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八千穂高原の日本一の白樺林の紅葉と旅の思い出

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東京から軽井沢や小諸の懐古園を車で訪れる時は関越高速と信越高速を使うと便利です。
何度も行きましたが、帰路は八ヶ岳の東の国道141号線を走り清春を経て須玉から中央高速に乗ります。
雄大な八ヶ岳の山麓を走る国道141号線が佐久穂町にさしかかると、「日本一美しい白樺の群落・・・八千穂高原入口」という看板があります。
何故かシラカバ林は私の好きな風景です。若い時から憧れていた風景なのです。

その佐久穂町は長野県ですが、県境を越えた山梨県側は北杜市になります。その北杜市には清春白樺美術館があり、何度も行った所です。
西洋のロダンやセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンらの芸術を日本に紹介した白樺派の文学者や画家の作品が展示してあります。そのことも私の心をシラカバに向けたのかもしれません。
その八千穂高原に上がってみると見事な白樺林が広がっているのです。林の奥の奥まで白い幹が見通せるのです。奥深い森です。白樺林は北海道でも見ました。富士山の4合目でも沢山見ました。高原に行けばそんなに珍しいものではありません。
しかし八千穂高原の群落はその広さと樹木の数で感動します。案内書によるとに八千穂高原には、約200haの高原に50万本の白樺林が群生しているそうです。
数が多いだけでなく白い幹がなんとも優美な雰囲気をかもし出しているのです。
その上、駒出池や八千穂レイクがありその周囲にも白樺があるのです。
それは白樺が作り出す不思議な別世界です。

そんなことを思い出しました。紅葉の頃はさぞ美しいと思い白樺の紅葉の風景写真を検索して、いろいろ比較して一番美しいHPを選びました。それは「秋の白樺林」、http://widewallpapers.xii.jp/archives/1028 です。その中から5枚の写真をお借りしお送りします。









白樺林を見ると何となく白樺派の高村光太郎の「智恵子抄」にある二つ詩の冒頭の部分を思い出します。
結婚したばかりの頃に、妻がこの詩を私に教えてくれたのです。
「智恵子は東京に空が無いといふ。ほんとの空が見たいといふ。」と、もう一つの詩は「あれが阿多多羅山(あたたらやま) あの光るのが阿武隈川」です。
それはさておき、清春白樺美術館には智恵子の描いた油彩画が一枚だけ展示してあったことも思い出しました。「樟」を描いた青緑の絵です。彼女が精神を病んで、病院で作った花々の切り絵も数多く展示してありました。
白樺林を見ると高村光太郎と智恵子のことをあれこれ想います。
光太郎の晩年は戦争遂行に協力したことを恥じ岩手県の山間に身を引きます。そして、そして7年間もの懺悔の謹慎生活に入ったのです。1956年、智恵子と同じく肺結核でこの世を去ったのです。享年73歳。
白樺林を見ると私はそんなことを想うのです。

人の想いはそれぞれです。皆様は白樺林の風景がお好きでしょうか? 何を想いますか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料====
日本一美しい白樺群生地:http://yachiho-kogen.jp/sightseeing/shirakaba/index.php
八千穂高原は北八ヶ岳の東麓に広がる自然豊かな高原。この広大な八千穂高原には、約200haの敷地に50万本の白樺林が堂々と植生し、その群生は日本一にふさわしい優美さ。

清春白樺美術館:http://www.kiyoharu-art.com/museum/index.htm
1983年(昭和58年)に清春芸術村の施設として建設された清春白樺美術館は、武者小路実篤、志賀直哉など『白樺』の同人が建設しようとしてその夢を果 せなかった“幻の美術館”を、武者小路、志賀の両氏を敬愛し、個人的にも親交のあった吉井長三が実現したものです。

白樺派:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%A8%BA%E6%B4%BE
大正デモクラシーなど自由主義の空気を背景に人間の生命を高らかに謳い、理想主義・人道主義・個人主義的な作品を制作した。人間肯定を指向し、自然主義にかわって1910年代の文学の中心となった。特にロダンやセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンら西欧の芸術に対しても目を開き、その影響を受け入れた。

高村光太郎:http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/koutarou.html
愛妻の智恵子の死後、日本は太平洋戦争に突入。文学者や芸術家の大半が戦争に協力していくなか、人道的詩人であったはずの光太郎もまた、戦意高揚を目的とした戦争賛美の詩を作ってしまう。終戦後、彼は旗振り役となって戦争遂行に協力したことを恥じると共に、これをいっさい弁明せず、岩手県花巻郊外の山間に身を引いた。そして、62歳から69歳まで7年間もの懺悔の謹慎生活に入る。そこは周囲に人家のない孤立した山小屋で、三畳ほどの小さな土間と自分で切り開いた畑しかなかった。その地で、心の中に生きている智恵子と暮らした。1956年、智恵子と同じく肺結核でこの世を去る。享年73歳。

何も考えずに淡々と生きると幸せになれる

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人間は自分の不幸の原因を考えて、その原因を取り除けば、幸せになれると考えます。しかしこの考えは決定的に間違っています。
自分で発見した原因は多くの場合、いや全ての場合、その原因を取り除くことが出来ないのです。その事実に気がついてますます不幸になるのです。
例えば仲の悪い夫婦がいたとします。夫婦仲の悪くなった原因をあれこれ深く考えます。すると相手の性格が悪いのが原因だと気がつきます。その悪い性格を直してやろうと自分が手を尽くします。土台、人間の性格など簡単には変わりません。自分の努力で相手を傷つけ、ますます夫婦仲が悪くなります。しかし離婚する勇気もありません。このような夫婦が世の中には多いものです。
この地獄のような状態を避ける方法は2つだけあります。
一つは結婚しないで一生独身でいることです。
もう一つは不幸の原因を絶対に考えないことです。自分が幸福なのか不幸なのかも考えてはいけません。
そんな暇があったらここに示した昨日撮って来た檜原村の秋の風景写真でも見て、淡々と生きて行くほうが良いのです。秋の山里で写真を撮っていると、人生の流れる日々を無欲に生きている気分にります。
自分が見て、写真に撮っておきたい風景に会ったら撮るだけです。無欲なのです。ようするに淡々として生きているのです。

流れゆく日々を淡々と生きる。この世に生きることは素晴らしいと感じながら生きるのです。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









山の別荘の庭でのクリスマスリース作りへのご招待

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山梨県、北杜市の甲斐駒の麓にある別荘の持ち主が庭でのクリスマスリース作りへのご招待しています。
お子様連れや、どなたでもお気軽にいらっしゃって下さい。勿論無料です。材料は用意してあります。

この別荘の庭は陽賜里工房ガーデンと称していまして毎年、春と秋にオープンガーデンが開催されています。

リース作りの指導は原田聖也さんがして下さいます。その母上も指導してくれます。

日時:11月23日(金)午後1時30分から3時30分までの間です。

ところ:山梨県北杜市武川町山高 3567-556の陽賜里工房ガーデンです。

    焼き芋も用意してあります。

連絡先:原田聖也さん、携帯電話:090-4170-0370 E-Mail: t-taraku@t-net.ne.jp

尚この賜里工房ガーデンは開けた明るい別荘地にありますが、その近所にある私の小屋は深い森の中にあります。その森の去年の黄葉の写真を3枚添付します。




日本の2万年前の無土器、旧石器時代の人々の生活

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気候温暖で自然豊かなこの日本に人間が住み着き始めたのは何時の頃からでしょうか?
日本に人間が住んでいた確かな証拠は人の手で加工された石器です。それが多数、確実に出土するのは2万年、3万年前からです。それ以前の石器も少数ながら出土しているのでまあ大雑把に言えば4万年前から人間が住んでいたと考えても大きな間違いがないようです。
そうして時代区分は以下のようなものが一般的です。
旧石器時代;  約4万年前ー 紀元前14000年頃 (16000年前)
縄文時代;   前14000年頃 – 前3世紀頃
弥生時代;   前3世紀頃 – 後3世紀中頃
古墳時代;   3世紀中頃 – 7世紀頃
飛鳥時代;   592年 – 710年
奈良時代;    710年 – 794年
この年代区分が仮に正しいとすると旧石器時代が約24000年間、そして縄文時代が約14000年間(正確には13700年間)も続いていたことになります。
その後の歴史はたかだか2000年しかありません。
旧石器時代と、縄文時代と呼ばれる新石器時代の合計約38000年間がとてつもなく長い期間だったことがお分かり頂だけると思います。

ここで思いをはせて頂きたいのは旧石器時代には土器が一切無かった事実です。
人々は獣肉やキノコなどを焚火で焼いて食べることは出来ても、木の実や食用の植物は煮ることが出来なかったのです。
土器の鍋や蒸し器が出来るまでの日常生活の不便さは想像にあまりあります。
日本の旧石器時代に関する従来の学説では人々は定住していないで獲物の獲れる場所をさまよいながら焚火で獣肉を焼いて食べていたと言われています。
しかし近年の研究により旧石器時代の住居跡が幾つか発見されているのです。
関西では大阪府南東部の藤井寺市の「はさみやま遺跡」があり、関東では神奈川県の相模原市の「田名向原遺跡」があります。
私は近くの相模原市の田名向原展示館に何度も通い、旧石器時代の人々の生活の実態が少し分かりました。
そこで以下にその概略を示します。
相模原市では考古学的な遺跡が多く発掘されており、特に相模川の岸の、田名向原、塩田、谷原、東原などの地域は驚くべき考古学的史跡の宝庫なのです。
そして相模原市の遺跡からは20000年前の旧石器時代の住居跡が発見されたのです。

