアメリカ人と日本人の間の子供はアメリカ人でしょうか?日本人でしょうか?
答はどちらとも言えません。
このように高尾山薬王院はどちらとも言えません。
むしろこれを日本独自の一つの宗教と言ったほうが明快に理解出来るのではないでしょうか?
これが神仏習合の実態なのです。このような神仏習合のお寺や神社は日本各地に沢山あります。有名な豊川稲荷もその例です。宗教に興味のある人にとっては高尾山薬王院は面白い存在なのです。
最後に高尾山の後ろに続くハイキングコースについてご紹介します。
高尾山の最高地点を過ぎて西の方にハイキングコースを行くと、尾根ずたいに城山、小仏峠、景信山、陣馬山へと楽しい山道があります。
小仏峠は旧甲州街道の峠で、それを東に3Km位下るとバス停がありJR高尾駅に出ます。
西に下ると10Km位歩くと相模湖駅に行けます。遠方すぎますので東に下る旧甲州街道がお薦めです。
このハイキングコースは紅葉の時期も良いですが、新緑の頃もウグイスが鳴いていて良いものです。高尾山は四季折々楽しい素晴らしい山です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

万葉集時代の多摩の横山の黄葉と出征する防人の悲しみ

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現在、我々が日常的に使っている武蔵野という地名が初めて記載されたのは万葉集です。第14巻「東歌」に出て来ます。
そして武蔵野から相模に行く道として「多摩の横山の道」が書かれています。現在の多摩市の南部の尾根筋を東西に走る古い道です。
それでは多摩の横山という名前が出て来る万葉集の歌をご紹介します。

「赤駒を山野(やまの)のはかしとりかにて 多摩の横山徒歩(かち)ゆか遣らむ」
万葉集 巻20 4417――― 宇遅部黒女

山野に放牧していた馬をどうしても捕まえることが出来なかったので、出征する夫を徒歩で出発させてしまった。
巻20には数多くの防人にちなんだ歌がありますが、上の歌は武蔵の国の防人(さきもり)の妻が作った歌です。
武蔵の防人は、まず現在の府中市にあった国府に集合し、多摩川を南岸へ渡り、相模の国の国府があった現在の平塚市へ向かったのです。その道筋は現在の多摩市の南部に連なる尾根の上の見晴らしの良い道です。
現在、この尾根道は遊歩道として10Kmも整備されています。この遊歩道を歩いて見ると、西には相模平野の向こうに丹沢の山並、その後ろに高く聳える富士山がよく見えます。その右方向に目を転ずると武蔵の国が広がり、遠方に奥多摩の山々が見渡せます。
この道は雑木林の中にあります。
「多摩の横山の道」に平行して現在は「多摩尾根幹線自動車道路」が東西に出来ています。
昨日はこの自動車道路から見える多摩の横山の黄葉の写真を撮って来ました。









「多摩尾根幹線自動車道路」は調布市の甲州街道から西にある町田市の町田街道をつなぐ約17Kmの立派な自動車道路ですが、多摩の横山道に平行している部分が稲城市の光陽台から八王子市の南大沢までの10Kmです。
昨日はこの10Kmを往復して多摩の横山の黄葉の風景写真を撮って来ました。
ここで疑問を感じます。1200年以上も前の武蔵野の雑木林の樹種は現在と同じだったのでしょうか?
いろいろ調べたら奈良時代から中世までの武蔵野の平野や丘陵には「クヌギ」「ナラ」「ソロ」「シデ」「アカマツ」などの混淆林が広がっていたそうです。
人の手が入る以前の武蔵野は照葉樹林でした。やがて焼畑農業が始まり、その跡地が草原や落葉広葉樹の二次林となり、“牧(まき)”と呼ばれる牧草地に転用されるなどして、平安期頃までには原野の景観が形成されたといわれています。

現在の武蔵野の雑木林にはクヌギ、コナラ、シデなどに加えてケヤキ、エゴノキ、サクラなどの樹種が加わり多様になりましたが広葉の照葉樹林であるという事では現在も昔も同じだったのです。
従って秋の黄葉の風景は同じです。
もしこの黄葉の綺麗な秋に防人達がこの多摩の横山を歩いて行ったとしたらどんな気持ちで眺めていたのでしょうか?
防人として出征すれば二度と故郷に帰れぬ人も多いのです。悲しい気持ちで黄葉の風景を眺めたに違いありません。それを見送る妻も悲しかったのです。
「多摩尾根幹線自動車道路」は景色が良いのでよくドライブに行くところです。行けば「赤駒を山野にはかし捕りかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らむ」の歌を思い出します。

兵士として出征する悲しみは古今東西変わらない深い悲しみなのです。

多摩の横山のルートマップは、https://www.ur-net.go.jp/syutoken/nt/yokoyama.html に御座います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
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