この旧石器時代の住居跡の発見を何故、特別な大発見というのでしょうか?
戦前の学説では、日本の歴史は縄文時代に始まり、それ以前の旧石器時代は無かったと長い間思われていました。
それが終戦直後の群馬県みどり市の岩宿遺跡の発見で、数万年前にさかのぼる旧石器時代の存在が証明されたのです。
それ以来急に旧石器時代の発掘研究が盛んになりましたが住居跡だけは発見されませんでした。従って石器時代では人々は定住しないで狩猟と採集の生活をしていたと考えられていたのです。

それが平成になってから事情が急変したのです。
各地の自治体が行う土木工事の前に、注意深い科学的な発掘調査をするようになったのです。
その成果として日本各地から黒曜石などを用いた精巧な石器が多数出て来ました。
石器の出た地層の精密な年代調査と炭素同位体の分析から、出土した石器は4万年から縄文時代が始まる16000年前までの後期旧石器時代のものと証明されているのです。
現在、少なくとも4万年前から16000年前まで続いた旧石器時代が日本に存在した事実を疑う人はいません。
しかし住居跡が見つかっていないので旧石器時代には人々は家も造らず、定住もしていなかったという学説が広く信じられていたのです。
しかしこの学説は間違っていたのです。
少なくとも20000年前の住居跡が相模原市で発見され、相模原市の特別な歴史園に復元、公開されています。そしてその発掘の詳しい経緯は隣接する旧石器時代学習館に示してあります。
考古学を趣味としている私は何度もこの20000年前の旧石器時代の住居の復元模型を見て感動していました。
行ってみると其処は相模川の東側の岸辺でその向こうに丹沢連山が見えています。下の写真がその相模川です。

1番目の写真は田名向原展示館の西側を流れる相模川です。
この田名向原展示館の付近は相模川中流で、考古学的史跡が3層、4層と住居跡や古墳が集中して存在しています。

2番目の写真は2万年前の石器時代の住居跡を復元したものfです。
この写真では、平らな土地に丸い印をつけた掘っ建て柱の跡を明示しています。そして竪穴式住居の周囲に置いた石もあります。黒く焦げた炉跡も見つかっています。これが旧跡時代の住居跡なのです。
年代測定は29000年前の九州の姶良(アイラ)大噴火の火山灰層の位置と炭素の同位体による年代測定から約20000年前と判りました。

3番目の写真は旧跡時代の住居跡の上の層に重なってあった5000年前の縄文時代の住居を復元したものです。
この田名向原では2万年前の旧石器時代の住居跡と3000個の精巧な石器の他に5000年前の縄文時代の住居跡、そして1400年前の13基以上の古墳が発見されたのです。
その詳細は末尾の参考資料にあります。ご興味のある方はご覧下さい。
それでは石器時代の人々はどのような生活をしていたのでしょうか?
田名向原の展示館にある絵画で人々の狩猟や採集の様子と獣皮で屋根を作った住居の前で作業している人の様子などを示します。

4番目の写真は旧石器時代の女性が木の実を採集している様子を示しています。

5番目の写真は旧石器時代の男性が石器の穂先をつけた槍を構えている様子を示しています。

6番目の写真は大ツノシカを数人で囲んで倒している様子を示しています。

7番目の写真は2人の男が獣の皮をなめしている様子を示しています。後ろの竪穴住居の屋根はなめした獣の皮で葺いてあります。

8番目の写真は旧石器時代に日本に棲んでいた動物を示しています。大ツノシカとイノシシがよく食べられていたようです。
こうしてこれらの写真を見るとこの地域の約2万年前の生活の実態が少しだけ分かります。
このような生活のスタイルは、縄文時代、弥生時代、古墳時代になっても地方の庶民に限って考えれば、ほとんど変わらなかったというのが真実に近いと私は想像しています。
一方、支配階級の生活は時代が進むと大きく変わっていったと思います。
円形の掘っ立て小屋に住み、土器で料理を作り、木製の農具を使い、石器も相変わらず使っていたに違いありません。青銅器や鉄の道具は高価過ぎて支配階級しか使えなかったのです。
農民の生活を考えると時代が変わってもあまり大きな変化が無いと理解するのが自然ではないでしょうか?
石器は安価で簡単に作られる道具だったに違いありません。弥生時代や古墳時代になっても鉄器は高価だったので農民は平らな石に木の柄を着けた鍬も使っていたと私個人は想像しています。
歴史は豪族や朝廷や権力者の様子を伝え、それを学校で教えますが、一般の人々を想像すると興味がつきません。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料:関連記事の紹介============
(1)関連記事の一覧;
http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama の2013年1月と2012年12月に次の関連した記事が掲載してあります。
「相模川中流は考古学的史跡の宝庫・・・3層、4層と住居跡や古墳が集中」
「日本の旧石器時代・その悠久の歴史(1)2万年前の住居の発見」
「私の郷土史(2)旧石器時代から江戸時代までの小平市鈴木町の変遷」
「所沢市砂川遺跡と岩宿遺跡から出た旧石器時代の石器の写真と日本の旧石器時代」

(2)はさみやま遺跡;
はさみ山遺跡は、大阪府南東部の藤井寺市の藤井寺公団・野中・藤ケ丘一帯に広がっており、羽曳野丘陵の裾野に広がる段丘に立地する。遺跡およびその周囲は、全体が緩やかな傾斜地となっている。この遺跡は、1974年(昭和49年)、大阪外環状線建設の際に新たに発見されたものである。以後、大阪府教育委員会や藤井寺市教育委員会による調査が続いてきた。
後期旧石器時代の住居跡:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%81%95%E3%81%BF%E5%B1%B1%E9%81%BA%E8%B7%A1
1986年(昭和61年)のはさみ山遺跡の発掘調査により、後期旧石器時代(3万年 - 1万3000年前)の住居の構造が明らかになった。住居跡は、深さ約30cmの半地下式(竪穴住居)で、そのくぼ地の周囲には1.0 - 1.7mの間隔をおいて直径14 - 22cmの柱穴が7個あり、その外側には浅い溝がめぐらされていた。住居の範囲は、東西直径約6メートル、南北径5メートル、深さ0.3メートルに渡り、その形状は楕円形、柱は合計13本であったと推定されている。なお、柱穴は円をなして並び、各柱穴がその円の中心に向かって斜めに掘られており、これに木を差し込むと上方でその中心に集まる角度になっていた。すなわち、直径約6mの円錐形の竪穴住居が復元できる。遺物としては、紀元前2万年頃のナイフ形石器、翼状剥片、石核等が出土した。
なお、住居跡とは沢をはさんだ東側から径270cm×160cmの楕円形状の土坑が見つかっている。これは墓(土坑墓)ではないかと推定されている。

共産党独裁の中国の人との付き合いで注意すべき事

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中華人民共和国は1949年の建国以来、現在まで共産党の独裁国家です。怖い国です。
この怖い国へ私は1981年に初めて行きました。
下手なことを喋ると即逮捕され日本へ帰って来られないと言う人もいた時代でした。
私は緊張して北京空港に降りました。
この訪問にいたる経緯です。
1979年、ベルサイユ宮殿前の国際会議場で北京鉄鋼学院の周栄章教授に会った時、彼が私を北京へ招待してくれたのです。
周氏は共産軍とともに天津市を占領し、天津市の行政に参加した人でした。彼は正真正銘の共産党員でした。
親しくなって一緒にビールを飲んだ時こんな話をしてくれました。
周氏は日本軍が真珠湾で米太平洋艦隊を攻撃した時、ものすごくうれしかったそうです。日本は太平洋へ軍事作戦を拡大するので、中国本土の戦争は中国にとって楽になると考えたからです。実はこれだけではないようでした。西洋植民地主義で清朝以来痛めつけられた中国人にとって、兄弟分の日本が西洋人に痛撃を与えたからです。
海外在住の中国人も含め、全中国人が日本軍の真珠湾攻撃によって内心溜飲を下げなかったと言えば嘘になるというような事を言います。
私は酔った勢いで共産主義の間違いを鋭く批判しました。彼は笑いながら黙って聞いていました。そしてついでに西洋の植民地主義の残酷さも批判しました。彼は笑いながら黙って聞いていました。
周さんはたった一つだけ言います。貴方は外国人だから共産主義の悪口をいくら言っても良いです。発言は自由です。
そんな会話の数日後、彼は私を大学の地下室へ連れて行ったのです。
 暗夜に紛れて連れて行かれた所は、深い地下に埋め込んだ大學の地下室でした。明るい照明がついた大きな部屋の壁一面に、周恩来の写真、詩文、花束などが飾られていました。周氏は「中国人が一番好きな人は毛沢東ではなく周恩来ですよ。中央政府が何と言ったってやることはちゃんとやります。それが中国人の根性なのです」と言い切りました。
外国人の私が政府側へ密告しないとどうして信用できたのでしょうか。このような体験は、中国も日本も権力者と一般の人々との考えが違うことを教えてくれました。

ここで何が起きていたのでしょうか?
ちょっとだけ説明させて下さい。
1976年4月5日に第一次天安門事件が起きたのです。
北京市の天安門広場で、1月6日に死んだ周恩来追悼の為に大規模なデモがありました。
それを北京市当局が武力を使って鎮圧したのです。日本で有名なのは1989年の天安門事件ですが、それは中国では第二次天安門事件と呼ばれています。

さて第一次天安門事件はまだ存命中だった毛沢東一派によって鎮圧されましたが一般の人々はその後、何年間も周恩来追悼の為の行事を秘かに行っていたのです。
1981年に私が連れて行かれた大学の地下の部屋の壁一面に、周恩来の写真、詩文、花束などが飾られていたのは秘密の追悼行事だったのです。

私は確信しました。中国人は人情が篤く中央政府が何と命令しようと人間らしさを失わなない人々だと確信したのです。彼等が心の中で感謝している政治家は劉 少奇、周恩来、胡耀邦などです。大衆の生活を少しでも良くしようとして失脚した政治家です。
このような事が分かった私は共産党独裁の中国は怖くなくなりました。
さて表題の・・・中国の人との付き合いで注意すべき事についてです。
それは満州国の建国について弁護しないことです。
宴席などで満州国の建国は中國人にとっても良かったと演説する日本人がいます。
満州の工業が近代化して重工業が発達したのは満州のお陰だと言うのです。
宴席につらなる中国人はにこにこして聞いています。
宴会の後で周栄章教授が私に耳打ちしました。「満州のことは言うな。中国人は他国に支配されるより飢え死にした方が幸せなのです」

日本人が言わなくても中国人が言ってくれるのです。
中国東北部の瀋陽に行った時、東北工科大學の陸学長がニコニコして「私は日本人の作った旅順工大の卒業です」ときれいな日本語で言いました。そこで、東北大学金属工学科で電気冶金学を習った森岡先生が旅順工大にいたことを話しましたら、「悪い先生もいましたが、大変お世話になった素晴らしい日本の先生もいました。ご恩は忘れません」と懐かしそうでした。
さて大変親しく付き合ってくれた周栄章教授は2004年に亡くなりました。
共産党独裁の中国の人との付き合いで注意すべき事は満州建国だけでなく日本の中国侵略を正当化する意見は言わない方が良いのです。なにせ2000万人以上の中国人が犠牲になったのです。日本人には語る言葉が無い筈です。

今日も挿し絵代わりの写真は昨年の11月に甲府の昇仙峡で撮ってきた紅葉の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料================
四五天安門事件(第一次天安門事件)
https://blog.goo.ne.jp/admin/newentry/
1976年4月5日に中華人民共和国の北京市にある天安門広場において、同年1月に死去した周恩来追悼の為にささげられた花輪が北京市当局に撤去されたことに激昂した民衆がデモ隊工人と衝突、政府に暴力的に鎮圧された事件、あるいは、この鎮圧に先立ってなされた学生や知識人らの民主化を求めるデモ活動を包括していう。1989年6月4日に起きた六四天安門事件(第二次天安門事件)と区別するため、第一次天安門事件ともいう。

事件発生後、四人組のひとり姚文元は『人民日報』に「反革命政治事件」として民衆の反乱とごまかして報道したが、かえって国民の怒りを買い、4月12日には人民日報本社に、「ある現場労働者民兵」の名で、編集長を「ゲッベルス」と揶揄し「驚愕すべきことだ!党の機関紙は堕落した!ファシズムのメガホンになり下がった」と書いた抗議文が送りつけられてきた。一方、四人組の江青は事件の報告を受けたのち興奮して、ピーナツと焼き豚とで祝杯をあげ、「わたしはいつでも棍棒で、反対する奴ばらをぶちのめしてやるわ。」と高言し周囲の顰蹙を買った。
事件後、鄧小平が責任を問われ全ての党職務を解かれ失脚。四人組が事実を曲げて毛沢東に報告したために、毛沢東は本当に反革命が起こったと勘違いし、その後の弾圧に結びついた。だが、四人組を批判する北京の人々の動きは中国全土に広がり、毛がこの年9月に亡くなったこともあって四人組は失脚することとなる。








縄文時代の少ない人口と豊かな食生活の実態

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縄文時代の人口は最大でも26万人でした。現在の都道府県の数は全国で50程です。ですから縄文時代は平均すると各都道府県に約5000人ほどの人間しか住んでいなかったのです。
それに対してイノシシ、シカ、海川の魚や貝は豊富でした。野生の木の実や果物も、そして食用植物も充分ありました。

今日は縄文時代の人口の変化をご紹介します。そして豊かな食生活などの生活の実態を記してみたいと存じます。信頼できそうな学術的研究なので、かなり縄文時代の生活の実態が明快に分かります。
縄文時代・弥生時代の人口数は遺跡数等からの推計されています。
その研究、http://honkawa2.sakura.ne.jp/1150.html によると、縄文時代の人口は単純な増加ではなく、早期(8100年前)・前期(5200年前)から中期(4300年前)にかけて急増した後、後期(3300年前)・晩期(2900年前)にかけて急減し、その後、弥生時代(1800年前、西暦200年頃)に入って、再度、急増しているのです。この様子を図に示します。

1番目の写真は縄文時代から現在までの日本の全人口の推移を示す図です。縄文時代や弥生時代の人口は学者の鬼頭 宏博士の推定ですので信頼しても良いと思います。
さて1万年前の日本列島の平均気温は現在より約2度低かったが、6000年前には現在より1度以上高くなったことが分かっています。
この結果、東日本は、ブナを中心とする冷温帯落葉樹林は後退し、代わってコナラ、クリを中心とする暖温帯落葉樹林が広がり、西日本はカシ、シイの常緑照葉樹林となりました。
この結果、木の実の生産性が高くなります。

こうした温暖化により東日本を中心に日本の人口は急増したと考えられています。
また氷河が溶けて海面が上昇し、日本列島の海に面した平野部は深くまで海が入り込み、奥東京湾などを形成したのもこの高温期のことです。これをいわゆる縄文海進と言います。
紀元前2300年のころ、日本には26万人が住んでいたと言われています。原始時代としては高度な狩猟採集経済を営み、自然の食料を最大限に利用していたと考えられています。
 住居跡などから割り出してみると、日本の人口密度は狩猟採集社会としては、世界一高かったとも言われています。
ところが縄文時代も晩期に入ると、その人口が一気に減少するのです。それも26万人の人口が、8万人にまで落ちてしまう急激な減少だったのです。
 原因は、気候変動で気温が下がり、食料供給量が激減したことです。
クリ、クルミ、ナラ、トチの実などの貴重な食料であった堅い木の実類が気温低下の影響を受けて激減してしまったのです。そして食料の供給量に合わせるように、人口はみるみる減っていったと考えられています。
またこの時代は、ほかに火山の噴火などの自然災害が多く、大きく人口を減らしたことも考えられます。
最大でも26万人の人口といえば、これが日本列島全土を使って生活していたと考えると、かなりの余裕の人口密度と考えがちです。
しかし次の様な学説を重要視すべきと思います。
 「当時の採集や狩猟や漁業の技術水準から見ると、すべての技術をフルに動員して増やせるところまで増やしたギリギリの人口だったのです。そんなときに、気候変動がやってきた。これが急激な減少の大きな原因となった」
 パンパンに膨らませた風船が一瞬で割れるように、大きく人口は減り、人口曲線は26万人というピークを描き縄文晩期には8万人まで減少してしまったのです。

さてこのような縄文時代の人々の生活の実態はどうだったのでしょうっか?
インターネットの上で縄文時代の生活の様子をいろいろ調べてきました。
資料は幾つもありますが、玉川学園の多賀 譲治先生の描いた、ゲンボー先生の「縄文人のくらし」というHPが2つの点で圧倒的に優れていました。(そのURLは、http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/jomon/index.html です。)

二つの点の一つは、多賀先生のHPは神奈川県にある羽根尾遺跡から出土した多数の土器、食料にした魚やイルカ、そして鹿や猪の骨から当時の生活の様子を学問的に推定している点です。
多賀先生の研究の誠実な様子は、縄文時代のタイムカプセル・羽根尾遺跡、http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/haneo/ をご覧頂くと納得がいきます。
もう一つはHPにある絵画が楽しげに描いてあります。何故楽しげかというと描いている人が縄文人を尊敬しているからです。
この2つの原因でゲンボー先生の「縄文人のくらし」というHPが傑出しています。
このHPでは縄文人の生活を、(1)海浜に近い場所に住んでいる場合、と (2)八ヶ岳山麓のように海から遠い内陸部に住んでいる場合の2つに分類して縄文人の暮らし方を説明しています。
この2つの場所の食べ物の違いは海の魚貝類とイルカやクジラが有るか無いかの違いだけです。
以下に内陸部の八ヶ岳山麓の縄文人の暮らしぶりを示す絵画をご紹介します。

2番目の写真は縄文人達が集団で土器を多量生産している様子です。
八ヶ岳山麓では非常に多数の土器が出てきます。その数は自分たちで使う数以上の多量な土器なのです。
土器の生産を仕事にしていた人々がこの2番目の写真のように多量の土器を生産していたに違いありません。土器を焼く燃料の樹木が山麓には豊富だったのです。

3番目の写真は縄文人がイノシシを仕留めている様子です。
現在でも八ヶ岳山麓には猪は多すぎるくらい棲んでいます。
冬山で追い詰めて、弓矢や槍で仕留めた猪はその場で解体し、肉と内臓と毛皮を背負って帰りました。毛皮は後でゆっくりなめして、敷物にしたり服に仕立てます。

4番目の写真は生活用具の木工品に漆を塗っている場面です。漆塗りは全国の縄文遺跡から出土します。漆の成分が付着した生活用具が出てくるのです。
八ヶ岳山麓には現在も漆の木が沢山茂っています。漆にする樹脂が簡単に採れたはずです。

5番目の写真は秋の終わりごろ冬越しの食料を加工、貯蔵している様子です。
絵の後の方に吊るしてある大きな魚は河川を登ってきた鮭のようです。塩漬けにして乾しています。手前の人々は何やら木の実のようなものの皮を剥いでいるようです。

6番目の写真は縄文人の男性の冬の服装を示しています。
肌着としては麻や柔らかい植物の繊維で織った着物を身につけます。その上に鹿や猪のよくなめした毛皮の外套を着ます。
足には毛皮製の靴を履いています。
手に持っているのは野獣を獲る棍棒か槍のように見えます。この姿で山野を走り回って鹿や猪を獲っていたのでしょう。
鹿や猪は一度落とし穴に落としてから仕留めていた場合もあったようです。
さて内陸部の縄文人の食物の一覧表をここで示しておきます。出典は、多賀 譲治先生のHPです。
「穀類・豆類」 アワ・ヒエ・キビ・うるち米・もち米・そば・えごま・緑豆
「野菜類」 ごぼう・のびる・アブラナ・緑豆(葉)・えごま(葉)・サトイモ・えびいも・ながいも・みょうが・しょうが・うど・たら・ふき
「果実類」くり・やまぶどう・きいちご・あけび・さるなし・またたび
「魚貝類」鯉・ふな・うなぎ・あゆ・ごり・やつめうなぎ・はや・かわえび・かわがに・うぐい・ぼら・さけ・ます・やまめ・いわな・沢ガニ・川ガニ,などの魚類・甲殻類 、しじみ・たにし,などの貝類
「肉類」 いのしし・鹿・たぬき・熊・きじ・鴨・うずら・すずめ・つぐみ,などの獣や野鳥
「調味料・他」 醤(ひしお)・塩・甘草(かんぞう)・酢・魚醤(ぎょしょう)・酒・山椒・わさび

それにしても意外に豊かな食生活をしていたものです。しかし海や川の漁業も山の狩猟も厳しい作業でした。
深い森に分け入って木の実や食用植物を採集することは危険な仕事でした。
現在のようにスーパーに行けば何でも売っている時代ではありませんでした。
一家の主人の漁猟の上手さや野獣の狩猟の腕に家族の食生活がかかっていたのです。生活の厳しさが想像出来ます。
従って縄文時代の人口が頭打ちだったのです。それが弥生時代になって稲作が始まると一挙に59万人と急増したのです。
このように縄文時代や弥生時代は食料の生産性で人口が決まっていたのです。この状態は明治維新まで続いたのです。

現在の日本の人口は国内の食料の生産性とは関係がありません。それを幸せと感じるか危険と感じるかは人それぞれです。それにしても縄文時代を知るといろいろなことが考えられます。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

八王子いちょう祭りの3日前のイチョウの黄葉の写真と韓国の徴用工の問題

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八王子市のJR中央線の西八王子駅近くから高尾駅入口まで、ほぼ4Kmにわたる甲州街道(国道20号)の両側に、約770本のいちょう並木が続きます。
11月中旬になると一斉に美しく黄葉します。今週の週末の17日(土)と18日(日)には「八王子いちょう祭り」があります。
その3日前の昨日、黄葉の進行状態を見にいきました。雑に言うと約770本のいちょうの3割ほどは美しく黄葉していましたが、残りは緑のままでした。
以下の写真では黄葉が見事な樹の写真を示します。









5番目の写真は甲州街道を曲がって多摩御陵、武蔵野御陵へ行く参道のケヤキ並木です。

6番目の写真は多摩御陵、武蔵野御陵への「車止め」を入ると直ぐにある池の上の紅葉です。

7番目の写真も同じ池の上の紅葉です。ここは毎年紅葉が美しくなる場所なのでよく写真を撮りにきます。
さて「八王子いちょう祭り」この欄の2018年11月04日掲載の「イチョウの黄葉が圧巻、 八王子いちょう祭り」で詳しくご紹介してありますので詳細は省略します。
今週の週末の11月17日(土)と18日(日)です。

さて昨日、写真を撮りながら最近の韓国の徴用工裁判の判決のことを考えていました。
昔日本が朝鮮を領有していた時代に新日鉄系の会社で徴用工として働いていた高齢の韓国人へ、新日鉄が慰謝料を払うべしと韓国最高裁判所が最終判決を下したのです。
例によって日本政府は怒りました。何せ1965年の日韓条約で、日本は多額の賠償金を韓国へ支払い、韓国は全ての請求権を放棄したのです。
新日鉄が慰謝料を払うべきという韓国最高裁判所の最終判決をどのように考えるかは人それぞれです。
いろいろな感じ方を次に示します。
(1)また日本への無法な韓国側の嫌がらせが始まった。断固、拒否すべきである。
(2)原告は自分が応募して新日鉄系の会社で働いて給料を貰っていたので徴用工ではない。裁判そのものが無効です。
(3)朝鮮を併合した恨みは理解出来るので、日韓政府が話合い、妥協点を見つけるようにした方が良い。日米韓の団結は徴用工裁判よりも重要なのです。
(4)日本と韓国の国家間の日韓条約は個人の人権問題とは別です。従って韓国の請求権の放棄は韓国人の人権保護を要求する裁判は含まれません。裁判は自由で良いのです。しかし新日鉄は日本の会社なので韓国の法律に従う必要はありません。賠償金は払う必要はありません。

皆様は徴用工裁判の結果をどのように感じていますか?

私自身は日本人ですから上記の(1)から(4)まで全て理解出来ます。
特に(4)の人権と国家の権利の関係には強い関心があります。
韓国人の人権は日本人の人権と同じように重要なのです。
しかし韓国最高裁判所の最終判決は倫理的なものなので日本側に強制するのは大間違いです。
しかるに韓国政府は新日鉄側が判決に従わない場合は報復処置を取ると発表しているのです。
このような韓国の嫌がらせは永遠に続きます。それだけ朝鮮併合に対する怨念が深いのです。
韓国の憲法の前文に、朝鮮併合の後、李承晩らが上海に作った亡命政府が現在の韓国政府の始まりだと明記してあるのです。この憲法は韓国の学校でみんなが習うのです。
この前文を削除しない限り朝鮮併合に対する怨念が消えないのです。
実に悩ましい問題なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

黄葉した樹々を眺めている、それが老境の幸せ

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11月11日に「何も考えずに淡々と生きると幸せになれる」という記事を掲載しました。
その趣旨は次のようなものでした。
人間は自分の不幸の原因を考えて、その原因を取り除けば、幸せになれると考えます。しかしこの考えは決定的に間違っています。
ですから不幸の原因を考えることは無駄なことです。自分が幸福なのか不幸なのかも考えてはいけません。
そんな暇があったら山里の秋の風景写真でも見て、淡々と生きて行くほうが良いのです。
風景写真を見ている間は無欲なのです。ようするに淡々として生きているのです。
流れゆく日々を淡々と生きる。この世に生きることは素晴らしいと感じながら生きるのです。

このような趣旨の記事を掲載しました。幾つかのコメントを頂きました。
この記事のように淡々と生きることは意外に難しいという内容のコメントです。
もっともなコメントです。私も毎日淡々と生きてはいません。この世の煩悩に悩みながら生きています。
しかし若い頃とは決定的に違う生き方を発見したのです。
一日、24時間の中の10分でも20分でも無我の境地になれる方法を発見したのです。
10分や20分は短い時間ですが、その影響は長い時間のこります。深山の木霊のように残るのです。
無我の境地になる方法は幾つかあります。座禅も良いでしょう。仏像へ祈っても良いでしょう。
しかし私の無我の境地になる方法は大きな樹々の姿をじっと眺めていることです。

高い梢を風が静かに渡っていきます。秋の黄葉が秋の陽に輝いています。
樹々の足元の水場には住み着いているカモたちが泳いでいます。
ススキの穂が白くなって黄葉の中に見え隠れしています。
私は車から持ち出した椅子に座ってこのような風景を飽ずに眺めています。

このようにして流れゆく日々を淡々と生きています。
この世に生きることは素晴らしいと感じながら生きています。

昨日、国立市の青柳北緑地で大きな樹々の姿をじっと眺めて、淡々と時間を過ごしてきました。
ここに示す写真は妻が撮りました。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









縄文時代の驚異的な社会組織と文化の発達

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私の記事は長すぎるというコメントを時々頂きます。そこで今日は文章を短くして写真を主にして縄文時代の驚異的な社会組織と文化の発達をご紹介します。
まず縄文時代の村落の中心にあった大型の建物の写真をご覧下さい。

1番目の写真は200人以上の人が集会を開くことが出来る大きな広間のある建物です。
青森県で、縄文時代前期中頃から中期末葉まで存在した大規模集村落跡を復元したものです。

2番目の写真はこの大型の建物の内部の写真です。中に3人の現代人が立っていますので、建物の大きいことが良く分かります。
この縄文時代の大規模集村落は復元されてされていて誰でも見ることが出来ます。
詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/三内丸山遺跡 をご覧下さい。

3番目の写真はこの三内丸山遺跡を復元した村落の全体の様子です。遠方には白い青森市街と青い陸奥湾が見えます。
この写真の左にはこの村落の守り神の6本の大きな柱のある祭祀用の掘立柱構造物が写っています。
写真の中央には大規模集会所があり、その上には3棟の高床式の穀類貯蔵庫があり、栽培していた粟や植栽していたクルミやクリを貯蔵していました。
これら3棟の高床式の穀類貯蔵庫の後ろには家臣の大きな竪穴式の家と小さな家が並んでいて身分の上下があったことを示しています。
個人の家の跡は全部で、約780軒にもおよぶ住居跡が確認されています。
そしてこの村落には最大500人位が住んでいたと推定されています。
村長は武装した豪族と考えれば適切な理解と思います。
当時は食料難に陥った他の村落が襲撃して来るのを防ぐため石器の武器や棍棒で武装し、村落の周囲には環状の堀があるのが普通でした。
強大な村落に周囲の弱小村落が服従して現在の県の中の郡くらいの地域を支配する豪族も存在したと考えらえれます。
豪族は世襲制でしょうが、村落の社会組織はかなり高度に出来ていたと想像されます。
それは村落には住居区域、墓地、捨て場、宗教用の大型柱建物、貯蔵穴、土坑墓地、粘土採掘穴、盛り土、道路などが計画的に配置されていることから容易に想像出来ます。

その上、縄文人は粟やエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどを栽培していたのです。残念ながら生産性抜群の水稲だけは栽培していなかったのです。
三内丸山の人たちは、自然の恵みのみに依存した採取活動ではなく集落の周辺に堅果類の樹木を多数植栽しておりました。
これらは縄文時代の社会と文化が従来考えられていたものよりも格段に進んだものであることを示しています。
今日の話はこれでお終いです。

しかしその頃の縄文人の暮らしぶりを示す写真を数枚お送りします。
(写真の出典は、http://www.geocities.jp/tadoru_ono/osaka-49.html です。)

4番目の写真は男女の縄文人の服装を示しています。
柔らかい植物の繊維で織った肌着の上に鹿や猪のなめし皮で作った服を着ました。
勿論、季節によって服装は変わり、厳寒の冬には上の服装に更に毛皮の外套を着ていたと考えられます。

5番目の写真は縄文人がかなり使い込んだ「堀り棒」です。
山の土を掘って自然薯や食用にする根を採った道具です。あるいは住居の周囲に堅果類の木を植栽するときに植える穴を掘ったのかも知れません。原始的な農業用の道具です。

6番目の写真は植物の繊維で編んだ袋です。木の実採集の時に使ったり、小物入れにして使ったと想像できます。このような繊維製品や漆器も出土していて文化の高さを示しています。

7番目の写真は墓地の発掘現場です。楕円形に並んだ石の中心に墓穴が掘られ、人骨が埋葬されていたものと推定されています。
その他の出土品は、http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/photo/index.html に出ています。

8番目の写真は青森県全域で発見された縄文遺跡です。この時代は北海道南部でも縄文文化が栄えた時代で青森県と全く同じ土器などが多数出土しています。

こんなに発達した縄文時代もやがて後期の急速な寒冷化に遭遇したのです。その様子は厳密な学術調査の結果の、http://scienceportal.jp/news/daily/1001/1001041.html 説明してあります。

それにしても縄文時代は想像していたよりも遥かに文化程度も高く、社会の統治組織も出来ていたのですね。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

日本社会に溶け込んだキリスト教への誤解

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キリスト教は日本の社会にいろいろな形で溶け込んでいてその独特な風景を示しています。
例えば結婚式は教会でしたり、クリスマスは多くの家庭で祝います。丁度、お正月を祝うように社会の習俗になっています。
すなはちキリスト教は、明治維新以前までの佛教、儒教そして神道を背景にした日本の伝統文化と混然一体となり、日本文化の一部として融合しているのです。
キリスト教の教えの「隣人を愛しなさい」は皆が知っています。「汝の敵を愛せ」という言葉も知っています。
「人間はパンのみで生きてはいけない」という教えも知っています。そして深いところで日本人の考え方に影響を与えています。
しかしその一方で、キリスト教は水と油のように日本文化と溶け合わない部分も持っています。日本人がキリスト教をなんとなく嫌いと思っているのです。
私はカトリックなので、ついキリスト教の話をよくします。
しかし日本人の本音は、「私はヤソは嫌いだ!アジヤやアフリカを植民地にしたような欧米人は嫌いだ!それに西洋文化は物質的で日本の伝統文化の美しい精神性に融合する筈がない!」というものでないかと思っています。
私はこれは浅い理解にもとずいた大きな誤解です。
それは悪い西洋人がキリスト教を無視して私利私欲のために植民地を作っただけなのです。
西欧人の悪行を全てキリスト教のせいにしていることことが大きな誤解の原因なのです。
植民地と言う悪いものを持っていた西洋人の手によって、キリスト教が日本へ紹介されたのです。ですから、キリスト教に対する誤解はある程度、自然な誤解です。

私はある時、3つのプロテスタント教会と日本正教会のニコライ堂を訪問したことがありました。
その結果、明確に理解した事があります。
それはキリスト教がある国を経由して日本に入ってくると、その国の良い文化も悪い文化を背負って入ってくるという事実です。
一番明確なのはロシア正教として聖ニコライが持ち込んだ正教会は、共産革命以前のロシア文化そのものを背負って来たのです。
アメリカ経由のプロテスタントはアメリカの自由主義と平等の文化を背負っています。
カトリックは産業革命に遅れたスペインやイタリーのラテン文化を背負いっています。
私は国々の固有の文化をそぎ落として、それぞれの宗派のキリスト教のみを比較してみたのです。
そうすると全ての宗派は全く同じように、イエスの教えを記録した福音書を一番大切にしているのです。

日本人がキリスト教を嫌うのは、ロシアの悪い文化や、ラテン文化や、アメリカ文化の悪い側面に違和感を感じているからなのです。
それが、「私はヤソが嫌いだ!」という発言になるのです。

最後に日本人の鶴田健次さんという牧師さんがアメリカのラスベガス市に在住日本人の為の教会を作った事実をご紹介しておきます。そのホームページ http://lvjcc.com/index.htm を是非ご覧下さい。
「日本人に福音書は理解できるか?」という問題へあるヒントを与えています。

結論です。
キリスト教を信じていることになっている欧米人が悪い行いをすると日本人はキリスト教が悪いと誤解します。
佛教を信じていることになっている日本人が悪い行いをすると欧米人は仏教がが悪いと誤解するでしょうか?
宗教に背き悪い行いをするのが人間なのです。

今日の挿し絵代わりの写真は昨日撮って来た多摩湖の風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)








カトリック小金井教会の今日のミサの風景写真

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今日は日曜日の主日のミサが10時から11時までありました。
司式はイエズス会の竹内修一神父さまがなさり、福音書の朗読は加藤 豊主任司祭さまがながなさって下さいました。
今日のミサの光景の写真をお送りいたします。

1番目の写真は福音書の朗読は加藤 豊主任司祭さまです。今日の朗読は「マルコによる福音」の13章の24節から32節まででした。

2番目の写真は説教をしているイエズス会の竹内修一神父さまです。竹内神父の説教はいつも知的で、しかも分かり易いのです。

3番目の写真は10月17日のミサの写真で、加藤 豊主任司祭さまが祈っている場面です。

4番目の写真は10月17日のミサの写真で、加藤 豊主任司祭さまがパンと葡萄酒はイエスの体と血に変化するように祈っている場面です。

5番目の写真はイエスの体に変化したパン片を信者へ配っている場面です。

今日は何故、私が カトリック小金井教会の今日のミサの風景写真をご紹介するのかの理由を説明します。

その理由は、ミサは信者だけの秘密の儀式ではなく、一般に広く公開された儀式だということを知って頂きたいためであす。
信者でなくても誰でも自由に気軽に見学出来るのです。
勿論無料です。ミサの間に献金袋が回って来ますが、何も入れないで隣の人に回せば良いのです。気が向いたら100円位入れても良いのです。
カトリック教会の場所と日曜日のミサの時間は検索すると簡単に出て来ます。
教会に行ったら入り口の受付の人に「見学に来ました」と言って下さい。するとその日のミサの「聖書と典礼」と聖歌集と「お知らせ」をくれます。あとは自由に好きな席に座って見学すれば良いのです。聖歌を一緒に歌うと楽しくなります。
西洋の文化を深く理解するためにはミサの見学が重要だと思います。
カトリック教会の場所と日曜日のミサの時間は検索する手順を示します。
もし仮に貴方が札幌にお住まいなら、まず北海道のカトリック教会一覧を検索します。
札幌の貴方の家の近くの教会を見つけ、そのHPを検索します。
するとミサの時間と地図が分かります。
是非一度ためしに カトリック教会のミサをご覧になっては如何でしょうか?

縄文と弥生時代は併存し、地方豪族の跋扈の時代

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日本の旧石器時代は4万年前から12000年前までの38000年間、縄文時代は12000年前から紀元前300年前までの11700年間、そして弥生時代は紀元前300年から紀元後300年までの600年間と言われています。そしてその後は古墳時代を経て大和朝廷の時代へと続くわけです。
しかしこの時代区分は全く便宜的なもので九州では弥生時代が何十年も続いているのに、東北や北海道は相変わらず縄文時代の生活をしていたと考えるのが自然です。
すなはち長く南北に伸びる日本列島では地方、地方によって旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代の各時代へ変わる年号はまちまちだったと考えられます。
時代区分が明瞭に意味を持って来るのは大和朝廷が全国を統一してからです。
しかし奈良時代になっても稲作の出来ない山間部では縄文時代とあまり変わらない貧しい生活をしていたのです。
時代区分の曖昧さと無意味性を常に留意し歴史を考えることが重要なのです。

今回は、弥生時代の社会と文化をご紹介したいと思います。
弥生時代の代表的な遺跡として有名なものは佐賀県の「吉野ケ里遺跡」です。
この遺跡は稲作の始まった紀元前300年から紀元後300年にわたって造営された環濠村落で数多くの建物は堀や柵で囲まれ独立した小王国のような構造になっています。敵の襲撃に備えた堅固な柵や堀で囲まれた小さな王国です。
原始的ながらも中世の城郭都市を彷彿とさせる構造になっています。その様子を下の図で示します。

1番目の写真はまつりごとの行われていた北内郭で出典は、http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=10 です。

2番目の写真は北内郭を環濠と柵の外から撮った写真です。

3番目の写真は吉野ケ里遺跡に復元された建物の写真です。
写真の出典は、http://www.yado.co.jp/kankou/saga/sagasi/yosino/yosino.htmです。
手前の高床式の家と竪穴式の倉庫は食料の貯蔵庫と考えられます。
上の写真と比較するために縄文時代の三内丸山遺跡の写真をもう一度掲載します。

4番目の写真は縄文時代の豪族の村落の写真です。
この縄文時代の三内丸山遺跡写真と吉野ケ里遺跡を比較すると明快に次の2点が大きな違いです。
(1)青森の縄文時代は戦争が少なかったらしく、敵襲へ備えた環濠や堅固な柵が無かった。
(2)青森の建物群は非常に土俗的デザインで原始的な構造をしている。それに対して佐賀県の建物群は高床式の発展した高殿式構造を有し、中国大陸や東南アジアからの民族の流入を暗示している。
その上、縄文文化は北東北から南北海道にかけて栄えたのに対して弥生文化は九州や西日本で始まっているのです。
稲作という大きな生産力のある農業が九州や西日本の人口増加を生み、いろいろな手工芸や鋳物細工や鉄器製造の職人をそだてたのです。
生活に使用される道具も次第に石器から金属製へと変って行ったのです。土器のデザインも呪術的な装飾が姿を消し、実用的な簡素な形に変化して行きました。

縄文文化を支えたのがアイヌ民族で、弥生文化を支えたのが朝鮮や中国から移住してきた弥生人と仮定すると判りが良いのです。すなはちこの時代は西日本の弥生時代と北東北から南北海道の縄文時代が併存していたのです。
しかし事実はもっと、もっと複雑でアイヌ人も弥生文化を受け入れたのかも知れません。アイヌと弥生人の混血も進み、地方によってはその区別もなくなったのかもしれません。そんなことを考えながらもう少し弥生文化の様子を見てみましょう。
以下の全ての図面の出典は、http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=10 です。

5番目の写真は環濠の内部へ入る入り口の様子で、敵襲を防ぐ逆木や乱杭が恐ろしい印象を与えています。

6番目の写真は畑作の様子です。吉野ケ里遺跡ではまだ水田の跡は見つかっていませんが付近の湿地からは鍬などの農具が見つかっているので当然、稲作もされていたに違いないと考えられています。

7番目の写真葉は居住区から離れた所にある墓地の航空写真です。墓地は居住区から離れた決まった場所に整備されていました。

8番目の写真は豪族の墳墓です。銅剣とガラスの管玉が副葬されていました。この墳墓の形は後の古墳時代の古墳の原型のように見えます。

当時の稲の品種では北東北地方や北海道では水稲栽培が出来なかったと考えられます。現在、北海道の米の生産量は新潟県の次ぎで全国2番目を誇っています。これは戦後の米の品種改良の結果なのです。
北日本の弥生時代は高度に発達した畑作農業の導入と弥生式土器の使用によって始まったのです。
南北に長く伸びる日本列島では、縄文時代から弥生時代に変わる年号が地方、地方によって大きく異なっていたと考えられます。
このように日本列島には縄文時代と弥生時代が併存していた時代もかなり長い間あったと考えられるのです。
そして縄文時代と弥生時代は地方、地方に武装した豪族が跋扈していたのです。
女王の卑弥呼の邪馬台国(242年~248年)もその一例です。邪馬台国は中国の魏と交易していたので漢字文献に名前が残っていますが正確な場所は不明です。
古墳時代になるとこの地方豪族の経済力と武装勢力が大きくなり巨大な古墳を作るようになったのです。
このように縄文時代と弥生時代はダイナミックなロマンがあり興味深い時代だったのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

人間、このようになると邯鄲の夢も店仕舞いです

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人間は高齢になると次第に体力が無くなります。 短かった邯鄲の夢も間もなく店仕舞いです。
今日はそんな私の最近の精神の変化を簡明にご説明したいと思います。
そこでまず上高地の風景写真をご覧下さい。何度も家内と一緒に行って撮って来た写真です。はるか上高地はもう体力が衰え行けなくなった場所です。









上高地は神々しい別世界です。険しい山々をバスで根気よく登り、最後の長いトンネルを抜けると、いきなり眼前に穂高の連峰が広がり、梓川と大正池が夢幻のような盆地を作っているのです。
そこへの楽しかった旅の思い出がよくよみがえって来ます。
そうです、老境の人間は過去の楽しかった思い出を食べて生きているのです。思い出が心の支えなのです。
そして何も考えずに淡々と無我の境地に遊んでいるのです。
このように書くと私は立派な達観の境地にいるように見えます。

しかしそれは大きな嘘です。「邯鄲の夢も店仕舞いです」と恰好の良いことを書いていますが、私はこの世に執着し、しがみついているのです。

それが証拠には私は毎日、新聞を丁寧に見ます。テレビのニュースも熱心に見ます。そして悪い奴を推定して憎みます。少しでもこの世が良くなるようにと、毎日ブログに意見を書きます。自分では社会へ警鐘を鳴らしているつもりなのです。笑止千万ですね。
今日の一大ニュースは日産のゴーン会長の逮捕です。
罪状はゴーンさんが会長をしている日産のお金を私的に使い込んだという疑いです。
私は「ハハーン、これはゴーンさんの独裁制を嫌った日本人の内部告発で検察が動いた!」と判断しました。
案の定です。日産の西川弘人社長一派が日本の検察と司法取引をして捜査に協力する代わりに、自分達の刑事責任を軽くして貰う約束を検察当局にして貰ったのです。

つまり日本人経営者が外国人経営陣を検察の力も借りて日本から追い出そうとした一民間会社の内紛劇なのです。
この事件の悪い奴は誰でしょぅか?
結論はこの事件に極悪人はいないという事です。事件の原因は会長の独裁を許さない日本の企業文化と、会長の独裁を許す欧米の企業文化の衝突なのです。
ゴーンさんの愚かさは、日本の企業文化と日本人の心を理解出来なかったことです。異文化に対する思慮が足りなかったのです。日本の法律では執行猶予つきの軽い実刑判決になるかもしれません。異文化に対する思慮が足りないだけだったので極悪人ではありません。
一方、西川弘人社長一派の日本の検察との司法取引は尊敬出来ません。日産の取締役会でゴーンさんをさとし、それでも駄目なら堂々と論破して追い出せば良いのです。
議論で負けたら西川弘人社長一派は討ち死すべきなのです。それなのに検察の力を借りようとするのは武士道に反します。西川弘人社長一派は卑怯ですが極悪人ではありません。

こういう事件に非常に興味を持つ私はまだまだ達観の境地ではありません。困ったものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

西川社長一派のクーデターでゴーン会長が逮捕、この事件が面白い3つの理由

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日産自動車のゴーン会長の逮捕がマスコミを賑わしています。
彼が豪華な自家用機で羽田に着陸した途端、特捜部の検察陣が機内に乗り込んで行って、その場で捕まえてしまったのです。テレビドラマのような急展開です。
勧善懲悪の娯楽映画のようなストーリ―を私は面白いと思っています、
しかしこの事件は軽薄な興味本位の事件でなく、その背景には東洋文化と西洋文化の衝突という現象も見え隠れしているのです。比較文化人類学的に面白い事件なのです。
などと高尚な書き方では私が何を言っているのか自分でも分りません。
そこでこの事件が何故面白いのか3つの理由を書いてみます。
(1)日本の民間会社の運営に関する規則や社内法はトップの犯罪に甘く出来ている。
(2)日本文化では内部告発は社内の和を乱すと嫌がれる。
(3)ゴーンさんへのカトリック神父の指導は全く無力だった。
上の(1)、(2)、(3)について少しだけ説明します。

(1)日本の民間会社の運営はトップの犯罪に甘く出来ている。
これに関しては趣味人倶楽部のニックネームさんのコメントを転載します。
・・・ゴーン逮捕は、欧米の厳しいルールに比べて、不正の余地のある日本の甘い内部統制や倫理規定をゴーンさんが利用したと言えます。有価証券報告書の虚偽記載と言っても、経理担当が報告書を作成し、その報告書は、監査法人、監査役の監査を受けます。全員共犯者です。きちんとした会社の規則があれば、不正は事前に排除されます。日本のいい加減なシステムが許した犯罪と言えるでしょう。
ゴーンさんの報酬は特に高いものではないでしょう。役員報酬を低くして、ストックオプションをもらっていれば、会社の負担は少なく、かつゴーンさんの収入も増えていたでしょう。ゴーンさんが、フランス、ルノーではなく、日本の日産で不正をやるというのは、いい加減な日本のシステムではやり易いと言う事があります。欧米の優れた会社のシステムを早く導入したほうがいい。形だけは導入している企業でも、実質が伴っていないですね。・・・
私は前から日本の会社の監査役は飾りの名誉職のように考えていました。ニックネームさんのコメントは非常に重要で今回の事件の真の原因を指摘しています。

(2)日本文化では内部告発は社内の和を乱すと嫌がられる。
Face Bookで浦野 明人 から頂いたコメントをご紹介します。
・・・私は内部告発は悪い事だとは思っていません。会社は法律の下に運営されております。従って法律に違反している事を表面化するのは正義です。
正直言いまして、私も幾つかの会社で不正を見てきました。しかしかっては終身雇用の時代で、かつ転職が難しい時代では、それは家族の生活を破壊する事になり出来ませんでした。又他の会社へ転職しようにも、内部告発をした事実が知られれば受け入れてくれる会社は有りませんでした。
しかし現在内部告発者に対する保護の公益通報者保護法が施行され、通報者が保護されるようになっています。
最近各社で不良品質製品販売問題がしばしば報道されていますが、多分これもかなり内部告発の結果ではないかと思います。
私は定年後、約8ケ月間、ある公的研究期間で働きましたが、余りにも予算の使い方が出鱈目なので、一文を書いて辞めました。その時中央からの天下り官僚で事務方のトップが、「まさかマスコミに漏らさないだろうな」と念を押しました。
今から思えば、国家予算を研究の名目で無駄遣いしている一例を表に出す良い機会だったと残念に思っています。後藤さんのご意見では、まずは社内の論議の様な事を仰っておられますが、論議したら不正をしている相手は、それを認めるでしょうか。間違いなく問題点を指摘した人間は追い出されます。これは企業のみならず、大学でもどこでも、組織体では同じと思います。・・・

私はこのコメントに同感です。社内の和よりおおやけの利益を守る内部告発は本当に重要です。日本には、まだまだ社内の和を重視する傾向が強いと私は感じています。

(3)ゴーンさんへのカトリック神父の指導は全く無力だった。
ゴーンさんはレバノンで生まれブラジルで育ちました。両親はブラジルとフランスのレバノン人でした。カトリック文化圏の人です。ゴーンさんもその背景でカトリックの神父さんの指導は受けたのです。
彼の自叙伝にはどのように良い影響を受けたか誇らしげに書いてあるそうです。しかしゴーンさんはそれを全く忘れてしまったのです。宗教は無力でした。
キリスト教を信じていることになっている欧米人が悪い行いをすると日本人はキリスト教が悪いと誤解します。しかし今回は日本人はキリスト教が悪いとは考えません。悪いのはゴーンさん個人のようですね。

この事件の面白い理由はもう一つあります。

ゴーンさんはフランスのルノー社の会長もしています。その会長は馘になるかもしれませんが、フランス政府はルノー社へ15%の出資をしているのです。当然、フランス政府はルノーと提携している日産自動車と三菱自動車をルノーの傘下に引き入れようとします。
マクロン大統領は今後の3社の動きを注意深く見まもるという声明を発表しました。
マクロン大統領はフランスの利益を守ろうとするのは当然です。
今後、フランス政府はどのように干渉するのでしょうか?
興味深い問題なのです。

今日の挿し絵代わりの写真は皇帝ダリアの写真です。
毎年、11月中旬になると小金井公園の皇帝ダリヤが大きな花弁を広げて満開になります。
南米原産の豪華な雰囲気を持ったダリアの一群です。背丈が5mくらいで花の直径も25cm位の 南米大陸の原野に咲くダリアの一種です。
これが咲くと、ああ、今年の華やかな花々も全て終ったと、しばし過ぎ去った花々を思い出します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)




日本は米国と共通の価値感は持てない、特にトランプ大統領とは

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トランプ大統領は司法のトップの人事を掌握し、民主主義の原則である三権分立を崩壊させました。
その上、マスコミ各社を攻撃し言論の自由を奪おうとしています。
中南米からの移民希望者へ軍隊を派遣して蹴散らそうとしています。
白人を優遇しようとする差別主義者です。独裁主義者です。そのトランプ大統領をアメリカ人は選挙で選んだのです。そしてその後もアメリカの有権者はこの独裁者を支持しているのです。
戦後、日本が手本にして来たアメリカの民主主語が崩壊しつつあるのです。
アメリカの理想社会は地に落ちたのです。
こんなアメリカと日本が共通の価値感を持つことは不可能です。
しかしここで深く考えてみると日米間の文化はあまりにも違い過ぎます。
初めから共通の価値感なんて存在していなかったとも考えられます。
戦後、日本はアメリカ文明を受け入れてきましたが、アメリカ人の考え方や価値観は受け入れて来なかったと考えられます。

今日は、日本がアメリカの便利な文明は受け入れて来たが、アメリカ人の精神文化は拒絶して来た事実を書いてみようと思います。
この日米の対立はペリー提督による日米修好条約以来連綿と続いている事実で、トランプ大統領の出現で始まったものでありません。もっと根の深い問題なのです。

戦後73年、気がついてみたら日本は便利なアメリカ文明に浸かってしまっていました。
コンビニが全国の津々浦々にあります。その数、7万店舗以上になると言います。スーパーもマックやケンタやスタバのようなファーストフードの店もきめ細かく普及しています。
郊外の大型量販店もアメリカ発祥です。この狭い日本の国内旅行に飛行機を使うのもアメリカの風習です。その上、その旅客機はほとんど全てアメリカ製なのです。 こうしてキーボードを叩いているパーソナル・コンピューターもアメリカ発祥のアメリカ文明の産物です。
戦争に負けた日本がアメリカに憲法を押し付けられ民主化に従ったのは随分昔の話です。しかしその後も連綿としてアメリカ文明が押し寄せて来て日本を飲み込んでいるのです。
気がついてみると生活を便利にするアメリカのものは全て日本を占領してしまっているのです。
しかしこういう状況でもメリカの精神文化は日本に入って来ません。拒絶されているのです。
アメリカの精神文化のなかに日本には絶対に入らないものがあるのです。
それはアメリカ人の宗教に対する考え方です。
アメリカの特徴といえば進歩しつつある科学や技術の他に「キリスト教」に対する強い信仰があることです。
日本にはアメリカの科学や技術は間髪を入れずに導入されて来ましたが、アメリカ人の80%が信じているキリスト教は日本へ全然入ってきません。
まあ、厳密に言えば日本人の3%はキリスト教を信じていますから、全然入って来ませんと言えば間違いではありますが。
アメリカ社会における人間関係にはその下敷きにキリスト教への信仰があるのです。アメリカは弱肉強食の社会で、貧富の差が大きいので人間関係は殺伐としていると日本人は誤解しがちです。
しかしアメリカに暮らしてみると助け合いの精神が溢れていて、実に暖かい人間関係があるのです。殺伐とした社会というより人間的で温かい社会なのです。
ですからアメリカ人の精神文化を万遍無く公平に理解しようとしたら彼らのキリスト教への帰依を理解しなければなりません。
勿論、アメリカにはイスラム教徒もユダヤ教徒も仏教徒も数多くいます。しかし話を簡明にするために今日はキリスト教だけを取り上げます。
それではアメリカのキリスト教はどのようなものでしょうか?
カトリック教徒も多いのですが、アメリカの特徴はいろいろなプロテスタント宗派が乱立していることです。
しかしその宗派の多くは新約聖書の福音書を大切にしている福音主義なのです。
ですからアメリカ人は以下のことを単純に信じ切っていて疑いません。
1、聖書の無謬性(旧約聖書も新約聖書も間違っていない)
2、キリストの処女降誕(キリストは処女マリア様から生まれた)
3、キリストの贖罪(キリストは全ての人間の罪の解消のために十字架につけられ死んだ)
4、体の復活(キリストも全ての死者も何時かは生き返ってくる)
5、数々の奇蹟物語(水上歩行、水を葡萄酒に変えたなど数々の奇蹟話)

さてここで皆さまにお聞きしたいのです。日本人は上にかいた5つのことを信じられますか?
まず無理でしょう。日本人の3%だけが信じているのです。
ですからこそアメリカ人の精神文化のうち、これだけが日本に導入されていないのです。彼らの精神文化の中で重要なキリスト教だけは日本人が理解しにくいのです。
よくアメリカには物質文明はあるが精神文化が無いといいます。これは大変な間違いです。
正しくは「日本人の理解出来ない精神文化がある」と言い直すべきです。
私自身はカトリックです。しかし般若心経や大悲心陀羅尼経が大好きです。キリスト教と仏教のバイリンガルのようなものです。ですからアメリカの精神文化もある程度理解出来ます。
アメリカ文化がこんなに溢れている日本ですが、絶対にアメリカから入って来ないものもあるのです。
楽観的な人は日米には共通の価値感があるとよく言います。共通の価値感があるから強固な日米安保条約があると言います。しかしこれは楽観的な理解に過ぎません。
国際間の国々の間に共通の価値感があるというのは幻想なのかも知れません。
それにしてもトランプ大統領はキリスト教の信者なのでしょうか?
以前、ローマ法王のフランシスコ教皇はトランプ大統領はキリスト教の信者ではないと言明しました。
心あるアメリカ人は困ったことでしょう。
トランプ大統領の日本への影響は、日産のゴーン会長事件の影響よりはるかに甚大なことを忘れないようにしましょう。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日の挿し絵代わりの写真は古刹、平林寺の紅葉の写真です。2015年12月02日に撮った写真です。
埼玉県新座市には平林寺があり、その広大な境内は紅葉の名所です。
お楽しみ頂ければ嬉しく存じます。










薄暗い冬の日の女子修道院のシルエット写真

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東京の調布市の深大寺の近くに高く塀をめぐらせた修道院があります。「カルメル会修道院」です。
この中で、シスターたちは、きっと朝早く起きて礼拝し、掃除をしたり食事をしたりして、聖書を読んで静かな生活を送っているのでしょう。
今日は曇りの寒い晩秋の日です。「小雪」に入りました。

何故か修道院のシルエット写真を撮りたくなって先程車を走らせて行ってきました。
暗く憂鬱な写真ですが晩秋の淋しさを感じて頂けたら嬉しく思います。













カルメル会は、12世紀に出来た古い、古いカトリックの修道会です。
B修士(原典では「B」という頭文字のみが確認されています。)という修道者がパレスティナのカルメル山中に修道院を築いて暮らしたことが起源とされています。
会の名称はその山の名からとられているのです。
B修士はもともと巡礼者あるいは十字軍戦士としてパレスティナに赴き、発願して修道者となったと伝えられています。
カルメル山は旧約聖書の『列王記上』に出てくる山です。
B修士の修道院に修道士が集まって生活を始めると、会則が出来、1226年に教皇ホノリウス3世に認可されたことで正式なカトリックの修道会になったのです。
その後の歴史は、https://ja.wikipedia.org/wiki/カルメル会 をご覧下さい。
それにしても写真の「カルメル会修道院」の前に立っていると12世紀以来の悠久の歴史が感じられます。
それにしても今日は暗い晩秋の一日でした。

菊の花や、そのご紋章を見ると暗い悲しい気持になる

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第二次世界大戦前に生まれた日本人は菊の花のご紋章を見ると暗い記憶を思い出します。菊の花を見ると悲しくなります。
戦争で使われた全ての武器、小銃から軍艦にいたるまで天皇陛下の菊のご紋章が刻印されていたからです。
菊の花を見ると第二次大戦の数多くの悲劇を思い出して暗い悲しい気持になるのです。
しかし菊の花には何の罪もありません。
私は暗い思い出を振り切って純粋に菊の花の美しさを楽しむように心を入れ替えました。
そうして毎年、神代植物公園での菊の品評会を見に行きます。昨日も行きましたら、今年の品評会は終わっていました。そこで2015年11月07日 に諏訪大社上社で撮った菊の花の写真をお送りします。









さて何故、菊の花は天皇陛下のご紋章になったのでしょうか?
皇族の菊のご紋章は1869年(明治2年)の太政官布告をもって決められたそうです。
それ以来、日本軍はすべての国産軍用小銃に菊のご紋章を刻印するようになったのです。
また陸軍の軍旗の旗竿先端や、海軍の軍艦の艦首に金色の菊花紋章がつけられたのです。
そのせいで先の戦争を知っている私のような高齢者は菊の花を見ると悲しくなるのです。

それはそれとして菊の花は何時から日本で大切にされるようになったのでしょうか?
以下は、https://ja.wikipedia.org/wiki/菊花紋章 からの抜粋です。
観賞用のキクは奈良時代に中国大陸より伝えられました。
文学上は、『万葉集』には詠まれておらず、『古今和歌集』、『源氏物語』などから登場します。
平安時代には、陰暦9月を菊月と呼び、9月9日を「菊の節句」とし、菊花酒を飲む「菊花の宴」があったのです。
鎌倉時代には、後鳥羽上皇がことのほか菊を好み、自らの印として愛用しました。
その後、後深草天皇、亀山天皇、宇多天皇が自らの印として継承し、慣例のうちに菊花紋が皇室の紋として定着しました。
江戸時代には幕府により葵紋とは対照的に使用は自由とされ、一般庶民にも浸透し、この紋の図案を用いた和菓子や仏具などの飾り金具が作られるなど各地に広まりました。
そして明治維新後は、富国強兵のシンボルとして菊のご紋章が広く使用されたのです。

現在の日本人は菊の花を見ても何の先入観もありません。純粋に美しい大輪の花だと楽しく鑑賞します。そして小さい可憐な菊、山辺の野菊にも心惹かれます。

実に良い時代になったものです。今日は老人の繰り言を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

ゴーンさんんは天才、西川社長は賢い日本人、それぞれの悲しみ

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今日はゴーンさんんは経済の天才、西川社長は賢い日本人ということを書きたいと思います。しかしこの2種類の人間にもそれぞれの悲しみがあるのです。
それを書く前に昨日撮ってきた秋の山の風景写真をお送りします、
東京の西の端にある檜原村の役場前から檜原街道を数馬の里に登り、さらに奥多摩周遊道路まで上がって撮って来た写真です。お楽しみ頂けたら嬉しく存じます。













秋深い美しい山々の風景を見ていると、しみじみと幸せな気分になります。
そしてゴーンさんの逮捕、会長職の解任という生臭い事件も少し距離をおいて眺めると人間社会の一つの自然現象として心静かに見ることが出来ます。

ゴーンさんはお金の流れの何処に無駄があるか発見する天才です。その無駄を切れば日産は黒字になります。
ゴーンさんのもう一つの天才ぶりは大企業の積年の無駄を血も涙も無く切り捨てる勇気を持っていることです。
ゴーンさんは会社経営の大変優秀な天才であることは間違いありません。
日産を黒字にしながらお金の流れの一部を自分の私利私欲の方向に変えたのです。それは天才のゴーンさんにとっては簡単なことです。
しかし日本の司法を甘く見過ぎました。
クーデターのようにかつての忠実な部下であった西川社長に刺されて失脚したのです。
ゴーンさんにとって3畳間の独房に押し込まれるという屈辱よりも、かつて信頼し 社長に引き上げた西川さんに裏切られ刺されたことのほうがより大きな悲しみではないでしょうか。
さてゴーンさんを失脚させた西川社長とはどんな人物なのでしょうか?
私は彼の1時間にわたる記者会見を丁寧にみました。
弁護士も伴わないで独りで現れた記者会見では、ゴーンさんの間違いを淡々とその事実のみを分かり易く説明したのです。そして続く記者からの個別の質問へ誠実に答えたのです。質問者の顔を見て真面目に答えたのです。
私はこの人は誠実で賢い人物だと思います。
記者の感情を理解して皆が納得するように諄々と答えるのです。
そして会社のトップが公正である限り独裁的でも良いと何度も言ってました。
この記者会見の間、西川社長はクーデターに成功したという高揚感もありましたが、その顔には深い悲しみがありました。
かつて尊敬していたゴーンさんに いきどうりを感じ、刺したのです。その悲しみは暗いしこりとして彼の心に残ります。
しかし西川社長は説得力のある人です。
昨日の日産の取締役会議でゴーン解任に反対していたルノー社派遣の2人のフランス人を4時間かけて説得し、解任賛成の同意を得たのです。これで7人の取締役会議で解任を全会一致で決めたのです。
これは今後のルノー社やフランス政府との関係を改善する上で大きな一歩なのです。
それにしても、西川社長は日本的です。衆議をつくして「和を以って尊しとなす」という信条が見え隠れするのです。
西川社長は日本国内で支持されるでしょう。しかし国際的には支持されないかも知れません。
それは一つの比較文化人類学的な現象なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

異国情緒豊かな函館の古い教会と外人墓地

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今日は日曜日なので函館の古いカトリック教会やロシア正教会や外人墓地の風景写真をご紹介したいと思います。
2012年6月17日、18日、19日、20日と、函館郊外の湯の川温泉に3連泊し、車で丁寧に回りながら撮った写真です。

1番目の写真は函館のカトリック元町教会です。
1859年(安政6年)にフランス人の司祭、カション神父によって建てられた古い教会です。
このカトリック元町教会は、以後、3度の火事にあいます。
現在、数多くの観光客が訪れる建物は1924年(大正13年)に出来たものです。

2番目の写真はカトリック元町教会の内部の写真です。
この教会の中央祭壇と、会堂の内壁に飾ってある14個の木造彫刻はイタリーのチロル地方の作品です。ときのローマ法王ベネディクト15世が寄贈してたものです。力強い作品です。美しい作品です。この教会全体が調和を持った一個の美術的な作品になっています。
明治維新の起きる前の江戸時代です。キリシタン禁教は厳しく、明治政府になってから7年間もキリシタン禁教が続けられたのです。
ですから教会が出来ても隠れキリシタンは訪れることは出来ませんでした。
そんな古い時代に函館のカトリック教会が造られたのです。
函館観光に行ったら是非、このカトリック元町教会の内部の中央祭壇と内壁に飾ってある14個の木造彫刻をご覧下さい。イタリーのチロル地方の作品です。

3番目の写真はロシア正教のハリスト函館教会の写真です。
1858年、日露修好通商条約が出来るとロシア領事、ゴシュケヴィチがすぐに函館に着任します。
彼は領事館の付属聖堂としてロシア正教の教会堂を作ります。そして1861年には領事館付き司祭としてニコライ神父をよびます。このニコライは後に東京の神田にニコライ堂を建て、ロシア正教を基礎にして日本正教会を作ったのです。
彼は日露戦争が起きても、日本に踏みとどまって日本人信者の為につくしたのです。亡くなった時には明治天皇から花輪が贈られ、上野の谷中の墓地の土になったのです。

4番目の写真は函館のロシア正教の外人墓地fです。
函館に行ったら是非外人墓地もご覧下さい。函館の東南の小高い岬にあります。故郷を遠く離れ異郷に眠る人々の冥福を祈ると何故かロマンチックな気分になります。皆 海に向かって建てられています。
このように函館は長崎、神戸、横浜と同じように明治維新前後の教会や外人墓地があって異国情緒の豊かにある町なのでず。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日のカトリック小金井教会のミサでは堅信式がありました

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今日のミサの中で堅信式がありました。
洗礼を受けてしばらくすると、篤い信仰と聖霊の助けをうけて人々に福音を伝えられるようになります。
その儀式が堅信式なのです。
今日は東京大司教区の大司教のタルチシオ菊地功神父様が志村武神父さまと小金井に来て下さいました。
そして主任司祭の加藤豊神父さまと一緒にミサの司式をして下さいました。
今日、堅信式でタルチシオ菊地功神父様から聖霊を受けて堅信した方は9人でした。
今日の堅信式とミサの光景写真を5枚お送りいたします。








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